第10話:ただいま準備中です、と彼女は言った
放課後になると、八雲は和奏に連れられて彼女の家に来ていた。
せめて、浩太を共に連れてきたかったのだが、あいにくと掃除当番で叶わず。
――まさか、昨日の今日でこの家に来る羽目になるとは。
昨日の悪夢が脳裏によみがえる。
八雲にとっては失態を犯した現場である。
「どうぞ、先輩」
家に案内されるも警戒感を解くわけにはいかない。
「……お前の部屋には絶対に行かないぞ。また何をされるか分からない」
「そんなに警戒しなくても。今日はただのお話ですよ?」
和奏の脅しに屈したこともあり、「ホントかよ」と不貞腐れた態度を見せる。
そんな姿を可愛いと和奏は思いながら、
「動画のデータの件ならホントに流出させるつもりなどありません。私にそのつもりがなくとも先輩の弱みを握ってしまったようですねぇ。それはそれで悪くないです。では、“準備”をしてくるので少しお待ちください」
「準備? あぁ、着替えてくるってことか」
リビングに八雲を一人残して、出て行ってしまう。
和奏の着替えを覗いたことがすべての始まり。
思えばあれからたったの一日しか過ぎていない。
「昨日の出来事なんだよな。もうずいぶん昔のように感じるよ」
たった一日の出来事でも、和奏に散々振り回されて困惑させられた。
この一日で八雲はずいぶんと精神的に疲弊した気がした。
「……あらぁ、八雲君じゃない」
リビングに顔を見せたのは買い物から帰ってきた美冬だった。
八雲は顔を強張らせて、緊張感が走る。
「お、おばさん?」
「こんにちは。今日はどうしたの?」
「おじゃましています。あの……」
和奏に呼ばれてきたと答えるのに躊躇すると、
「あぁ。和奏の件ね? あの子に会いに来てくれたんだ?」
と、昨日同様の誤解をしているようだった。
「浩太はまだ帰ってないみたいだいし。そうなると、和奏と一緒に来たの?」
「い、いえ、それは……」
「そっかぁ。まぁ、昨日の八雲君がしたことを思えば当然でしょうね。なんて言っても、女の子に手を出しちゃったわけだし」
「何ひとつ手は出してませんって」
「そうだ。昨日、うちの旦那がものすごく怒ってたわぁ。八雲君と和奏が結ばれちゃったことを、バラしちゃったから。あの人、和奏を溺愛しているもの」
――うわぁ、最悪だ。おじさんと次に会ったら確実にやられる!?
何もしていない事もないが、すっかりと状況だけが悪くなっていた。
「和奏は部屋かしら? 今、お茶でも淹れるわね」
「おかまいなく。すぐに帰りますから」
「――ゆっくりしていけばいいじゃない。私も話を聞きたいし?」
有無を言わさないとはこのことだろう。
向けられた瞳が笑っていないように見えた。
「……はひっ」
八雲は蛇に睨まれた蛙のごとく、身動きできずに嫌な汗をかく。
――やべぇ、愛娘に手を出した男だと思われてる?
何も誤解が解けていない現状では仕方のない事とかもしれない。
あの押し倒された光景を見てしまっているのだから。
紅茶を淹れ始める美冬はソファーに座り込む八雲に話を切り出した。
「和奏はああ見えて、純粋な子なのよ。思い込みが激しいところがあるけども、こうと決めたら自分を曲げず、まっすぐに進んでしまう。好きなものは一度決めたら、それをずっと好きでい続けられる子よ」
「……はぁ」
「私とは大違い。私ってば浮気性だから、あっちにもこっちにも目移りしたり、手を出したりしちゃって、本命にはよく怒られてたなぁ」
「それは男の話ですかぁ!?」
「あら、男の子だけの話じゃないわよ?」
そう美冬にからかわれてしまう。
――このお方、学生時代は相当なビッチさんだったのでは?
