第一章 (3) 成立前夜


 

 『国民生活基本金給付法』(通称、ベーシックインカム法)は、2020年の春に国会で可決され、五年の準備期間を置いてのち、2025年4月1日から実施されることに決まった。

 日本の社会構造を根底から変えるこの法案は、提出から可決・成立に至るまで紛糾に紛糾を重ねた。

 当初は、国会議員はもちろんのこと、国民からも全く相手にされないものだった。

 机上の空論、ただの理想論、非現実的な夢物語。そして決まって、そんな財源がどこにあるんだ、と鼻であしらわれるのが常だった。

 だが、たったの二年の間で、そんな意見こそごく少数派になって行った。

 その波紋は、明見あけみ晃一郎こういちろうという無所属の国会議員から広がり始めたのだった。


 明見は、北海道知事の職を辞して一年後に衆議院議員に立候補し、無所属ながら政権与党と一部の野党の推薦を得て当選した。

 その時から、ベーシックインカムを公約に掲げていた。

 国会議員になってすぐに『BI調査研究会』を発足させた。

 最初は数人の有志議員だけの会だったが、すぐに党や会派を超えて議員が集まり始めた。

 研究会の模様はインターネットですべて公開され、様々な分野の有識者・学者・官僚・ジャーナリストの他、一般の社会人や経営者や大学生・中高校生までを招いて討論をした。

 そうしたやり方は、明見が北海道の小樽市で市議会議員をやっていた頃から変わらぬ手法だった。

 それは、ネット上で次第に関心を集め、あちこちに飛び火して行った。

 それに伴いテレビ番組でも取り上げられるようになった。

 

 明見を始めとする推進派の議員は、そうしたメディアにも精力的に顔を出し、熱弁を振るった。

 もちろん、最初は眉唾で色物的な扱いだった。

 しかし、ただの空想ではなく、具体的で現実的な方策について様々な人と討論を重ねるうちに、だんだんとそれは夢物語ではなくなってきた。

 一考する価値のあるテーマとなり、新たな希望の光となり、期待は待望となり、そして熱望となった。

 

 数字の上では、景気は僅かずつ上昇してはいたが、国民生活にはなかなか反映されぬまま、停滞感・閉塞感が蔓延していた。

 それを打開するために様々な政策が立てられたが、焼け石に水という感は拭えなかった。

 加速する少子高齢化社会は、ますます先細りになるばかりだった。

 そうした世情や、将来への不安、見通しの立たない未来に、ベーシックインカム制度は究極の一手とも見えた。

 

 もちろんそれは危険を伴う大きな賭けでもある。

 社会構造を根こそぎ覆すほどの大変革であり、明治維新に匹敵するほどの革命でもあった。

 このままでいいのか、それとも敢えて新しい国作りを目指すのか。

 誰の生活にも直結するその制度は、自分たちにどんな影響を与え、どんな弊害をもたらし、どんな社会となって行くのか。

 いったん俎上に乗ったこの問題は、否が応でも、関心を向けないわけには行かなかった。

 自分にとって、家族にとって、生活にとって、仕事にとって、会社にとって、人生にとって、どんなメリット・デメリットがあるのかを否が応でも考えざるを得ない。

 

 社会が崩壊するのではないか?

 何もかもメチャクチャになってしまうのではないか?

 今まで積み上げてきたものが無に帰してしまうのではないか?

 民主主義は保たれるのだろうか?

 経済サイクルが破綻してしまうのではないか?

 国際社会から孤立してしまうのではないか?

 そんな恐怖は根強かった。


 金や労働に縛られていた暮らしから解き放たれるかも知れない。

 人生に新しい意味を見出せるようになるかも知れない。

 新しい国に生まれ変わるかも知れない。

 失いつつあるもの、忘れつつあるもの、置き去りにしてきたものを取り戻すことが出来るかも知れない。

 子供たちに、未来に、夢や希望を残せるかも知れない。

 そんな漠とした魔法のような効力は、まだまだ疑わしかった。

 

 それにも関わらず、世論は醒めなかった。

 喧々諤々と議論が沸騰する中で、政策として具体的で現実的なものになって行った。

 現代社会の様々な問題が、ベーシックインカム制度に照らし合わせられて、ひとつひとつ検討された。

 毎日のように起こる悲惨なニュースや社会問題が、ベーシックインカムだったなら、と考察されるようになっていた。

 もちろん、それですべてが解決する訳ではない。

 だが、そうした問題の根底にある生活基盤の不安定さというようなものが、かなりの部分改善されるかも知れない。

 社会格差、経済格差、労働格差、拝金主義、人間不信、将来不安、私利私欲、利益優先主義。

 それに加えて、優しさや思いやりや礼節や道徳心といった、日本人が本来持っていた精神の欠如。

 そんな目に見えないものにも、なんらかの効果をもたらすのではないだろうか。

 論調は、そんな方向に変わりつつあった。

 賛同者が増えると同時に、また当然、強固な反対論も強まった。


 世論が盛り上がる中、時の首相が委員長となり、国会で『ベーシックインカム調査特別委員会』が設置されることになった。

 衆参合同の異例の委員会で、従来のような質問する側と答える側を決めての質疑応答ではなく、自由討論形式とされた。

 明見たちの『BI調査研究会』にも参加していた首相が委員長となって、このテーマは公的なステージに上った。

 そこには賛成派、反対派を含めて、ほとんど全員の衆参議員が加入した。

 誰にとっても、もはや無視できない問題だった。

 そこでの討議の様子も、インターネットでライブ配信され、動画サイトでいつでも見ることが出来、テレビや新聞でも頻繁に取り上げられた。

 『BI調査研究会』も今まで通りに討論会を持ち、ネット配信された。

 ネット討論会やテレビ番組もあちらこちらで始まり、それらは『BI研究会』に集結して行き、ベーシックインカム調査特別委員会に収束して行った。


 15年以上も続くデフレ不景気に、どこか諦めにも似た倦怠ムードが蔓延する社会。

 その底から湧き上がって来たようなベーシックインカム論争のうねりが日本中に広がっていた。

 法案成立の二年前、2018年のことだった。

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