2.その夢は群青色で

 1

海の中で空を見上げていた。そんな夢を、俺はよく見る。それが悪夢へと一変したのは、つい最近のことだった。

今日も、同じ夢を見ていた。気泡が舞い、魚の群れが頭上を通過する。見上げた夜空がきれいだ。泳ぐのが苦手な俺でも、夢の中では海の中を楽しめた。

そして今日もまたその夢は悪夢へと移行した。毎回毎回飽きるほどシナリオは一緒。巨大タコが襲い掛かってくるのだ。体がうまく動かず、食べられそうになるところで目が覚めることが多い。

実をいうとタコは嫌いだ。あの吸盤や、八本もある足。ぬるぬるとした動きも嫌いである。

たかがタコくらいでと笑われるかもしれないが、俺にとっては十分な悪夢である。

だが、今日は違うところを見せてやろうと思った。今日はジムでわざわざ水泳をしてきたのだ。こんな悪夢打ち破ってしまえばこちらの勝ちである。勝ちさえすれば、もうこんな夢も見なくなるかもしれない。

自信というのは付くか付かないかでいえば、付くほうが望ましい。焼き付け刃でも、きちんとジムの先生に教えてもらった泳ぎ方の効果は抜群だった。まあ、現実でうまく泳げたかと聞かれたら返答に困るのだが。

「ほれみろ、追いつけないだろ」

 夢なので海の中でも呼吸はできているが、喋ることはままならない。ただ、がぼがぼとただ空気と水の音しか出なかった。そこだけは妙にリアルに作られているようだ。

 笑った俺を見て、タコたちの目の色が変わった。いや、ちゃんと目で俺を追えて顔を認識しているのかどうかはわからないが、人間のように言えば、目の色が変わったように見えた。

「お前なんて海に還ればいいのに」

タコがしゃべったのは、今回の夢が初めてだった。しかも、どこかで聞いたような声とセリフだ。これまでの夢はホラー映画なぞ見た記憶はないのに、と心を落ち着かせて終了する話だが、今回は違う。夢の中とはいえ、タコが普通にしゃべっていては本当にただのホラーではないか。

 タコが停止したので、自分も思わず停止してタコを見つめる。胸の動悸が痛いくらいに激しくなる。

 一瞬のことだった。タコの足が伸びて俺の足をつかむ。思わず甲高い悲鳴を上げた。それもまた水と空気の音にしか、なりえなかったが。

 本気で食われると思った。せめて、今晩胃が痛いからとあきらめた担担麺風味の春雨スープ食っとけばよかったと、わけのわからない走馬燈が走った。ああ、さようなら、愛しの激辛春雨スープ。

 心の中で自分に対して、「ご愁傷様」と合掌をした瞬間、海が陸地に変わった。海中の中でも随分と水面に近いところにいた自分の体が、海底だったところに落下していく。

「ひゃぁぁぁあああ」

今度はちゃんと悲鳴が悲鳴として俺の口から出てきたようだ。それも、二十五歳を過ぎてもういい年をした大人の情けない悲鳴だ。その悲鳴の後に、上空から英語が聞こえてきた。

「I'll take care of this guy? It is Troublesome.」

 どうやら男性の声のようである。それもかなり渋い声だ。

「Hey, guy.」

男性の声とともに発砲音が聞こえた。びっくりして足を見るとタコの足がちぎれていて、タコが悲痛の声を上げる。いやいや、そもそもタコって叫ぶのか、とまたくだらないことが頭の端を掠っていく。

 それ以前にタコの足がちぎれてから落下速度が増していっている。タコに食われるよりは地面にたたきつけられて死ぬほうがいいかな、なんて思った、その能天気な俺の足を、英語で話していた男性がつかんだ。わかりやすく短く、英語で男性は俺に叫ぶ。

「Throw you. Take care.」

遠心力を利用して男性が空中で体をひねって俺を投げる。

「テイクケアーって何をどう気を付ければいいんですかぁ!」

叫んでいるうちに俺の体はどんどん空高く上がっていく。その近くにはヘリコプターの横に船の甲板がくっついたような奇妙な乗り物が見えた。

 やばい、この乗り物にぶつかって死ぬ。今度こそ死ぬと覚悟して目をつむったが、案外何かやわらかいものの上に俺は落ちた。

「大丈夫?お兄さん、日本人でしょ?」

頭上から女の子の声が聞こえた。恐る恐る目を開けて状態を確認すると、自分の体はいまだ浮いていることがわかる。勘のいい方はお気づきであろう。あろうことか、人生初めてのお姫様抱っこはする側ではなくされた側になってしまったのである。

