第5話:すれ違いが誤解を生んで
総司と信愛の関係に亀裂が生じていた。
それは、偶発的に起きた行動からである。
期末テストの期間になり、図書館で勉強した帰りだった。
帰り際、彼女が総司の腕に抱きつこうとした時のこと。
「……」
総司がなぜか嫌がるような、そんな拒否の行為を示す。
腕をひっこめたことに「総ちゃん?」と信愛は驚く。
「あんまり人前でベタベタするな」
「えーっ。今さらじゃん。シアと総ちゃんは恋人同士なんだよ?」
人通りの多い住宅街に続く道。
総司の拒否に信愛は「手をつなぐのはダメなのぉ?」と抵抗するも、
「帰りますよ。ほら、さっさと歩け」
と、まるで相手にしない。
総司からすれば、何となく気恥ずかしさから来た行動であり、意図はなかった。
ふたりっきりならば、愛し合うのは当然だし、触れ合うのも当たり前の事だ。
だが、人前でバカップルのようにいちゃつく時期は過ぎていた。
「あ、歩くの早い!? 待ってよぉ、おいていかないでぇ」
歩幅も体格が違うので、普段は総司が合わせてくれている。
だが、彼はいつもと違う行動に出始めていた。
「はぁはぁ……総ちゃん、歩くの早いよぉ。シアじゃ追いつけない」
「……」
「それに、いつもみたいに手を繋いでもくれないのはひどいと思うの。いいじゃん、それくらい。手を繋ぎましょう? はい、って無視しないで!」
別に総司もここで頑なに拒む理由はない。
ただ気恥ずかしいだけである。
そのはずなのに。
「そんなにシアと手を繋ぎたくないの? シアの手は綺麗だよ?」
その綺麗で白い小さな手。
数えきれない程に握りあってきた。
総司も信愛と手を握り合うのは好きである。
それなのに、いつも違うのはなぜなのか。
その理由が総司自身にも分からずにいる。
「あれでしょ? この前の事を怒ってるんじゃないかな?」
「なんだよ、この前って」
「ほら、先月のデートの時、ポテトを食べた手を洗わなかったせいで、そのあと握った総ちゃんの手がベタベタしちゃったやつ。あれはね、ただの事故だよ? 普段はちゃんと手を綺麗にしてますぅ」
「あれはあれで非常に不愉快な目にあわされた」
「ごめんねぇ」
「初デートでアレをされた即破局だな」
付き合いの長さゆえに許せることでもある。
信愛はその手を差し出しながら、
「今日のシアの手は綺麗なので大丈夫だよ? ほら、見て?」
「そういう問題じゃない。シア、何度も言わせるな。ホントに置いていくぞ」
「……総ちゃん」
冷たく言い返されてしまうのである。
残された信愛は差し出したままの手をぎゅっと握りしめる。
不満そうな彼女の瞳。
「なんか、総ちゃんが変だ?」
置いて行かれそうになる信愛はぼそっとそう呟いた。
彼女の抱いた違和感。
「って、ホントに歩くの早いんですけど。お待ちになってぇ!」
慌てて駆け足になりながら、総司の後を追いかけるのだった。
いつものように片桐家で夕食を食べ、信愛は洗い物を終えた。
総司はリビングのソファーに座ってお笑い番組を見ていた。
自然の流れでその横に座り、肩に寄り添うとすると、
「総ちゃん♪」
今、まさに肩を寄せた時に総司がいきなり横に移動した。
「うわぁ?」
バランスを崩した信愛はソファーにぐでんっと倒れこんだ。
「いひゃい。い、いきなり立ち上がらないでぇ。何なのぉ?」
甘えてこようとする信愛の行動を否定する。
“鬱陶しい”。
彼の中で無自覚に芽生えた、そのわずかな負の感情。
「うぅー、ええいっ」
再チャレンジ。
有無を言わさず、再度総司に近づいて彼女は膝枕をする。
総司の膝の上で猫のように甘えてくる。
「総ちゃん、好き~。ちゅーしよ? ちゅー」
可愛らしく唇を尖らせる信愛。
総司に膝枕されて、見上げる格好で、キスを求める。
いつもならば、そこでキスをしてくれるはずが。
「俺、風呂に入ってくる」
今日の総司はあっさりとそれを交わす。
肩透かしを食らった彼女は当然、不愉快だ。
「……なんでぇ。ちゅーしてよぉ」
「気分じゃない」
「あー、待って。シアも一緒に入る」
しかしながら、総司は拒絶の意思を示す。
「ダメ。今日は気分じゃないって言ってるだろ」
「ふにゃんっ」
ツンっと額を指先で突かれて信愛は立ち上がらろうとするのを邪魔される。
そのままお風呂場にひとりで入ってしまう総司だった。
「なんだよぉー、総ちゃんのいけずぅ」
置いてけぼりの信愛は「ひどいや」と拗ねまくる。
「あ、そうだ。追いかければいいだけじゃん」
信愛は立ち上がると、お風呂場に入り込む。
既に着替えを終えて浴室にいるらしい。
すりガラスの向こう側、乱入しようとする信愛だったが、
「あ、あれ? 鍵をかけてる!?」
開けようとするも、浴室の扉は鍵をかけられいた。
予想外の行動に信愛は不貞腐れた。
「なんで、今日はそんなに冷たいのぉ」
『……別に? 冷たいっていうか、そういう気分じゃないだけさ』
「気分ってなんだよぉ。総ちゃんのバカぁ。ふんっ、総ちゃんがそういう態度をとるのなら、こっちだって考えがあるんだよー」
