死の運命(1)

 ふと顔を上げた。音はいつも変わらぬ雨で埋まっていたから、時間の経過に気がつきにくい。過集中のために遠近感が失われて、目がずきずきと痛んだ。平板な視界がぐるりと回転し頭が振り回される、あわてて机のへりを掴んで、息を吐き出した。出来上がった手紙たちは、どれもすばらしい出来栄えだ。

 こと、今日手がけたなかで最もうつくしいのは、アルべニアの古典詩人の流れるような字体を模写して綴った、恋文だった。一度目の依頼からオルガの手跡を気に入って、それ以来幾度も頼んでくれる。死んでしまった恋人に宛てた手紙は、いつも痛切な愛情をたどたどしく綴り、言い聞かせるように「きみはもういない」を繰り返している。

 オルガはこの手紙の依頼主が誰かは知らない。だが、命の価値が狂ってわからなくなってしまったホーンという街にも、悼まれる死がたくさんあるのだということを知った。冷めきった苦い水を啜り、立ち上がる。視界はもうもとに戻っていた。イジュも、エリカも、訪ねて来なくなってしまった日常。マリアのもとから去ったオルガは、しかしさみしさを感じるよりももっとおおきな流れを得た気がして、不気味なほどの安心とともに暮らしていた。

 代書をして、マシューの事務所に行き、《お砂糖三杯》でアネモネとお喋りをし、或は《槌地区》の市場でパイを買う。慎ましやかで、平穏な生活に、夜は遠くなった。眠りは夢を伴わず、ただオルガを憩わせる。時折視界に這入りこむ見知らぬひとの金色の髪を目で追っては、くちびるが自ずと笑んでしまうのを止められなかった。

 背筋が粟立つような快楽が、オルガの日常を鮮やかにするだろう。

 マリアがどこかで苦悩している。確信というより、オルガは知っているのだ。マリアがどんな人間で、なにを欲望しているのか、オルガはオルガでありながら、その形に添うことを求められている……。故意と暴力で彩られたこの駆け引きが、オルガをたまらなく興奮させた。オルガは待っているだけだ。

 ぼろぼろになってマリアがやってきたときには、彼を抱きしめるだろう。

(痛いのがすきなんでしょう、マリア)

 かららん、ろん、とベルが鳴る。時計を見遣ればもう深夜過ぎだ。この時間に訪れるようなものは、たいてい、ろくなものではない。オルガは椅子から滑り降りると、店側をそっと覗いた。より闇の深いこちらの工房からは、月あかりの射す店のほうが明るく、よく見通すことが出来る。黒い髪、月色の眸、骨のように華奢であやうい立ちすがたは、しかし完ぺきな美を備えている。

「イジュ?」

 彼がゆっくりと振り向く。店へと踏み出して、オルガは立ちすくんだ。

 イジュの、あの人形の面貌が。

 ひび割れている。白皙にはしる無惨なひびが、彼の顏を歪めていた。左の眼窩は空で、月色の眸は片方にしかない。衣服は乱され、黒髪を伝い落ちる赤い筋が、陶器の白に変わりつつある膚を錆びつかせていた。駆け寄って、なにがあったのかと問いかけるべきだろう。だがオルガには、もうすべてが理解できていた。

 一度人形店を出た人形が、帰ってくることも一度きり。主を亡くして、魔力の供給を絶たれた人形たちが、ただのものに戻るときだけ……。死のその瞬間は、主のそばにあるために疑似的に訪れる。それから人形は蘇り、葬儀を行うほど時間を許されたのち、ヴィヴィアンネのもとへと帰るのだ。

「イジュ……」

 光を失った硝子の眸が、オルガを暗く見つめていた。関節は球体に戻っている。口を開けば顏が崩れてしまうのだろう。イジュは息をひそめて、悲哀に満ちた右目から涙を垂れていた。その涙も、機能を失って途絶える。

「おかえりなさい」

 オルガはゆっくりと彼に近づき、その壊れかけた躰をそっと抱いた。硬く冷たい感触が、イジュの帰還を知らせる。ヴィヴィアンネが死んでしまっても、人形たちはここへ帰るのだ。

「エリカ……」

 ほんの、かすかな、声だった。イジュが呼ぶ。誰よりも彼が愛した人間の名まえを。人形は死に、蘇る。必ずだ。彼らは必ず、自分の主の死を知らねばならないのだ。一縷の希望さえ許されない。そういう在り方を、ヴィヴィアンネが設計した。彼女が人形たちを愛していたのか、そうではなかったのか、オルガにはわからない。

