4.桜の咲く夜に
何も取り柄がなくて、いつもいじめられてばかりだった。自分の気持ちをちゃんと伝えられない。友達なんか、居たことすらなかった。コミュ障で、協調性も平等性も向上心もない、なんて言われ続けてきた。
でも、文章を書くことだけは好きだった。得意じゃないけど、好きな物。それだけを、楽しみにして生きてきた。そんな僕に舞い降りてきた話が一つあった。
『この度は幸文社の新人賞の優秀賞をみごと受賞されました。』
そう―、僕が書いた小説が新人賞を受賞だ。試しに書いた小説が受賞したのだ。
初めての僕の居場所。小説家という名のたったひとつの居場所。僕の才能が認められて、存在価値ができたんだって素直にうれしかった。
それから約半年。僕は今―、スランプにハマっていた。
パソコンで打ち込みながら、何度も違うと思って削除する。その繰り返しで、とてもじゃないけど、締め切りには間に合いそうにない。
いきなり携帯電話の音が鳴り、驚いてイスから落ちた。ガタガタっとすごい音をたてて尻餅をつく。
「あだっ!」
僕は結構痛むお尻を摩りながら電話に出た。
「やーっと出ましたね!八幡さん」
電話の向こうで僕の担当である似鳥さんが言う。
「要件はなんですか?似鳥さん」
こっちは今、締め切り一ヶ月前でたたでさえピリピリしてるのだ。
まだ出来上がってるはずの土台もしっかりとできていないのだから。
「そういう言い方はないんじゃないですかー?」
ムッとした声で似鳥さんが言う。
「で、要件は?」
これが八つ当たりだと分かっていても、なかなか止められないものである。
「締め切り、一ヶ月後ですよね。間に合いそうですか?」
何が間に合いそうですか?だ。
「いいえ。まだぜんっぜんです」
ぶっきらぼうに答える。
「そうですかー。ま、急いでくださいね。こちらも忙しいですから」
ガチャンと電話の切る音が携帯のむこう側から聴こえた。余計なお世話だ。
こういう時はほっといてくれた方が一番いいのに、とは思いつつも口には出さない。面倒事をこれ以上増やすのも嫌な話だ。
机の端においていたコーヒーを飲もうとしたが、コーヒーは既に冷えきっていた。いつの間にそんなに時間がたっていたのか。あれほどの空腹さえ、今は感じられなかった。
あの頃の指が勝手に進んで行く感じはどこに行ったのだろうか。僕はもう、用無しの状態なのではないだろうか。そう思った途端、すごく怖くなった。
玄関の鍵を閉めて、外に出る。もう外はだいぶあったかくなっていて、前よりも春らしくなったように感じられる。桜の蕾が膨らみはじめ、夕焼けに染まっていく空の反対側には、薄い色の月が浮かぶ。
僕はいつも通り公園のブランコに座って、空を眺める。いじめられた日も、叱られた日も、こうしてここに座ったものだ。もしあの頃に戻れたら、僕は今よりももっといい大人になっていたのだろうか…。
昔の記憶というのは、なかなか頭から離れないものだ。
ふと、人の気配を感じて横を見る。
「隣に座っても、いいですか?」
セミロングの綺麗な髪をした女の子が、僕に話しかけた。
「あ…ど、どうぞ」
変に緊張しながら、僕は答えた。隣を見ると、その女の子も僕と同じように空を眺めていた。ほんの少しうつむいて、上唇を噛み、また空を見上げる。その目には、悲しみとも怒りとも言えない何かがあった。
「あのー…」
思い切って声をかけてみる。
「何かあったんですか?」
女の子が驚いた様子でこちらを見る。
「いえ…その…お話、してもいいですか?」
女の子は少し戸惑って、それからそう言った。
「なんでも聞きますから、どうぞ」
微笑みかけて僕はそう言う。
「最近ついてなくて…もう専門学校も最終学年なのに就職先なかなか見つからないし…彼氏とは別れちゃうし…」
空を見上げたまま、女の子はそう言った。
「就職先はともかくとして、彼氏にはつらい思いさせてばっかりで…私は自分勝手なことばかりして…」
そう言った瞬間、女の子の目から涙がこぼれる。
「私、バカですよね。初めて会った人に、こんなこといって…。ごめんなさい」
