3.群青は遠く愛おしく

 ずっと、何か焦っているように生きてきた気がする。例えるのなら、そう、銃身を突き付けられているみたいだ。後ろから迫ってくる死から逃げるかのように、焦るように生きているのだ。

 それを自覚したのは、私の周りから友人がいなくなった時だった。

「あの人っていつも成績いいよね」

「資格もたくさん持ってるらしいよな」

「成績はオール優らしい」

「でも、それだけ完璧だと、逆に怖くない?」

「そもそもあまりしゃべるところを見ないし、笑っているところを見たことがないぞ」

「何を考えているのかわからなくて気味が悪いよな」

 何を話しているのかなんてすべて聞こえていて、でもそれを指摘する気になんてなれなくて。

 以前もこんなことがあった。私には両親はいない。すでに他界しているといったほうが正しいのかもしれない。祖母に引き取られるまで、私は施設にいたものだからいじめられることも多かった。

 遠方にいた祖母に引き取られてからは、転校もあってか、いじめられることも少なかった。祖母は大事に、本当に大事に私を育ててくれた。

 高校に入って、その祖母も、くも膜下出血で亡くなってしまった。

以前より私は、勉強に打ち込むようになった。誰かに必要とされたかった。期待されていたかった。

もちろん、最初は期待されていた。みんなとも、ちゃんと話すことができて、友達もいた。だけど、それも一時的なものだった。ひとり、またひとりと、遊びの誘いを断る私から友人は減っていき、性格と成績から気味悪がられるようになった。

結果、まともに私と口をきいてくれるのは幼馴染である宮原夏樹ただ一人となっ

た。きっと夏樹も、今は口をきいてくれていて、友達として好いてくれているのだろうと思う。けれど人の気持ちは移ろっていく。いつ見放されるかなんてわからない。

祖母が亡くなった時も、

「一生そばにいる、俺が一人になんてさせない」

と言われたものだが、きっと忘れっぽい夏樹のことだ。覚えていないに違いない。

私だけがその言葉に、勝手に期待して生きているだけなのだ。そう、勝手に期待して。

ああ、ここ予習でやったところだ、とボールペンで板書を移す手を止めた。いっそ、夏樹にも嫌われたほうがどんなに楽だったろうか。そしたら、何も思い残すことなくこの世を去ることができたのに。