 かしゃん、かしゃん、と破片が落ちる。ばらばらに崩れて、イジュはオルガの腕をすり抜け、絨毯に受け止められた。壊れてしまった。もう二度ともとには戻らない。大量の白い破片が、山となった。オルガはその破片を掻き混ぜて、月色の硝子玉を拾い上げた。手が切れて、血が流れた。

 硝子玉に、そっとくちづける。迷子になってしまったもう片方の眸は、きっと二度と見つからないだろう。

「イジュ」

 エリカが死んだのだ。魔術師協会とそこに属さない魔術師たちのあいだで争いが起きているとは聞いていた。マリアの仕事がそこに絡んでいるであろうことも知っていた。何もかもがなるようになり、運命は狂わない。

 赤錆びの雨は止まず、夜半のホーンを閉じ込めていた。

 工房へと戻り、作業机の引き出しを開けた。びろうど張の引き出しのなかに、イジュの目をそっと転がす。かちん、とぶつかりあって、人形たちが再会する。

 その引き出しには、幾組もの硝子玉が納められていた。ひと組とて同じ色をしたものはない。ヴィヴィアンネが魔術師の永い生のなかで作った幾体もの人形たち。彼らが映した世界を孕んだ目玉たちが、ここにはある。イジュのように失われてしまった目もたくさんあった。ヴィヴィアンネはかつてそんな迷子の目玉を、異なる色の一組にして、新たな人形を作りたいと言ったことがあった。オルガはうたた寝の合間に、彼女の優しい声を聞いていたはずだ。

 オルガに作ることが出来たなら。イジュの月色の眸を使うだろうか、新たな悲しみのために?

(わからない。ヴィヴィアンネ、あなたのことが)

 死、そして蘇生、そして死。

 だが、それで終わることが出来るならば、とオルガは思わずにはおられなかった。ふと憂鬱さに視界が狭まる。イジュの白い骨の山と、血で汚れたままの絨毯と、薄ら赤い光の射す店、どこに安寧があるだろう。どれだけの幸いを、夢見ていたのだっけ。

(僕の死の運命は、いつ訪れるんだろう。ねえマリア)

 待っている。

 円椅子に腰を下ろした。イジュは間違いなく、オルガを助けてくれた。優しく、そして正しい存在としてオルガの手を取って立たせてくれたのだ。この椅子も、テーブルも、イジュがいなければ運べなかった。どうして帰ったのだ。ヴィヴィアンネが人形を迎えるとき、なぜあれほどやさしい微笑みを浮かべていられたのか、オルガにはわからない。

 偽りでもオルガは、いま微笑えない。

 テーブルに突っ伏して、いつかの晩のように微睡みを探した。待っている? いや、待っていない。

 待っていない、待っていないから、現れないでほしい。オルガはばかばかしくも人形の死を悼むときに、自分の運命を嘆くときに、誰のまなざしも必要としていないのだから。

 かららん、ろん、ころん。

 だのに、鳴るのだから、嫌気が差す。

 どこかでは望んでいたのか? そういったふうに、また己を信じられなくなるのだ。寄りかかってしまう。

「オルガ」

 マリアが現れる。オルガはのろのろと顔を上げた。彼は黄金色の髪から、赤い水をしたたらせていた。もう幾晩も眠っていないような顔をしていた。それはきっと、オルガが彼の部屋から消えた晩からであるはずだった。

「マリア」

 つかつかと歩み寄ってきたマリアが、オルガの頤を掴む。指先だけでとらえられているはずなのに、彼の力は強く、痛みが、オルガの悲しみを退ける。代えて湧いた驚くほどの怒りのために、オルガはマリアを睨み上げた。彼の目が、傷ついたように見開かれ、隠すために翳る。

「どうして待っていてくれなかった?」

「貴方がそれを願ったから」

「オルガ、どうして泣いているの」

「かなしいことがあったからだよ」

「どうして、ねえ、オルガ」

「マリア、僕に会いたかった? 僕が勝手に帰ってしまって、かなしかった?」

 マリアの碧眼が燃え上がる。ちらつく凶暴な炎に、オルガは唾を飲んだ。

「うるさい」

 顎から手が離れたと思った。手の甲で頬を撫でられた。そしてその手が、力任せに顔を叩く。円椅子から転げ落ちて、オルガは絨毯に座り込んだ。頬が熱い。じんじんと痛む。頸をひねってしまったようで、思わず顔が歪んだ。

 立ち上がろうとすると、マリアの靴先が胸を蹴った。再び絨毯に倒れる。頭だけが絨毯の途切れ目に落下して、板張りの床にひどく打ち付けた。息が詰まって、熱への感覚が鋭敏になる。汚れた靴底が、そのまま胸を踏みつける。ちょうど心臓の真上を。オルガのささやかな膨らみをにじり、骨を軋ませる。靴底の赤い水が、白いシャツを汚した。

