飢え彷徨うものたち(3)
ざ、あ、あ、あ、と。
赤錆びの雨は神経質な間隔の短さで、音を連ねる。そこらじゅうを水浸しにする。ひどい湿気はマリアの部屋のうつろをいっそうみじめにしていた。かすかに乱れた寝台に触れても、体温の名残りを見つけることは出来なかった。シーツは薄らと赤く染まっている。オルガを濡らした雨が、白いその布を、錆びつかせていた。
(どうして)
帰るなと言いおいたのに。
ひどく裏切られた気持ちになって、マリアは寝台の端に腰を下ろして項垂れた。裏切られた、その気持ちは無論、オルガを信じたという事実から生まれていた。胸の底のどす黒いどこかで、ざわざわと蠢くものを感じる。
買ってきたふたりぶんの食糧を床に投げ出せば、青い林檎は床を転げてゆく。衝撃に傷んだ部分から、やがて腐りはじめるだろう。あまい果実の腐臭が、この部屋を満たすだろう。マリアはきっとあの林檎を食べないはずだから。
どうしてオルガがここにいないのか、マリアにはわからなかった。
彼女は求められればそのままに、すがたを変えるような存在ではなかったのか。そのオルガの愚かしさが、マリアを惹きつけてやまなかった、なのに。彼女はマリアの言いつけを守らずに、勝手にこの部屋から帰ったのだ。おそらくは、《人形店》へ。
どうして《指輪地区》でマリアを呼んでいた彼女が、ひとりで帰る?
(ばかな。俺は理由も聞いていないのに。どうしてオルガが俺を呼んでいたのか、も、知らないのに)
いったいどうするつもりだったのかは、自分に問うてももはやわからない。だが、マリアは確かにオルガのために買い物をし、ロンを放って帰ってきたのだ。わずかな緊張と期待に胸を、不安にさせながら。ばふ、と寝台を叩く。肋骨が軋む。普段は知らぬ顔をしている痛みがかえってくる。薬が切れていた。怪我はどれも治りきっていない。
「くそ……」
顔をしかめながら立ち上がる。躰の重さに改めて気がつかされて、ぞろりと凶悪な衝動が頭をもたげる。きつく目を瞑ってそれをやり過ごし、机に無造作に置かれた薬を手に取った。
ヴァイオレットに殴られて吹きとんだオルガの、もののような躰、抱き上げた重み、ふたつの映像と感覚はうまく繋がらない。おもちゃのように軽かったなら、マリアはオルガを閉じ込めたろうか。殺したはずの彼女が生きているという不気味なことを、忘れたりしたろうか。オルガはいったい、何であるのか。明らかにしたくない。
(生きているのか?)
人形ではない、という確信が、ある。その根拠のない考えは、しかしマリアの希望に反するものではなかったか。マリアがオルガに惹かれること、それは彼女が、生きてはいないのではという疑念に根差したものではなかったのか。
自分のことがわからなかった。オルガのことを考えると、凶暴な欲が蠢く。落ち着きなく手を握ったり開いたりしながら、苛立ちを抑えることが出来なくなる。
いつだってそうだ、マリアのこの衝動は、彼のことを傷つけるためだけに存在している。実際に傷つくのはマリア以外の人間だ、マリアが傷つけるのだ。徹底的に破壊しつくさねば、マリアは救われない、衝動はそう囁く。或は、殺せば、おまえから離れてやろうと……言うのだ。
先程魔術師を殺した黒いナイフの刃を点検した。骨を避けて肉を潜った刃は、かすかな曇りがあるだけでどこも欠けてはいなかった。震える手で腿にナイフを吊るして、外套を羽織る。もう躰を制御できない。急きたてられる。外套の裾が足に絡みつく。はやる心のせいでうまく歩くことが出来なかった。まろぶように部屋を出れば、強烈な赤が目を覆う――。
涙が流れている。ぬるいそれは雨よりも強い嫌悪を呼びながら流れ落ちた。眸が錆びつけばいいのにと願う。束の間の願望は衝動に一瞬で塗りつぶされる。《槌地区》を抜けて、《指輪地区》へと足は勝手に動いた。マリアの生まれ育った地区だ。猥雑な熱が、赤錆びの雨をぬるくする。淫らな男女をしとどに濡らす。マリアもそこに加わるだろう。
(殺さなきゃいけない)
神さま、とつむやいて、クルスを服の上からぎゅっと握り、放した。
雨煙の赤い紗幕の向こうへ、マリアという人間を決定的に意味づける線を越える。
(俺はオルガが欲しい)
そう、手に入らないものが。
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