先生の声が遠く聞こえた。何のために勉強していたのだろうと思うと、この焦っているように生きてきた人生がとてもつまらないものに思えた。


 ***


「ユキ!」

校門の近くで、夏樹が手を振っているのが見えた。

「別に待ってなくていいって私言ったよな」

「だって俺がユキと一緒に帰りたいんだもん」

仕方ないじゃん、と夏樹が口をとがらす。彼の精神年齢はいったいいつになったら小学生から脱出するのか。おそらく大人になっても脱出できないに、私はかけたっていい。

「別にいいけど、いい加減私のことを名前で呼ぶのと私について回るのやめろ」

「なんで」

「宮原に迷惑がかかるから」

そんな露骨に突き放すように名字で呼ばなくても、と夏樹が少しうつむく。

「俺は別に、迷惑なんて被らないと思うんだけどなぁ。そんなに俺と一緒にいるのいや?」

やめろ、私をそんな目で見るな。そんな捨てられた子犬のような目で見ていたって私は絆されないぞ。

「せっかく母さんが今日の晩御飯、ユキの好きな秋刀魚にしようって言ってたのに」

「秋刀魚!?」

好物の名を聞いてうっかり大きめの声で叫んでしまい、近所の人たちの視線が刺さる。そんな私を見て、夏樹が笑った。

「ね、今日もうちで晩御飯食べるでしょ?」

「う、うん。まあ、そういうことになるな…」

 なんだかんだ言っても、私は夏樹と一緒にいるのは好きだし、宮原家にいると、なんだか学校であった事も忘れられる気がした。


*** 


「あら、それで、ユキちゃんまたテストの成績学年一位だったの」

「まあ、おかげさまで」

夏樹のお母さんによくやったわねぇ、うちの夏樹も見習ってほしいものだわと褒められる。

「うちの夏樹はいつも友達と遊びに行くか、ゲームしてるばっかりだからな。いっそ、ユキちゃんにお嫁さんに来てもらえば一件落着じゃないか」

夏樹のお父さんがビールを飲みながら言う。

「そんなこといったって、ユキにも俺にも結婚相手くらい選ぶ権利はあるだろ。ほれみろ、ユキだって苦笑いしてるぞ」

突然話題を振られて、驚き隠しにお茶を飲みほす。

「ただ単に秋刀魚の骨が口の中に刺さりそうになっただけ」

ため息をつきながら私はまた、秋刀魚と向き合った。

「でも、さすがに再試三つはどうかと思うぞ。私が勉強を見てやれるうちに勉強したほうがいいんじゃないか」

「そんなことわかってるって!」

痛いところを突かれた夏樹がご飯を口いっぱいにかきこみ、おかわりをつぎに行く。

「ユキちゃんごめんなさいねぇ。まあ、これからも夏樹と仲良くしてやってね」

「とんでもない、むしろ夏樹や、夏樹のお母さんにお世話になっているのは私のほうです。これからもよろしくお願い申し上げます」

夏樹のお母さんがにっこりと笑っている後ろで、ご飯をつぎ終った夏樹が、俺のいないところで勝手に話を進めないで!と叫んでいた。

「ごちそうさまでした」

食器を下げて洗い、リビングに戻って鞄を持つ。

「待って、送っていく」

玄関に向かう私を見て、夏樹がバタバタと上着を着ながらついてきた。夏樹の家の割と新しい玄関の扉が閉まる。この家は、夏樹のお父さんが三年前にリフォームしたばっかりだ。

夏樹が空を見上げた。少し鼻水をすする音がする。

「さすがにこの時期になると夜は冷えてくるね」

「そうだな。もう、夏が終わってしまったな」

昼間の残暑と足して二で割ればちょうどいいのに、と夏樹がつぶやく。

この秋が終わって、冬に入ればもう、就職活動が始まる。このまま進めばそれなりにいい企業に入れるだろうが、夏樹と会う時間はこれからもっと減っていくのだろうと思うと少し寂しかった。

「紅葉はもうちょっと先かな」

「あともう一ヶ月くらい先だろう」

 そんな他愛無い話をしているうちに、嶋野の表札が見えてきた。祖母が残してくれた財産の一つ、私の家だ。

「夏樹、家に上がれよ」

「え、なんで?」

「そんな寒そうに変えられて風邪をひかれてもこっちが困る。コーヒーくらい出そう」

夏樹が嬉しそうに笑う。

家の中に入って電気をつけ、お湯を電気ケトルで沸かす。お気に入りのカップを二つ出して、私は先に風呂洗いを済ませた。

リビングに戻ってくると、夏樹が仏壇を拝んでいた。私も隣に正座し、拝む。となりには、祖母がいい顔で笑っている写真が置いてある。これは、私が中学に上がったばかりのときに、旅行に行った時の写真だ。あれからもう六年近く時間が経過していることを考えると、私も歳を取ったものだな、と思う。

「ユキ、お湯沸いてる」

その一言で、思い出から現実に引き戻された。パチン、と電気ケトルの電源が自動的に切れる。

コーヒーに牛乳を入れ、戸棚からクッキーの缶を引きずり出した。缶の中には、ついこの間焼いたばかりのクッキーが十何枚かはいっている。そのまま何枚かお皿に乗せて、テーブルの上に置いた。

「いただきます」

 ご丁寧に夏樹が両手を合わせる。これは祖母の躾だ。これができないと、うちではお菓子やご飯は食べさせてもらえなかった。当然、うちに入り浸っていた夏樹も例外ではなく、こうして何かを食べる前には必ず合掌をする癖がついていた。

 いただきますというのはね、と説明してくれた祖母の声がよみがえる。

「作物や動物の命、そして作った人の努力をいただくという意味なのよ。そしてご馳走様の馳走というのは、その食べ物を持ってくるためにいろいろなところを走り回るという意味なの。私のために食べ物を作ってくれてありがとう、持ってきてくれてありがとうという意味なのよ。

 だからね、出されたご飯は全部食べなければいけないし、食べる前に必ず挨拶はしなくてはいけないのよ」

 いつも優しい祖母であったが、こういう躾の時だけは厳しかった。でも、祖母がいつも厳しく言っていたものはすべて、一般的には常識と呼ばれるもので、今思えば、身についていないと困ることばかりだった。

