支配の性(1)

 《黒つぐみ亭》に足を向けたのは、ただロンから呼び出されたというだけの理由だ。野良の荒事屋の情報共有の本拠であるこの飯屋は、いつも騒がしい。男も女も性根の腐れた荒くれもの。マリアはこの店の下卑た喧騒が嫌いだった。彼をじろじろ見つめる同業者たちも、鬱陶しいばかりだ。

 ロンに呼ばれなければ、ほとんど足を運ぶこともない。仕事の選定は何もかもをロンに任せていたし、請けた仕事の情報収集程度自分ひとりで事足りる。深入りしないほうがいいような仕事ばかりのときは、せいぜい現場の下見しかしない。

「マリアじゃない、珍しい」

「おいおい、姫のお出ましだぜ、席を空けろよ」

 囃したてる声にも一切感情を表さないのが肝要だ。深く外套の頭巾をかぶったまま、奥まった暗がりの席のひとつに腰を下ろした。自分で呼びつけておきながら、ロンはまだすがたを見せていない。猫の眼塔の大時計が鳴ったのは少し前だ。マリアは時間を守らない人間が好きではない。

 向かいの椅子が引かれ、ロンの顔見知りの同業者が勝手に席につく。誰も彼もが自分のやりたいようにやる。その自分を死ぬほど愛していて、すぐに見せつけたがる。特徴的な髪型や服装、刺青や傷痕。目の前の女の、大きく開いた胸もとが視界に入るだけで吐き気がした。香水くさい女は、赤いくちびるを嫌な感じに歪めてマリアを視線で嬲っている。

「失せろ、ヴァイオレット」

「嫌よ。あんたに会うのは久しぶりだもの、マリア」

 黙り込めば、身を乗り出してくる。マリアは壁側の席に座ったことを後悔していた。胸の奥に、どす黒い不快感が生まれ、爆発的に膨れ上がっていく。生臭い息をあえてマリアに吐きかけたヴァイオレットと、視線を合わせる。マリアは、苛ついている。

「マリ、」

 ヴァイオレットの細くもない頸を掴んだ。一瞬、《黒つぐみ亭》の店内が静まり返る。顔を赤くしたヴァイオレットがなんとか逃れようと身じろぐが、生憎テーブルを挟んでいる。握り潰してやろうかとも思った。こんな、薄汚い女など。もがきながら、ヴァイオレットは下卑た顔で笑った。

「マーリア」

 呼ばれたから、彼女を反対側の壁に叩き付けた。奇妙な音を喉奥からあげながら、ヴァイオレットが躰を丸めてせき込む。そのくちびるは快楽に歪んでいた。ぞっとして吐き気がこみあげる。立ち去ろうと腰を浮かせかけて、

「よお、マリア。遅れてすまんな」

 ロンが、店の入り口で軽く片手を上げて笑った。犬にそっくりのその笑顔が癇にさわる。いつでも余裕のある顔をして、笑みを絶やさない。

 低く抑えた声で、マリアはじっと卓の板を睨みつけた。

「遅いぞ、ロン。おまえが呼びつけておいてふざけるな」

 ロンはヴァイオレットを蹴り飛ばすと、空いた席にどっかと腰かけた。

「そう殺気立つなって。ヴァイオレットが遊んでくれたんだろ」

「おまえの仲良しのヴァイオレットがね」

 エール、と暢気に注文して、ロンはやれやれと首を回した。

「俺もちょっと嫌な仕事があったんだよ、少しの遅刻くらい許してくれよな、相棒」

「はやく話を済ませろ。俺はここが嫌いだ」

「知ってるさ」

 彼は運ばれてきたエールをひと息に呷る。それからマリアをじっと見て、声を低くした。

「派手なことはやらかすなと言ったはずだ」

 ロンは、知っている。マリアに関するいろいろなことを。だからこそマリアは彼としか仕事をしないし、気味の悪いことにマリアとロンは「相棒」というわけだ。忌々しいことだった。知ったうえでの不可侵という暗黙の了解をロンが破ることはしばしばで、そのたびにマリアは暗澹とした気分にさせられた。

(おまえは俺の何だ?)

