第五話 わたし

 誰もいなくなった公園のベンチで、わたしの意識は覚醒する。冬の乾いた風に、ほのかに山茶花さざんかの香りが乗ってくる。確か、花言葉は『困難に打ち克つ』。なんて皮肉だ。花もさぞわたしが可笑しいことだろう。

 ベンチ下に無造作に捨てられたコンドームが視界に入る。わたしを気遣ったものでないことは理解していたが、それでも少しだけ気が楽になる。わたしは、スカートについた砂ぼこりを払い、乱れたブラウスを正す。胸元のボタンが一個とれてしまっていたので、家に帰ったら着けないといけない。それまではリボンで隠そう。わたしは立ち上がり、歩き出す。

 警察署に寄って、津村をどうこうしようとは思わなかった。わたしの人生は壊れている。レイプの一回や二回などは、もはやどうでも良い。近いうちに、わたしは自分の人生に決着をつける。『困難に打ち克つ』。山茶花の花言葉がまた頭をよぎる。わたしの決意は、そういう殊勝な概念とは無縁の--むしろまったく逆で--困難から逃げるだけの帰結だ。だけど、笑ってしまうくらい不運なわたしの人生の終幕は、やはり笑ってしまうくらい愚かなものでなければ--。横を通り過ぎる人がぎょっとした顔でこちらを見ていることに気付き、思考を止める。店のウインドウに映る自分は、髪はぼさぼさ、スカートは皺だらけ、顔には生気がなく、まるで幽鬼のようだった。逢魔おうまとき、とはよく言ったものだ。わたしは再度、家へ歩き始める。それから何人かとすれ違い、その度に奇異の視線を向けられる。不快に感じたが、いちいち足を止めるほどではなかった。

 シャワーを浴びて、髪にドライヤーをあてる。取れてしまったブラウスのボタンを新しく着ける。制服にアイロンをあてて、ハンガーにかける。鞄の中のツルゲーネフを読み進めていく。すると、唐突にページに水滴が落ちた。髪が充分に乾いていなかったのかと思ったが、水滴の出所でどころはわたしの目頭からだった。涙が出ていた。そう気付いてからはもう止められなかった。どうやら、表層的なわたしの思考では大した事件ではなかったのだが、わたしの無意識下の自我はそうではなかったらしい。意識と無意識の乖離は、泣き崩れている自分を頭上から見下ろしているような奇妙な感覚に陥らせた。

 ひとしきり涙を出し尽くすと、わたしの操縦権が戻ってきた。お茶でも飲もうと立ち上がると、金具の錆びたドアが開く音がした。父が帰ってきた。やや禿げた頭を掻きながら廊下を歩いていき、つっけんどんに居間のソファーに腰を下ろした。コップにお茶を注ぎ終わると、わたしの方を見向きもせずに、「珍しく気が利くな。持ってこい」と命じた。殴られたり髪を引っ張られるよりはマシだと自分に言い聞かせ、コップを父に渡した。

 「あ?」という声が聞こえたと思うやいなや、部屋が急にした。床に額をぶつけてようやく、父に突き飛ばされたのだと理解した。

「親を睨むとは偉くなったな」

 頭上から父の声が降りてくる。睨むどころか一瞥たりともくれたつもりはないが、反論しても無駄だ。おおかた、パチンコにでも負けたのであろう。帰ってすぐに当たり散らすパターンだ。

 わたしは、物心ついた時から、いや、おそらくそれよりずっと前から、父からの虐待を受けて育ってきた。わたしをここまで育て上げたのは母の力による部分が大きかったが、母も母で、わたしへの虐待を積極的に止める姿勢を見せることはついぞなかった。「わたしはなんのために生まれてきたのか」--一般的なクラスメイトたちは思春期になってようやくぼんやりと抱き始める疑問だが、わたしにとっては幼年期からずっと持ち続けてきた命題だった。

 父の爪先つまさきが、わたしの鳩尾みぞおちをとらえた。胃液が逆流しそうになるのを、すんでのところで押し留める。口の中に、酸味が広がっていく。わたしは、普通に生きていたかっただけなのに--。子は親を選べないという不条理さで、わたしは押し潰されそうになる。

 わたしが父を殺そうと決意したのは、母が死んですぐのことだった。

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