飢え彷徨うものたち(1)

「ヴィヴィアンネを殺したのは、おそらく抗魔術体質をもった人間だと思う」

 エリカが、じっとオルガの目を覗き込んでくる。彼は今日もイジュを連れず、ふらりと《人形店》に現れた。凡庸な容姿の青年の、どこか空恐ろしい月色の眸が、オルガを暴こうとしているのだと感じた。オルガは一度目を伏せ、それからエリカを真直ぐと見返した。彼がたじろぐ。

「僕はヴィヴィアンネを殺した人間を探そうと思わない、エリカ」

 沈黙が、深く在る。

 エリカは息をひそめていた。オルガは、そんな彼の挙動のひとつも見逃すまいとまばたきをやめた。

「どうして」

 囁くような問いかけは、まるでオルガが間違うことをこそ待望しているようだった。

「ヴィヴィアンネは死んだから」

「私は……」

「貴方はヴィヴィアンネの創造物ではない。ただ彼女の客のうちのひとりで、イジュの主人であるというだけの人間でしょう」

 オルガは敢えて、冷淡な口調を選んだ。エリカがオルガに腹を立てていることがわかる。或は傷ついていることが。

「私には君が、あまりにも、」

「あまりにも、どんなふうに見える? 貴方の望んだ姿でないのは確かだろうね、エリカ。悲しみに打ちのめされて、復讐にこころを燃やして、或は貴方の前で涙することが、必要?」

 エリカが絶句する。少なくとも、彼に仕事を紹介してもらったものの振る舞いではなかったろう。オルガは自分が少し冷静じゃないということを改めて認識せねばならなかった。今日も降る陰鬱な雨のせいにはできない。気持ちが乱れていた。――マリア、彼の為に。

「オルガ。君は知っているんだろう。ヴィヴィアンネを殺した人間を。そしてその誰かを庇っている。違うか」

 エリカの言葉は決定的だった。彼がいつもこの部屋になにかを探していたことは、誰よりもオルガがいちばん知っていた。オルガはかぶりを振って、小さくため息をついた。視界には、真新しいはずの絨毯にこびりついた汚れがあった。魔術師の彼は、ほんとうは初めからなにもかもをわかっていて、それでオルガを試したに違いなかった。オルガを失望させるのは、そういったことだ。

 イジュはどうだろう。そういえば、近ごろ彼に会っていない。

「僕に正しさを説くつもりなら、帰ってほしい」

 エリカは立とうとしなかった。

「私は道理を説くつもりなんてない。ただ君に失望しただけだ。どういうつもりで、君はそんなことをしているんだ。イジュや私をここへ招くのは、どうして」

「招いたことがあった?」

「君は……ひとの好意を、踏みにじっていることを自覚すべきだ」

「帰ってよ、エリカ。僕は貴方のことを軽蔑したくない」

「問題ないよ、オルガ。私は君をすでに軽蔑している」

「僕は軽蔑したくない、そう言っているんだ」

「ヴィヴィアンネの最高傑作は君ではない、それがよくわかった」

「――貴方がうつくしさにこころを認めていないだけだ」

 オルガの声を最後に、言い争いは地に墜ちた。雨煙る路地に、エリカのすがたが消える。かららん、ころん、とドアベルは遅れて鳴り、奇妙な興奮と共にオルガはまたひとり残された。こうなることはわかっていたのだ。だが、さみしくないといえばうそになるだろう。

 エリカのあのまなざしを思い出すと、ぞっとしない。オルガは誰かに嫌われてしまったのだ。イジュはもうここへは来ないだろうか。エリカがそれを禁じれば、絶対に、来なくなるだろう。或は代書の仕事も、もう無くなるのだろうか。円椅子に力なく座り、手のつけられていない二組のカップをぼんやりと見つめた。まだ温かい茶に、埃が溺れている。

