3.独白は桜の前で


 むっとした風が窓から部屋へと流れ込んでくる。夕立が近いのだろうか、濃い水の匂いがした。

「暑いですね」

下がってきた眼鏡を押し上げながら似鳥さんがつぶやいた。

「―クーラーつけましょうか?」

その言葉を待っていたのだろう、彼女は少しうれしそうな声を上げた。

「窓を閉めますね」

似鳥さんが立ち上がって窓を閉める。そしてまた彼女はいつもの定位置に座る。私はクーラーのリモコンを取り、電源を入れた。

「あとどのくらいで終わりそうです?」

ずっと動かし続けていた手を止めて振り返った。

「そうですねぇ…あと三百字くらいですかね。十分もすれば終わりますよ」

そう言って私はまたパソコンに向きかえり、文字を打ち込み始めた。冷たい風がクーラーから流れ込んでくる。

「そういえば、二宮…もとい八幡先生のほうはどうなんですかね。またスランプだって話を聞きましたけど」

 そうだった。彼女は私の旦那である小説家八幡誠司の元担当だ。今は私、八幡美音の担当だが。

「あの人は万年スランプですし…。でも、スランプから戻るたびに出す小説は飛ぶように売れるものですから、私もそうなりたいものです」

苦笑する私を見て似鳥さんが笑った。

「そうですよね、《桜の咲く夜に》だってスランプから抜け出してすぐで、あっという間に増刷増刷で、すごい勢いで売れていきましたもんね」

まあ、わたしとしてはうれしい限りですが、と似鳥さんの眼鏡が怪しく光る。

苦笑いをしながら印刷ボタンを押して原稿を印刷する。数十枚に及ぶ原稿が印刷され、赤ペンを持って私は立ち上がった。

「さて、原稿チェックのお時間です」

ばさっと低いテーブルの上に原稿を並べ、座椅子に腰を下ろした。きゅっと赤ペンのふたを取る音がして、似鳥さんが原稿とにらめっこを始める。

 ざっと三十分経っただろうか。横にアイスコーヒーを置いたことにも気づかず、しばらくしかめ面で原稿をみつめ続けていた似鳥さんがようやっと顔を上げた。

「はい、このページのこの表現、くどいです。いっきに消しましょう。それからここは漢字が間違ってます」

白と黒だけだった原稿が赤く染まっていく。軽く遠い目になりそうになるが、ぐっとこらえてまたパソコンでの打ち込み作業に戻った。

窓の外で、雨の降る音がした。ふと顔を上げると夕立が降っている。

そういえば―と似鳥さんがアイスコーヒーを飲みながら言った。

「今回の短編集である《夕景に染まって》のテーマって、題名通り夕景ですよね。なぜ夕景なんです?」

 背伸びをしながら思いっきり背もたれに向かって反り返る。

「私が、桜と夕景が大好きなんです。とくに、お気に入りの公園から見える夕景はすごくきれいで。まあ、わたしが海町出身ということもあるんでしょうけど」

「じゃあ、主人公の名前は?」

「ごく単純な理由です。赤坂美音の最初と最後の文字ですよ。で、女の子の名前だし、赤よりは紅のほうがいいかと思いまして」

似鳥さんがなるほど、と感嘆の声を上げる。

「ところで、なんでそんなわかりきった質問をするんです?」

似鳥さんが少し苦笑いをしたのを私は見逃さなかった。

「どうせまた、対談をするための下調べにって質問用紙でも貰ってきたんでしょう。」

あはは、と似鳥さんが乾いた笑いを発した。アタリなのだ。

「まあ、もう別に気にしませんけど。ほかに何の質問が来てました?」

「えっと、今回特に目を引く話である《小麦色の髪と夕景》に関してです。なぜこんな話を書こうと思ったのですか」

 打ち込み終わり、手を止めて私はまた座椅子に腰を下ろした。

「そうですね。生前、私の祖父がよく言っていた言葉がありまして…」

水出ししたコーヒーを自分のコップに継ぎ足す。結露した水が、コースターの上に落ちた。

「人間は生きることを深く考えすぎだ。もっと単純に考えるべきだ。大切なものが一つあれば、人間は生きられるって」

すっかり雨の止んだ外を見ながら、私はあの日の言葉を口にした。

「いじめや、差別、自分を嫌っている人が自殺する。そういう人が年々増えていく世の中で、今必要な言葉はきっとこれではないのか、って思ったんです。そんな言葉は、きっといつの時代でも通用するんじゃないかって」

似鳥さんがメモを取っているのを横目に、私はデータをパソコンからUSBに移して似鳥さんの目の前に置いた。

「原稿のデータです」

メモを取り終わった似鳥さんがUSBを丁寧に巾着袋に入れて鞄に突っ込んだ。そのまま玄関に向かい、お邪魔しましたと一礼する。

「最後に、私個人からの質問ですが、音紅はあのあとどんな人生を送るんでしょう」

玄関前の共同廊下から見える夕日を眺めながら、似鳥さんがつぶやいた。

「きっと、アセビのような人に出会えると思いますよ。一生懸命に頑張っていれば、必要としてくれる人はいずれ現れますから」

エレベータの下まで似鳥さんを送っていく。すぐ横には緑青に染まった桜の木。

ふと自動扉の開く音がして、振り返るとそこには誠司さんが立っていた。

「似鳥さんはもう帰った?」

担当を外れてなお、似鳥さんに苦手意識を持っている夫を見て、私は笑った。

「ついさっきね。似鳥さんたら、貴方のことを気にしていたみたい」

そっか、と誠司さんが困ったような嬉しいような笑みを浮かべ、私と同じように桜の木を見た。

「出会ったあの頃の話を、少ししてもいいかな。ほとんど独り言のような、他愛無い話だけど」

 この人が自分のことを語ることは少ない。私が返答しかねているうちに、彼は少しずつ、小説では書いていないことも含めて話し始めた。

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