第2話 祭りの夜

 囃子の音に太鼓が混じり、宵の青が濃くなるほどに、祭りの音が高まってくる。それは浜辺の家まで聴こえる。

 祭りに行きたくない、と言い出したわたしに、祖母は困った顔をした。

「そんなに綺麗なようすなのに」

「だって、また……」

 また、ヤス憑きの孫だってからかわれる、と言わずにぐっと口を引き結ぶ。祖母は仕方なさそうに微笑んで、椅子に座りなさい、と促した。

「髪を可愛くしてあげよう」

 最近座ると軋むようになった椅子に、言われるままに腰掛ける(椅子が軋むのは、わたしの体が育ったからだ。だから祖母はいつも嬉しそうに目を細める)。祖母が、ふだんどおり固く2つに編んだ三つ編みを手に取り、解きほぐす。

 目の粗い木櫛で、丁寧に髪を梳かれてゆく。黒くて太い髪が、軽さを取り戻して流れてゆく。抗いがたく気持ちが良い。途中で祖母が庭からイカダカズラとティアレの花を採ってきて、その香りが祖母の老人の匂いを分からなくする。

 細かい房に髪を分けられ、編まれていくうちに、花の匂いが心を浮き立たせて、自分の強情がだんだんきまり悪くなる。

「ほらできた」

 言われて、椅子から飛び降り、洗面台の前の錆びた鏡に走り寄った。ゆるく太めにつくられた、一本の三つ編み。そこにティアレの白い小さな花が星のように細かく編み込まれて散らばる。耳の上には大ぶりのイカダカズラの赤い花。

 鏡に、満足そうに覗き込む祖母が映る。振り向いて見せれば、期待したとおりに褒めてくれる。

「可愛いよ。お友達に見せておいでなさい」

 うん、とうなずきかけて、祖母の続く言葉につまづいた。

「ナホにずいぶん似てきた」

 ぐうっと何かに胸を押される。ナホ、は母親の名だ。わたしを産んで死んだ。父親の名前はナガレ。同じ日に嵐に遭って海から帰らなかった。

 急に黙り込んだわたしに、難しいこと、と祖母が腕を組む。

 訊くか、どうか。

 ためらって、でもほかに胸のつかえをどうしようもなくて、祖母を見上げる。

「ナホとナガレが死んだのは、『ヤス』のせいだって、みなが言う。でもヤスは、そんなことしないよね」

 しないよね? と重ねて問いかける。

 だってヤスは優しいものだ。祖母は優しい。一人のとき、静かにくり返し、ヤスと語り合う祖母のまなざしは優しい。

 わたしはあんなふうになりたい。波音と、明けてゆく空と、いつまでもいつまでも終わらない語らい。

 けれど目の前の祖母は、そうだ、とも、そうでない、とも答えなかった。

 時間をかけてまばたきをする祖母の目は大きく、焦げ茶色の底がすこし白く濁って、ただわたしを見つめていいる。

 やがて、祖母から何度も聞かされた言葉が返ってくる。

「ナホとナガレをなくしたのは、あたしの生きてる中で、一番つらい夜だった。おまえが元気に泣いていたから、あたしもどうにか持ちこたえたんだよ」

 さぁ行きなさい、と背中を押されて、外に出される。行ってきます、と口の中だけで応える。

 外は宵闇。椰子の木のシルエットが徐々に闇に溶け、星が光り始めている。トトタン、トトタン、と祭り太鼓の音が、空気を震わせて伝わってくる。



 トトタン、トトタン、トン、トトン。

 島のものなら誰でも踏めるリズムだ。大人たちは広場で酒を回しながら、気が向いては踊りに加わり、篝火を回る。

 子どもたちは、道々を歌いながら練り歩いては、島のいくつかの辻や祠をめぐり、ろうそくの灯明を点す。そういった場所や、豊かな家の門前にはお供え物として、色付きの米や果物が高く積まれている。

 神事のあらかたは昼に終わっている。未明に神様がお帰りになるまでは、皆、酔って笑い踊り、得意なものは笛を吹く、太鼓を打つ、鐘を鳴らす。男と女は頬を紅潮させ、手と手を取って茂みに消える。

