第3話 ヤスの小屋
白い浜辺は、とても静かだ。打ち寄せる波音だけが、いつまでも続いている。潮風が頬を乾かして、ひりつく痛みが残る。
あたりがぼんやりと白く光るのは、月明かりが、白い石英の砂に反射するせいだ。小さな、訪れる者のない浜辺からは、ぼろぼろの桟橋が長く伸びている。遠浅の浜だ。三十メートルは先、ようやく海が急に深くなるあたりに、白く塗られた小屋が立っている。長く長く、打ち捨てられた小屋だ。ペンキも剥げ、基礎の杭は波に朽ち、それでも不思議にぼんやりと闇の中に浮いて見える。
暗い海の中、同じく淡く白く浮かび上がる桟橋に、足を乗せる。ぶよぶよと木が腐っている。けれど、踏み抜く危うさはなかった。まっすぐ続く橋を、まっすぐ、導かれるように歩く。
小屋までを半ばほど行ったところで、桟橋は途切れている。波に沈むその端は、黒く焼け焦げを残している。ここまでは来たことがある。ヤスの小屋の浜は、立ち寄ることは禁止されていたけれど、だからこそ子供らの絶好の度胸試しの場所だった。
サンダルを脱ぐ。今日の祭りのために祖母が縫った、花柄に染め抜いた赤い服を脱ぐ。橋から夜の海に入れば、腹のあたりまで浸かった。昼間とはちがう、ぞっとするような冷たい水だ。足元の砂を波の力が攫って、どんどん海のほうへ引いてゆく。夜の海の水は黒く、底が見えない。
夜に泳ぐなんて正気の沙汰ではない。島の人間なら、絶対にしない禁忌だ。
砂を蹴って、小屋の方へ泳ぎだす。目で測って二十メートルと少し、赤ん坊でも泳げる距離だ。顔は波の上に出したまま、一かき、二かきすれば、ぐんぐんと小屋は近づいてくる。髪に編んだ花が流れてしまうか、と気にしたときだった。ふいに水の質が変わった。
突然、別の潮目にぶつかったときに似ていた。凍えた冬の潮だ。それが、思いがけない力で海の底へ、ぐうっと体を引きずり込む。頭が波の下に沈んだ。慌てて水を掻いて、上に出ようとする。冷たい水が手足を痺れさせる。前へ進めばすぐに小屋がある、と必死に手足を動かすのに、全く前へ進んでいる気がしない。息ならまだ長く続く。けれど真っ暗な水に、強い力で引きずり込まれ抑え込まれて、二度と浮き上がれないようだ。怖かった。
水の中のすぐ横を、なにか大きいものがすり抜けて通る。暗い水に一瞬ぎらりと光る目で、ネムリブカだとわかる。鮫の一種だが、人は襲わない。夜に見るネムリブカは静かになめらかに泳いで、別の世界の生き物のように、深い海へと潜ってゆく。すがるようにそちらに手を伸ばした。あまり正気ではなかった。
(『あれは<ヤス>だった……カホは悪くない……』)
小さい頃に、何度か聞いた。ぼんやりとした記憶が耳と目に蘇る。明るい光。傍らで遊ぶ小さな自分の頭を、訪れた客が撫でて、祖母に言う。あれはヤスだった、この子は悪くない。祖母は黙って微笑んでいる。あの目の色に覚えがある。自分が、ヤスはそんなことしない、と言ったときと、同じだ。
あの言葉の意味を、カホはもう知っている。
カホを産んで、ナホは死んだ。同じ夜にナガレも海に飲み込まれた。でもそれはカホのせいじゃない。カホが殺したのではない。
運が悪かったのだ、と言っている。
いやだ、と幼いカホは泣き出す。祖母があわててカホを抱き上げてあやしはじめる。しゃくり上げる小さなカホはうまく伝えられない。
ごめんなさい、とあの時わたしは泣いていた。
ごめんなさい、そんなにかなしい顔を、しないで。
暗い水の中、ネムリブカに伸ばした腕が、横から別の力にぐっと掴まれる。見たこともない、真っ白い手だった。男の手だ。凍える海の水よりも冷たかった。
その手に腕を掴まれて、わたしは波の上へと引き上げられた。
飲み込んでしまった海の水を吐き戻す。喉と鼻の奥が塩辛い。小屋の張り出した屋根の下、壁の外側にめぐらされた縁側に、いつの間にかわたしはへたりこんでいた。
ここには、自分一人きりだ。けれど先程の青白い手が幻だとは思えなかった。二の腕の、あの手に掴まれた場所が氷を当てたように冷えている。
本当に見たことのない、ぞっとするような白さの手だった。
幸い、夜の潮風はいつもと同じに、ぬるく体を撫でてゆく。鳥肌の立った腕と足を擦って水を振り落とし、ようやく人心地がつく。ふぅ、と息を吐いたのに重なって、ぎぃ、と軋みが鳴って、小屋に誰かが入っていった、気配がした。今まで確かに誰もいなかった。小屋を見ると、すぐそばに、入り口の打ち付けられた扉がある。
確かに今、誰かがこの扉を開けて、小屋の中に入った。
まだおぼつかない足取りで立ち上がり、木の扉を触ってみる。外側でからバッテンの形に打ち付けられた板の釘も、長い年月潮風に晒されて脆く腐食していた。軽く引き剥がせば簡単に外れた。
扉が内側に開く。覗き込めば、淀んだ空気の臭いが鼻を刺した。窓もすべて塞がれた小屋の中は真っ暗で、背後から射す月明かりだけが光源だ。やはり誰の気配もない。中に入るのをためらっているうちに、徐々に目が慣れてくる。
扉からまっすぐ射し込む月の光のその先に、それを認めて、息を詰める。
簡単な背もたれのある椅子に、深くうつむくように座る人の形をしていた。白骨だった。
引き寄せられるように、室内に足を踏み入れる。床板の木も、ぶよぶよと腐って浮わついている。
白骨は見慣れない、織りの厚い服を着ている。手が白いかどうかは分からない。皮は乾いて骨に張り付いている。足元に、親指ほどの陶器の小瓶が転がっている。膝の上に、一冊のノート。
その「彼」の真正面に立つと、扉からの月明かりを背負った自分の影が、その姿にかかる。
「……わたしは、カホ」
語りかける。ずっと長く、彼のことを伝え聞いていた。会ったことはなかったけれど、祖母の折りふしの佇まいに、視線の先に彼を感じて、長く長くその姿を、声を思い描いていた。
ヤスは悪霊で、不運で、災いで、『誰か』だった。
会ってみたかった。
「あなたが、<ヤス>?」
その途端だった。小屋の中に、幾つもの足音がし始めた。扉を開けて中に入る歩み。部屋を横切り窓を開ける動き。木匙でスープをすすり込む響き。書き物机に寄ってノートをめくる音、ペンを走らせる音、その後寝台に転がる動き。どれも同じ体格の、一人の男の立てる軋みだった。目を凝らせば、かすかに手や足の先が見える気がする。
床板の軋みがカホの立つ場所と体を素通りして行って、理解する。過去の足音だ。この小屋に住まった誰かが、過去に行き来した足音と気配だ。
「ヤス」
<ヤス>は悪霊で、災いで、不運だ。そういう島のことばだ。
「あなたは、なに?」
問いかけたそのときに、突然青空と、跳ねて光る魚が見えた。
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