「派手なことをやらかした覚えはない」

「《螺旋地区》はやめろ。仕事をしたばかりだろう。俺に無断でな。あそこでは猟奇死体は目立ちすぎる。血なまぐさいことがあれば、教会が首を突っ込む可能性だってある」

「口を出すな、ロン」

「そういうわけにはいかない。塔の上で殺人だと? ふざけるのは大概にしろ、ホーンに殺されたいのか」

「ロン」

 彼はほんとうに、マリアに対して怒っているようだった。マリアのため、というわけだ。なまじいろいろなことを知っている分、居心地が悪い。端的に言えば、自分がみじめでたまらなくなるのだ。ロンも真っ当な職につけず荒事屋などをやっているくせに、誰かの――マリアの面倒を見ているというそれだけで真人間ぶって説教をする。

 青臭い反抗と言えばそうだろう。だがマリアには我慢ならないのだ。ヴァイオレットを蹴り飛ばすロンが、マリアにお行儀良くしろと言ったところで一体なにになる? 塔はホーンの財産だ、そこを汚してはならない、など迷信もいいところだった。少なくともマリアは、ロンよりはホーンを知っている。

「知ったような口をきくな」

「俺はおまえを心配してるんだよ、マリア」

「そう言って俺を苛立たせたいだけだろう。嫌な奴だよ、真実ね。まさかこれほどくだらない用事だとは思わなかった。おまえのおかげで今晩またどこかで誰かが死ぬかもしれないね」

「そうやって馬鹿馬鹿しい脅しをするわけか」

「生憎と被害者はおまえでも俺でもない。知らない誰かの痛みを思って涙でも流してみせるか? まずはヴァイオレットの背中でもさすってやったらどうだ、ロン」

「マリア」

 ロンが、笑みを消す。すっと、無表情に覆い隠される。犬の眼が、黒い犬の眼が、それこそ脅しつけるようにマリアをじっと見る。こいつもどうせ荒事屋、ただの破落戸だ。マリアと同じ、野良犬だ。相棒関係に上も下もない。年上だからという理由でロンにあれこれと指図されるのは我慢ならなかった。

 この静かな目で、何を言いたい。

 マリアは席を立った。そのまま《黒つぐみ亭》を出てゆこうとした。だが、ロンが後ろから外套を引く。頭巾が落ちて、眩い金髪が蝋燭の照明の下で派手に輝いた。誰もがマリアを見る。彼の貌を、欲望も露わな目つきで見るのだ。

 ロンの顔は今更怯えない。マリアがどれだけ怒ろうと、この男は動じないつもりでいる。いつでもそうだった。それが気に入らない。

「放せ、ロン」

「席に戻れ、マリア。話はまだ始まってもいない」

 外套を脱ぎ捨てた。進路上の荒事屋たちが、マリアの形相に気がついてさっさと身を引く。

「クソガキが」

 ロンの悪態が聞こえてきて、マリアは店の前に積まれていた木箱を蹴散らした。大きな音を立てて木箱は壊れる、或は食品を撒き散らしながら崩れる。それでも気分が晴れるわけでもなく、外套もないせいで顔を隠すこともできないままにホーンを歩かなければならない。

 雨が、強かった。寒い。

 《黒つぐみ亭》があるのは歓楽街の中心だ。マリアが最も、顔をさらして歩きたくない場所だった。黒い上下、背中には短剣のベルト、足元はどこかの国軍の払い下げの長靴。そんな恰好にあまりにもそぐわない金髪、碧眼、繊細な顔立ち。早足でうつむいて歩く。雨のなかでも女たちや、或はマリアのような繊細な顔をした男たちが、濡れるにまかせて薄物姿で、行き交う誰かの袖を引く。雨宿りをしてゆけと、囀っている。