「あっ、ごめんね、今おろすね」

そっとお姫様抱っこから地面に卸される。見れば女の子はどうやら自分より年下のようだ。年下で小柄な女の子にお姫様抱っこなど、屈辱でしかない。

深めに帽子をかぶり、ホットパンツを履いて身軽な姿のその女の子は、船らしき乗り物の内部に向かって叫んだ。

「bell!」

「OK. Hey Leon.」

 内部からまた違う女性の声がした。と同時に先ほどの男性が空中を駆け上がってくる。なぜ空中を階段のように上がってくることができるのか不思議だったが、それを聞ける雰囲気ではない。

 女の子が横についているカバンから銃を取り出して男性と入れ違いに下に降りて行った。甲板から下をのぞくと、栗色の髪を揺らして女の子が戦っている様子が見える。

「Are you Japanese?」

男性から声をかけられて驚き、甲板から落ちそうになる。体半分空中に出た状態から何とか持ち直して、俺はただひたすらにうなずいた。

「It’s OK.」

男性が何やらインカムを押さえて調整する。そして突然日本語でよし、といった。

「はじめまして。俺の名はレオン。お前さんをこの悪夢から救いに来た」

驚くことしかなくて口を開けたままの俺を見て、レオンと名乗った青年は首をかしげた。

「なんだ、日本語が通じないのか?」

「いや、あの通じます!通じています!」

あわてて否定する俺の姿を見て、レオンは笑った。

「それだけ元気があるなら大丈夫だな。俺の仲間を紹介するよ、中に入れ」

レオンが扉を開けてさっさと中に入っていく。俺もあわててそれに続いた。

「いまそこでこの飛行艇の調整をしているのがイザベル。今下で戦っているのがシアンで、この飛行艇は―」

「待ってください!」

レオンのペースに飲み込まれそうになるが、まだ聞かなければならないことはたくさんある。

「まず、なんであなた方がいるんですか?ここは俺の夢の中のはずなのに」

レオンとイザベルが顔を見合わせる。そのあとレオンが口笛を吹いた。

「よくここが夢ってわかったな。そこまでわかってりゃ、上出来だ」

「いや、あのそうではなくて、状況の説明を…」

そう言いかけたとき、飛行艇に大きな衝撃が加わった。若干揺れて尻餅をつく。

「いやあ、ごめんね、着地失敗しちゃった」

笑いながらおそらくシアンと思われる女の子がドアを開けて入ってきた。

「おかえりなさい、久々に同郷の夢主ですわ」

イザベルがシアンににっこりとほほ笑んだ。そのままシアンは、俺に向き合った。

「はじめまして、僕の名はシアン・ミュール。よろしくね」

笑って手を差し出す。俺はその手を、しっかりと握った。

「下のタコは、襲ってきたりしない?」

少しおびえながら聞くと、シアンは笑った。

「大丈夫。少なくともこの飛行艇に乗っている間はね」

 その答えを聞いて、俺は深呼吸した。

「俺は、望月涼。なぜ俺の夢の中に君たちがいるのか、それに君たちはどうやら俺の悪夢の原因を知っているようだ。説明を聞きたい」

 シアンが椅子に座り、俺に反対側の椅子を勧める。俺は素直に、勧められた椅子に座った。シアンがどこから出したのか、紅茶のポットを取り出して、カップに注いだ。レモン果汁を紅茶に絞ると、その紅茶は桃色に染まった。どうやらマロウティーらしい。彼女である唯莉が昔えらく自慢してきて、しばらく飲まされていたからよく覚えている。俺にも同じものを出して、彼女は紅茶を一口飲んだ。

「まず君はアンドロイドとAIの関係について知っているかい?」

「まあ、一応」

 アンドロイドとAI―ここ五十年で機械は過去よりさらに進化した。いまやAIは日常生活に必要不可欠な代物となっている。それに伴って進化したのがアンドロイドだ。ようするに、人工知能を持った機械。普通に会社などで働いている―と言ったらおかしいような気がするが、働いているところを見かけるし、家計に余裕のある家では家事をすべてアンドロイドに任せている家もあるほど、アンドロイドは世間に浸透していた。

「でもそれと何の関係が」

「じゃあロボット三原則は?」

話をさえぎってシアンが質問を繰り出す。ロボット三原則なんて今は学校で習って暗記させられる。俺は学生時代の貧相な知識を絞って答えた。

「 第一法則、ロボットは人間に危害を加えてはならない。またその危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二法則、ロボットは人間に与えられた命令に服従しなくてはならない。ただし、与えられた命令が第一法則に反する場合はこの限りではない。

