支配の性(3)
全身が悲鳴を上げていた。目を醒ました。あまり覚えのない寝心地だった。薄らと目を開ける。硝子のショーウィンドウから射す月の光が、ちょうどマリアの顏に当たっていた。それが眩しい。頭が割れるように痛み、おまけに吐き気もひどい。典型的な二日酔いの症状に加えて、どうやら躰じゅうに怪我をしていることがなんとなく理解できた。
手も肢も重く、思い通りに動かない。衣服は見るに堪えないほど汚れきっている。困ったことに記憶はなかった。真っ白だ。なんとか半身を起こして手をつくと、さらさらとしたものが手指のさきに触れて、ぎょっと手を引いた。
呼吸が止まりそうになった。
(どうして)
ここは《人形店》だ。そしてマリアの隣にちんまりとちいさく丸まっているのは、オルガだ。雪崩れこむ情報をうまく処理できず、狼狽えた。
マリアに負けず劣らずのひどい恰好をしている。記憶を失くすほど酒を飲み、その後さらにいろいろとやらかしたことは間違いがない。自分を呪って、額を押さえた。大きく息をついたところで、オルガの薄い目蓋が持ち上がる。焦点の定まらない玉虫色の眸が彷徨い、マリアを見つけてきょとんと瞬く。
「まりあ」
瞬間、どこかが焼ききれた。気がつくとマリアは、オルガに馬乗りになり、その華奢な喉頸を掴んでいた。彼女が目を見開いてもがく。顔色が徐々に変化してゆく。赤からだんだんどす黒くなる。不明瞭な声のようなものが、くちびるの端から唾液と共に流れ落ち、マリアの手を汚した。玉虫色の眸が濁り、飛び出しそうになる。抵抗が弱まって、だんだん躰が強ばってゆく。
ぱっと手を放した。
自分が呼吸を止めていたことに気がついて、マリアは肩を揺らした。遠くで耳鳴りがして、きいんという甲高い音が、現実の音をひとつも拾えなくさせる。オルガが躰を丸めて、痙攣するように動いている。咳きこんでいるのだろう。耳鳴りが去り、やがてマリアの耳にも音が回復した。は、は、という途切れがちな喘鳴が己のものだと気がつくのに多少の時間がかかった。胸をぎゅっと握り、吐き気を堪える。
オルガの奇妙な呼吸音が落ち着き始める。
額も、背中も、鎖骨も、嫌な汗でじっとりと湿っている。あちらこちらから流れた血と混じりあって、まるでホーンの雨のように、赤い条となって流れ落ちる。吐き気が止まらなかった。オルガが無言のうちによろめきながら立ち上がり、奥に消え、まもなく戻ってきた。陶器の盆を渡され、次いで清潔なタオルで首を拭かれた。絨毯に座り込み、椅子のひとつにもたれて、マリアは動けなかった。音とともに、あらゆる感覚が研ぎ澄まされてくる。つまり痛みが、いまマリアを圧倒していた。
どこもかしこも痛む。ひどく。肋骨が折れている。呼吸のたびずきずきと痛んだ。頭痛と眩暈と、思考を許さない熱があとを追う。認識した途端に、研ぎ澄まされたと思った感覚たちが鈍くなる。目は翳み、口のなかはからからに渇いていた。
「オルガ……」
オルガが行ってしまう、立って、どこかへ。彼女の服の裾を掴んだ。力が入らないせいで、マリアの手はだらりと落ちる。その動作さえひどい痛みを伴うものだから、たまらない。オルガは振り返り、玉虫色の眸でマリアをじっと見つめた。彼女のやわらかな乳色の肌、その喉には、赤黒い手の痕が生々しくついていた。呪縛のような痕だ。マリアがやったのだ、彼女の首を絞めたのだ。
呻いて、彼女の腰に抱き付いた。薄い骨に頬を寄せた。また痛みがマリアを引き剥がす。
オルガのやさしい手が、マリアをそっと横たえた。おずおずと、髪に触れられる。
「毛布と、お湯と、薬箱を持ってくる。貴方はたいへんな怪我をしている。僕は貴方に手当を施す。いい?」
「……貴方じゃない。マリアだ」
掠れた声しか出なかった。オルガはひとつ頷くと、「ええ、マリア」と真剣な顔で言った。
その後は悪夢のようだった。
蝋燭の灯りひとつさえ点けられていない。月影が赤い雨を映したかすかな光だけが、暗闇にまぎれこむほか、色彩は死に絶えていた。