ずいぶんと若い頃は男心を弄んで楽しんでいた様子だ。
「ふふっ。私の話はさておき、そんな純粋な和奏がずっと好きだったのが八雲君」
「アイツの好きな相手を知っていたと?」
「娘が好きな子くらい親なら何となくわかるものよ。それに、夜中にあの子の部屋の前を通ると、甘ったるい声と共に八雲君の名前を呼んだりして」
「そ、それは言っちゃダメなやつですっ!?」
「あらぁ、何を想像しちゃったのかしら?」
冗談半分にからかわれて困惑する八雲である。
「知ってるかしら? あの子の部屋には貴方の写真を飾ってるのよ」
「……昨日はそんな風に部屋をじっくりと見る余裕はありませんでしたよ」
懸命に釈明する情けない姿を美冬は笑った。
「誤解、ね? 誤解されるような真似をした、貴方に隙があったんでしょう」
「うぐっ」
「……でも、和奏はその隙を逃さなかった。昨日まで話しかけることもできなかったあの子が、今日は家に連れてくるまでの関係になってる。大きな進展だわ」
――ただ弱みを握られただけだ。
例の動画さえなければ、こんな風にはならなかったのに。
大いに後悔する八雲だった。
「はい、どうぞ。少し熱いから気を付けて」
レモンティーを淹れてくれたので、ティーカップを受け取る。
「お茶菓子は……これにしましょう。ラングドシャ。間に挟まったチョコレートが美味しいクッキーなの。八雲君は甘いものは好き?」
「それなりに。いただきます」
ラングドシャのサクサクとした食感、程よい甘さがいい。
クッキーをいただきながら、八雲はこの際だからとはっきりとした口調で、
「和奏の件ですが別にあの子に好かれるような真似をした覚えがないんですよ」
「……何一つ?」
「えぇ。小さな頃に会ったくらいです。浩太とは仲がいい友人ですから、この家にだって遊びに来たことも何度もあります。ですが、あの子とは付き合いはなかったです」
好意を抱かれる理由がない。
八雲にはそれが思い当たらないのだ。
ティーカップに口をつける美冬は静かな声で、
「人間ってね、優しくされた記憶は覚えてるものよ。その人にとっては何気ない行動で覚えていないことだとしても、相手にとっては意味がある行為だとしたら?」
「意味のある行為」
「優しくされて好きになる。人って単純だけど、想いの本質はそういうモノでしょきっかけがあって、相手を思う理由になって。恋をしたらもう止まらない」
似たような経験を八雲自身だってしているのだ。
淡い初恋、それはいつだって単純な思いがきっかけなのである。
レモンの風味がよく香る、温かな紅茶を飲みながら八雲は美冬に言った。
「俺はあの子の事をよく知りません」
「知らないのなら、知ればいい。お話をして、相手を知ればおのずと相手の事もわかるでしょう。今の世の中、ろくに話もせずに相手を理解した気になる子が多すぎるわ。人を知るのに年月は必要なのよ」
美冬に諭されてしまう。
「お互いの事を知る。理解をする。そうしないとホントに大事なものは見えてこないものよ。先入観や思い込みだけでは相手の本質は量れないもの」
ストーキング行為をされている。
それゆえに、和奏の事に苦手意識が先入観としてあるのは事実だ。
――俺はあいつのことを何も知らない。
昨日の今日、出会ったような関係にすぎない。
自分はもっと相手の事を知るべきなのだろうか、と思い始めた。
「八雲君はもっと相手の事をよく知らないとダメねぇ。そんなのだから、恋人にだってフラれちゃうのよ。相手のこと、どれだけ知ってた?」
それは昼休憩に彩萌に言われた言葉そのものだった。
――俺がアイツの事をもっとちゃんと理解して応えてやれていたら。
あの破局は避けられたのかもしれない、と。
――恋愛にしても何でも、他人と触れ合うのって難しい。
何も返す言葉もなく彼は「反省します」と小さく呟く。
「八雲君はとても素直な子だわ。人間、素直が一番よ」
「そういうものですかね」
淹れてもらった紅茶を飲みほして、八雲はふと気づく。
「……そういや、アイツまだ来ないな。遅すぎないか?」
制服を着替えてくるだけにしては時間がかかっている気がする。
時計を見ればもう軽く15分は過ぎていた。
美冬と雑談している間、和奏は何をしているのか。
「そういえば、和奏も来ないわ。着替えだけなら時間もかからないと思うけど?」
ふたりして疑問に思っていた時だった。
ようやく、リビングの横にあるドアが開いた。
「――お待たせしました、先輩」
「ちょっ、お前!?」
「準備に時間がかかってしまって。いつでも大丈夫ですよ」
和奏はお風呂上りなのか、バスタオル一枚の姿だった。
露出する白い肌、タオル一枚に隠された溢れんばかりの魅惑の胸元。
タオルがギリギリで見え隠れする太ももや、お尻のライン。
どこに視線を向けていいのか分からない八雲は叫ぶ事しかできない。
「お、お前、何の準備をしてやがった!?」
「え? 先輩に抱かれるための準備ですけど?」
「さも当然のように言うな! 何でそうなる!? こっちに近づくんじゃないっ」
「えー。先輩のために準備をしてきたのに」
「さっさと服をきて来ーい!」
困惑して叱りつける八雲の横で少し呆れ気味の美冬は一言。
「……うちの娘もアプローチの仕方が問題ねぇ。好きな男の子を誘惑する方法をちゃんと教えておくべきだったかしら? 恋愛は押してばかりじゃダメなのよ」
我が娘ながら、と和奏の暴走行為に戸惑うのだった。
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