飢え彷徨うものたち(2)

「オルガ!」

 ヴァイオレットはマリアの同業者、つまり荒事屋だ。依頼があればあらゆる荒事を請け負い、時には抗争の加勢から用心棒、或は殺人にまで手を染める。そのヴァイオレットが、オルガを本気で殴打した。本気がどうかなど見ていればすぐにわかる。 《黒つぐみ亭》を出て、どこかで呼ばれていると思えば。

 あまりにも軽やかに吹きとばされたオルガの躰は、まるで物のようだった。

 気がついたときにはもう走り出していた。幸い、オルガはマリアの方向へと倒れ込む。彼女の頭が石畳に打ち付けられるその前に、なんとか躰を滑り込ませた。汚物まみれの《指輪地区》で、石畳に伏すようにして無様にもオルガを庇った。慌てて追いかけてきたロンが目を見開いている。

「マーリア……」

 今更なにをおそれるのかと言いたかった。声を震わせて彼を呼ぶのはオルガではなく、ヴァイオレットだ。長くうねる髪が雨に濡れている。

「おい、大丈夫か、マリア。その子は」

 ロンが、さりげなくマリアとヴァイオレットの間に立つ。女の姿が視界から消えた途端、腕のなかのオルガのことを思いだした。頬が腫れはじめている。人間離れしたうつくしい顔貌をしているだけに、ひどく痛ましいすがただった。この稀有な存在を破壊しようとしたのは、しかも、マリアではないのだ。

「ああ」

 短く答えると、ロンの顏が険しくなる。「マリア」、何かを咎めるような低い声音だ。

「俺が施療院へ連れていこう」

「だめだ」

「マリア。自分の顔を見たほうがいい」

「だめだ、ロン。俺が連れていく」

 ロンの声にだんだんと苛立ちが現れてくる。雨は強まる。マリアはしかし譲らずに、ロンの顔を見ることもせずに、オルガの頬をそっと撫でた。彼女が頭を打つ前に受け止めたはずだが、彼女の意識はない。或は寝たふりをしているだけかもしれないが、少なくともいま、オルガはマリアの胸に頭を預け、目を閉じていた。

 誰かに彼女を委ねることなどできるはずもない。

マリアの顏がどうしたというのだ。ひどい顔色をしているのはいつものことだろう。こと、ヴァイオレットのような女が目の前に立ちはだかったときなどは。

「仕事はどうする」

「おまえひとりでやれるはずだ」

「いい加減にしてくれ、相棒」

 相棒、という言葉は殊更ゆっくりと、言い聞かせるような響きを持ってロンの口から降りかかる。弾け飛びそうな衝動が胸に生じて、マリアは一瞬息を詰めた。ロンに掴みかかったところで、得るものなどなにもないはずだ。痛む頭をおさえて、マリアはなんとか頷いた。ロンは眸にはしった警戒をおさめて、やりきれないという風にため息を吐く。

「少しだけなら待つ。その子をどこかへ置いて、猫の眼塔に来い。わかったな」

「……ああ」

 オルガを抱いて、立ち上がる。彼女は重いという言葉とは無縁だが、かといって中身が空洞かと疑わせるような軽さではない。生きているのだ、という現実に対する安心と嫌悪が綯交ぜになって、マリアの混乱を深めた。仕事をするのは、かえっていいことかもしれない。この耐え難い暴力への欲求は、どこかで発散する必要があった。

(オルガ)

 手が疼く。噛み痕は消えていない。手袋をしているせいで、それが他人の目に触れることはなかった。秘めた生々しい歯型が、彼女のものであると、誰も知らない。痛々しくも頬を腫らした、いまは醜いこの少女が、マリアの手を噛んで嗤った。思い出すだけで背筋が慄えるのだ。

(オルガ、けれどおまえは、俺でなくてもいいんだ)

 ヴァイオレットの手を砕いたように。彼女が必要としているのはただ欲望だけなのだ。

 《指輪地区》の人間の、下卑た好奇の視線など、夜明けには月とともに消える。錆びつく雨から守るために、外套でオルガをくるんだ。濡らせば壊れてしまう、彼女は錆びつくかもしれない。人形のように。

 歩き出す。雨を受けながら、目を伏せて。ゆっくりと歩くことは出来なかった。人目をひくし、マリアはこれから己の部屋へ彼女を運ぼうとしている。緊張している、という事実に、嫌な気持ちがした。だが、いままでマリアは住処を誰かに明かしたことはなかったし、ロンでさえ招いたこともないのだ。

(前と、まるで逆だ)

 オルガがマリアを《人形店》へと連れ帰ったようにして、マリアはオルガを家へと運ぶ。

 ばかばかしいことに、マリアは期待している。仕事から戻ったとき、窓のないマリアの部屋で目を醒ましたオルガが、あのうつくしい顔に邪気のない微笑を浮かべて、「マリア」と呼ぶことを。

 胸に、オルガが額を擦りつけてくる。

「起きていたんだね」

 くすくす笑いが返されて、マリアもおかしくなった。

「俺はおまえを部屋に置いたら、仕事へ行く。帰らないで。俺が戻ったら、おまえは俺の名まえを呼んで」

「ねえ、僕のことがすき?」

「今晩は魔術師協会側の人間を殺すんだ。嫌な仕事ばかりだよ」

「ねえ」

「うるさいな」

「痛い」

「すきなんだろ、痛いのが」

「すきだよ……」

 オルガの顏は見えない。底知れない笑みがあるだろう、それだけはわかる。あまく高い声の幼さよりももっと不気味な、玉虫色の眸の底で、うつろを渦巻かせている。マリアはくちびるを舐めた。雨の冷たさが躰の外を這うほどに、オルガの薄い肉を通じて感じる熱が、心臓に生を感じさせた。



