支配の性(2)
これほど遅い時間に(つまりホーンの賑わいも終わりかける時間に)出歩くのは、オルガにしては珍しいことと言えた。だが、急ぎの仕事がマシューから届けられ、伝言はこうだった――。
「大事な顧客が、きみの筆を見てぜひ頼みたいと言っているんだ。無理を通してすまないが、きみにとっても名誉ある仕事になるだろう。さあ筆をとりたまえ」
と。オルガの腕が認められたのだ。マシューの店に提出した見本帳には、ヴィヴィアンネの気に入りの詩を何遍も書いてあった。趣味があったのかもしれない。
雨がちょうど止んでいたのもあって、オルガは大切な手紙を懐にしっかりと抱いて、マシューの店に直接届けに行ったのだ。その顧客にも実際に会った。驚いたことに、マシューの誇張かと思っていた「名誉ある仕事」というのは間違いではなく、初老の紳士は魔術師協会の重役なのだという。
どうしてマシューの店などに代書を、とも思ったが、彼とマシューの懇意な様子を見ると、どうやら個人的な付き合いがあるらしい。紳士はドミノと名乗り、オルガの指先に上品な仕草でくちづけた。
「人形師ヴィヴィアンネの娘だね」
「はい、そうです」
「うつくしい。何かあったら、またきみに仕事を頼むとしよう」
そう言って、老獪さを穏やかなまなざしの影にひそめていた。ヴィヴィアンネは野良、協会に属さなかった魔術師だ。ドミノが彼女のことを特別に気に掛ける理由は、良いものではないだろう。自分の正体を知られていてもおかしくはなかったが、だからといってオルガは彼を撥ねつける気にもなれなかった。
仕事をくれるのはありがたい。彼の依頼は書きがいがある。特に、荘重な暗喩や大魔術師の名言の多用、或は古代語の綴りの冗句などは、オルガを十分に楽しませてくれた。
そうして、多少の会話を交わしただけのはずだった。雨が止んでいるうちに、と慌てて《人形店》を出たのがオルガの失敗だった。ここ最近のホーンを見ていればわかるはずのことを忘れていた。つまり、彼女は傘を持っていなかったのだ。マシューの店を出て少し歩いたくらいから、湿気が鼻先にしつこく感じられ、すぐに赤錆びた雨は降りかかった。マシューの店は《螺旋地区》と《槌地区》のちょうど境界線上にある。夜の街で受けた依頼を《螺旋地区》の代書人に届ける、どちらにとっても都合のいい立地だ。だからこそオルガも、このホーンの夜に出かけることを決めたはずだった。
どんどんと強くなる雨に追い立てられるように歩み、ついにオルガは一軒の酒場に足を踏み入れた。橙色の光が漏れる店内は落ち着いた内装で、あまりごちゃごちゃしていない。外套はじっとりと湿って重たい。四苦八苦しながらそれを脱ぎ、腕にかけた。
「いらっしゃい」
「あの、……その」
「ひとりね?」
「はい」
感じのいい女給が片目を瞑って、席へと案内してくれる。彼女はオルガから外套を取り上げ、ぱんと綺麗に広げると、暖炉の傍へと掛ける。
「うちは料理もおいしいわよ。おすすめはブラウンシチュー。そうじゃなかったら白身魚の香草フライ。それとも甘いもののほうがいいかしら? お酒は飲まないでしょ?」
「温かいココアは?」
「もちろん。紅茶のシフォンケーキもいかが?」
「ええ。ください」
ほっとして微笑むと、女給はまたにっこりと笑う。オルガの狼狽えた様子を好ましく思っているようだ。肩から力が抜けた。女給の案内してくれた席はカウンターで、ほかの客からも離れていた。小さなテーブル席にひとりずつ座るのがこの店のやり方のようで、カウンターにはオルガしかいない。
ココアは湯気をたてていた。カップを両手で包むようにすると、雨に打たれて冷え切った指先が温もっていく。白い手の甲には赤い筋が描かれていた。雨のせいだ。布巾でそっと拭うと、赤錆びは移っていった。
大きなシフォンケーキが運ばれてくるころには、オルガはすっかりこの店を気に入っていた。酒場の看板は掲げていたが、まるで喫茶店のようだ。客も静かに飲んでいるものが多い。
紅茶のいい香りのするふわふわのケーキに、甘くないクリームをたっぷりのせて頬張りながら、オルガの耳はずっと雨音を追っていた。少しも止む気配がない。ココアを啜って息を吐くと、先ほどの女給がカウンターにもたれかかる。彼女も暇を持て余しているようだ。酒類の提供はカウンター内の男がすべて取り仕切っているし、客たちは黙りがちだった。
「どこかの徒弟さん?」
オルガの身形は、ホーンのなかにあって浮くほどではないが、決して貧しい風には見えないだろう。女の口調には単なる好奇心だけがあったから、オルガも適当に応えた。