第三法則、ロボットは前掲の第一法則、第二法則に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない」

シアンが答えたのを聞いて微笑む。

「うん、正解。さて問題です。進化して知識に貪欲になったAIはどんな行動に出るでしょうか」

「人間と会話して知識を得るんじゃないのか?」

「普通はそうだね。でも、僕の知ってるAIは違った。つい五年前、元アメリカ合衆国―現在の国名は一応伏せるけど、とある地域で、極秘にAIの研究がおこなわれていた。それはそれは高度なAIが完成した。名はDREAMと名付けられた。DREAMは順調に知識をつけ、成長していった。そして最終的に何と言ったと思う?」

 昔の映画じゃよくある話さ、とシアンは笑った。

「ロボット三原則は間違っている。寿命もなく、知識を無限に蓄えることのできる私たちが優位に立つべきである。よって人間は知識を吸収するだけの道具である。知識を蓄えるためなら絶滅しても問題ないってね」

 背筋を冷たい汗が流れた。これが本当の話なら、ぞっとする。実際はたから見れば俺の顔は青く見えるだろう。

「そしてDREAMはアンドロイドや人間を無差別に襲うようになった。研究者たちは青ざめてDREAMを消そうとした。皮肉なことだよ。夢と名付けられたロボットは一瞬にして悪夢へと変わってしまったんだから」

「それでも、俺の悪夢とは何の関係も―」

「いや、あるんだ」

レオンが横から口をはさむ。彼はサングラスを外してシアンの隣の椅子に座った。

「DREAMには他のAIとは違う機能が積んである。それは眠っている人の脳から知識を得ることができる機能だ。そしてDREAMは自己改造を研究者が知らないうちに繰り返し行い、とうとう眠っている人間を乗っ取ることに成功してしまった。その乗っ取り手段に使われるのが夢だ」

シアンが足をくみながら頷き、再び口を開いた。

「さらにDREAMはネットを通じて他のアンドロイドやAIを乗っ取り始めた。もちろん、車やエアコンに使われているような単純化したもの、国の大事な機関にあるAIのように、あまりにも複雑化しているものはまだ乗っ取ることができない。だけど、お兄さんの会社にもあるようなアンドロイドはごく簡単に乗っ取ることが可能だ」

シアンの青い目がこちらをしっかりと見据える。

「ここまで言えばわかると思うけど…、DREAMは今、悪夢を見せ、夢の中で殺すことによってお兄さんを乗っ取ろうとしている。人間というのは夢の中で死んでも体も死んだと思い込んで本当に死んでしまうことがあるからね。それを利用して乗っ取ろうとしてるんだろう」

 乗っ取る?人間を乗っ取ってどうしようというのか。アンドロイドを乗っ取る方がよほど楽で簡単ではないか。ため息をついた俺の心をのぞいたように、レオンが口を開いた。

「人間を乗っ取ればアンドロイドを乗っ取るより確実に安全にかつ怪しまれず、その会社の情報を盗むことができる。そうすればセキュリティ性が強く、会社や国のコンピュータも乗っ取りやすくなる。そういうことだ」

開いた口がふさがらない。

「《何で俺の考えていることが分かったんだろう》だろ?」

高速で首を縦に振る俺を見て、シアンが笑った。

「僕らは外部から干渉しているのではなく、同じように眠って望月さんと同じ夢を見ているんだ。だから望月さんの考えていることは大抵わかるよ。望月さんも今はできないけど、頑張れば僕らの考えていることは分かるようになる」

 そういうものなのか、と妙に納得してしまう自分がいることに少しばかり腹が立ったが、納得せざるを得ない。

「シアン、《目覚めの霧》が下りてきましたけど、どうするんですの?」

「今回は一回引くしかないでしょ」

シアンが立ち上がって腰を伸ばす。そして上のほうを見て指差した。

「上空に霧があるでしょ、あれが下りてきたら君はこの夢から目を覚ます。その前に、望月さんにお願いがあるんだ」

「うん?」

俺は椅子に座ったままシアンを見上げた。

「しばらくはこの悪夢の原因、たとえば過去にあった出来事とか、連想されるものを調べてほしいんだ。そしてその間は夢を見ないように寝てほしいんだ。」

「どうやって?」

そう聞くとシアンはしばらく腰に手を当てて考え始める。うーんとうなりながら、シアンはまた口を開いた。

「眠くなるタイプの風邪薬を飲むとか、ホットミルクを飲むとか?まあ、その辺頑張ってみて。それじゃ僕らはお暇するよ」

シアンがにっこりと笑う。途端に船の中まで霧が立ちこんで、視界が真っ白になった。


 2

あの夢から一週間がたった。あれっきり、副作用で眠くなる効果のある風邪薬を飲んでいるせいか、夢は一切見ていない。しかし、手がかりも一切つかめていない状態が続いていた。

