第3話 阿字観

古寺「天地寺」は秘密寺である。現在は門を閉ざしており、訪れる人もいない。「天地寺」の奥社は背後の大きな岩の洞窟にあり、霊窟と呼ばれている。


寺院なのに、昔から奥社と呼んでいる。真言立川流の宗派を受け継いでいるのだが、神仏習合の形態をとっている本地垂迹を教義としている。ただ、日本の歴史上鎌倉中期以降に本地垂迹という考えが現れてくるのだが、天地寺はそのはるか昔より神と仏を同一視している。それが秘密寺の所以である。



夜の闇は、幽玄な高齢の杉木に囲まれた天地寺をすっぽりと覆い隠している。こんな場所に古寺があるなどと想像する人間はまずいないだろう。


天地寺の裏手には高さ10mほどの大きな岩があり、入り口は小さいが奥行きが20mほどもある。自然に出来た洞窟で、天地寺の創設者は洞窟の入り口に寺を立てたようだ。本堂の裏口から其のまま奥社の入り口である。


行くことが出来るように屋根つきの渡り廊下が作られている。10mほどの渡り廊下を進むと奥社の入り口に着く。入り口にはヌキと呼ばれる横棒が通常2本なのだがここは3本の黒い鳥居が立てられており、その鳥居をくぐると奥社の入り口である。


入り口には巨大な注連縄が設置されており、その注連縄の向きが一般の神社と逆になっており出雲大社と同じ飾り方なのである。洞窟の大きさに合わせて立てられた神殿は2部屋あり、祈祷所は一番奥にある。


真は祈祷所の真ん中で結跏趺坐をしている。


左右に背の高い燭台の上に赤い和蝋燭の灯明が立てられている。その蝋燭の明かりで出来る影が二つ絶えず揺れ動いている。しかしその脇にはLEDつまり発光ダイオード仕様の小さな電灯も置いてある。


右足の上に右手を乗せて、その掌の上に左手を乗せ、親指の腹を合わせてしっかりと、臍の下の丹田に引き寄せている。法界定印という座禅の姿勢だ。


真は20分ほど前に、阿字観と呼ばれている瞑想に入っている。静かな呼吸で意識を集中させ、月輪の模様を心に浮かび上がらせる。


阿字観とは密教の基本的な瞑想法である。この瞑想で得るものは強力な想像力である。


彼は今、大きな月輪の中にいた。彼の前には大日如来が結跏趺坐をしている。


「あなたは私の妄想ですか」


「私は私である」


大日如来の思念が真に届いている。


「私がいるからあなたが存在しているのではないのですか」


「私は私である」


「私がいなくても貴方は存在しますか」


「私は理である。理は存在ではない」




二人の問答は一時途絶えた。不意に奇妙な音の固まりが、後ろから真に投げつけられた。気配は察知したが避けきれず真は肩で受け止めた。


ずんという衝撃波は右肩の骨を粉砕した。


「むん」


真は瞬時のうちに、金剛杵を両手に携えている。目の前には、美しい女性が立ちはだかっている。しかし彼女の下半身はダチョウの足のような鳥の姿だった。


「セイレーンか」


彼女の口が大きく開く。キーンという幻聴とともに高周波が真を襲う。


「ナウマク、サマンダバザラダン・カン」真言を唱えると素早く九字を切り、金剛杵を盾とした。高周波はあっけなく金剛杵の中へ吸い込まれていく。


すばやくセイレーンは真上にジャンプする。


「ギャルルルルル」


一声叫んだかと思うと、空間の中へ分子となり分散していく。いやな静寂がおとずれる。


「ナウマク、サマンダバザラダン・カン」

「ナウマク、サマンダバザラダン・カン」

「ナウマク、サマンダバザラダン・カン」


真の真言は次第に高まっていく。閉じた瞳をカッと見開いた時、真の体も無限の分子に分解されていった。


「ウン!」


分解された分子の固まりの中から裂帛の気合いが響く。霧散したものが、渦を巻きながら凝縮していく。そのカオスの中から、激しく燃え上がる大火炎を背後にし、降魔の剣を右手を握りしめた不動明王が出現した。



それと同時にセイレーンも突然現れた。よく見るとセイレーンの頭に蠢くものがある。蛇だ。メディウサになっている。その頭へいきなり、降魔の剣が振り落とされた。


声の出ぬまま、メディウサは股間まで真っ二つになった。不動明王の背中の火炎が静かに消えていく。いつの間にか真が結跏趺坐をしている。


すべてが闇になった。


真はゆっくりと目を開ける。目の前に女が正座していた。弘子である。真の様子を見にやってきたのだ。今日は紺色のスーツに縁なしの眼鏡をかけている。丸みを帯びた顔立ちにメガネはあまり似合わないのだが、夜になるとコンタクトをはずしメガネをかけている。162cmの身長にグラマラスな体形は真の好みでもある。


「弘子か」


「トリップはどうでした?」


「ふむ。セイレーンとメディウサが現れた。こちらも不動明王になり退治した」


「ギリシャ神話ね。だいぶ瞑想が深かったみたいよ。自我意識のバランスはどう」


「意識が分裂していくところまでは制御できたが、完全にはコントロールできない」


「瞑想による、想像力の強化がフロイトのいう前意識のコントロールを可能にしたけれど、無意識の中までは無理だって事ね」


「セイレーンとメディウサは意識しなかったはずだ。大日如来という神格を作り上げた時に、俺の何かにスイッチが入ったのかもしれない」


「未だに脳には何が仕掛けられているのか想像がつかないわね」


真はその場で作務衣を脱ぎ、弘子の持ってきた赤いアンブロのジャージに着替え始めた。


「わが一族の悲願の成就は、まだまだのようだな。しかし急がなくてはならない。カルフォルニア海洋生物研究所で箝口令がしかれたらしい。すでにカンブリアシンドロームが始まりつつある。いよいよ進化が顔を出してきた」


着替え終わり、立ち上った。


「研究所でコーヒーでも飲もうか。ここは寒すぎる」


その言葉の息は白い。この霊窟には暖房はない。


いつも不思議な冷気に包まれているのだ。渡り廊下を歩き本堂に戻る。


ナイキのスニーカを履き中庭に出て、左の脇にある細い道を1分ほど歩くと、唐突な感じで蔦に絡まれたコンクリート3階建ての「宮崎自然科学研究所」が出現する。


真は天地寺の住職の長男だったが成績優秀の為、地元の中学を卒業後にアメリカ留学を父親の勧めで行っている。


天地寺の一族は各国にいて彼らの世話で、ケンブリッジ市のマサチューセッツ工科大学へ推薦入学をしている。


マサチューセッツ工科大学はノーベル賞受賞者を77名輩出している名門校である。そこを卒業後、大学の非常勤講師となり、研究者の道を歩んでいた。


3年前、祖父 文殊もんじゅが胃癌で他界した際、講師の職を辞め、この寺の跡を継ぐことを決め日本に戻ってきた。


もともとアメリカに定住する気はなく、一族の悲願を達成することが人生の目的だから、何のためらいもなかった。


しかし、長い外国生活で立ち振る舞いがアメリカナイズされていることを本人は、あまり気付いていない。そして妻の弘子とは日本に帰っての見合いで、去年結婚したばかりである。


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