 どうしてうまくできないのだろう。

(僕は、僕なりのやりかたで、生きようとしているだけなのに)

 悲しみに沈んで、そのまま呼吸を取り戻さないでいてくれと、エリカはそう言ったようなものではないか。オルガはすでに、彼のいないところでその底を浚った。そうして引き上げられた。イジュでもエリカでもない腕によって。

「マリア」

 幻のような一晩ののち、彼はもう、《人形店》にはない。

 ホーンの夜を彷徨ってみても、偶然出会うことのほうが少ないのだと、思い知らされるばかりだった。

 抗魔術体質、とエリカは口にしていた。忌々しげな色を隠そうともせずに。マリアの裸体に刻まれた数え尽くせぬほどの傷痕を思い出す。彼の青白い不健康そうな躰には、魔術による治療の痕跡がひとつもなかった。傷の痕は膚に刻まれたまま、荒々しく綴じられていた。彼が魔術師を殺すという仕事を請け負っているのは、おそらく日常的なことなのだろう。魔術を受け付けない体質のことをそのように呼ぶのかもしれない。少なくともマリアの躰は、そう語っていた。

 裸の胸に吊るされた、古びて黒ずんだ木のクルスを思い出す。革紐を、引き千切ればよかった。棄ててしまえばよかった。そうしていたらば、オルガはマリアを奪い尽くすことが出来ていたろうか?

 ショーウィンドウから見上げる塔に、マリアを感じることは出来なかった。

代書の仕事を片付けなければならない。それに、食糧を買いに行かなくては。前に買ったパンには、もう黴が生えている……。




 黒髪の小さな頭を見つけると、彼はばつが悪そうにさっとうつむいた。オルガは苦笑して、片手を上げるにとどめる。そのまま彼が立ち去るかと思うとそうではなく、なにか覚悟したような顔をして、こちらへやってきた。オルガは少し驚いていた。イジュが、エリカに背いたことについて。

「やあ、オルガ」

 居心地の悪そうな弱々しい笑みで、イジュはどこか申し訳なさそうにしていた。

 オルガは《お砂糖三杯》にイジュを誘った。彼も賛成して、ふたりは店に入った。話し合う時間が必要だったのだ。あれ以来幾度か通っているこの店で、女給はアネモネという名まえなのだともう知っている。彼女はオルガに片目を瞑ってみせると、すぐに窓のしたのテーブル席へと案内してくれた。

「さあおちびさんたち、何を飲む?」

「ソーダと今日のケーキを。イジュは……」

「珈琲を」

「ケーキは?」

「おいしいよ」

「じゃあ、ください」

 アネモネが、微妙な空気を感じ取って静かに離れていった。飲み物とケーキがそれぞれ運ばれてくるまで、イジュとオルガは黙りこくっていた。目があえば曖昧な微笑を浮かべて、お互いの振る舞いに戸惑っている。ソーダが口のなかでぱちぱちと弾けて、オルガは思い切って顔を上げた。イジュの月色の眸を見つめ、彼の言葉を待つために。

 珈琲のカップにくちびるをつけて、一瞬眉を寄せたイジュは「おいしい」とつむやいた。オルガの視線に恥じ入るように、いつもより低い声で話し始める。

「エリカは君がおかしくなったんじゃないかと思ってる」

「そうだろうね」

「でも私には、君の気持が少しだけわかる。ほんの少しだけ」

「うん」

 オルガとイジュ、違いは在れど、ふたりともがヴィヴィアンネの創造物だった。兄妹も同然の彼の「理解」の意味を、オルガは正確に汲んだつもりだ。憂鬱そうな表情で、イジュが窓の外を見る。オルガを見ていられないとでもいう風に。その気持ちをこそ、オルガには理解できるのだ。

「嫌な言い方をしてもいいかな」

 ぽつりと言われて、頷いた。

「私は人形だから、愛さずにはおられない。君はそうではないはずなのに、自分を人形だと思い込みたがっている。かと思えば、誰かを愛するよりもさきに求めている。君は愛されない時間が一秒だって我慢できない、ちがうかい」