そう言って、女の子はうつむく。口元を抑えて、必死に嗚咽をかみ殺して。こんなとき、どうしたらいいか。女の子と付き合ったことのない僕は初めて出会うこの光景に、ただただ戸惑うだけだった。
とりあえず、ハンカチを出して渡す。
「…僕、なんて言っていいか分からないんですけど…きっと大丈夫ですよ」
すん、と鼻を鳴らしながら女の子がこちらを見る。
「あの、ほら、恋人とかって相手を支えないといる意味ないじゃないですか。そんな支えにならないような人、別れて正解だと僕は思います」
きっぱりとそう言って、自分が言った言葉の意味に気づき、すみません、と謝った。
「なんか失礼なこと言っちゃってほんとすみません。今の、忘れてください…」
今の自分の顔を、見られたくなかった。とっさに下を向いて目をつぶる。また、何か言われるに違いない。昔のように…。けれど隣から聴こえてきたのはかなり抑えた笑い声だった。そーっと隣を見ると、女の子がうつむいたまま、背中を震わせて笑っていた。
「ありがとうございます。良い人なんですね」
その子が目元に残った涙を吹きながら微笑む。他人にお礼なんて…久しぶりに言われた…。
「あ…えと、こちらこそ…」
その様子がまたおかしかったのか、女の子が笑う。つられて僕も笑う。ひとしきり笑ったあと、女の子は真面目な顔をしてまた空を見上げた。
「私…小説家になろうと思ってるんです」
思わず驚きの声をあげる僕を見て、女の子はくすくすと笑った。
「そんなに驚くことですか?」
「いや、すみません」
こっちも苦笑しながら謝る。
「別に、謝る事じゃないと思いますよ」
ふ、とまた女の子は真面目な表情に戻った。
「二宮誠司っていう小説家さん、知ってますか?」
知ってるも何も、それが僕の小説家としての名前だった。
「私、その人のファンなんです」
目を見開いたまま呆然とする僕を置いて、すっ、と女の子は立ち上がって、近くの見晴らしの良い坂の方へ行く。若干間を置いた後、僕は我に返って、女の子の近くへと移動した。
「すごいですよね。わずか二十二歳でデビューだなんて。そのデビュー作で既にベストセラー作家に仲間入り決定。私と三つしか変わらないのに。デビュー作なんて、とてもきれいな文章で、透明感のある物語。素敵で、吸い込まれるような小説でした」
それにくらべて私は―、とまたうつむく。
「あ、あの、落ちこんじゃダメですよ。デビューしたから小説家なんじゃなくて、毎日小説を書き続けてる人が小説家なんだって…僕は思います。あ、いや、これはある本の受け売りなんですけど…」
あわてる僕を見て、少し女の子が笑う。
「ほんと、優しいんですね」
月明かりが女の子の顔を照らす。笑った顔がとても綺麗だった。
「えと…また会いたいんですけど、名前と電話番号、いいですか?」
女の子がそのまま携帯をポケットから出す。
「あ…ああ、八幡誠司です」
僕の電話番号とメルアドを聞いて携帯に打ち込み、女の子は笑う。
「八幡さんって、名前の漢字、二宮先生と一緒なんですね」
いや、名前だけじゃなくて本人なんだけどな…。
「私、ミネって言います。赤坂美音」
よろしく、と握手する。
「八幡さんは何か仕事してるんですか?」
少し考えて腕を組む。
「いや、僕も小説家目指してるんです。とりあえず、幸文社あたり目指して」
このまま彼女には、事実を隠しておいた方がいい気がした。
「じゃあ、私も幸文社に応募しようかな…」
赤坂さんが背伸びする。
「まあ、好きなところ受けたらいいんじゃないですか?」
チラ、と赤坂さんがこちらを見て、首を振る。
「私も八幡さんと同じところに応募します。そのほうがなんか安心だから」
じゃあ、と赤坂さんは手を振って公園の階段を降りる。
「あの、一人で大丈夫ですか?」
くるりと赤坂さんが振り返る。
「うち、近所なんです。大丈夫ですよー」
また今度と言って、赤坂さんは階段の下のほうへ消えて行った。くしゃみが思わず出る。暖かくなったと言っても、夜はまだ風が冷たい。特に、この海辺の街の海風は冷たかった。下へ降りればビル風と重なり一層風は強くなる。この季節独特の肌寒くなるような風に当たりながら早歩きで家に帰る。