オルガの手は魔法のように、マリアを丸裸にした。彼女に恥じろぎの色は少しもなく、ただおそろしいほどの真剣さで、マリアの全身を検めていった。マリアのほうが羞恥心におそわれる。オルガは静かに、ほとんど生まじめにマリアを浄めた。怪我はほんとうにひどいものは骨折と一箇所の刺し傷だけで、あとのものは打撲と切り傷がほとんどだ。裂けた拳を洗い、包帯を巻き、オルガはマリアの指のさきにくちづけた。
まただ、と思う。水のにおいがするのだ。オルガの、かすかに甘いがとらえどころのない水のかおりが、膚を撫でてゆくのがあまりにも心地よかった。無言のうちの手当てを終えるころには、いま再びの夜明けに近い時間だった。
熱に悩まされるマリアは、ほとんど寝たまま。
吐き気がようやくおさまって、胃のむかつきや天地を失くした感覚器をなんとか宥めることが出来た。オルガはそんなマリアを見て、自分のひどい恰好を思い出したというように瞬くと、「着替える」と言って奥へと消えてしまった。
(笑えもしない)
ショーウィンドウから覗き込む人間こそいないが、マリアが、こんなところで、裸に毛布を巻き付けただけの恰好で、転がっているなんて。裸を見られて、放置されて、さみしさを冷たさとを感じながら目を瞑っている。指の一本すら動かしたくなかった。
オルガに、水を与えてほしかった。彼女の手で差し出される杯から、澄んだ水をくちびるに流し込んでほしい。そうしてくちびるを湿した水が、一条垂れてゆくときに、それを目で追うオルガが見たい。
「動ける、マリア」
かすかに首を振った。否定の合図に。
「貴方は寝台に移った方がいいと思うのだけれど。僕が手を貸しても、だめかな」
(おまえが思うほど、深刻じゃない、ただ……動けないんだ……)
何が聞こえたわけでもないのに、オルガは顎を引いた。彼女は清潔で少し気軽な綿のシャツを身に纏っていた。自身も休養をとるつもりなのだろう。いつもはタイツに隠されているすんなりとした肢が、なまめかしく伸びていた。マリアの目が、そう見ていた。
首の痣がすっかり消えていることに気がついて、マリアは突然不安に襲われた。彼の視線に気がついたオルガが、さらりと己の首を撫ぜた。
「ああ……ひとより治りがはやいんだ」
「おまえは、人間なのか?」
マリアの問いに、オルガは微笑んだだけだった。そのとき初めて、オルガの玉虫色の眸に弱さを見て取った気がした。ぐずぐずにだめになっている彼女ではない、いまマリアの目の前にいる彼女のまなざしのなかに。
「手を貸して、オルガ。立って歩く」
「気をつけて」
盲目のヴィヴィアンネの住居だ、足元の障害物や突起などには相当気を払っていたのだろう。マリアを支えるオルガも慣れたもので、彼は寝台に落ち着いた。リネンは湿った感触と黴のにおいがした。ものと窓のない部屋は、彼を安心させる。オルガが傍らに毛布を運んできて、マリアの寝台の足元に丸まった。胸が痛くて仰向けで眠るしかなく、彼女の様子をうかがい知るのは難しい。ただ、時折もぞもぞと動いてはこちらを見ているのがわかった。
マリアが眠っていないことを、彼女が憂えているのか、それとも喜んでいるのか、そこが測りがたい。
「オルガ」
「なに」
「おまえはどうして俺にこだわるんだ」
愚かしい問いだった。自分がいちばん理解している。
こだわっているのは、マリアのほうだ。オルガが頭を揺らすのが気配でわかる。何を言われるか、息を詰めた。オルガの声は夜明けのささめきごとには高い。僕という自称を不思議な性へと誘う少女の声音だった。マリアはそれに、振り回されている。
「僕は、ただ、貴方を……」
「ちがう。オルガ。わかっているんだ。俺がおまえに執着していることは」
「僕は」
「おまえは、俺を、愛しているのか」
オルガの呼吸が乱れた。喘ぐような、低い呻き声が闇から漏れ出る。
「貴方が……マリアが、そう望むのなら、僕はマリアを愛している」
無味乾燥な声音だ。マリアはどこかで、彼女のその答えを知っていたような気がした。
「おまえは、人形じゃないんだな」
「ええ」
「こっちへ来い、オルガ」