「ええ。そんな感じです。雨宿りをしたくて」
「ほんと、この雨には困るわよね。貴方みたいに駆け込んでくるお客さんも増えたけれど、それ以上に常連さんの足が遠のいちゃってさ」
彼女の愚痴に付き合っていると、にわかに表が騒がしくなった。《槌地区》では刃傷沙汰もままある。野次馬たちが集まって、喧嘩を囃したてているのだろう。「ちょっと見物してくる」、女給がにやっとして店の玄関から顔を出す。オルガは冷めかけたココアのどろりとした塊を呑みこんで、少しだけ胸のむかつきを覚えていた。
シフォンケーキの最後の一切れを口に入れたところで、彼女が戻ってくる。興奮した様子で、頬を赤らめてさえいた。
「ごちそうさまです。お勘定を」
「ああ、ありがとう。ねえ、帰り道に見ていきなさいよ。すっごい美青年が喧嘩してる! でも酔っ払いなのよ、どっちが勝つかしら」
酔っ払いの喧嘩になど、興味はなかった。曖昧に頷いて、未だ重たい外套をかぶる。雨の音は途切れない。このまま店に留まっていても仕方がないのだ。土砂降りを突っ切ってでも、はやく《人形店》に帰りたかった。……最初からそうすべきだった。
入り口を振り向くと、その店が《お砂糖三杯》という名まえであることを知った。これからも、もしかすると、マシューとのやり取りのあいだで立ち寄ることもあるかもしれない。気のいい女給と静かなマスターに小さく頭を下げて、石畳を踏んだ。
野次馬たちは、まさに《お砂糖三杯》の向かいの通り、斜め前に集っていた。「やっちまえ」だの「くそったれ!」、或は「ちくしょう」といった類の叫びがやいやいと聞こえてくる。眉を寄せて通り過ぎようとしたところで、野次馬の輪が割れて、「わ!」、ひとがひとり飛び出してきた。飛び出してきたというよりかは、よろめいて倒れ込んできた、というほうが相応しい。巻きこまれて転んだオルガが這いだす前に、怒声が耳にわんと響く。
「このくそ野郎!」
男がオルガを押し潰したまま、頭をふらふらさせている。そこに追い打ちをかけるかのように、喧嘩相手までもがこちらへやってくる。野次馬の輪が翳む。倒れ込んだ拍子に打った頭が痛かった。気遣うような声はもちろん聞こえない。差し伸べられる手もない。起き上がりたかったが、どうやら男のほうも動けないらしい。余程痛烈な一撃を食ったのだろう。
「立てよ」
――心臓が止まるかと思った。
もの凄い勢いで、必死に頭を上げる。水晶のような声だ。幾度も幾度も、反芻した声だった。焦がれていたと言ってもいい。
「立てよ、×××野郎」
マリア。
マリアが男を、口汚く罵る。男はおそらく怒りのために顔を青黒くさせて、立ち上がった――オルガを踏みつけながら。そこでようやく彼女に気がついたとでも言いたげに、改めて顔を踏まれる。がっと不吉な音が頭蓋を揺らし、視界に星が散った。
くらくらした。
男を押しのけることができない。顏が痛かった。力が脱ける。オルガのすぐ近くには、どうやらひどく酔っているらしいマリアがいる。どうして目が逸らせる?
ブーツの底の嫌な臭いと、赤錆びた雨水の血の味が口に広がる。
「マリア」
掠れた声しか出なかった。胸が潰れて息が苦しかった。
常よりなお蒼白い顔をしたマリアが危い足取りで殴りかかる。男はオルガを蹴り飛ばすと、マリアに応戦しはじめた。オルガは少しだけ吐いた。
彼らに合わせて野次の囲いも移動する。幾人かの足を受けて、オルガはなんとか痛みを和らげようとちいさく丸まった。その場をやり過ごす。ついていかなければ。マリアがあそこにいる。顏が濡れていた。くちびるを舐めるとひどく鉄臭い。雨だ、と思ったが、ぬるりとした液体が次から次から溢れてきて、ようやく、頭を切ったのだと思い至った。血がうしなわれてゆく。それから胸が鈍く痛む、呼吸が苦しい。
途切れてしまう、と思った通りだ。
視界が端から翳ってゆく。《槌地区》なら、と思って、どうにか人目につかなそうな路地の影まで這いずった。大丈夫。死ぬほどの怪我ではない。きっとすぐに、目が醒めるだろう。不安を遠ざけようと言い聞かせるうち、やがて何もかもの音が小さくなってゆく。
◆
目が醒めた。あたりは未だ暗い。夜明け前だ。
「マリア」
探さなくては。彼が喧嘩に弱いはずがないだろうが、あの酩酊した足取りでは、とてもではないが安全とは思えなかった。助けなくては、探さなくては、彼はどこにいるのだろう。立ち上がると頭に鋭い痛みがはしり、もう一度しゃがみこんで嘔吐する羽目になった。胃のなかのものをあらかた吐き出すと、すっきりとした。視界も明瞭だ。