 イジュの言うことは的を射ていた。彼とは店にいた時期も同じくしていた。何もかもをと言わないまでも、オルガのことをオルガ以上に知っているということがあってもおかしくはない。彼はどちらかといえばオルガよりもヴィヴィアンネに近い存在だ、人形であることを除けば。オルガにとっては、つまり、兄のような。

「ねえイジュ、確かに僕は人形じゃない。でも、人間でもない。僕は孤独がこわいんだ、なによりも。そういう意味では、きっと……貴方の言う通りだよ」

 ソーダをかき混ぜると、泡が逃げていく。不意にぞっとして、肩を揺らした。イジュが不安げな顔で通りを眺めている。何気なさを装った彼の口調は、オルガはもとより、彼自身をも傷つけていた。人形だとか、人間だとか、その両方でもないだとか、そういった話は、大抵いつもヴィヴィアンネを不快にさせていたことを思いだす。盲目の主の穏やかな気性に波を立てるのは、オルガの自己憐憫だけだったろう。

「君が、ヴィヴィアンネ様と――どういった形であれ、離れたのは良かったと思っているんだ。ねえオルガ、私はエリカとは違う。君が必要とする人間と会うことを止めたりはしない。絶対に。でも、自分を傷つけるような真似はしないでほしい」

「イジュ、貴方はエリカに似ている。似ているどころか、そっくりだと思う」

「ふざけないでくれ。私は真剣に、君のことを思って言っているんだ」

「ねえイジュ。なにもかもを調べ上げているんでしょう。真剣に話してほしいよ」

 イジュが息をのむ。窓から外されたまなざしが、怯えを明らかに伝える。オルガの眸がまるで、イジュを殺すとでも言いたげだった。剣呑な雰囲気は、人形のようなふたりにあまりにも相応しくないと承知しながら、オルガは重々しく口を開く。

「貴方とエリカは、いったい僕になにを望んでいるの?」

「君が自由に生きることを。誰にも、何にも強制されること無く、君が君自身の望みのために生きること」

 慎重さは、うしろに行くにつれ薄れ、かすかな興奮によってイジュの口調は大胆に変化した。澄んだ少年の声は震えながら、オルガの耳を打つ。

「君は自由に生きられるんだ! 私とは違う幸福を君は手にすることが出来るじゃないか! 人形のふりなんて滑稽だ、君が踏みにじっているのは君自身じゃない。私たちだ。私たち人形だ!」

 店内がしんと静まり返る。或はエリカのときよりも気づまりな沈黙がテーブルの真中にどんと居座り、そのけったいな躰を動かそうとしない。オルガは遠い雨音がどんどん強くなるのを感じていた。耳の奥がざわめきながら、日常は遠ざけられ、ただ煙る雨の赤によって、視界が塗られていく。

 衝動と分別。アネモネの視線、「オルガ」、マリアの呼び声、彼の血の味が舌のうえに蘇り叫ぶ。

 拳が飴色の板を打った。

「僕は僕のものでありたくないんだ!」

 ほとんど悲鳴のような声。

 そう、真実、イジュを殺してしまいそうだった。テーブルに貨幣を置き、高い椅子を飛び降りた。アネモネは目を見開いていた。イジュは罪人のように首を垂れていた。通りに出れば雨が――雨がオルガを打ち据える。

 涙と雨が混じりあい、赤い視界がぼやける。人いきれに飛び込んで、ひらすら足を動かした。夜明けの彷徨とも違う。ホーンはこれから、最も熱くなる時間だ。雨が降ろうとも関係ないほどに。《槌地区》のその奥へと進もうと、いまのオルガには見えない。何もかもに責められているような気がした。

(自由? イジュ。エリカ)

