第4話 ヤスの夢

 それはヤスの声で、記憶だった。

『不運なのか、幸運なのか分からない。私一人がこの島に流れ着いた。ほかの船員はみな海の藻屑だろう。早く本国と連絡の取れる港へ戻りたいが、ちょうど今は嵐の多い時期で、島々をめぐって港へゆく船は数ヶ月待たねばならないという。これだけのことを島の住民と意思疎通するのに、たいへんな労力だった。片言でも公用語を話せるのは、この島には数人しかいない。

 この島の人々は艶のある浅黒い膚をして、ありがたいことに大変善良だ。身につけていた金貨といくつかの宝飾品で、船が来るまでの衣食住、それからこのノートと鉛筆の対価に十分だと言ってくれた。ありったけを手渡したのだが、島長はよくよく吟味してから、三分の一ほどを返してさえくれたのだ!

 ただ、見慣れない肌や髪、目の色の私に、島の人々は怯えるようで、不便で人の寄らないこの小屋を与えられた。あまり出歩かないように、とも言われた(ような気がする)。私自身も、ある懸念が晴れないので、島民との接触は控えるつもりだ。

 ヤス、ヤス、と島の人々が繰り返すので、訛って名を呼ばれているのかと思ったら、この島の言葉ではそれは<不運>という意味らしい。

 私は不運なのだろうか? 航海中に凪で呪った晴天は、豊かな水と実りに潤うこの島では目に染むように美しい。

 この小屋まで、島の子が届けてくれた魚はまだ生きて元気よく跳ね、鱗を光らせていた(彼女は小屋に調理設備のないことを見て取って、塩焼きにしてあらためて持ってきてくれた)。

 神に感謝を』

『凪いだ海を日がな一日眺めて暮らしている。数日に一度、島長が様子を見に来る。初日に魚を届けてくれた少女は、私の食事担当らしい。一日に二度、朝と夕べに、食事を届けてくれる。大体が魚の塩焼きか蒸し焼き、蒸した米と野菜、ときおり果実といったメニューだ。あまり濃い味付けの文化ではないようで、食べ飽きないのはありがたい。食事係のその子は、私と直接話さぬよう言われているらしい。彼女は小屋の前に食事を置いて、扉をノックする。私が扉を開けると、見えるのは桟橋を全力で走り去っていく後ろ姿だ。少しさみしいが、その見事な走りっぷりは、微笑ましくもある。彼女は、桟橋を渡り終えたところで必ず足を止めて、こちらが食事を受け取ったことを確認し、また走って逃げていく』

『子どもらが、好奇心と度胸試しで浜まで降りてくるようになった。恐る恐る近づいてくることもあるが、桟橋は決して渡ってはこない。この間は、食事係の子に見つかって叱られていた。ああやってみると、彼女は子供らの中では年かさのようだ。十二、三歳といったところだろうか?』

『暇だ。日中に散歩をするといっても、浜からは出ないようにしているので、限界がある。そもそも植物採集の船旅だったのだ。この島にはどんな樹が生え、どんな花が咲いているのだろう? 好奇心のままに歩き回りたい。だが慎重を期すべきだ。この楽園めいた佇まいの島に、取り返しのつかないことを起こしたくないなら……』

『“ありがとう”という言葉を島長からおぼえたので、あの子が食事を持ってくるのを待って、扉越しに声をかけてみた。だいぶ間があってから、おそるおそる、彼女の声が何かを言った。小鳥みたいな声だ。知らない言葉で残念だった』

『あの子の名前はサホというらしい』

『サホはよく笑う。扉越しに教えてもらう言葉を、オウム返しに真似しているのだが、どうも私はずいぶん下手のようだ。私が何か言うたびにサホが笑いころげるので、さっぱりレッスンが進まない』

『“おいしかった”は一番に覚えた。それから“甘い”と“辛い”、“おはよう”、“おやすみ”。明日は“暇だ”の言い方を教えてもらおう。暇だ、という気持ちをまずこちらから伝えるのが難しいのだが……』

