第2話 カンブリアシンドローム

シエラネバダ山脈の東側にあるモノ湖が見渡せる丘に立てられた白い現代的な建物。それがカルフォルニア生物研究所である。


中庭の駐車場には、沢山の車が止められている。この場所にふさわしくないキャデラックやリンカーンなどの高級車だらけだ。表向きでは、オーエンズヴァレーという渓谷の渡り鳥の研究が主に行われているとされている。しかし実態はアメリカ合衆国の秘密研究所だ。


遺伝子組み換えやクローン、放射能による遺伝子の変化など、公表をはばかれるような内容の研究が主である。


建物の地上部は飾り気のないコンクリートの3階建てだが、その地下は10階構造の現代の最新技術を駆使した、要塞のようである。


地下7階。パスワードを持った科学者しか入れない会議室の中。各国から緊急招集された科学者を集めたミーティングが始まっている。


小学校の教室2つ分ほどの広さに、Uの字形に設置された白く広いテーブルの上には、17インチモニターと小さなアナウンスマイクが設置されている。正面には200インチの大型モニターが設置されていて、不思議な形をした生き物の写真が映し出されている。


その脇に演台があり、赤いピンヒールを履き、白い上着と短めのタイトスカートの女性がマイクを持って話し始めている。


「先月、カリブ海沿岸で発見された、アノマロカリスの幼体についての報告があります」


スピーカーから聞こえてくる滑らかな英語は、少しハイトーンの女性らしい声だ。瞳はこげ茶色でふっくらとした顔立ちと小柄でボリュームのある体形は、どこかマリリンモンローを思わせる雰囲気がある。金髪の前髪をかき上げながらヘレンは、なめらかな口調で続きを話し始めた。


「このアノマロカリスの幼体の発見は、現在マスコミには公表されていません。更に先週、オバビニア、ポリプティコセラスの生体が同じ海域で発見されました」


10人ほどの科学者は「オー」と感嘆の言葉をもらした。


アノマロカリス。カンブリア紀中期の海に生息していた海洋生物。全長は標準的なもので60cm程度、最大では2mに達するものもいた。カンブリア紀の動物としては最大かつ最強である。


オバビニア。カンブリア紀前期に生息。体長はおよそ5cm程度。頭部にゾウの鼻のような管状の器官や5つの眼といった、奇妙かつグロテスクな姿をもつ。


ポリプティコセラス。白亜紀に生息。「異常巻きアンモナイト」とよばれる1種のアンモナイト。


地球史の生物には、熟知している科学者たちである。余計な解説など必要がない。更に話を続ける。


「いずれも捕獲直前まで生きていたという証言があります。


これを捕獲した漁民は不思議な深海動物だと思ったようで特別箝口令をしかなくても良さそうですが、今週だけでも、200件以上の未確認動物の発見が当研究所に寄せられています。


ほとんどが海洋生物ですが、古生物アカデミーのドーキンズ博士と合同調査をした結果、いずれもの古代生物であろうとの結論が出されました。


ただ出現した古代生物と思われるものは、時代がバラバラで出現した理由がまったくわかりません」


ヘレンと真向かいの席に座る小柄で白髪の湯川博士から質問が出た。


「ヘレン博士。それらは原始帰り現象ですか。


レポートによると原生代から完新世、つまり現在までのあらゆる時代の絶滅した生き物がわずかな個数で発生しているとあります。それも現存する生物の突然変異種としてです。もしかしたら地球上の生態系の大変化の予兆かもしれないと感じるのですが」


これは集まった科学者の代表意見だと感じたヘレンは、金髪をかきあげ、みんなに向き直って話す。


「そうですね。何かの予兆かもしれませんが、現在のところ不明です。ただこの事を合衆国政府は重要秘密事項に指定しました。今日集まっていただいたのは、今後当研究所の研究内容は、極秘扱いとなったことをみなさんに伝える為なのです」


「古代生物が発見されたことは大問題だが、国家の機密事項にするほどのことかね」


スキンヘッドのグールド博士が、冷静で美しいヘレンを挑発するように発言した。


「そうです。現在、自然環境組織グリーンは絶大な力を政府の圧力として使い始めています。極秘の深海核実験の影響かもしれないという憶測が一部の関係者から出ているようで、この手の話にグリーンが興味を示すと、どういう扱われ方をするか、容易に想像が出来ます。