 永遠に、ヴィヴィアンネの愛に抱かれていたかった。

 常にオルガがそこに在ることを意味づけてくれた唯一のひと。オルガはひとりでは生きられない。たとえその機構が備わっていたとしても。自立存在のできない人形でなくとも。オルガは生きられないのだ。髪も服もずぶ濡れだった。外套も傘も置いてきたからだ。持っているのは小さな鞄と己の身だけ。凍えるように寒い。だが歩いた。どこかは熱かった。

 笑いがこみあげてくる。

 どうしてこんなにみじめなのだろう。ヴィヴィアンネの作品のうち、もっとも醜いのは間違いなくオルガだ。

 栗色の髪も、玉虫色の眸も、生きているというただそれだけで色褪せる。滑稽、そう、もっともだ。

 ヴィヴィアンネ。盲目の主人。必死で縋ってきたのに。その時間というものがどれだけ不確実であったか、不誠実であったか、オルガは思い知ったのだ。十二分に。

 時間の積み重ねは、ひととの関係性と同じく無意味だ。破滅的だと囁くオルガは、濡れねずみの彼女自身を眺めてせせら笑っている。良心はどこへ行ってしまった? どこかへ。オルガの破滅はオルガのためにある。それに耐えられなかった。

「マリア! マリア! ……マリア!」

 呼べば来るような、そんなふうなものではない。オルガは彼を求めていない。彼がオルガを求めている。猥雑な雑踏で、オルガを見る様々の人間がいた。

「マリア」

 普段ならば決して足を踏み入れることのない《指輪地区》に入っている。だが、今更どんな恐怖がオルガの足を止められるというのだろう。腸を熱くする憤怒と憎悪と、果てなく思われる自己への疑問が、オルガを突き動かしていた。マリア、マリアと呼びながら、涙を流していることにさえ気がつけないまま。

 雨が降るせいで、赤い水が乳色の肌を湿らせ、幼い顎を滴り落ちる。

「お嬢ちゃん、マリアの知り合い?」

 ふっと、強い手に腕をつかまれた。ずいぶん背の高い女が、その豊満な肢体を見せつけるかのような煽情的な服を着て、オルガを見下ろしている。紫色の眸に露わな好奇の色に、胸が悪くなる。

「放して」

「あたしの質問に答えな。マリアの知り合い?」

「放して、と言ったのが聞こえなかった?」

 オルガは自らの腕を掴む女の手首にそっと触れた。見上げる。女は嘲笑い、オルガの頬にくちびるを寄せた。ちゅっと音を立てて、赤いくちびるが離れてゆく。だが相変わらず、腕は掴まれたまま。

「かわいいお顔だ。奇麗なマリアによく似合うこと」

「ヴァイオレット! 置いていくぞ!」

「ああ、いま行くよ! ……小鳥ちゃん、愛しのマリアは《黒つぐみ亭》さ」

 するりと腕が離れようとした。

オルガはそれを許さなかった。ヴァイオレットと呼ばれた女の手首を、軋むほどの力で握る。ヴィヴィアンネはオルガを人形にしなかった。だが人間でもない。ヴァイオレットの喉がのけぞり、ひび割れた悲鳴が迸る。彼女の喉頸には薄らとした痣があった。首を絞められたかのような。女がどうにかオルガを引き剥がそうとめちゃくちゃにもがく。荒事屋らしい動きで、彼女は幾度もオルガの顏や、いろいろなところを殴打した。だが離さない、決して。

 ごぎり、と嫌な音がした。凄まじい感覚が遅れて指を伝う。

 興奮が忍び寄り、オルガは目を細めてくちびるを開いた。雨が這入る、血の味がする。止めろ、と誰かが言う。

「オルガ!」

 呼ばれた。呼ばれた!

 その声がマリアのものだと気がついてしまえば時間が、停まる。瞬間ひどい熱を頬に感じて、オルガの躰は吹き飛ばされた。

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