夕景に染まって
1.小麦色の髪と夕景
電車がレールのつなぎ目の上を通るたびに、少しだけ揺れる。異常気象が当たり前となったこの世界で、今日は珍しく晴れていて、なんとなくだけど、それがとても、気に食わなかった。
どこへ行くにも異常気象はついてくる。二十三世紀、海面が上昇して陸地が少なくなった時代。日本ももちろん例外ではなく、結果として人口は三分の一に減少、私たちは小さくなってしまった国土を少ない人数で守りながら暮らしている状態だった。
「残った私たちで地球を守りましょう…ねぇ。いったいこうなったのはだれの責任だと思ってるんだか」
深いため息をついて殆どだれもいない電車の中でつぶやく。
学校に行く気なんて起きないし、ましてや家に帰る気もない。もう今日はこのまま終点まで行ってしまおうか、なんて危ない考えが浮かぶ。学校に行ったってなにも楽しいことはない。陰口をたたかれて、いつの間にか体操服や靴が消えていて、そんなことを誰に話しても信じてなんかもらえない。家に帰ったって同じだ。仕事ばっかりでろくに会話も交わさなくなった両親。反抗期に入って私のことを疎ましく思っている妹。そんな人たちしかいない家にいる理由なんてあるのだろうか。
正直、私の代わりなどどこにでもいるのだろう。どこに私の生きている意味があるのだろうか。
いつも降りる駅を通り過ぎたことをアナウンスが告げ、トンネルの先に海が見えてくる。時刻は十八時三十五分。次の駅で折り返そうと思っても、田舎のこの辺りは特に汽車の本数は少なく、次は終電から二十一時すぎに発車するものしかない。なら、いっそこのまま本当に終点まで行ってしまおう。海を見て、散歩して、楽しんで帰ろう。そう思って、私は立ち上がるのをやめた。
普段この路線を利用している人でも、終点まで行くことはなかなかない。むしろ、終点まで行く客の方が珍しいくらいだった。
終点に近づくにつれ、一人、また一人と客が減っていく。終点まではまだ五つも駅があるのに、すでに電車の中に残った客は私だけだった。
アナウンスがドアに手を挟まないように、と注意を促し、ドアが音を立てて閉まった。少し頭をかきながら、読みかけの本を開く。どこに行くにしても、暇なのは変わらないな。
そう思って、少しだけ苦笑した瞬間だった。
「ねぇ、お姉さん」
若い声がした。いや、若いというよりは幼いと言った方が正しいだろう。開いたばかりの本から顔を上げると、さきほどまではいなかった十歳くらいの男の子が立っていた。
「隣、座ってもいい?」
少年の小麦色の髪が、太陽の光を浴びてキラキラと光る。少年の整った顔立ちが髪の色と合わさって、どこか異国にいるような雰囲気を出していた。
「ほかにも席、空いてるよ」
私の声が、冷たく告げる。そこまで意識していないからわからないが、目もおそらく好意的でなかったに違いない。
しかし、少年は怯まなかった。
「ボク、お姉さんの隣に座りたいの。それとも、隣にだれか座る予定なの?」
少年の白藍色の濁りのない瞳が私をじっと見据えた。こういう目は、あまり好きじゃない。心の中を見透かされているようで…好きじゃなかった。
ため息をつきながら、少年側にあった荷物を反対側に移動させる。
「座れば?」
私の態度に、少年が少し微笑みながら隣に座った。
「ありがとう、お姉さん」
少年がにっこりと笑って私に言う。
「礼を言われるほどのことはしてない」
少年の感謝の言葉を短くバッサリと切る。が、少年はやはり、怯む様子を見せなかった。
「お姉さんの名前はなんていうの?」
好奇心に満ちた声が狭い車内に響く。
「ネク…藤野音紅」
「音紅さんかぁ…素敵な名前だね」
「あんたは?」
不意を突かれたように、少年がきょとんとした。
「あんたの名前、聞いてんの」
こういう会話、イライラする。
「ボクの名前はアセビ」
