ヤスの島

@yukitorii

第1話 祭りの日

 夜明けの青い光の中でわたしは目を覚ます。目を覚ます前から波音は聞こえている。

 ベッドを降りて、ペンキの禿げた木の床を裸足で歩く。隣の大人用の寝台は、空っぽだ。

 わたしは窓辺に寄る。窓の外、椰子の葉と荒い木肌はまだしっとりと濡れている。陽の光が射し込むのはこれからだ。傷に曇ったガラスのむこうに、ゆっくりと歩く祖母の姿が見える。痩せて、白い髪の、よく着慣れた木綿の朱の服を着た姿。祖母はいつも、わたしよりずっと早くに起きる。

 祖母の唇は、わずかに微笑み、誰かと話すように小さく動いている。ガラス越しに声は聞こえない。けれど、どんなふうか、わたしには分かる。

 わたしが祖母の膝で寝入っているときや、祖母がひとりで花細工を編み上げるときの声。

 それは波音と話すように、寄せては返し、寄せては返す。

『……そう。……そうね。

 みえるの?

 わたし?

 ……はい。

 わたしも。

 ……そう。……そうね』

 祖母の褐色の手が、イカダカズラの赤い花をひとつ、枝から外す。

 イカダカズラの向こうには、小さい浜がある。朱の服を着た背中が浜を歩き、端までたどりつく。お椀型の浜の、いちばん突き出た先で、蛸の木を手がかりに、祖母はゆっくりと膝を曲げ、波に赤い花を乗せる。

 波は静かに花を攫い、潮目のままに運んでゆく。

 祖母はずっと、その花の行く先を見ている。あたりがだんだん明るくなって、海が太陽に光り始める。

 わたしの窓辺からは花の先は見えない。

 けれど海を渡る赤い花の行く先が、誰も降りない岩下の、別の浜だと知っている。

 その真っ白い浜からは、朽ちた桟橋が長く海へと伸びている。

 桟橋の先には、白いペンキの剥げ落ちた、小さな小屋がある。けれど誰もそこへは行かない。

 夜明けの海は徐々に澄んだ青みを増して、桟橋は途中が力なくその波に沈んでいる。

 よく見れば、波に沈むあたりの桟橋は、焼け焦げて途切れている。

 それがヤスの小屋への道だ。

 花は波に運ばれて、その小屋にたどりつく。

 祖母はそれを見届けるまで、戻ってこない。

 わたしは寝台に戻って、クイナ鳥の鳴き声がうるさくなるまで、もう一度眠る。

 波音は眠りのなかで、想像の、ヤスの声になる。

 祖母だけに聴こえる声は、わたしを呼ぶ声にすり替わる。

『カホ、……カホ』

 ヤスの声がどんなことを囁くのか、祖母にたずねたことはない。

 ヤス、それは名前ではなかった。

 ヤス、それはこの島のことばで、<悪霊>の意味だ。



 わたしの島がどこにあるのか、と聞いている? わたしの島はここにある。

 東には隣島があり、ずっと下った波間の向こうには、人の住まないカモメ島がある。

 ときおり海の向こうから、島々を巡る船がやってくる。色とりどりの石や、金物やラジオ、花柄のプラスチックの桶や手鏡、鮮やかなプリントの布地を商う人たち。それから芸を売り、芝居をする人びと。

 彼らは、この島はずいぶん果てにあるという。

 海の間に浮かぶ島を十八も巡った先には、大きな大きな島があって、大きすぎて波音もとどかなければ、ヤシガニも歩かない土地があるという。

「もうちーっと育ってなって、うちの嫁に来たさ、船に乗せて連れってやるよー」

 聞きなれない言葉で商人は話す。わたしは商人の欠けた前歯の暗闇に見入っている。商人がござを敷いて並べる珍しい腕輪や耳飾りより、商人の口の中がわたしの目を惹く。荒れた肌に染み付いた、燻した葉っぱのにおいは好きではない。

 ござの前にしゃがみこんで、商人をしげしげと眺めるわたしの背中から、意地悪い声がかかる。

「そんな女子(おんなご)は連れて行ったら船が沈むぞ。そいつはヤス憑きの孫だから」

 ぱっと立ち上がって、うしろをねめつける。案の定カガイだ。いちばん日に焼けて、体は小さいが足の強い、男子(おとこご)らの中の威張り屋。島長の三番目の息子。

「うるさいなぁ。放っておいてよ」

 不機嫌に言い放つと、カガイの愛想のない太い眉が、余計にぎゅっと吊上がる。まるで怖くない。フン、と鼻で笑ってやると、カガイのぐりぐりした黒い目に火が灯る。

「ヤスは何ぞ?」

 商人の茫洋とした声が、そこに割り込んだ。むっと口をつぐんだわたしに代わって、カガイが答える。

「ヤスは<ワザワイ>だ。あんた、この島に上がるときに、一箱荷を濡らしただろ。あれもヤスだ」

「あれさ急な高波だがねー。そってか、そんが『ヤス』か」

 頷く商人のニヤニヤ笑いが、癇にさわる。

「……なんでもかんでもヤスのせいにして……」

 口の中でもぐついた言葉を、今度はカガイがフンと笑った。

「ヤス憑きの家が何か言ってる」

「うっさいなぁ!」

 怒鳴って、カガイと商人に背を向ける。カガイに構ってる暇があったら、家で手仕事しているほうがマシだ。

 あっおい、と声が追いかけてきた。

「何見てたんだ」

「はぁ?」

「何か、欲しくて見てたんじゃないのか」

 商人の持ってきた品物のことだ。見てなかったし、関係ない。

「知らん!」

 言い捨てて、振り返りもせずに歩きだす。商人が笑っている声がした。カガイの声はなおも追ってくる。

「おいカホ、祭りには来ないのか!」

「夕べに行く。来たら悪いか」

 悪かねぇよ、と答える声は妙に元気がなかったが、知らないふりをした。家の浜へと続く道を、ずんずん歩く。

 最近、カガイも、そのほかの男子も、なんだか前の遊びや喧嘩と様子がちがってきて変だ。女子たちも少し変だ。遊び方は同じなのに、男子が近づくと急に身を寄せ合ったり、クスクス笑ったりする。

 浜までの道を、まっすぐまっすぐ歩いていると、波音と歩きのリズムが揃ってくる。いや、いつもなら揃ってくるのに、今は足が波より少し前に出る。

 自分だって変だ。あんなに棘のある言葉ばっかり言って。

 耳を澄まして、波の音に、自分を呼ぶ声が混じらないかと願う。祖母のように、わたしを呼んではくれないか。波のように。

『カホ』、とそれが聞けるようになれば、きっとこんな居心地の悪さなんか、感じなくてすむのに。

 島の中心の方から、囃子と鐘の音がし始めた。祭壇のあたりでは、もう神事が始まっているらしい。

 今日は祭りだ。昼には巫女と神職が踊って火を焚き、夜には島の皆が踊る。

 火は焚かれ続け、夜の白むまで踊る、祭りが始まる。

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