 嫌でも笑みが顔にのぼる。くちびるの端が、病のようにくっと持ち上がるのだ。ひとりひとりを殺して回りたいくらいだった。ここらを縄張りにする「父さん」に殺されたくなければ、それは避けなければならないだろう。歓楽街では衝動も大人しくなるというわけだ。皮肉な顔をした自分が、マリア自身に囁きかける。

(ならいっそここで暮らしたらどうだ、マーリア? ――昔はそうしていたじゃないか)

 殺してやる、と目をぎらつかせた。鼻のきく女ならマリアに近づきもしないだろう。ホーンの女は強かだ。特に、歓楽街の女たちは。ほんとうに、苛立たしいことに。

 冷たい雨に打たれるままそこらじゅうを歩き回った。《指輪地区》を出て、もうひとつの夜の槌地区に出る。ここらには、夜の生活がある。つまり、昼の世界がただ夜に移ってきているという意味で。《螺旋地区》の隣の《槌地区》は、マリアが常に夜をやり過ごす場所だった。

 馴染みの店に入って、カウンターに腰かける。時折は言葉を交わすこともある店主は、マリアの雰囲気に呆れたような顔をして、ただ黙って酒を差し出した。灼けつくような酒を、淡々と流し込む。中空を睨んで、考えることもないまま。荒れ狂う怒りが思考を掻き乱すだけなのだ、それにさらに苛立つよりは、何も考えず酒を飲みつづけることだけに集中すればいいだろう。

 正体を失くしてしまいたい。

 ヴァイオレットの肉体も、ロンのあの黒い目のことも、すべてを混沌に落として、棄ててしまおう。だめになるまで飲んで、潰れて。ぐちゃぐちゃの汚物まみれで路地にでも蹴り出してくれ。狂気に駆られた色で、碧い目が光っていること、店主がスコッチの壜をどんと置いて片づけをはじめたこと、なにもかもがたわんで見える。頭が熱くなる、胸も。そうすれば衝動は縮んで、熱そのものになれた。肉体の制御を失えば尚更いい。自分でなくなることが重要だった。マリア、おまえは救いようのない奴だ。

 神さまだって、おまえのことは見ないふりでもするだろう。否、否、いつだってそうだった。神さまなんていやしない。ばかばかしいことだ、信じてなどいない。畏れてなど。愛してなど。木のクルスが、熱した鉄のように胸を戒める。幻の痛みの底に、すがたを見る。

「オルガ」

 少女人形が、譫妄の色鮮やかな世界で飛び回る。彼女は「僕」と言っていた。オルガ、お行儀よくドレスシャツを着て、ツイードの半ズボン、白いタイツ。オリーブグリーンの長靴、或は黒い外套と黒い傘、憂鬱そうな顔をして空を見上げていた。玉虫色の眸をぴかぴかとさせていた。まるでマリアに暗示をかけようとでもいうように。

オルガ、ヴィヴィアンネの人形、マリアよりもずっとうつくしい顔をして、栗色の短い髪を揺らす。色の薄いくちびるをどこか薄情そうに微笑ませる。高い声がマリアを呼ぶ。命じているのだと、マリアの躰は知っていた。

「マリア、僕を愛して」

 雨が呼んでいた。ふらつきながら店を出た。赤錆びた雨に打たれたかった。血の味が口を満たす。痺れきった痛みが、鈍く波紋のように広がる。雨がマリアを刺すのだ、打つのだ、手酷く。それはたくさんの殴打や、蹴りや、或は刃となって、マリアを傷めつけた。

 そう雨が、ホーンの異常の雨が、赤錆びの雨が粘ついて、石畳の透き間をジグザグに流れてゆく。熱と痛みにもみくちゃにされて、オルガの影を探しながら、マリアはなにもかもを手放した。

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