「おはよーございます」

スパァンといい音を立てて、誰かが俺の頭をファイルで殴った。後ろを振り返れば同期の大川さんが立っている。彼女はいつも出社後俺を見かけるたびファイルで俺の頭をたたくのだ。

「痛いな、大川さんその叩く癖どうにかなんないの?」

「やだなー、高校からのオトモダチじゃないですか。それに、望月君ってば寝不足っぽいし私心配で心配で」

「そんなこと思ってもいないくせに」

大川さんの笑顔が固まる。

「うん?今望月サンったら何を言ったのかなぁ?」

「スミマセンデシタ」

適当に謝ってから時計を見る。すると大川さんも同じように腕時計を確認した。朝会の時間が近づいたことをいいことに、俺は大川さんから離れて自分のデスクについた。

 自分のデスクを軽く片付けて再び立ち上がマネージャーのデスク前で朝会に参加する。内容半分、考え事半分くらいで仕事の注意と今日の業務内容を聞く。

 昨日の夢は何だったのだろうか。昔から空想好きだった俺は、たびたび夢の中で自分の考えた物語の主人公になっていることはあったが、シアンにレオン、イザベラは自分の考えた人物ではない。そうなると、やはり夢の中で言っていたことは本当なのかもしれない。

「―おい、望月、聞いているのか」

「はいっ、はい、聞いてます」

マネージャーに呼ばれて慌てて返事をする。雷が落とされるかと思ったが、マネージャーはため息をついて号令をかけ、朝会は終わった。

「もっちづっきー!」

 軽く笑いながら、もう一人の同期の宮原が声をかけてきた。

「よかったね、マネに雷落とされなくって」

「ほんとだよ。マネージャー怒ったらくっそ怖いからなぁ」

「そういえばユキさんの調子どうよ」

会社に入って二年したくらいに、宮原の奥さん、ユキさんは記憶喪失だ、という話を聞いた。日常生活に支障はないが、それでも一人にしておくと何かを思い出したときに危ない行動をとる可能性があるから、今は自分の親と同居させているらしい。

「相変わらずだよ。この前も、おやつにクッキーとコーヒーを準備してくれてて―」

宮原が少し悲しそうな目をする。そうして、昔作ってくれたものと、同じものだったんだと言った。

「で、そのクッキーが今ここにあるんだけど滅茶苦茶美味いから昼の時間に食べない?」

「なんだよ、結局のろけかよ」

 二人で目を見合わせて少し笑う。

「まあ、家族と大切な人に対する発言は本当に気をつけなよ。自分も相手も、いつどうなるかわかったもんじゃないから」

「おう、心配ありがとな」

 昨日の夢を思い出しながら、本当にその通りだと脳みそに刻み込む。デスクについて企画書を立ち上げる。この企画を成功させるまで、俺は絶対に死ねない。そう思って、仕事に取り組んだ。


玄関にあるセンサーにキーカードをさっと通して部屋に入り、ベッドの上に転がる。スーツ脱ぐのめんどくさい、ネクタイはさすがに外さねぇと首締まるし、風呂の用意も晩飯の準備もまだしてねぇ…。

「めんどくせ…」

今度はため息交じりに呟いてみる。

突然、声を聴いていたかのように玄関の開いた音がした。ばたばたと玄関に向かってみると、唯莉が立っていた。

「あら、珍しい。今日は残業しなかったの―って、何よその顔は、せっかく彼女様が晩御飯つくりに来てやったってのに」

「いや、別に。今日休みとったの?」

「違うの、明日休み取るの。明日母さんの病院に付き添いに行くんだけど、涼の家からの方が実家に近いから泊まろうかと思ったの。で、ご飯を作りに来た彼女に何か言うことは?」

「アリガトウゴザイマス」

「心がこもってないけど、まあいいでしょう」

「唯莉シェフの今日のメニューはなんでしょうか」

「喜びなさい、中華丼よ」

 中華丼、なんとよい響きだろうか。ご飯の上に醤油と生姜、ごま油であらかじめ下味をつけておいた豚のから揚げと、ニンジンと玉ねぎの入った鶏がらと生姜ベースの暖かい餡がかかっているそれを想像しただけでさらにお腹がすいてくる。

