代書屋(2)

「林檎のパイを三切れと、バゲットをください。それから、ママレード・ジャムと、クッキーをひと袋」

 傘をさして歩いていた。夕暮れの《螺旋地区》のマーケットで、最近の気に入りの林檎パイを買った。大きな紙袋は赤錆びた雨に打たれてぽつぽつと水玉模様へと変わっていった。曲がりくねる路地を正確に歩くのは、注意深さが必要だ。傘をさして俯いて歩いては、行くべきところを誤りかねない。

 ヴィヴィアンネの腕を引いて、オルガはいつもゆっくりと歩いた。迷って狼狽えると、盲目の主人がすっと一方向を指して、

「さあ、あちらへ行きましょう」

 と言うのだ。その突拍子もない動きはしかし、必ず《人形店》へと繋がっていた。オルガはひとりで歩く路地の憂鬱さが気になって、過去を振り払うべく頭を揺らした。左右には高い塀、くねくねと曲がるせいで見通しのきかない道。そう、迷っていた。もうしばらく、猫の眼塔の大時計が二度鳴るほどの時間、オルガは身近なはずの《螺旋地区》を彷徨い歩いているのだ。

 雨足は強くなるばかりで、抱きしめた林檎のパイはきっと、くしