第2シリーズ:恋を奏でて、愛を信じる

プロローグ:この愛を信じてる



「私は人が大嫌いなのよ。平気で嘘をつき、人を欺き、悲しませるから」


 それは幼い頃に聞かされた大事な人の言葉。


「だけど、可愛い貴方だけは愛してるわ」


 人に裏切られることもあれば、傷つけられることもある。

 彼女は人に対してネガティブな印象を持っていたようだ。


「人って不思議な生き物よ。もう誰も信じたり、愛したくもない。そう思ってたはずなのに。それでも誰かを好きになるんだもの」


 愛しきものを、愛しいと思える。

 彼女自身に欠けていた感情。

 それとわずかなりとも取り戻せてたのは、生まれてきた可愛い娘の存在。


「人を好きになりなさい。大好きな人がいれば、貴方の世界を変えてくれるもの」


 女性は優しい声色で、抱きしめた幼い少女に囁いたのだった。





 高校1年生、信愛(しあ)には中学から付き合う恋人がいる。

 同じマンションの隣の部屋に住む片桐総司(かたぎり そうじ)。

 小さな頃から我がままな信愛のことを面倒を見ているために、同い年ながらも、どこか兄妹のような関係の幼馴染でもある。


「へくちゅっ」


 信愛は自分のくしゃみで目が覚める。

 夏が終わり、秋を迎えて気温も下がり始めた。


「んー、9月になって、一気に肌寒くなった気がする。シアは寒いの苦手ぇ」


 信愛は自分で自分のことを”シア”と呼ぶ、幼い頃からの癖がある。

 時計を見ると、まだセットしている時間より少し前だ。

 朝の6時半前、彼女は小さく欠伸をすると同じ布団に眠る隣の男の子を起こす。


「おーい、総ちゃん。朝だよぉ、起きてー」

「んー」

「シアは家に帰ってからまたくるねぇ。二度寝しちゃダメだよぉ?」

「あー、はいはい。おきますよ」


 眠そうな声で返事をする総司。

 その様子に信愛は軽く呆れるのだった。

 いつものことだが、総司の寝起きは悪いのだ。


――せっかくシアが起こしてあげてるのにぃ。いつもこれだし。


 せめて目覚ましだけでもセットしなおしておこうと、時間を七時にセットしなおしてから彼女は布団から起き上がる。

 そして、そっと総司の頬に唇を触れ合わせると、


「おはよう、総ちゃん」


 眠気に負けそうな恋人におはようのキスをする。


「ぐぅ……」


 だが、返事の代わりに聞こえた寝息に「ダメだ、こりゃ」と肩をすくめる。

 心地よさそうに眠る恋人の寝顔を見つめていたい気持ちを我慢して部屋を出た。


「おはようございます、おばさん」

「あらぁ、おはよう。信愛ちゃん、今日は早いのね」


 リビングで総司の母親が笑顔で出迎えてくれる。


「いつもよりも早く目が覚めちゃって。一度家に帰ってからまた来ます」

「うん。それまでに総司を起こしておくわ」

「お願いします。シアもこの前みたいに二人で遅刻したくないんですぅ」

「うちの子がいつも迷惑をかけてるわ。見捨てないであげてね、信愛ちゃん」


 信愛の存在は片桐家では家族同然の存在として認識されている。

 互いの親公認の仲であり、こうして泊まりあうのも普通に許されている。

 信愛と総司の関係が恋人に変わった時から、こうして半同棲のように片桐家にお泊りして同じ朝を迎えるのも珍しくなく、それもまた普通の日常となっている。

 8階建てマンションの3階、片桐家の隣の部屋が信愛の家である。

 信愛が小学生になる前にここに引っ越してきてた。


「ただいまぁ」


 信愛が玄関の扉を開けると、キッチンからいい匂いがする。


「おはよう、信愛。朝ごはん、できてるわよ」

「ありがとう。ママ」

「また総司君の家で泊まったの?もうっ、総司君に甘えるのもいいけど、たまにはこっちで寝てよ。夜遅く、家に帰ってきても誰もいないのは寂しいわ」


 母は朝帰りを責めるのでもなく、当たり前の日常として受け止めている。

 信愛を信頼しているだけでなく、ある程度は好きなようにさせてくれている。


「ごめんねぇ。シアは総ちゃんの横だとぐっすりと眠れるから」

「ホント、総司君のことが好きなのね」

「当たり前だよ。私の将来の旦那だもん」


 自分の愛する彼氏だ、当然である。

 まず顔を洗い、身支度を整えてから、出来立ての食事を食べることにする。


「いただきますー」


 洋風メニューが中心で、特に甘いスクランブルエッグが彼女のお気に入りである。

 自分でも料理をするが、母のようにはうまくならない。


「ふわふわ。ママの料理の中でもこれが一番好き」

「ありがと。でも、お母さんはもっと手の込んだものを好きだと言ってほしいわ」

「シンプルなのがいいんだよぉ。この味がいいの」


 甘いのが好きな信愛の好みに仕上げてくれている。

 ふわふわの卵の食感がよく、ケチャップの味がさらに美味しさを引き出す。

 次にウインナーを食べてパンに手を付けた。

 彼女の嫌いなトマトはこっそりと母親のサラダに移しておくのも忘れない。

 

「そうだ、お母さん。今週も夜は遅いから、いつも通りお願いね」

「わかった。ママも無理しちゃだめだよぉ?」

「ありがと。でも、朝はちゃんと一緒に食べましょう。お泊りしてきてもいいけど、朝だけは私と過ごすこと。お母さんとの約束を守ってね」

「うんっ。わかってる」


 信愛の母親はシングルマザーだ。

 地元のデザイン会社に勤務しており、夜遅くに帰ってくることも多い。

 お隣の片桐家に入り浸っているのは、信愛の面倒をみてもらっている所もある。

 こうして母娘が一緒に過ごせるのは少ない休日と朝の僅かな時間だけだ。

 母は子供の信愛を誰よりも愛しており、彼女の幸せだけを考えている。


「ごちそうさま」


 食事を終えると信愛は片づけをはじめた。

 その間に母はお弁当を詰め始めて、すぐにお弁当が出来上がる。


「今日、夕方から雨が降るんだって。傘は忘れずにね」

「はーい。総ちゃんにも言っておく」

「あら、ふたりで一緒の傘に入るのは?」

「前にそれをやったけど、総ちゃんってば大きいからずぶ濡れで怒られた。案外、相合傘って漫画みたいにうまくいかないね。シチュは好きだけどね」


 洗い物を終えた信愛は椅子に座ると、テーブルの端においてある鏡に向き合う。

 母はいつものように、ドライヤーと髪ピンを用意し始める。

 信愛は毎日のように長く綺麗な黒髪を母が整えてくれる。

 この時間こそ、親子にとって一番の落ちついた二人だけの時間だった。

 

「信愛。二学期になったら授業も大変でしょ。ついていけてる?」

「数学だけは苦手かも。はぁ、補習は嫌だから頑張るけどさぁ」


 他愛のない会話をしながら、時間をかけて仕上げる。

 後ろ髪を綺麗に編み込まれた可愛らしい髪型。

 元々、見目美しい信愛だが、さらに可愛さが増す。


「今日は編み込んでみたから、髪を下すときは大変かも」

「うわぁ、可愛い。自分じゃ絶対に無理ー。ママってすごいよねぇ」

「私には妹がいたの。その子によくしてあげていたから慣れているのよ」


 そう言って優しく母は微笑む。

 信愛は母の過去をほとんど知らない。


――妹の話をするときのママはなんだかいつも楽しそう。


 思い出すのはきっと楽しい思い出ばかりなのだろう。


――すごく好きだったのかな。


 母の妹、つまり叔母に当たる人だが一度も会ったことはない。

 親族とは彼女が生まれた時に母は縁を切ったらしく、祖父母の存在すら不明だ。


――ママの過去。全然、話してくれないんだよね。


 父親ともいろいろとあって結婚しなかったらしく、未婚のままである。

 生きているのか、亡くなっているのかの情報も信愛は聞かされていない。

 信愛は自分の父が誰かも知らないうえに、親戚とも縁がない。

 家族はたった一人の母親だけだ。

 総司たちの家族にも愛されているために、寂しいと思ったことはないが、母の過去は気になっていた。


「信愛? どうかしたの?」

「何でもない。今日も可愛くしてくれてありがと」

「そろそろ出かける準備をしななさい」

「うん」

「さっきも言ったけど、雨が降るから気を付けて」


 髪型をセットするのには時間がかかるために、もう出かける時間帯だった。

 お弁当をカバンに入れると、信愛は子供のように母に抱きついた。

 