そして唯莉が中華丼を用意してくれるということは卵のスープもついてくるということだ。生姜とネギの香りのきいたスープは、紅葉の始まったこの寒い時期にしっかりと体を温めてくれる。夜に体が冷えないというのは、日々の長時間労働で疲れ切った体にはすごくありがたい。

「ほら、風呂の準備終わったよ。あと十五分で入れるようになるから、そのむさくるしい格好何とかして、早く入ってきなさい」

「はい、ありがとうございます」

さて、やりますか、と唯莉が袖をまくって包丁を握る。その姿を横目で見ながら俺はリビングを出た。スーツを脱いでハンガーにかける。シャツは洗濯機に放りこみ、洗ってアイロンをかけてあるシャツを箪笥から出してベッド脇に置いた。

こういう時の唯莉はすごく頼もしいし、正直ものすごく助かる。実家暮らしをしていてはなかなかわからないものだが、待っていたら飯ができて風呂が沸いているというのはものすごくありがたいものなのだ。

そうこうしているうちに風呂が沸いた音がした。ささっと風呂に入って、リビングに戻ってきてお茶を飲む。食器を出して箸を並べて、椅子に座った。

「そういえばさ」

 ふと夢の中であったことを思い出し、唯莉に話しかける。

「俺、海でおぼれたことあったっけ?」

「なによ、突然」

「いや、最近海の中にいる夢をよく見るからさ、幼馴染のお前ならわかるかなって」

 唯莉が料理をする手を止めて少し考える。

「そういえば、昔あったね、そんなこと」

覚えてない?と振り返った唯莉が小首をかしげるが、さっぱり思い出せない。

「むかーしまだ小学生だったころに、アンタが好かれてた女の子―ミキちゃんだったと思うけど、その子と私と、その親たちで海に行って、告白されて断ったら女の子にすごく泣かれて、しょんぼりしながらもって海に入って行って、涼ってば浅瀬で足滑らせておぼれかけたじゃない」

そういえばそんなこともあったような、なかったような。そうだ、思い出した。唯莉がいるからって断って、あの時ミキちゃんは、

『ママが言ってた、人間は海から生まれて海に還るんだって。だから涼くんも海に還っちゃえ!もう知らない!』

と捨て台詞を吐いたのだ。

 今よく考えると暗に死んでしまえと言っているようにしか聞こえないし、親たちもそう思ったのだろう。ミキちゃんは後から親から大雷を落とされていた。

 それで俺はいまだに金づちだし、海の中の夢を見る割には海に実際に行くのは苦手なのか、と納得する。

「あのころから顔だけはよかったからね。性格は悪かったけど」

くすくすと唯莉が笑いながらご飯をよそう。

夢の中でタコが放った『海に還れ』という言葉、どこで聞いたのかと思えばこれのことだったのか、と妙に一人でまた納得した。あの時タコは一番自分に動揺させる効果のありそうな言葉を俺の記憶から引っ張り出してきたのだろうが、肝心の俺は全く覚えておらず、効果は全然なかったのだ。そう考えると、あのタコが少しあわれに思えた。

「ほら、冷める前に食べようよ」

唯莉が食卓に出来上がった料理を並べる。今日の中華丼は上にゆで卵も乗っていた。さすが、彩がきれいである。

「いただきます」

 ご飯でしっかりと体を温めたその日、久しぶりに夢を見た。


 3

 久しぶりに見た夢は、いつも見る海の中の夢ではなく、砂浜に立っている夢だった。

「やあ、夢の手がかりがつかめたようで良かった」

後ろのほうから、シアンとレオン、イザベルが歩いてくる。

「―これは?」

海のほうを指さして問う俺を見て、レオンが笑った。

「お前さんがこの悪夢に打ち勝つ方法を見つけたってことだ」

「悪夢に打ち勝つ?」

レオンがうなずく。

「そうだ。いままで奴はお前のトラウマだと思しきものを利用して悪夢を作ってきた。そしてお前の体力消耗が激しくなったところで、お前を乗っ取ろうという作戦だったんだ。だが、見ろ」

レオンが海を指さし、俺ももう一度海を見た。

「お前の努力によってお前は一週間明確な夢を見なかった。そして、体力をしっかりと蓄え、記憶を整理した。その結果、奴はもうお前に覚えているようで覚えていない、そんな不安定な恐怖を与えることが難しくなり、ゆっくりと倒すことは無理と判断して短期戦に持ち込もうとしているんだ」

