あの店からどうやって逃げたのかは、殆ど覚えていない。


気づけば自分の家にいた。


それから何日間も、和子は独り布団の中で身を震わせて過ごした。


正真正銘の血のクリスマスである。


しかし、時は良くも悪くも過ぎてゆく。


かの身の毛のよだつ出来事も、いつの間にか心の片隅に封じられ、思い出すことも稀になっていった。


努めてあの光景を忘れようとしたのも一因だろう。数年後には結婚し、子供も授かった。


全てが順風満帆とは言わないが、人並みの幸せは手に入れたような気がする。そんな頃だった。


______________



クーリスマスは今年もやあってくる♪


お決まりの歌(ソング)が、世間を明るく賑わせる。


この時期は陽が傾くのが早い。一日一日が短くなっていくようだ。


もはや夕陽が地平線に沈み、薄闇が天空から舞い落ちる頃。


遠くに燦然と輝く、絢爛なイルミネーションが眺められる。視界の届かない場所から、この日を楽しむ人々の歓声が聞こえてくるようだ。


はあ、と和子はため息をつく。


和子は閑散とした小路を独り歩いている。その面持ちはどことなく翳(かげ)があるようだ。


クリスマスが愉しいのは若い頃だけ。歳をとると、純真無垢だった頃の感動は徐々に薄れてゆく。


子供と夫の為に、今日は特別豪華な料理を作らなければならない。料理は自分で言うのも難だが得意な方だし、嫌いではない。


けれどもなぜだか、心にぽっかりとした隙間が空いているのだ。


自分の人生ではなく、他人に尽くすための人生。


身も心も亭主と子供に尽くし、我が身ことは二の次になる生活。


人並みに美しかった顔には縮緬皺が走り、笑うと眼尻にカラスの足跡が残る。


結婚して子供を産めば幸せになれるというのは、結局は神話に過ぎないのかしら?


両手に下げた、スーパーのビニール袋はずっしりと重たい。それは自分に課された重石のようだった。


ああ、また若いころに戻りたいなあ。


ふと唇から独り言が漏れ出す。主婦という名の仮面を捨て去り、人間の生老病死の円環から抜け出して、永遠に美しくありたい。そう思っていた矢先のことだ。



つか つか つか つか



反対側から、ハイヒールを響きが聞こえる。


和子は、歩いてくる人をちらりと見る。


シルエットから想像して女性だろう。


薄暗い夜道でも、大胆な服装をしているのが目に飛び込む。


朱いドレスは露出度が高く、薄氷が張るこの季節には不相応だ。


ドレスから垣間見える白い肌は、月夜に照らされて玉殊の光を宿す。


以前にも、和子はこの光景を目撃していた。


「久しぶりね、和子」


月下のもとで、その女は艶麗(あでやか)にほほ笑んでいる。


絹のような肌には加齢の気配がなく、スタイルも中年太りとは無縁のようだ。


私と年齢が同じなら、身体の節々が衰え始めてもいい頃である。彼女のいる空間だけ、時間が止まっているかのようであった。


「・・・・泉」


目の前にいたのは、永らく行方不明になっていた泉だった。


「あなたもだいぶ老けたわね。亭主とは仲良くやっているの?」


彼女は屈託のない調子で尋ねる。


数年前に突如として、失踪したとは思えない気軽さだ。


「・・・・・あなた、生きていたのね」


和子は驚愕で目をみはる。


自分は夢でも見ているのではないだろうか。胸の裡にしまい込んでいた、おぞましい記憶が痛みを伴って想起される。


「生きているといえば、生きているのかもね。私、生死を超越しちゃったから」


泉は首を傾げて笑う。


そして、さらりと黒髪を撫でつけた。


かの傾城傾国の美女と同じ、この世にあらぬ幽艶さを漂わせる仕草だ。


「ねえ和子、私はあれからマネキンになったの」


次に泉の白魚の手は、彼女の首筋を弄ぶ。


よくみると合成写真のように、そこだけ微妙に線が走っている。


マネキンの身体と、彼女の首のつなぎ目だろう。


「この身体は、多くの衆生の身体とは違い。決して朽ち果てない。


私はいわば、神によって姿を変えられた預言者。


主の再降臨を告げる神のしもべ。


今日はあなたに福音を述べ伝えにやってきたの」


彼女は麗しい笑みを面貌に作る。


まるで、泉の背後に後光が射しているようであった。


彼女の幽艶さは、マリア観音さながらの神聖さに変貌し。主の御使いたちのラッパの演奏が鳴り響く。


「もう一度、あなたがThe Mannequinの扉を開いてくれれば。こんなに時間を労せずに、あなたは永遠の若さを手に入られる筈だったのよ。


けれども、マネキンの身体を手に入れた人間は、以前の生活を全て捨てなければならない。


なぜならこの世界は、老いることのない我々を受け入れるほどに成長していないから。


この身体に転生して、一度でいいからあなたとお話がしたかった。


けれども私たちの所属している世界のルールでは、それは許されない」


泉は面持ちを蒼くし。この現実に非ざる光景に慄然として、身体が鉄のように動けなくなる。


唇がわなわなと震えていた。


「やっと、私もあちらの生活に慣れて。今日一日だけ、こちらの世界に赴くことが許されたの。


和子、私はあなたを救いたくて、やってきたのよ。


この身体になれば老いたる悪魔は逃げ去り、以前の若々しさを取り戻すことができるわ。


さあ、一緒にThe Mannequinの扉を開きましょう!」


泉は玲瓏の光沢放つ、艶(あで)やかな右手を差し伸べる。


・・・・・この手を握ったら。


私、幸せになれるのかな。


和子は震えの止まらない手で、泉の掌を握ろうとした。





・・・・・・・・・だが。




パシン!




和子の腕に、樹脂を叩いた痛みが走る。


泉の手は血肉の宿らない、プラスチックで形成されたものだった。


「あなたは救世主なんかじゃない。単なるマネキンの化け物よ」


恐怖の眼差しで、泉を睨みつける和子。


いくら老いたる肉体を憂いても、彼女は生命に非ざる人形になりたいとは思えない。


また、現実に少なからぬ不満があろうとも、それらを全て手放すことは考えられなかった。


「和子、冷静に考えて!腐ってゆく身体に執着することになんの意味があるの?」


泉は声を荒げる。


和子に拒否の態度を示されたことにより、泉は狼狽した。


あんなに親しかった友人でさえ、この崇高な福音を理解することができないの?


悲壮感が、マネキンの胸に込み上げてくる。


「そんな、不気味な身体になんかなりたくないわ」


和子は言い捨てると、早々と踵を返して泉から離れてゆく。


一瞬だけ見えた。泉を冷徹に見下す和子の目線が、刃物の如く心に突き刺さる。



「和子! カズコ カズコオオオオオオオオオオオオオオオオオ! 私は あなたを失いたくないいいいいいいいいいいいいいいいいいい 一緒に 美しくなろうよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」



泉は和子に懇願し、手を伸ばして轟々たる大音量で泣きわめく。


その怒号はクリスマスソングと混ざり、寂れた小路に氾濫した。


しかし、マネキンとなった彼女から、一滴の涙さえ落ちなかったのは皮肉であろう。


和子はいくら不死であろうとも、血の宿らないマネキンを愛することができなかった。


神の福音を十全に理解できるほど、我々は進歩していないのかも知れない。




おわり


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