第5話 稲川乱造

「報告して下さい」


柔らかだが、威厳のある声が会長室に響く。


東京セラ株式会社、いわゆる東セラグループの中枢といわれている新宿にある東京本社の会長室。東セラグループは、昭和初期に現会長が一代で作り上げた、スーパー商社だ。



昭和20年3月10日。深川で小さな鉄工所を父と母と3人で営んでいた。深夜寝静まった夜中に、突然空襲警報が鳴り響き、雨のように焼夷弾が地上に落ちてきた。父と母はあっけなく爆風と炎で命を落とした。


地獄のような下町をまだ小さかった妹を抱え、どこをどう逃げ惑ったのか覚えていないが、二人は生き残ったのだ。


若き青年は、血の涙を流しながら、ともに生き残った妹と共に生き延びる決意を固めた。その青年とは、今ここにいる稲川乱造である。


もうすでに、90才を迎えようとしているのに、不思議なほど若々しい。顔こそ皺だらけだが、その声は奇妙な若さを持っている。


「はい。カルフォルニア海洋生物研究所では、カンブリアシンドロームの箝口令がしかれました。さらにアメリカ各地にあった遺伝子研究所が、ほとんど閉鎖されました。主要な科学者を一カ所に集め、極秘のプロジェクトチームを作ったようです。アメリカ当局は、いよいよ進化に本腰になったようです」


胸の厚みを強調した黒に細いストライプの入った三つ揃えの英国調スーツを着こなした立木が、直立不動のまま答えた。


「そういうことですね。わたしの研究所の成果はどうですか」


「はい。動物種は何点か捕獲するのに成功してます。人間種は特殊能力を持った人物に接触し、有効と思われる能力を持つ者のみ、協力関係を保っています」


「それは進化者ですか」


「残念ながら違います。突然変異者でしょう。しかしその能力は、有益だと思われます」


「進化者の出現は予言されています。もうすでにこの地球上にいるはずなんです」


「はい。一つだけ判断に悩んでいることがあります」直立不動の立木は、声のトーンを落とす。


「ほう、それはどういうことですか」


「短命種族の存在が発見されました」


「短命種ですか?」


「はい。九州の熊本、阿蘇地方に存在しています。同じように、沖縄、北海道にも、確認されています。このグループは各100名前後のグループと思われ、共同生活をしています。仏教系の宗教らしく世間との付き合いも、極端に避けている形跡があります。犯罪に関与している経歴も見られず公安等のブラックリストにも乗っていませんでした。

 詳しい調査ではありませんが、地域の医者によるカルテを調べると、身体的な特殊さは発見できていません。極秘の遺伝子調査の結果も、彼らは突然変異種ではありませんでした。

 ただ寿命が短いのです」


「ほう、おもしろいですね。他にどんな特徴があるのですか」


「超能力のたぐいはいっさい報告されていません。50歳前後で死亡するのですが、死因も老衰がほとんどで病死がまったくありません。更にグループ全員が理想的な健康体で、不自然といえばそこが異常に不自然です」


「ほう、全員健康体にもかかわらず全員が短命とは不思議ですね。臭いますね。何らかの手がかりがあるかもしれません。調査を続行して下さい」


「はい」



直立不動のまま、答えていた立木は、軍隊式敬礼をするとクルリときびすを返した。そのまま、会長室を出ていこうとした。


「待ちなさい、立木」


立木はぴたりと立ち止まる。


「バイオセンターへ連絡して、妹のクローンの発育状況を知らせるように伝えてくれ。妹はもう駄目かもしれない」


妹とは稲川乱造の実の妹で、現在80歳の高齢である。乱造は戦後の焼け野原の東京で病気がちの妹を抱え生き延びてきた。唯一の肉親である。お互い結婚はしたのだが子供に恵まれなかったのだ。このままでは血筋が消滅することになる。


ただ現時点での人間のクローン技術は完全ではない。しかし出来る限りの事はしたいと乱造は思っている。


「わかりました」魔法使いからの呪縛が解かれたように、立木は、立ち止まった時と同じ姿勢で歩き出した。


立木は本社を出ると、黒塗りのベンツで運転手に渋谷区の広尾にある


「徐福研究所」へ行くように指示を出した。


移動中、スマートフォンでひっきりなしに指示を出している。立木は稲川乱造の特別秘書という肩書きである。だが、彼の素性はヤワなものではない。筋金入りの軍人である。


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