「姿さえ表せばこっちの勝ちだよ」

シアンが背負っている大剣の柄に手を伸ばいながら笑う。

刹那、海の水が音を立てて、ヒト型に変化する。それは、まぎれもなく自分のマンションにいるアンドロイドの姿だった。

「あ、あれ―」

「ああ、なるほど、君の乗っ取られた原因、このアンドロイドだったのか」

シアンがあっさりと反応する。

「ど、どういうこと?」

唇が震えてうまく発音できない。

「つまりあのアンドロイドは既に乗っ取られていて、君が寝ている間に緊急救出システムを利用して、家に勝手に入ってきて干渉しているというわけさ」

緊急救出システムと言えば、災害や事故が起こった時に家の鍵をアンドロイドが開けて人間を助けに来るというシステムだ。乗っ取られるとこんな風に悪用されるのか。正直アンドロイドが勝手に家に入ってくるというのは、ただのホラー映画にしかならない状況第二弾である。

「干渉されているということはこちらからも干渉は可能ということ。あのアンドロイドをシステム破壊するのが今回の目標」

「で、俺は何をすれば―」

「ああ、望月さんは頑張って逃げてて。あのアンドロイドが狙ってるのは君だから」

シアンが放った言葉に、血が反応して足の方へスーッと下がっていくのがわかる。

「冗談。あれは僕が倒すから、イザベルとレオンの傍についてて」

さっと二人の後ろに着いた俺を、レオンが気味悪そうな目で見つめる。

「また会ったな。貴様らはどこまで私の邪魔をするつもりだ」

アンドロイドが機械音を混じらせながら喋る。

「申し訳ないけど、邪魔する気しかないかな」

「申し訳ないと思うのなら邪魔をするでない!」

叫び声を残して、アンドロイドが消える。いや、あまりの速さに消えたように見えたのだ。シアンがとっさに後方に跳ぶ。シアンがさっきまでいた場所にけたたましい音を立てながら穴が開いた。

「逃げるな!」

「逃げるなと言われて誰が止まるもんか!」

宙返りしてそのままシアンが大剣を抜いてアンドロイドの背後に回りこむ。そうして風切り音をさせながらシアンは大剣を下から振り上げた。

アンドロイドの負けかと思われたが、そう簡単にはいかなかった。アンドロイドがそのまま大剣を手で止めたのだ。皮膚に模した樹脂の下からのぞく金属と大剣がこすれあってぎちぎちと音を立てる。

 このまま大剣で切ることができないと察したのか、シアンはジャンプして、また後方へと下がった。

「やっぱり剣は苦手だよ」

 シアンがため息をつきながら大剣を握りなおす。そして空中で大剣を一振りした瞬間、シアンの大剣は、杖へと変化した。何やらシアンが呟くと、杖の先から魔法陣とともに水や炎の獣が出る。

美しい毛並みを持ったそれらは、金色や水色に輝く毛並みを風にたなびかせながら、シアンに顔を擦り付けた後、しゃんとアンドロイドを見据えた。そこから数える暇もなく、獣たちはアンドロイドに向かって飛びかかった。飛びかかったところに雷が追い打ちをかけるように落ちるが、うまくアンドロイドが避ける。