「灯り点しに来なかったな」

 踊る大人たちの影が、炎に揺れる。騒ぎからは少し離れ、榕樹の幹に寄りかかってそれを見ていると、そんなふうに声をかけられた。カガイだ、と振り向かなくても分かった。

「そんな子どもじゃない」

 去年は誰より騒いでたくせに、とカガイは不平そうだ。

「踊らないのか」

「……そんなに大人じゃない」

 そんな気分じゃない、と言うのはさすがに背伸びがすぎるようで、ちぐはぐなことを言ってしまう。案の定、なんだ駄々こねて、とバカにされた。

「やる」

 唐突に突き出されたものを受け取って、ようやくカガイの顔を見る。それから手の中の、まだ温みのあるバナナの葉の包みを見た。バナナの実ともち米を蒸した、甘い食べ物だ。匂いも甘い。火点しに辻々、家々をめぐる子どもに、駄賃として渡されるものだ。

「いいの?」

「俺のもある。……やっぱり耳飾りよりこっちがいいか」

「何。ありがと」

 またバカにされたように思えたが、礼を言って包みを開けようとする。その手を引っ張られた。

「向こうで食べるぞ。さっきから、男衆がチラチラお前を見てる」

「えー……」

 単にカガイが話しかけたから、冷やかしに眺めているだけだろう、とは思う。それはそれで居心地が悪いから、手は振り払わずついて行った。カガイは茂みに分け入って、山の斜面の獣道をずんずん上がってゆく。どこへ行くの、とは訊かなかった。足場が急で、カガイの手が汗ばんでくる。夜の山は暗い。湿った枯れ葉を踏む。濡れた土と落ちた果実の匂いが鼻に入ってくる。大きなソテツの下を、光る目をした小さな動物が走り抜ける。トッケイヤモリの鳴き声が、思いの外大きく響いて、追ってくる祭りの音を遮る。

 カガイが突然足を止めた。

 登った距離は大したことはない。振り向けば祭りの篝火が、木々の影からちらちら見下ろせるくらいだ。前を向けば、小高い丘の縁らしく、視界がひらけている。眼下に、ぽつぽつと家の灯火と、深く切り込んだいくつかの入江、その先のくろぐろと静まる海が見渡せる。

「わたしの家だ」

 見つけて指差すと、知ってる、というふうにカガイは頷く。自然と、隣の浜を探した。朽ち果てた、ヤスの小屋があるはずの浜。ちょうど突き出した岬の影に隠れて、あの不思議に光る白い浜は見えない。

 ぼうっとしていると、ふいに近づく気配がした。横目で見ると、カガイが髪のあたりに手を伸ばしたところだった。目が合うと、カガイは我に返ったように、あ、と声を出した。慌てた仕草で手を引っ込める。

「何?」

「髪。……それ、いつもとちがうな」

「ばあちゃんがやってくれた」

 言ってから、昼間のことを思い出して顔をしかめる。カガイもバツの悪い顔になって、もごもごと言い訳してきた。

「昼は悪かった。カホのばあちゃんは物知りの、偉い人だ。俺は、商人がお前を連れてくとか言うから、それで。……だから……だからだ」

 こっちも食うか? と懐からバナナの葉の包みをもう一つ取り出されて、ふっ、とつい笑ってしまう。カガイなりの昼間の詫びのつもりらしい。

「あんなの冗談ぐちだ」

「分からんぞ」

 むっと口をとがらせたカガイが真剣な目をするので、わたしもつられて真顔になる。あたりにうるさく鳴いていたヤモリの声が途絶えて、妙に緊張した。

 ちがう。緊張しているのは、カガイのほうだ。

 ぶっきらぼうに、言葉が飛んでくる。

「お前は綺麗だ」

 あっ、と急にいろんなことが腑に落ちた。これがそうか、と思ったとたん、心臓がいきなり強く動き出して、頭に血が上る、耳が熱くなる。

 名前を呼ぶのはあぶない、と、どこかで分かりながら、こらえきれずに名前を呼んだ。

「カガイ」

「カホ」

 何もかも急で、首飾りの結び目が解けたときのようだった。今度は確かな意思を持って、カガイの手が伸びてくる。カガイの指は、髪に触れるか、頬に触れるか、少しさまよって、結局腕全体で肩を引き寄せてきた。カガイの指はバナナの葉の包みを引っ掛けたままで、背中にごつんと包みが当たる。わたしの指も、バナナの葉を縛る蔓紐をぎゅうっと握る。カガイの背はわたしとおんなじくらいだ。黒い強い髪が鼻先に触れて、昼間に潜ったのだろう、潮の匂いがする。