 当時の私は、ただ祖母の言うことを聞いていただけだったが、今となってはその言葉一つ一つが身に染みるものばかりだ。

「夏樹は、就職どうするの?」

クッキーを食べることに夢中になっていた夏樹が顔を上げる。

「俺は、文房具系の会社を希望してるけど、まだどうなるかわかんないや。ユキは?」

「さあ?私もまだどうなるかわからないな。大学院に進んで研究に残るかもしれないし」

 皿の上に視線を移すと、さっきまで五枚あった大きめのクッキーが、あと二枚ほどになっている。熱かったコーヒーも、ちょうど飲みやすい暖かさになっていた。私はスプーンで少しカップの中をかき混ぜて、それを一気にのどに流し込んだ。

「そろそろ帰らないと、お母さんが心配するんじゃないか」

時計はすでに午後八時半を指している。ただ送ってきてもらっただけなのに、三〇分ものんびりしてしまったようだ。

「そうだね、もうそろそろ帰ろうか」

夏樹も一口分ほど残していたコーヒーを飲んで立ち上がった。

「じゃあ、そこまでの距離だが気を付けてな。特に誘拐されないように」

「誘拐だなんて、ユキは俺のこと何歳だと思ってるんだよ」

むっすりと頬を膨らます夏樹を見て、私は笑った。

「今年で二十歳だろ、知ってる。けど、お前は微妙なところで抜けてるからな。お菓子やるからついて来いなんて綺麗なお姉さんに言われたら、ついて行きそうに思えてしまってな」

「そんな小学生みたいなことしないし」

「まあまあ、お土産にクッキー持たせてやるから」

「やった!」

素直に喜んでおいて我に返る。

「い、今のはユキだからいいと思っただけだし、そんな知らない人に騙されたりなんかしないし」

「そうか。騙されないことを祈っておこう」

私はこみあげてくる笑いを押し殺しながら、クッキーを専用の紙袋に移した。

「それじゃ、お邪魔しました」

 夏樹が大切そうにクッキーの袋を両手でしっかりと持ってお辞儀をする。

「気を付けて」

「また明日」

玄関の少し錆びた蝶番が音を立てながら扉が閉まっていく。扉が閉まった瞬間、少し部屋の中が寒くなった気がした。

その日、夢を見た。海の中にいる夢だった。いつだったか、死ぬのであれば海の中がいいと思ったことがあった。あの群青色の中で、私は死にたいと思ったのだ。


 ***


紅葉の色が、オレンジ色になり、風はどんどん冷たくなる。暖かい焼き芋が恋しい季節となり、専門学校の静かな中庭でよく晴れた日にベンチに座って読書をするのがより一層楽しい頃合いとなった。

本を読むのは好きだ。淡く切ない恋の話から、異世界の国と国同士の戦記まで読み漁る。本は私を裏切ったりしないし、知識と適度な眠気を与えてくれる。なかでも、透明色のある物語が好きだ。夏が終わっていくような、どこか切なく、綺麗な話が好きだった。

今日読んだ本も、懐かしく、どこかで見覚えのあるような透明な話だった。文字でつづられていく物語が、ただ、美しかった。

その本を読み終え、次の講義のある教室に移動している途中、その話声は聞こえてきた。

「嶋野雪って知ってるか?」

 ああ、また私の悪口か。なぜだか知らないけれど、罪悪感と緊張感を胸に抱きながら、私はその会話を盗み聞きした。どうやら私が入りたい教室で話しているらしい。次第に人が加わり、悪口を言う声も大きくなる。戸の向こうで、本人がいるとも知らずに。