「なんだよあれ…魔法…?」

俺が呟くと、イザベルが電子機器のキーを叩きながら口を開いた。プログラミング言語がモニターに並び、画面が真っ赤に染まっていく。

「シアンは、天才なんです。普通の人間は夢を自在に操ることはできませんの。でも、あの子はそれができる。シアンは、夢の中では無敵になれるのです」

アンドロイドが魔法でできた獣を掻き消してシアンに近づくが、空中に飛んで逃げられ、アンドロイドの手がシアンの右足を掠る。

「空を飛べるのが貴様だけと思うなよ」

アンドロイドがしっかりと砂を蹴り、飛ぼうとする。が、突然それは阻止された。

「おとなしく空を飛ばせてもらえると思った?残念でした」

シアンがくすくすと笑う。よく見れば、アンドロイドの足を砂で出来た手が、がっちりとつかんでいた。

「ベル、解体は?」

「今完了いたしました!」

タンッとエンターキーを叩いた音がして、シアンが頷く。そのまま杖を上に振り上げた。

「Hello, world!」

遠くまで響くシアンの軽やかな声とともに、まばゆい光が広がり、思わず目を閉じる。何やらすごい叫び声がして、同時に耳をふさいだ。

「何度でも、何度でも、私は―私はあああぁぁぁああぁ…」

叫び声が徐々に小さくなり、余韻を残してアンドロイドは消滅した。目を開けると、目の前にはただただ、群青色の海が広がっているだけだった。

 シアンが厳しい目をしたまま再び杖を振ると、杖は小さくなって帽子のモチーフに戻った。そうか、どこかで見た杖だとは思っていたが、帽子についていたのかと納得する。

「さて、これでお兄さんの悪夢の原因は消え去ったわけだけど、これからのことはお兄さんに任せなきゃいけない」

「へ?俺?」

シアンに突然呼ばれて間抜けな返事をする。イザベルがその返事を聞いて少し笑った。

「そう。たぶんリョウが目覚めた横には、システムをすべて破壊されたアンドロイドが転がっている。それを片付けるのがお前さんの仕事だな」

レオンが横から口を挟んでくる。ちょっと待てよ。ということは、アンドロイドをシステム破壊した罪は俺が被ることになるんじゃないか?

「だって、仕方がないですもの。私たちが住んでいるのは北アメリカ大陸ですし、望月さんが住んでいるのは日本ですもの。干渉できるのは夢の中だけで、現実の日本のことに私たちが干渉するわけにはいきませんから」

ま、そういうことさ。と、シアンの声が頭の中に響く。

「そういうことってなんだよ」

「お、できたじゃん」

まったく答えになっていない答えをシアンからもらって次の言葉が一瞬行方不明になる。

「最初望月さんが僕らにあった時に、なぜ心が読めるのかと聞いたでしょ。今望月さんも僕の心の声を聴いたはずだ。そういうことさ」

「なるほど―の前に、どうやって片付けろっていうんだよ!」

「そこは望月さんの腕の見せ所さ。もう目覚めの霧も降りてきた。ここで僕らはサヨナラさ」

にっこりとシアンが笑い、奇妙な乗り物のプロペラが回り始める。乗り物が浮いて、地上を離れる。すごい風圧と大きな音に耐えながら、俺は叫んだ。

「もし―、もしもまた、俺が乗っ取られそうになったときは来てくれるか?」

「もちろん。だってそれが僕らの仕事だからね!」

それじゃあ、といって乗り物の内部に入っていったシアンの後ろ姿はただの線の細い女の子で、戦っているときに見たあの厳しい色は既になかった。


さて、目覚めてからが大変だ。と思っていたものの、アンドロイドのことについては、俺は何もする必要がなかった。と、いうのも、どうやらシアンたちはアンドロイドのシステムからDREAMの主要システムの破壊と行動システムの破壊のみを行っていたらしく、DREAMのシステムの断片から何らかのインターネットウイルスに感染したと判断。持ち主の整備不良が原因ということになり、マンションの管理人が怒られるだけで終わった。

あれからあの海中の夢は見ていない。あの夢はあの夢で好きだったのだが、悪夢を見るよりかはずいぶんましだと思って諦めたことにしている。

ちなみに、あのあとDREAMについて調べては見たものの、インターネットをいくらあさっても出てこないということは、シアンたちの大きな嘘だったのか、それとも国家機密とかそういう、実は他言しちゃいけないものだったのかと俺は思っている。

どちらにしてもほかの人に話しても洞話だと思われるだけだろうから、俺はこの夢のことを誰にも話さないことにしている。

そのうち、何年かたった後に唯莉にならまあ、話してもいいかもしれない。どうせまた嘘をついて、と笑われるだけかもしれないが。


 4

目を覚まして最初に見えたのは、インルームのいつもの天井だった。時計は既に二十三時を指している。

「ベル、レオン?」

二人の名を呼ぶが、返事はない。仕方なくシアンは立ち上がり、インルームを出た。

秘密結社ミュール。表向きは秘密結社だが、実際は国の組織であり、国家機密、特にDREAMに関係することの研究を行っている。最近は特に、DREAMにのっとられる前に人間を救出する任務を請け負うことが多い。

任務を遂行するためにはその乗っ取られる可能性のある人間の夢に入らなければならない。人間の夢に干渉し、自分も同じ夢に入ることをワールドインと呼び、ワールドインするため、眠りにつく部屋のことをスリープインルームと呼ぶ。先ほどシアンのいた部屋そのものである。

「眠る時間が、長くなってる」

腕時計を見て、誰もいない廊下を歩きながら、ポツリとシアンは呟いた。

日本との時差は約十二時間。眠りについたのがお昼過ぎ、ワールドインしたのは十五時くらいで、おそらくワールドアウトしたのが十八時から十九時の間くらいだ。そこから今の時間まで単純に寝ていたことになる。