 暗い部屋の寝台にオルガを座らせた。彼女の靴を脱がせて、放り棄てた。ヴァイオレットに触れた手を、幾度も幾度も擦って洗った。オルガの皮膚が切れて血を滲ませるほどの強さで。くちびるを噛むオルガの表情は、三日月形にゆがんだ眸は、マリアにそうせよと命じているようだった。自分がどこまで自分の意志で動いていたのか、疑わしくなった。オルガはマリアのシーツをかぶって、じっとマリアが出てゆくのを見ていた……。

「おい」

 小突かれて、現実に引き戻される。廃墟だらけの《釘地区》で、瓦礫の影に身を潜めていた。数分後にここを通るはずの魔術師を殺す、それが今日のマリアとロンの仕事だ。魔術師の本拠へ飛び込むような仕事に較べれば数倍楽な仕事で、ロンが怪我をする確率もいつもよりは低いだろう。

 マリアとロンのやり方は、いつも至極単純だ。ロンが先に前方へ飛び出す囮と盾の役割、マリアは影から標的を仕留める本命の刃。必然的にロンのほうが負傷が多いのだが、特殊体質のマリアがいるからこそ、魔術師に接近できる。それに、ロンならば魔術での治療も受けられるのだから、理に適っている。幾度でも治せるものなら、多少壊れたってかまわないだろう。

「来るぞ。集中しろ」

「ああ……」

 ロンが片眉を跳ね上げた。何か説教をしたいらしいが、標的はもう目前まで迫っていた。ロンが飛び出すのと同じタイミングで、マリアは死角を縫って駆けた。魔術が発動するときの燐の光が、赤い雨を照らす。ぼうっと浮かび上がり、煙り消える。幾度もその光があたりを華やがせた。

(マリア。僕のことがすき?)

 不意にロンの呻き声があたりに低く響き、争う音がいっそう激しくなる。

 マリアは我に返って、影から忍び出た。ロンが血を流している。魔術師は膝をつき、それでも魔術の発動を止めない。音もなく近寄り、背中から心臓へナイフを突き立てた。黒い刃は必要最小限の長さだ。ぎりぎりまでなめらかに埋め込み、引き抜く。魔術師が振り向く。驚愕に見開かれた目が、マリアのすがたを捉えてなぜか安堵したように閉じてゆく。

 いつもそうだ。誰もがマリアのすがたを見て、死にゆくときを穏やかにする。そんなにこの顏が好きか、と思いながらマリアは、引き抜いた刃を再び振り上げた。その腕を、ロンが掴む。

「やめろ、マリア」

「放せ」

「退くぞ」

「ロン」

「マリア!」

 怒鳴る声は、ふたりの想像以上にあたりにこだました。急激に気分が醒めた。ふたりともが舌打ちをして、小走りにその場を離れはじめる。ロンにちらと目を遣れば、奇妙な刺青のような文様がその肌じゅうを這っている。なんらかの魔術の痕跡らしいが、マリアにはわからなかった。呪いのように見える。視線に気がついたロンが、早口で言う。

「呪いだ。エミリオのところに行かないとまずい」

「痛みはあるのか」

「ないな。だが放置すれば死ぬだろうよ。おまえはそっちのほうがいいか?」

 いや、とつむやいて、《釘地区》から《時計地区》の方向へと足をすすめた。《釘地区》はどの地区からも離れている。ロンは今のところ苦しむような様子を見せていないが、走ることが出来るならば急ぐべきだろう。《時計地区》の医者は荒事屋のふたりをよく診てくれる。

 降りしきる雨を睨んで、煙る赤の道を見つめる。延々と続く廃墟の風景を錆びつかせる雨も、ロンの躰を這う黒くうねる印も、なにもかもが呪わしい。オルガ、彼女の乳色の膚、彼女はあの部屋でマリアを待っているだろうか。ヴィヴィアンネの住まいと同じ、窓のないマリアの部屋で。

 オルガには、おそろしいほど雨が似合わない。

 ホーンを鬱々とさせるこの赤錆びの雨が、止んだときに彼女を見たい。陽のもとでこそ輝くために、オルガは栗色の髪と玉虫色の眸を持たされたのだという確信があった。暗闇で銀色に光るために在るわけではないはずだ、オルガのあの透明な色あいは。

「ねえロン……」

「なんだ」

「いつ雨は止むかな」

「知らないな。おまえの得意の神さまにでも聞いてみたらどうだ」

「うん」

 夜を駆ける音、マリアやロンといずれ変わらぬ無法者たちの争い、《釘地区》では血でさえ乾いている。雨が降ろうとも、ここは湿気とは無縁だ。だからマリアは《釘地区》が好きだし、おそろしくもある。ロンはまじまじとマリアを見て、嫌そうに息をついた。彼の思っていることはなんとなくわかるが、それを言わせるつもりはなかった。

「俺は帰る。金と報告は任せた。エミリオには会いたくない」

「わかってる。三日後におれのねぐらに来い」

「ん」

 《時計地区》の入り口で、ロンと別れた。マリアは空腹のために食糧を買うだろう。ふたりぶんの食糧を。オルガはきっとマリアと同じ空腹で、眠っているだろう。同じことを考えている、そんな気がする。感覚を共有しているように思えるのだ。彼女とマリアと、なにもかもが違うのに。

 シチューとパンを買った。それから青い林檎を五つも買った。重い袋を抱きしめて、マリアは家へと帰る。

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