あんなに楽しそうに、本について語る人、初めて見た。一つ一つの言葉が、僕の頭の中で反響して、染みこんでゆく。今ならなんだか、書けそうな気がした。気がするだけかもしれないが、それでも試してみる価値は充分にあった。
締め切りまで一か月。その間に仕上げるなんてなんて絶対に無理だと思っていた。しかし、ネタと自分の集中力が続けば、意外とかけるものなんだな、と久しぶりに気付かされたような気がした。
「ふーん、なんか、文章変わりましたね」
似鳥さんがニヤニヤしながら原稿を見る。
「八幡さんにしては珍しい、自信たっぷりの文章ですよね。しかも恋愛ものだなんて。何かあったんですか?」
メガネがキラッと光り、正直怖い。この人に話すとうわさがあっという間に広がり、尾ひれがとんでもない長さになって僕の耳に帰ってくることも多々ある。だから僕は似鳥さんが苦手だし、この人には余計なことは話さない方が無難だと思う。
「別になんにもありませんけど?締め切り間に合いました。これでいいですよね?」
無難そうな返事をして立ち上がり、事務所のドアのドアノブに手をかける。
「まって!」
似鳥さんが立ち上がり、呼び止める。
「新人賞のときのあの小説、続編出さないかって声かかっているんですけど、どうしますか?」
その場に立ち止まって考える。
「…いつまでに決めればいいですか?」
そう言うと、似鳥さんの顔が明るくなった。
「一週間くらいでどうですか?」
キラキラとした好奇の目で見られる。
「分かりました。考えておきます」
そう言って僕は事務所から出た。
「あ…」
ふと、と新人賞のときの小説を思い出し、問題が一つあったことに気がつく。
「あの小説、完結するつもりで書いたんだった」
それも、自分にとって最高の結末を書いたのだ。そうそう続編が書けるものではない。そうだ、スピンオフにすればいい。早速携帯でメモを取ろうとし、携帯を取り出した瞬間、メールの着信音がした。赤坂さんからだった。
『八幡さん。夜八時に、あの公園で待っています。時間が空けばでいいので、会ってくださいませんでしょうか。』
こういうところだけは相変わらず律儀な人だなぁと思いつつ、返事を打つ。赤坂さんから、誘いのメールがくるのは珍しかった。
送信ボタンを押して、落ちてきた眼鏡を軽く押し上げてため息をつく。桜が散りはじめ、道には花びらが散らばっている。桜の咲き具合は、むしろこのくらいのほうが好きだった。
待ち合わせ時間十分前。これでも急いできたのだが、赤坂さんは先にもう、ブランコに座っていた。
「待ち……った?」
以前会ったときに、敬語は使わないでくれと言われたのを思いだして途中で言い直す。
「ううん。全然」
一ヶ月前のあの日のように、赤坂さんは僕を見る。もうすでに、彼女の目には少し涙がたまり始めていた。
あせりつつ僕は赤坂さんの隣に座った。
「何かあったの?」
赤坂さんはこちらを向いて、かすかに頷く。
「うん…嬉しくて、悲しいお知らせかな」
そう言って赤坂さんは、空を仰いだ。
「デビュー、させてもらえることになったんだ。担当さんがちゃんとついて、もう少しですから頑張りましょうって言ってもらえたの」
けど、と驚いている僕に見向きもせずに赤坂さんは話を続ける。
「スランプにはまっちゃったみたいで…」
赤坂さんは、あはは…と力なく笑い、そのままうつむいた。
「やっぱり向いてなかったんだと思うの。ただ二宮先生と同じ景色が見たかった。それだけで小説家目指しちゃダメだったんだよ。きっと」
八幡さんは?と赤坂さんは目に滲んだ涙を拭いて顔を上げる。
こういう時、年下の女の子にはどういう言葉をかけてあげたらいいのだろうか。数秒の間黙り込む。いくら考えても答えは一つで、もう、隠しようがなかった。これ以上隠すのは、僕の身が持たなかった。
「僕も…お知らせというか、隠してたことがあるんだ」
赤坂さんは首を傾げ、こちらを向く。その何気ないしぐさに、少し罪悪感をあおられる。
「小説家の…二宮誠治は、僕なんだ」
赤坂さんが軽く声を漏らす。
「一ヶ月前のあの日、僕もデビューしてから間も無くてさ。ずっと小説が書けなかった」
まあ、今だって駆け出し作家だけどさ、と僕は笑う。