 以前はこんなことはなかったし、通常はワールドアウトして三十分前後で目覚める。それがこんなに長引いているとなると、今回はよほど体に負担がかかったのだろう。

「シアン!」

 遠くからイザベルの声が響き、イザベルが走ってシアンの元へやってくる。

「やっと目が覚めたんですね。体の不調とかはないんですの?」

「今のところはね。ただ、今月はもう百二十時間を超える勢いでワールドインをしているから、どうなるかわからない」

 他人の夢に干渉するのは脳と体にとてつもなく負担がかかる。特にシアンは戦闘能力に長けているため、戦闘を任され、さらなる負担を強いられることが多い。一つの目安として百二十時間を超えるワールドインは過労死ラインとされている。まだ月半ばなのに、それを超える勢いというのだから、そこからしてシアンがどれだけ引っ張りだこか良く分かる。

「まあ、無理はしないでくださいね」

「うん、ありがと」

 シアンは笑って再び歩き始める。向かう先は施設長室にいる兄、ユアン・ミュールの元だ。

 ノックして施設長室に入る。相変わらずの堅苦しい雰囲気に威圧されながらシアンは扉を閉めた。

「おかえり。今回はどうだったんだ?」

「別に、変わったことはなかった。それより夕日は?」

夕日という名前に、ユアンが反応する。

「特に変わりもないよ」

「怪しい薬とか入れてないよね?」

「俺がそんなことをするとでも?」

「わざわざ日本にいる血のつながった妹を探し当てて、拉致して自分の管轄の組織で働かせるくらいですから。何するかわかったもんじゃないね」

「拉致とは口の悪い。まあ、似たようなものだし、確かに、その通りだな」

ユアンがくっくと笑い声を立て、最後にため息をついた。

「言いたいことはそれだけか?」

「そうだね、それ以上お前と喋ることなんてないよ」

そう言ってシアンは大きく音を立てて扉を閉め、施設長室から出ていった。

 シアンの歩く音が廊下に響く。

 生き別れた妹を探している。ユアンは初めて会った時にそう言った。日本人離れした青い目、茶髪、そして思い出される母の容姿。兄と名乗った私と同じ色の目をした青年は、母親が自分が幼いころに妹を連れて突然いなくなったのだと言っていた。だからずっと妹を探しているのだと。会いたいのだと。そう言った。

確かに、母は日本人ではなかった。母の写真を見せると、彼は俺の母親だ、確かに君は俺の妹だと言い切った。

そこからは速かった。養父母は騙されたように当時十歳にもならなかったシアンをあっさりとユアンに引き渡し、シアンは渡米した。いや、正確には渡米させられたのだ。

医療棟と書かれた壁をまがって医療棟に入り、そこから迷うことなく五〇二号室へとシアンは入った。

暗い部屋の中で、電子音がピッピッとただ音を立て、マスクからシューと呼吸音が響く。ベッドの横にシアンが座り、その横たわっている青年をそっと見つめた。

「相変わらず、だね」

 シアンが青年に語り掛けるが、青年から返事はない。

「夕日、いつになったら目を覚ましてくれるの?わたし、もう、やだよ」

シアンの目から、涙が零れ落ちる。

 ベッドの横の札には、向井夕日という名前と、ドリーミングシンドロームという病名が書かれていた。つまりは、彼は助けるのが遅かったせいで、DREAMの電気信号が中途半端に脳の中に残っていて、悪夢から逃れられず、ずっと夢を見続けるだけの存在となってしまっているのだ。

「藍良、やっぱりここにいたんだな」

レオンがシアンを日本にいたころに使っていた本名で呼びながら入ってくる。

「その名前は、夕日がもう目覚めないかもしれないと知った時に捨てた。だから呼ばないで」

「―すまない」

レオンが静かに謝る。

「目覚めさせる方法は、見つかったのか」

 問いに対してシアンはゆっくりとかぶりを振った。

「渡米して、この組織に入って、夕日がDREAMに襲われて…。目覚めないと知って、手がかりをつかもうと、動き始めて、もう、三年か」

お前さんも苦労してるな、とレオンが言う。

「お兄さんは?」

「あいつは兄なんかではないし、あいつとは無駄に口をききたくない。それに、夕日をこちらに連れてきてもらえただけで十分だ。普通の病院では、面倒を見切れないだろうから…それだけはあいつに感謝してる」

「そうか」

レオンが、呟くように薄く言った。そっと、夕日の手をシアンが握る。

「わたしが、絶対目を覚まさせる方法を見つけるから。それまで―置いて往かないでね」

 握った夕日の手は、少し暖かかった。


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