「んー、ママ、大好き。いってきます」

「いってらっしゃい。総司君にもよろしくね。喧嘩しちゃダメよ?」

「わかってるよぉ。総ちゃんのことも大好きだもん」

 

 いつまでも、大人になりきれない甘えたがりの子供っぽい性格。

 信愛の性格を作り上げているのは、母の惜しみない愛情を受けているからだ。

 娘が出ていくのを見送ると、信愛の母は実感を持って呟く。


「信愛を産んで、もう16年か。子供の成長って早いわよねぇ」


 こんな自分が子供を産むなんて思いもしていなかった。

 若い頃、自暴自棄になり、全てを捨た。 

 取り返しのつかない大きな過ちを犯した。

 そうして信愛を身ごもり、ずっと後悔してきた日々に悩まされていた。

 だが、娘の誕生は悩みも苦しみも全てを消してくれた。

 辛い過去も、絶望すらも、彼女にとっての生きる希望に変わったのだ。

 子供を産んで、母親になる。

 その新しい生き方は辛い時もあったが、幸せな時の方が多かった。

 たくさんの思い出、幸せな記憶が今の彼女を幸福にしてくれている。

 愛娘の成長こそが、親としてだけでなく、自分の人生のすべてなのである。


「――信愛のおかげ私の人生は救われているわ。あの子ために私は生きてる」


 信愛の母親の名前は水瀬那智(みなせ なち)と言う。

 かつて悪女と同級生から呼ばれた少女。

 大人になり、一人の娘の母となって、性格も生き方も大きく変わった。


「信愛の今日という一日に幸せが訪れますように」


 愛しい娘を思い、穏やかな表情をして、そう言葉にするのだった――。

 

 

 

 

「こらぁ、総ちゃん。約束したでしょ、二度寝はしないって」

「ごめんなさい。反省してるから怒るなよ」


 部屋の玄関前で信愛に怒られてげんなりとする金髪に髪を染めた男子。

 恋人の総司とは身長差もあるため信愛に怒られていると、まるで妹に叱られる兄というような、情けない姿にしか見えなくなる。


「むぅ。シアだって毎日、怒りたくないよ?」

「俺が朝弱いのは知ってるだろうに。許してくれい」

「ダメぇ。甘やかせちゃダメー。早寝早起き、健全な生活しましょう」

「お前にだけは言われたくないのになぁ。俺はこんなにも甘やかせてるのに」


 苦笑する総司は彼女を抱きしめると、少し強引に唇を奪う。

 

「んぅっ、ちゅっ……」


 付き合い始めて数年来の恋人同士、将来が決まっているのも同然の関係。

 朝からラブカップルっぷりを見せつけるふたりだった。


「……しょうがないから許してあげる。ほらぁ、もう行かなきゃ」


 唇を離した信愛はうっとりとした顔でご機嫌を直して、総司と腕を組みながら学校へと向かい始めた。

一階の玄関ロビーに降りるまでに何人ものご近所さんとすれ違い、挨拶をする。


「あらぁ、片桐さんのところの若夫婦じゃない。ラブラブねぇ」

「今日も仲良く学校かしら?気を付けて、いってらっしゃい」

「いってきまーす」


 彼女たちはこのマンションでは「若夫婦」と呼ばれて親しまれているのだ。

 ご近所さんにからわかれるのもいつのものことである。


「ああいうのはやめてもらいたい。若夫婦って、そこまでの関係じゃないのに」

「いいじゃん。もしかして、実は他にどなたか本命でもいるのかなぁ?」

「い、いないってば。変な誤解をするんじゃないっ」


 ご機嫌斜めになる信愛をなだめながら、総司は困り顔をするのだった。

 甘えたがりの我がまま姫、水瀬信愛(みなせ しあ)の日常が始まる――。

 

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