『真夜中に、サホがやってきた。あれはサホだったと思う。ほかの人間が、あんなに迷いなく桟橋を渡るはずがない。サホは、小屋の前まできて、ひとしきり小さく泣いていたようだった。彼女がすすり泣きの間に漏らした言葉は、一つだけ理解できた。教わってはいないが、“マーマ”、一番発音しやすい、その言葉の意味はきっと間違いない』

『サホが咲いた花を一房持ってきてくれた。見飽きた部屋が、花を置くだけで輝いて見える。しかも見たことのない花だ。内側に3つ白い花を抱えて、外側を赤く花弁に似た包葉が6枚取り囲んでいる。興奮して“ありがとう”を繰り返していたら、途中で“十回め”と大笑いされた』

『晴れた夜には、桟橋に腰掛けて星を見るようにしている。気温の変化の少ないこの島で、星の位置の変化が、季節が移ろっていることを教えてくれる。船が来るのは、あとどれくらいだろうか……』

『サホは島長から公用語を習っているらしい。その日々の進歩は私が島の言葉を覚えるよりずっとめざましく、実に焦る。彼女は食事に、様々な花を一輪ずつ添えてくれるようになった』

『今日、もう一つ覚えた。“会いたい”、だ。“マーマ、会いたい”と、あの時彼女は泣いていた』

『夜中に、またサホが来た。泣いていた。どんな悲しいこと、どんな不幸が彼女に訪れるのだろう。慰める言葉も持たない私は、ただ扉越しに、故郷の歌を歌った。暖かな炉辺の火、労働のあとの楽しい夕食、優しいあの家に帰りたい、君の丸い膝に眠りたい。そういう歌だ。サホ、優しい子。君の身に起こるどんな悲しいことも、星を隠す雲が風に払われるように、どこか遠くへ行ってしまえばいいのに』

『最近、浜辺に度胸試しに来る子供たちを見ない。飽きられたのか、それとも――いや……』

『“雨はつまらない”。“星は美しい”。“米が固くなる”。“悲しい”。それから、“やさしい歌”』

『恐れていたことが起きた。いや、ずっと前にそれは起きて、進行していたのだ。私が知らぬ間に。サホが簡単な公用語を操れるようになって、ようやく知ることが出来た。最近島長の訪れがないのは、島長の子が臥せっているからであること。見たことのない症状で、長く咳が続き、皮膚に斑点が出て高熱と平熱を行ったり来たりする。初めは島長の子だったが、ここ数日、子どもらの中で似たような症状が数人出ていること。

 なんということだ。それは、私が航海前に、長く患っていた病だ。南の方へ転地療養して快方に向かい、長い航海に出られるほどに体力も戻り、すっかり治った気でいた。だが違ったのだ。ともすれば死に至ることもある病を、私はこの楽園のような島に持ち込んだのだ。

 唯一の幸いは、サホに症状が出ていないことだ。そう思ってしまう私を、神よ、どうか許したまえ』

『昨日サホに強く頼んだとおり、昼過ぎにようやく島長が来てくれた。残りの宝飾品全てを渡して、“毒をください”と頼む。昨日、不安げなサホから無理に聞き出した単語だ。島長はそれもサホから聞いていたのかもしれない。品物を受け取り、引き換えに陶器の小瓶を渡してくれた。“これで、すぐ、××できる”、と島長は言った。聡明な彼は察しているのだろう。わたしは、初期症状が出た時点でたくさん塩水を飲むといいこと、特に子供と妊婦は気をつけること、をありったけの言葉で伝えた。去り際に、島長は言い残した。“わたしの息子も、今朝、××た”。

 私はその場にうずくまるしかなかった。どれほど詫びても詫びきれるものではない。“今夜”とせめて伝えた声は、島長に届いただろうか』

『夜まで待ったのは、最後に星が見たかったからだ』

『星は夜空を満たしている。私の死体の中で病原菌が死滅するまで、時間が置けるよう、桟橋を焼いてしまうことに決めた。灯火用に壺に入った油を桟橋に撒く。半ばまで撒いたところで、油が切れた。残しておいた灯明を掲げる。ああ、こんな時に、サホ。もう二度とここには来てはいけないと、あれほど言ったのに――』

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