「自分が何を書きたいか、何のために小説を書いてるか、わからなくなって…考えれば考えるほど沼に沈むみたいに答えが見えなくなって…」
なにかピンときた様子で、赤坂さんがこちらを見た。
「ずっと悩んでる自分にイライラして、当たり散らして。あの日、僕は気分転換にここに来た。そこで、君に出会った」
赤坂さんのほうを向いて言う。
「君の無垢な感じとか、僕もそうだったなって思わせるところがあって…初心忘るべからずってこう言うことなんだなって思った。それに、こんなにも近くに僕の本を読んでいてくれる人がいるなんて思わなかったんだ。増版決定なんて言われても、ピンと来なかったし、どこかで読んでくれている人なんていないんじゃないかって思ってた」
星の瞬く夜空を見上げながら、そう言った。
「あの日、スランプって何が理由でなるか、分かった気がするんだ。もちろん、成長過程でのスランプというものもあるけど、僕の場合は、きっと、自信が足りなかったんだ。読んでくれるかもわからないような小説を書いたって意味がないと思って、面白くなければ意味がないと思って。でも、そんなことを気にする必要はなかったんだ」
星が流れる。本音を語る声が、震える。
「自分の書きたいものを書けばいいんだ。それで文句を言われたって、それが僕の文章だって、自信をもって言える作品は、きっといい作品になる。それに、君の読者はここにいるんだ。自信をもって。赤坂さんも大丈夫だって僕は信じてる。あの日の僕みたいに書ける日がくるよ。だから…」
そう言いかけて、僕は言葉を切った。赤坂さんの目から、涙がこぼれ落ちる。
「ご…めんな…さい…」
嗚咽を堪えながら赤坂さんは言う。
「あ、謝ることないよ。ほら、僕だってデビューしてそんな立ってないんだし、こんなこと言える立場じゃないしさ」
慌てて慰める。相槌をうちながら、赤坂さんは涙を両手で拭った。
「うん。あ…りがと…」
切れ切れに赤坂さんは言う。
「僕も、赤坂さんに出会えなかったらスランプ抜け出せてなかったから…。その、ありがとう」
そう言って、僕はブランコから立って赤坂さんを抱きしめた。糸が切れたように、何かが決壊したかのように、赤坂さんが泣く。僕はその間、ずっと赤坂さんを抱きしめていた。
5
平凡で、特に何もない日々。僕にとっては、これが一番幸せだった。相変わらず僕は小説を書き続け、今の収入では今後これから、二人になる生活に不安を感じていたので、就職もした。
「誠司さーんっ!」
遠くから、美音の呼ぶ声がした。ふと後ろを振り向くと、スクランブル交差点の向こう側で美音が手を振っていた。
「誠司さんってば全然気づかないんだからー」
ふてた顔をして美音が言いながら、右隣に美音が立つ。
「ごめんごめん。新作出来たから気分浮いてて。」
ごめん、この通り!と顔の前で手を合わせて謝る。その様子を見て、美音はくす、と笑った。
「それは別に良いんですけど…今回の二宮先生の新作ってどんなの?」
キラキラとした目でこちらを見てくる。
「んー…そうだな、コミュ障の小説家の男性が、小説家を目指す女の子と出会う話」
ぱぁぁあっと美音の顔が一気に明るくなる。
「なにそれ!すっごく楽しみ!」
っていうか、気づけよ、と思うが口には出さない。
「なんていうタイトル?」
美音が自然を装って手を絡めてくる。まだ慣れないその手の感触をゆっくりと感じながら、僕より小さな手を黙って握りしめた。薬指にはまった婚約指輪の金属独特の冷たさが少し僕の浮かれた気分を助長させる。
「まだタイトルは決めていないんだ」
「それ、仕上がったって言わないんじゃない?…まあ、いいや」
美音が頭を傾けてぴったりとくっつき、こちらを見上げて少し、優越感に浸ったような顔で笑った。僕もつられて少し笑う。
のちにこの新作は《桜の咲く夜に》というタイトルで売り出される。そして販売開始から増刷され続け、ロングセラー小説の仲間入りを果たすこととなる。
僕が書いたその物語は、今でもいろんな人々に愛されている
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