アセビ―ツツジ科の有毒植物…だったはず。漢字では馬酔木と書く。少年の親が何を思ってこの名前にしたのかは知らないが、本来子供に植物の名をつけるのはあまり縁起が良くないし、そもそも有毒植物の名前を付けるなんて、私にはあまり考えられない感覚だった。
「ねぇ、自分の名前の由来とか、ちゃんと知ってんの?」
「知ってるよ。藤野さんがボクの名前に好感を持てなかったように、ボク自身もこの名前、好きじゃないんだ」
ずっと笑っていたアセビの顔が、少し曇り始める。まずい、ちょっと踏み込んじゃいけないところに踏み込んじゃったかもしれない。
「―ご乗車ありがとうございました。次は、終点、四海駅、四海駅です。お降りの際は、お忘れ物の無いように―…」
しばらく無言が続いた後、いきなりアナウンスが響いた。思わずびっくりしてしまい、立ち上がる。
アセビはいまだそこに座ったままで、表情も暗いままだった。
「終点だけど、降りないの?」
話しかけてみるが、アセビの反応はない。
「アセビ?」
呼び捨てでよかったのか、あだ名をつけて呼んだ方がよかったのか。名を呼んでからも反応のないアセビを見て、私はどうでもいいことで悩んだ。
不意にアセビが顔を上げて、こちらをじっと見た。
「藤野さんも、ここで降りるの?」
「ここが終点だからね」
私のため息を聞いて、アセビがまた、うつむき、無言で立ち上がった。
電車から降り、ホームに立つ。むあっとした真夏日独特のあの暑い風が私の頬を撫でた。吹き出る汗を軽くシャツで拭った。
「ねえ、藤野さん」
アセビがうつむいたまま言う。
「何?」
「ここの先にさ、ボクのお気に入りの場所があるんだよ」
「だから何?」
少し間をあけて、顔を上げたアセビがにっこりとほほ笑んだ。
「少しだけ、一緒に来てくれない?」
「なんで?」
「別に…藤野さんの気晴らしになればなぁって思っただけ」
アセビが少し悲しそうな顔をする。すこしだけ、罪悪感がした。
「わかった。連れて行ってくれる?」
「うん!」
一気にアセビの表情が明るくなる。
「藤野さん!こっち!」
アセビがホームを出てすぐの山に向かって走り出す。四海駅周辺は海と山が近く、また山が残っている貴重な地域だ。山に勝手に入ると怒られるような気がしたが、どうせどこにいても怒られるのだから、と気にしないことにした。
がさがさと音を立てながらアセビがぐんぐん前に進んでいく。
この子は、どういう経緯でここにいるのだろうか。私と同じように、現世に嫌気がさしたのか、それとも元からここが好きでここにきているのか、ほかに行く場所がなくなったのか。詮索するのも、散策されるのも好きではないけれど、とても気になった。そもそも他人に対してこんなに興味を示したのも久しぶりだ。
考え事をしているうちに、大分山の奥の方まで来たらしい。政府の土地である印の黄色の進入禁止のテープが見えてきた。
「藤野さん、ここの奥にお気に入りの場所が―」
「ちょっと待て!」
おもいっきりテープを潜り抜けて山奥に入ろうとするアセビを制止する。
「ここから先は政府の管轄だし、このテープの先に入っちゃダメ!」
「えー、ケチ」
「ケチでもなんでもダメなものはダメ!」
むっすりとアセビがふてくされる。
「しーらない」
さっと私の腕をかいくぐり、テープの先へとアセビが進む。
「藤野さんもおいでよ。この先の景色が見られないのは、一生を無駄に過ごしているのと同じだ」
くるりとアセビが踵を返して奥へ奥へと進んでいく。このまま一人でここに残されても帰り道がわかるはずもなく、私はしぶしぶテープの下をくぐり、アセビの後ろをゆっくりとついていった。
一歩踏み出すたびに息が切れる。運動不足というのはこういう時に自分の体を苦しめてくるものだ。もっとも、だからと言って日ごろから運動をするように心がける気にもならないが。
「ほら!もうちょっとだよ!」
アセビが遠くから声をかける。子どもの体力は底なしという言葉が頭に浮かぶ。全くその通りである。
「もうちょっと!もうちょっと!」
「ちょっと黙ってて!」