「成績の良さと愛層の良さをお前と足して二で割ったらちょうどいいのにな、宮原」

心臓をつかまれた気がした。そこに、夏樹もいるのか。

「宮原、お前嶋野と仲がいいらしいが、付き合ってんのか?」

「いや、別にそんなことはないし、嶋野のことは恋愛対象としてみたことないよ」

きっぱりと言い放った、夏樹の声が嫌に頭の中で響いた。ユキと呼ばない、私のことを名字で呼ぶ夏樹の声を初めて聴いた。

「まあ、あいつ何考えてるのかわかんないしな。かわいげもないし、あんな奴と一緒にいたってなにもいいことないよなぁ」

お願いだから否定してくれと、心の中で叫ぶ。夏樹だけは、私の味方でいてくれ。どうか、お願いだから。

「そうだね」

 その返答を聞いた瞬間、私の中で何かが壊れた音がした。無言で教室の戸を開ける。座っていた人たちが振り返って私を見た瞬間、気まずい空気が流れた。

「ユキ…?」

夏樹がゆっくりと立ち上がる。

「ユキ、ごめん俺そんなつもりじゃなくて…!」

私の腕を必死につかむ夏樹の手を私は振り払った。

「なんのこと?」

大学で初めてまともに、にっこりと笑う私を見て、夏樹の表情だけでなく教室自体の空気も凍る。私はいつも通りそのまま席に着き、講義を受けた。内容なんて、一つも頭に入ってこなかった。ただ、頭が痛かった。

それから何日間か、私は夏樹と一言も話さなかった。彼が何を言おうと、無視し続けた。別に、あんなふうにいわれたのがショックだったのではない。ずっと、あの人たちと同じように、陰で私の悪口を言ったその口で、優しく私に話しかけ、そしてまた、私のことをあざ笑っていたのかと思うと、気持ち悪くなったのだ。

夏樹から届いたメールも、もう何通になったかわからない。だけど、読む気にもなれなかった。

そんな日が続いたある日、家の郵便受けに一通の手紙が入っているのを見つけた。夏樹からの謝罪の手紙だった。私は目を去ったと通して、破いて捨てた。内容は予想通り謝罪と言い訳だけだった。

夏樹のやさしい顔が浮かぶ。あの語り掛けてくれた低い声も、頭をなでてくれた大きな手も、全てうそだったのだ。そうでも思わないと、もう無理だった。いまさら、ずっと夏樹のことが好きだったのだと気づいた。あの言葉通り、夏樹はそばにいてくれるのだと、信じていた。実際いつも何かあった時に傍にいてくれたのは夏樹だった。なのに、どうして。

流れていく涙をそのままにして、私はペンをとった。便箋を出し、手紙の返事を書いた。


夏樹へ

許してほしい、と言われても、私にはなんのことだかさっぱりわからないのだ。

ただ、お前の本音に、私が気付いてやれなかっただけなのだから。

もし、本当に違うというのであれば、あの砂浜まで来てほしい。祖母に連れられてよく遊びに行った、あの砂浜だ。

私はそこで、待っている。


朝、起きてすぐに私は、その手紙を宮原家のポストに入れた。

そこから自転車をこいで、コンビニでイチゴの入ったヨーグルト飲料を買った。ヨーグルト飲料を飲みながら、私はさらに自転車をこぎ続ける。これがこの道を通る最後になるのだと思うと、少しだけ、すがすがしい気分になった。

砂浜の近くの駐輪場に自転車を止める。飲み物のカラは、ビニール袋に包んで、自転車のかごに放り入れた。いくつか貝殻を拾ったり、砂の上に寝そべったりする。空を見上げれば、綺麗な群青色が広がっていた。

裸足になって、少し海に足を付けた。冷たい水の感触が、足をくすぐる。自転車に乗せて持ってきた重りにする漬物石をもって、すこしずつ、私は前に踏み出た。だんだんと、体が水に浸かっていく。この先は、海底が急に深くなっている。そこで私は、立ち止まった。