 欲しがられている、ということが膚が震えるほどにわかって、どうしていいかは分からなくてただ棒のように身を固くしていた。カガイの皮膚が熱い。心臓が、どちらの分も速く、強く動いていて落ち着かない。

 カガイの声が耳元で響く。

「連れて行かれんでくれ。誰にも、ヤスにも」

 ヤス、とその響きに、ふいに泣きたくなった。

 わたしはこうはならないはずだった。

 いつか祖母のようにヤスの声が聞こえて、そうして穏やかな波のように、寄せては返す言葉を繰り返して、日々が過ぎる。

 そうなりたかった。

 知らず、わずかに押し戻そうとすると、カガイがより強く腕に力を込めてそれを封じる。それだけで、体がカガイの方に甘く流れるようで、怖い。

 怖い、と思って、もう一度押し戻すように動いたのと、カガイが腕を緩めたのの、タイミングが変に噛み合った。思わぬ力が出て、カガイを思い切り突き飛ばしたようになる。うあっ、とカガイが声を上げる。ちょっと間の抜けた顔をして、足を滑らせた。登ってきた斜面へと、カガイの体がぐらりと傾く。

 確かに急な登り道ではあった。それにしても勢い良く、止まることなく、カガイの体が斜面を滑り落ちる。あっという間に視界から見えなくなって、一瞬、立ち尽くすことしかできなかった。それから慌てて後を追う。暗闇の中、祭りの灯りをたよりに、震える手足で岩や木の根を掴んで道でない場所を降りていく。

 どうしよう、とそれだけが頭を巡って、倒れたカガイを見つけたときは思わず膝から力がぬけた。生きている。

 カガイは意識もあって、痛みにうめきながらこちらに手を上げてみせる。しゃがみこんで、様子を検めると、あちこち打ち身と擦り傷はあるが、大きく血を流すような怪我はないようだった。

「カガイ、カガイごめん! どこが痛い? 立てるか?」

「立てん……足をやった。人呼んでこい、馬鹿力カホ……」

 言われてみると、たしかにカガイの左足がだいぶ腫れている。慌てて立ち上がると、カガイがおい、と声で追ってきた。

「お前が落としたって言うなよ」

「なんで!」

「うちのバカ親がカホのばあちゃんにねじ込むと、ややこしくなる。俺は不運で、<<ヤス>で足を滑らせただけだ。いいな?」

「……っ」

 ともかく祭りの広場に駆け降りていって、苦労して比較的素面の、力のある大人を一人探して、カガイのところまで連れてくる。カガイの様子を見て、その村の男はじろりとカホを見下ろした。

「お前がやったんか? カホ」

「カホじゃない」

 何か言うより速く、カガイが割り込む。

「俺が足を滑らせた」

「お前そんなにドン臭くなかろう」

「……<ヤス>だ。そんなこともある」

 言い張るカガイと、ぐっと口を引き結んでうつむくわたしを交互に見て、村の男は頷いた。

「<ヤス>が犯人なら、しかたないな。カホ、お前は家に帰ってろ。あとは何とでもする」

 嫌だ、とわたしは首を振る。ヤスは、とは言えなかった。

 ヤスはそんなことしない、と言えなかった。

「そうしろ、カホ」

 男に抱き上げられながら、カガイが強く言った。

「犯人は<ヤス>だ。お前は悪くない」

 ばあちゃんに迷惑かけるな、と言いおいて、男に担がれてカガイが去っていく。

 一人、夜の木々の間に残される。トッケイヤモリの鳴き声が、どこからか絶え間なく聞こえてくる。

 しゃがみ込むと、カガイが転がっていた場所に少量の血の跡があって、それを見たらなおさら涙が出た。それでようやく、自分が泣きっぱなしだったことに気づく。顔を拭ったら、手が涙とはなみずで汚れた。しばらくその場にそうしていた。

 何も知らぬげに、祭りの音は続いている。立ち上がり、夜の中を歩きだしたとき、どこへ行こうという気持ちもなかった。

 家には帰りたくなかった。

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