幸いなことに――彼のすがたはすぐに見つけることが出来た。あれだけの野次馬がいたのだから、喧嘩に勝ったにせよ負けたにせよ、彼が無事なはずはないだろうと……思っていた通りだ。
ぐったりと裏路地のごみ捨て場に伸びている。顔色はまるで紙のように白く、雨に打たれるままだ。そっと頬に触れると、彼は獣のように低く唸った。だが、それだけだ。目蓋も持ち上がらないらしい。酒臭い息が、荒く吐き出されていた。
オルガはしばし考えに耽った。マリアは一見するとひどく華奢だが、試しにぺとぺとと触れてみた腕や肢は、そう簡単にオルガに運べるものとも思えない。オルガの筋力はそれなりだが、まずして体格差がある。この雨のなか、見るからにぼろぼろのマリアを乱暴に引きずるわけにもいくまい。
結局オルガはひどい臭いにくらくらする頭を鎮めて、努めてやさしくマリアの肩を揺らした。
「マリア、マリア。立って、歩くことはできる?」
「う、あ……」
彼の服は彼自身の吐瀉物や血にまみれて、濡れねずみのオルガよりなお悲惨だ。それでもマリアの白皙はごみ山にぼうっと浮かび上がり、死体じみた有様のはずなのに、どこか凄まじいような生命の力が、ぎりぎりまで張り詰めて彼をうつくしくしていた。オルガが触れてはいけないような、汚穢と清浄とのあやうい均衡のふちで、マリアは「正しく」生きている。
「ねえ、起きて」
おそるおそる触れた肩にも、傷がある。どこもかしこも打撲痕だらけだ。マリアの着衣は乱されているし、ろくな目には遭っていないだろう。だのに奇跡のように、その顏は綺麗なまま。いっそ不気味なほどだ。誰も、彼の顏だけを傷つけなかったという事実が。
ぎゅっと目を瞑って、開く。
オルガは思い切って、マリアの脇に腕を入れ、彼を引き起こした。ぐったりとした肉体がもたれかかってきて、倒れそうになる。なんとか踏ん張ってみたものの、石畳は生ごみやそのほか様々なもので滑っていたし、雨は止む気配もない。それでも、歩かなければ。歩いて、《人形店》に帰るのだ。マリアを清めて、手当をしてやらなければ。
「マリア、《人形店》へゆこう。貴方に手当をする」
「オルガ……、オルガ」
「うん。僕はオルガだ」
マリアが「オルガ」という名を明瞭に発音する。胸がぞわぞわと落ち着かない。オルガは息を荒くさせて、なんとかマリアを支えた。彼はオルガが思った以上に重い。結局引きずるように歩くしかなかった。幾度も転び、休みながら歩いた。《槌地区》の現在地点からさほど離れていないはずの《人形店》が、まるで遥か彼方かのように思えた。
(僕はマリアを失うことが出来ない。彼を助けたい。そうすればマリアは)
「オルガ」
オルガ、オルガ、とうわごとのようにマリアが呼ぶ。オルガは途切れがちな息で「うん、マリア」とそのたびごとに答えた。ほとんど知らないもの同士だというのに、なんてことだろう、とオルガは思う。それと同時に、深く頷けることでもあるのだ。知らないから、オルガとマリアはこうして支え合っているのだと。
《人形店》に無事にたどり着いたときには、もう朝だった。空の端から白くなる。ホーンの赤錆びの煙る雨が、乳色の夜明けを薄らと赤く不吉な色に染めていたとしても、それでも朝はうつくしかった。オルガの最も好きな時間だ。そして一日の絶望すべてのような時間でもあった。眠れなかった、眠らなかったことに、しかし今日ほど感謝することもないだろう。
店の絨毯が台無しだ。買ったばかりだったのに。赤錆びた雨の染み、血や、吐瀉物や、いろいろな汚れで、オルガの絨毯が冒される。しかしその汚れをもたらしたものは、オルガにとっていまなによりも尊い宝石――殺人者のマリアなのだ。
マリアを絨毯に横たえて、自分もその横に倒れ込んだ。毛足の長い絨毯がじっとりと湿りはじめる。毛布を持って来なければ。或は薬箱、それにたくさん湯を沸かさなければならない。ああでも。でも、
(眠りたい)
マリアが隣にいるのだ。眠りたい。永く、深く。彼の隣で、無防備に。
躰を丸めた。マリアの汚臭ももう気にならない。どうせオルガも同じようなものだった。鼻はとっくに麻痺していた。凍えた手肢と躰を丸めて、マリアの胸の近くに顔を置く。
「オルガ」
呼ばれる、彼はあと何度、目を醒ますまでに、オルガを呼ぶだろう。オルガはいま、生きているのだ。
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