「マリ、ア……」

 イジュがエリカを呼んだような、囁きで呼んだ。死んでしまったエリカを想った、イジュの最後の息のように呼んだ。

(ああ僕は、淫らだ……)

 身を任せてしまいたい。このまま踏み抜いてほしい、「マリアの望むままに」という欲望の影で蠢くものを、解き放つべきか否か。薄く目を開くと、マリアが怯える。オルガの玉虫色の眸を忌むように体重をかける。ぎし、と骨が鳴る。マリアの肋骨も折れているのだ、すぐに治るオルガのそれが壊されたからといって、いったいなにになるだろう。

 オルガとマリアはそろわないのだ。決して。同じになれない。誰もがそうであるように。

 碧い眸が見開かれ、凶悪な欲望のその奥の、無防備なこころが露わになる。オルガは見つけてしまう。どうしても彼のことを見つけてしまう、マリアのうつくしい顔、傷痕が這う裸体の白さ、怯懦の虫に食い回されている青年の、途方に暮れたような涙を見つけてしまうのだ。

 オルガは彼を、脅かさずにはおられない。

「すべての人形にとっての創造主はヴィヴィアンネだった。けれど彼女は人形たちを痛めつけるようなことしか考えていなかったの。かなしみで終わる仮初の生を与え、死を取り上げて蘇らせ、帰らせるんだ。人形たちは帰ることを義務付けられている、偽物の魂にそう書かれている。人形たちの神さまはヴィヴィアンネだ、だけれど僕は人形じゃないから、彼女を信仰しないことに決めたんだ。信仰しなくても、それでも、ヴィヴィアンネは神さまなんだよ。ねえマリア、貴方の神さまは誰なの。貴方のことをはじめに壊そうとしたのは誰なの。すべて僕に教えて。僕に開くんだ」

「オルガ」

「貴方は僕を欲望する」

 永遠に、オルガに死の運命が訪れるまでの永遠を。

 マリアの足を静かに躰の上からどかした。半身を起こして、立ちすくむマリアを見上げる。彼はオルガを見ていない。見まいとして目を逸らしている。

「マリア、僕を見るんだ」

「だめだ」

「マリア」

 ぎこちなく、彼の目線が降りる。オルガの腫れた頬を見て怯え、乱れた服を見て怯える。愛おしさと苛立たしさの半ばで、オルガは自らの異様な興奮を認めた。見下ろされているというのに、オルガはいまマリアを支配していた。彼は目を逸らしたがって、苦しそうにしていた。

「貴方は僕に話す。貴方のもっとも話したくないことを、貴方のおそれるもののことを」

「俺は」

「僕はオルガ。人形師ヴィヴィアンネの手によって生まれた人造生命体、性別は女、生殖機能は有していないけれど、性交は可能だ。死の運命が訪れるそのときまで、僕は死ぬたび蘇る。ほんとうの終わりはヴィヴィアンネが定めたときにある。僕はそれを知らない。貴方は、マリア」

「俺は……」

 赤錆びの雨が降る。ショーウィンドウを赤く汚す。

 マリアが跪き、オルガは彼の躰をそっと抱いた。だんだんと力を籠める。マリアが呻く。息をするのも苦しげで、額には冷たい汗を浮かべている。頬が紅潮していた。マリアの頸に頭を寄せて、オルガは抱きしめた。

「痛い?」

「痛い。骨が、折れてるんだよ、オルガ、痛い、いたい」

「でもすきなんでしょう、僕のことが」

「オルガ……、オルガ」

 マリアの両腕は力なく垂れていた。彼は慄え、オルガに抱きしめられるまま、顔をゆがめていた。かわいそうなマリア、とつむやくと、彼は肩を揺らす。それから静かに泣きはじめる。しゃくりあげるマリアの背中を撫でて、力をゆるめた。長い話がはじまろうとしていた。オルガはそれに耳を傾ける。そして知ったマリアの過去でもって、つぎに会うときに、彼を傷つけるだろう。マリアはオルガに刃を与えるのだ、自分だけを傷つける刃を。

 泣きじゃくるマリアを揺らしながら、オルガは目を瞑った。

 雨の音が聞こえる。

 悲しみが流されてゆく。イジュも、マリアも、オルガ自身も、なにもかもが遠ざかる。あまりにも小さくなる。赤い煙の向こう側では、ヴィヴィアンネが微笑っている。蛋白石の、濁ったうつくしい眸に、なにも映さないままに、オルガの死の運命の糸を変わらず、握っている。

(僕は待っている)

 イジュの眸にくちづけるときも、マリアを抱いているときも、変わりはしないのだ。

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