「ユキ!」

夏樹の、叫ぶ声がした。ゆっくりと振り返ると、夏樹が泣きそうな顔で立っていた。

 その情けない顔のまま、ざぶざぶと海の中に真っ直ぐに入り、私に近づこうとしてくる。

「近寄るな!」

私は、今までに出したことのないような大声で、叫んだ。三メートルほど手前で夏樹が足を止める。

「来てくれたんだな」

夏樹の目から、ゆっくりと涙が落ちる。

「そんなの、当たり前じゃんか」

「―そうか」

その顔を見ていられなくなって、私は目を伏せた。

「でも、もう許すことはできても、お前のこと信じられないんだ」

「そう思われても、仕方のないことをしたと思う」

夏樹が、袖で顔を覆い隠し、嗚咽を漏らしながら答える。

「夏樹、こっちを見てくれ」

袖の向こうから、顔を真っ赤にして涙を流す夏樹の顔がのぞく。

「もしお前が、私のことをまだ友人と思ってくれているのなら、私の願いを聞いてくれないか」

 絶望した、もう何も信じられなくなった私の願いを、と心の中でつぶやく。

「…なに?」

嗚咽の合間に、夏樹が短く言う。

「お前だけは、私という人間が生きていたことを、覚えていてくれ」

「どういう、こと?」

 私はこれまで、いまだかつてなかったほどに、やさしく笑うように努めた。もっとも、はたから見ればゆがんだ微笑みにしか見えないかもしれないが。

「夏樹、私はお前のこと、好きだったぞ」

 私はそう告げて、一歩後ろに下がった。足が水の中を切り、底を蹴る。海の底へと落ちていく。

 きらきらと光る水面が遠ざかっていく。青い、綺麗な群青色が見える。夏樹の声が遠く聞こえる。息が、苦しくなる。体が、重くなる。眠たい。

 なあ、夏樹、私はちゃんと笑えてたか?どうか、お前だけは覚えていてくれ。私という人間がいたことを。この世から消え去りたいと思いながらも、最後には忘れないでというだなんて。私は、最後までわがままな人間だったな。そんなことを、遠ざかる意識の中、私は考えた。

長い、長いながい夢を、見ていたようだった。


 ***


 結論から言えば、嶋野雪は死んだ。正確にいえば、俺の知っているユキはいなくなったのだ。

 あのあと、ユキは潮の流れによって、海をさまよい、意識不明の状態で発見されたらしい。らしいというのは、俺が発見したわけではないからだ。数キロ離れた先の浅瀬にいたのを、偶然釣りに来ていた人に発見され、救助されたらしい。

 医者が言うには、ユキが最初に持っていた重りが割とすぐに体から離れたのと、すぐに意識がなくなっていたのが幸いだった。こんなに水温の低いなか、何時間も海をさまよい、生きていたのも奇跡的らしい。しかし、頭をぶつけた跡があるらしく、意識が戻るかどうかは分からなかった。

 医者の予想に反して、半日もしないうちに、ユキは目を覚ました。だけど、ユキはそのうつろな目で俺を見てこう言った。

「あなた、だれ?」

 俺は何度も、夏樹だ、ユキの幼馴染の夏樹だ、といったが、ユキの記憶は本当になくなっているようだった。

「うまく思い出せないの。ただ覚えているのは、名前と青…群青色と、誰か大切な人がいたような、そんなことだけ」

 そうか、と俺は呟いた。

きっとこれは罰なんだと思う。ずっとそばにいると言っておきながら、あんなことを言ってしまった罰なのだろう。償うと言ってもどうすればいいのかわからない。だけど、俺はユキをこんな風にしてしまった責任を取らなければならない。

 俺はそっとユキを抱きしめた。

「ずっと、俺は雪を守るから。ずっとそばにいるから」

 俺の好きだったユキはもういない。青い…群青色の海で死んでしまった。でも、嶋野雪はここにいる。それだけをただ、かみしめていた。


 気づけば見知らぬところにいた。目が覚めたとき、傍にいた男性が言うには、ここは病院だという。

 医者や看護師にいろいろなことを聞かれた。名前や、生年月日、今までのこと。覚えているのはわずかなことだけだった。

 最初の男性は、夏樹と名乗った。私の幼馴染だと言っている。最初は信じられなかったが、夏樹さんの母親が持ってきてくれたアルバムなどを見ているうちに、そうだったのだろうと思い始めた。

 夏樹さんはときどき、私の顔を見て悲しそうな顔をする。そしてときおり痛いほど強く抱きしめて、安心したように帰っていく。

 最近たまに、夢を見る。綺麗な群青色の海に沈む夢。そして、夏樹さんとよく似た人と、一緒にコーヒーを飲みながら、クッキーを食べる夢だ。この夢を見るたびに、ああ、記憶をなくす前の私はこの人が好きだったのだろうと思う。

 この人がいるのなら、私はずっと生きられる気がした。

 きっと今の私がこの人を好きになる日も、すぐそこなのだろう。

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