せかす声にイライラしてつい怒鳴ってしまう。が、アセビは笑うだけだった。
「大丈夫だよ。藤野さんなら」
アセビが駆け寄ってきて手をつなぐ。その手は小さくて、暖かかった。
一歩一歩をゆっくりと踏み出す。
「ほら、藤野さん見て!」
アセビに言われたとおりに前を見る。そこには、いまだかつて見たことのないほどの、綺麗な海と、夕日が見えていた。足元を見れば、サギソウが咲いている。
不意に、頬を熱いものが伝った。とめどなく流れるそれは、止めようと思ってもなかなか止められなかった。アセビが、手を握りなおす。私もその小さな手を握り返した。アセビは、私が泣きやむまで、ずっと隣で、手をつないでいてくれた。
「私さ、家にも学校にも居場所がなくてさ」
「うん」
「誰にも必要とされていない気がして、生きる意味もない気がして」
「それは…さみしかったね」
「うん…さみしかった」
はじめて、自分の気持ちを肯定された気がした。
「藤野さんは、生きてなきゃだめだよ」
私はその言葉に反応することができなかった。ただただ、暮れていく夕景を眺めていた。
「ねぇ、藤野さん」
「なに?」
アセビがこちらを向き直す。
「もし、本当に生きる意味がないと思っているのなら、ボクのお願いを聞いてほしいんだ」
私の返答を聞く前に、アセビが話す。
「ボクの代わりに、世界を見てきてよ」
「世界を見てくるって、どうしたらいいの?」
ふっとアセビが笑う。
「世界中を回って、いろいろなことを見て聞いてきてほしいんだ。ボクはもう、ここから動けそうにないから」
「動けそうにないって、どういうこと?」
「見ての通りさ」
よく見れば、アセビの手が少し透けている。
「ボクの力は残り少ない。もう、ここから動くことはできないんだ」
アセビが、私の顔を見て苦笑した。
「そんな悲しい顔をしないで。あなたには生きていてほしいんだ。生きる意味なんて、そんなに難しく考えないで。人は、何か大切なものを持つだけで、強く生きられる。藤野さんには、生きていてほしんだ」
「やだ、いかないで、おいていかないで」
小さな体にしがみつき、ぼろぼろと泣き崩れる。アセビもまた、私を置いていくのか。私はまた、一人になるのか。せっかく、理解してくれる人に出会えたと思っていたのに。
「理解してくれる人がいなきゃ、必要としてくれる人がいなきゃ、生きてる意味なんてない」
「大丈夫だよ。」
アセビの手が、やさしく私の髪に触れる。
「ボクはここにずっといるよ、ずっと。これからも君をずっと見守り続ける。だから、世界中を旅した話をボクに聞かせてよ」
そういったアセビの顔は、とても涼やかできれいだった。
「最後に、君に直接会えてよかった。ありがとう、音紅。―どうか、君に幸多からんことを」
アセビがそう言った瞬間、アセビの体は淡い光となって消えていった。すっかり暮れてしまった空には、月が昇っていた。
そこからどうやって家までたどり着いたか、まったく覚えていない。ただ、帰った時に泥だらけだったらしく、親にはどこまで行ってきたのかと怒られた。怒られたとはいえ、久しぶりに親とまともな会話をしたので、少しだけうれしくなった。
しばらくして、私はまたこっそりとあの場所を訪れた。あの日のあの場所には、ちいさなお稲荷さんと、その隣に、前は気づかなかったが馬酔木が植えてあって、もちろんそこにアセビの姿はなかった。
幻だったかもしれないそれを、私は今でも現実だったのだと信じている。そして、またアセビとあの日のようなきれいな夕景を見られる日を楽しみにしている自分がいる。
そういえば、あの日以来馬酔木のことが気になって、学校の図書室で調べたことがある。古い植物図鑑の馬酔木の欄には小さく花言葉が載せられていた。
『あなたと二人で旅をしましょう』
きっとアセビは今でも、私の隣で、私と一緒に人生という名の旅をしているのだ。
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