信愛は無造作に脱がれた衣服、パジャマと着替えの下着を両手に抱える。
「総ちゃんの服は預かった!」
『なぬ?』
「外に出るときはタオル一丁で出てきなさいっ! ふんっ」
『お、鬼か!? お前、やることひどいだろ! 子供か!』
「ひどいのは一緒に入ってくれない、総ちゃんだい。タオルだけは置いていってあげるシアの優しさを思い知れぇ。……着替えは部屋に放ってくる」
総司が「やめろぉ!」と叫ぶのを無視する。
信愛は着替えをもって部屋の外へと出た。
彼の部屋のベッドの上に着替えを投げるように放りこんだあと、
「……しくしく、総ちゃんがつれない。今日はもう帰ろう」
甘えたいのに甘えさせてくれない。
当たり前のことが当たり前でなくなることの辛さ。
「総ちゃん、どうしちゃったの?」
昨日までは何もなかったし、喧嘩する心あたりもない。
だが、その悪魔は確実に信愛と総司のすぐ傍まできているのだ。
「ぐ、ぐぬぬ。まさか……ついに来たのね。この時がぁ」
愛しい恋人同士の仲を引き裂く悪魔。
そう、その悪魔の名は“倦怠期(ラブ・クラッシャー)”。
「こ、これが噂の“倦怠期”ってやつですか?」
倦怠期、それは恋人同士が付き合っている中で、必ず通るものだ。
一緒にいて幸せだったはずなのに、一気にそれが崩れ去る瞬間。
お互いに慣れすぎたゆえの弊害。
放っておけば破局という最悪の別れも誘発する。
不安、不満、苛立ち。
倦怠期という時期は恋人同士なら誰にでも起きてしまうもの。
信愛と総司は交際3年目にして、来るべき時を迎えたようだった。
「いけない。このままじゃシアたちの関係が壊れちゃう」
大いなる危機感を抱く信愛である。
「あらぁ、信愛ちゃん? 今日は帰っちゃうの?」
リビングに部屋の掃除をしていた総司の母、杏子が戻ってきた。
「今日は帰ります。というか、総ちゃんにつれなくされてます」
「うちの息子がどうかした? 喧嘩でもしたの?」
首を横に振る信愛は「違うんです」と不安を口にした。
「おばさん。倦怠期ってどうやって乗り越えるんですかぁ?」
信愛の素朴な疑問に「倦怠期?」と杏子は困り顔だ。
「どうやら、ついにシアと総ちゃんにも倦怠期が来たみたいです。こーなるかもって思ってたんですよ。最近の総ちゃんがすごく不安だったんです」
これまでも前兆はあったのだ。
今日ほどではなくても、つれなくされたり、素っ気なかったり。
おざなりに感じたあの違和感が、ついに表面化しただけなのだ。
信愛はそう判断すると、倦怠期という言葉に殺意すら覚える。
――シアと総ちゃんの関係を邪魔するのは許さない。
例え、それが倦怠期という現象であっても。
――総ちゃんめ、許してあげないんだからぁ。
そんな不満を抱く信愛に杏子はどうアドバイスをしていいか悩みながら、
「倦怠期かぁ。恋人たちの試練ってやつよね。ドキドキしなくなったり、些細な事で喧嘩しちゃったり。私も夫と似たようなことがあったわ」
「やっぱり。おばさん達にもあったんですねぇ」
「そりゃ、誰でもあるものじゃない。噂では、3の倍数の年月が怪しいとか」
倦怠期とは3の付く倍数に起きやすいと言われている。
例えば、3週間、6ヵ月、3年目などが要注意だ。
それは人間の本能のようなものであり、仕方のないことでもある。
「うちもねぇ、旦那が全然、構ってくれなくなったり。デートも適当になったり、ほかの女の気配すら感じたりと大変だったのよ」
「どう乗り越えたんですか?」
「……えっと、そうこうしてるうちに、一番上の子がデキちゃって」
杏子は照れながら「旦那とはデキ婚だったの」とつぶやいた。
「倦怠期どころか、子供がデキて、それどころじゃなくなっちゃった」
総司の兄、現在大学生の真也(しんや)がある意味で救世主となった。
子供ができて、関係もすっかりと改善して、結婚に至るまでとなる。
「おー。そうやって真也お兄ちゃんが生まれなかったら、ダメになってかも?」
「その可能性もあるわね。あっ、で、でも真似はしないでね? さすがに信愛ちゃんたちはまだ若いんだし、他の方法で解決策を見つけてほしいなぁ?」
いずれは孫も、と思う杏子だが、高校1年生の信愛にそれを求めるわけもなく。
さすがに信愛もそれは奥の手だなぁ、と考えるだけだった。
「……倦怠期の改善策って何かないですか?」
「一般的には時間が解決してくれるものじゃないかな。一時の気持ちに惑わされず、自分の気持ちとしっかりと向き合っていくことが大事だと思うの」
「その前にシアが総ちゃんに捨てられちゃうかもしれません」
「大丈夫だって。倦怠期は誰にもなるものだから。気にしすぎないで。私からも総司に言っておくわ。ダメなあの子だけど、見捨てないであげて」
杏子はそう苦笑いをして、信愛を励ますのだった。
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