闇に手を伸ばす。オルガが毛布を抜け出て、迷わずに立ち上がる。寝台の横から、マリアを見下ろす。乳色の肌は暗闇に浮かび上がり、玉虫色の眸は感情を窺わせない色で光っていた。マリアの手をオルガが握り、捧げるように口許へ運ぶ。指の一本一本を、彼女の舌がねぶる。オルガの舌に爪をたてた。やわらかで生温いそれを、抉るようにした。弾力に抗うよう、きつく。オルガはちいさく呻き、それでも手を放さない。
マリアは彼女の口腔を蹂躙した。
柔い舌に、薄桃色の歯茎に爪を立て、唾液に塗れた指を彼女の喉奥に差し込む。オルガはしきりに嗚咽し、嘔吐く。「え、う、ぇ……」、大粒の涙がぼろぼろと頬を伝い落ち、マリアの顏にも弾けた。歯を立てまいとして必死に喉を開きながら、苦しさに涙しながら、オルガは冷静な目でマリアを探っている。彼の手を舐めしゃぶり、包帯を湿らせる。
息が上がる。マリアは目を細めて、かろうじて笑みを浮かべた。限界だった。
オルガが欲しくてたまらない。
「……歯を立てろよ」
オルガの眼の色が変わった。ぞろりと闇が蠢いた気さえした。
玉虫色の眸に、嗜虐的な笑みが閃いたかと思った瞬間、つぎに呻くのはマリアのほうだった。オルガが、わずかの躊躇も見せずに、傷だらけのマリアの手を噛む。ぎりぎりと歯を立てて、噛み裂こうとでも言うように、マリアを見下しながら顎に力を込めていた。滴る唾液が、ふうふうと漏れ出でる息が獣のようで、マリアはもうどんな興奮も抑えることは出来なかった。
痛みがあまりにも鋭く、マリアを刺激する。オルガの生温い口のなかで、彼は情事の声を上げながら、彼女の凄絶な表情を、なによりもうつくしいと思った。
「うう、あ、あ、あぁぁぁああぁ、ぅ、」
オルガは支配の性だ。
彼女はどれほど餓えていたのだろう。マリアの肉を喰らってしまいたいと欲望しているのだろう。それはマリアが彼女を望んだからという、ただそれだけのことに対する反射で有り得るだろうか?
――そんなはずはない。オルガが欲望している。血が、はたはたと落ちた。唾液と混じって赤く。強くなった雨音が、突然耳に響く。ざ、あ、あ、あ、あ、と。
「あ、あ、オルガ……」
彼女が顔を揺らすと、食いこんだ歯の角度が代わる。肉を抉る牙、ひとのそれと同じ形をした歯によって与えられる鈍い責め苦の快、その甘さ。オルガのまなざしの冷たさ、暗く灯った炎は濃密な闇を放って、マリアを犯す。言葉通り、人形じみた容貌は、不気味なほど整っている。だが人形には有り得ない腥い生の吐息が、荒々しく傷口から侵入していた。
「オルガ」
思わず、空いた手で顔を覆った。透き間から見える彼女が先程よりももっと深く、強く、食い締める。逃げることを許さない。もっと悶えろと叫ぶ。彼女の顎を滴り落ちる愉楽の液体のさまざまが、手に、顔に降りかかってぬるい。マリアの身悶えで寝台が軋む。
「は、あ、うぅ」
玉虫色のまなざしは溺れかけていた。マリアの手の、骨に達せんとするかのように、肉を探って悦楽に歪む。人形ではありえない。オルガがこわい。おそろしい。従順なふりをした彼女に、食い荒らされてしまう。
ああ、と息を漏らした。
オルガが、手を口から離した。きつくマリアの手を掴んでいたオルガの両手は、いたわるように包み、シャツの裾で拳を拭う。痺れるほどの痛みがはしって、マリアは喘いだ。自分の頬を掻いた。
「マリア……」
息を荒げたオルガは、満足げに手で己の口許をこする。舌をちろりと見せて、淫靡に嗤った。
「雨が降っているね、マリア」
赤い。マリアの血赤で染まったオルガのくちびる、その無垢に、いったい誰が触れられるというのだろう。
煙る雨の夜が明ける。マリアはぐったりとして、オルガのものから自分のものへと返った手を舐めた。癒そうとしたのか、それともオルガの残滓を追ったのか、自分でもわからない。血の味が舌を苦くする。オルガの首の痣とはちがう。マリアはただの人間だ。傷痕はきっと長く残る。躰を重くする快楽の名残りが、気怠くとぐろを巻いていた。
オルガのくちびるに浮かぶ微笑を眺めて、眠りへと落ちる。泥のように、闇のように、のっぺりとした無に絡めとられるがごとき眠りへと。
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