ですからこれら発見された古代生物の調査が完全に行われ、正しい結論が出せるまで機密事項にするということです。ご承知いただけたでしょうか」


「なるほど」


湯川博士の隣に座っている韓国出身の若手科学者、金博士は頷いた。


「それにしても、大量絶滅の古代生物の復活とは驚きですね。ダーウィンが生きていたらなんと説明するでしょうか」


語尾には冷笑が混じっている。性格が自嘲気味なのだ。


「最後にもう一つ、昨日アフリカ研究所からチンパンジーの群れの調査報告がありました。


原因不明のウィルス性熱病で死んだ20体の猿の調査の結果、これらの猿の染色体の数はすべて46だったそうです」


さらに、一同に驚きの声が漏れた。チンパンジーの染色体は通常48本である。そして人類は46本だ。


「ということは、人間と同じだったということですか。他に異常はなかったのですか」


とアフリカ出身のイギリス人科学者、マリー博士の声が上づっている。


「異常はありません。ただのチンパンジーだったとのことです。これらのすべての事はまだ調査未定で極秘扱いです。これらの原因について、さまざまな調査を行っていますが、ここにお集まりの博士たちにお願いがあります。


この現象について独自の調査をお願いします。これはアメリカ政府からの正式な依頼です。本日わざわざ集まっていただいたのは、これまでの詳細な資料と正式な契約書をお渡しする為です。


特にチンパンジーの件は重大な現象と受け止めていますのでよろしくお願いします。この一連の現象を政府はカンブリアシンドロームと呼び、暗号名をPUCKとつけました」


今まで発言しなかった、黒縁のメガネをかけたドロシー博士が初めて発言した。オーストラリア女性の医学博士である。専門は比較人類学だ。


「PUCKというと、シェイクスピアの戯曲に出てくる、妖精の名前ですね。たしか真夏の世の夢でしたわね」


「そのとおりです。流石は小説も書いていらっしゃるとお聞きしています。政府の役人にもシェイクスピア好きがいて付けたようです」


「真夏の世の夢か」博士たちは小声でつぶやいた。


「この後、個別に4回の政務室へおいで下さい。細かな御質問はその時にお願いします。他にご質問がなければこれで会議を終わります。有難うございました」


ヘレンは博士達を残し、足早にドアから出ていった。



「真夏の世の夢のカンブリアシンドロームか。確かに地球はたちの悪夢を見ているのかもしれないな。しかし大昔の絶滅した悪魔どもが蘇るとは」


「それよりも猿の染色体の方が重大だ。ただの染色体異常なら問題はないが、サルが人間に進化するかもしれないからね」


残った科学者達は、ひそひそと話し続けていた。



カンブリア紀には爆発的に多種多様な生物が誕生している。これをカンブリア爆発と呼んでいる。過去の学説ではカンブリア紀以前には、めぼしい生物はいないといわれていたが、先カンブリア紀と呼ばれる時代に基本的な形は出来上がっていたとわかった。


このカンブリア爆発で一番特徴的なことはバージェス・モンスターと呼ばれる奇妙奇天烈動物の存在だ。これまでの過去の生き物は原始的であり単純という概念を打ち破り、今までの体系でない独自の進化系が存在していたという事も進化という不思議さに更に謎を付け加えたのだ。


一般的には生命史上たった一度の進化の実験場、大イベントともいわれているカンブリア爆発なのだが、なぜ進化の実験場になったのかという事にはいろんな説が出ている。


この時期に、大気中の酸素濃度が現在に近い濃度になり、オゾン層が形成され、これにより陸上の生存が可能になった言う説。


生物の細胞に核膜が誕生したので遺伝子を格納できるようになり、有性生殖というメカニズムが現れた事も進化に大きな影響を与えたという説。


さらに、地表に達する日光量の増大説。


海の透明度とミネラル含有量の変化によるとする説。


目という器官を獲得した事によるなど多様な説が存在しているのだ。さらに、この事により従来のダーウィン的な進化ではない、大進化という考え方が導き出せると述べる科学者もいる。


しかしカンブリア紀で、種族間で交配ができなくなるほどの変異が、多くの生物に起こった理由については、明快な学説がないことも付け加えておく。

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