第三話 わたし

 もし不快感で人を殺すことが出来たならば、津村は今頃、のたうち回って苦しんで死んでいる。拒絶の意を示せなかった自分と、それに明らかに甘えてくる津村の悪意への嫌悪が頭に渦巻いて、どうにかなりそうだった。授業の教師の声さえ、耳を上滑りしていく。

 あんな男との約束など、履行する義務などない。そもそも、約束ですらない。一方的な通告だ。いつもはすらすらと読み進める文章も、思考にノイズが走り、ままならない。津村から逃げる算段を思案していると、ついに放課後を迎えてしまった。

 いつも通り図書室に向かうかどうかを 逡巡していると、津村がやって来た。

「待たせたかな」

 この男は、わざとわたしを苛立たせる言葉を選んでいる。他人に感情を操作されているおぞましさが、熔けた鉛のようにわたしに覆い被さる。動揺を気取られないように呼吸する。胃液のような酸味を帯びた空気が肺腑を満たす。

「待ってない」精一杯の拒絶の言葉。

 だが津村は動じない。「またまた」「そんなこと言っちゃって」「ここに残っているってことは」「そういうことなんだろう?」

 津村の言葉が、意味をなくし、単なるサウンドとして耳に入ってくる。抵抗が徒労に終わった無力感で、全身の筋肉が弛緩していく。首は頭部を支えられなくなり、うなだれる。膝は笑い、背中は粟立つ。グラウンドから聞こえる野球部の声や音が、二人しかいない廊下に響いていく。

「じゃあ、行こうか」

 津村は静寂を破り、わたしの手を引いていく。もはや抵抗する気力も沸いてこない。頭は真っ白になっているが、下腹部がほのかに暖かくなる。こんな時でさえ、わたしの“病気”は、物理的に機能している。なんて滑稽な女なんだ。わたしは。

 津村が何か話しているが、意味は抜け落ちてしまっている。身振りから類推すると、ベンチに座ることを促しているようだ。

 いつのまにか、駅前の公園まで歩いていた。冬の陽の落ちは早く、午後6時だというのに夜のとばりが世界を覆っていた。わたしはベンチに座り、津村は密着するように右隣に座った。

 わたしは、もう諦めていた。

 津村は、わたしを犯すだろう。これからを起こる出来事を考えると、暗澹たる気持ちになるが、どうせ抵抗しても無駄だ。世界は、にわたしを見放している。

 津村が、わたしを抱き寄せる。

 始まった。わたしは目を瞑る。魂を持たない人形のように、意識を遠くに持っていこうと努力する。津村はわたしの唇を吸い始めた。おそらくいつもこうしてきたのだろう。慣れた手つきで身体をまさぐっている。

 わたしはもう、何も見たくなかった。津村も、醜い自分の顔も、世界でさえも。

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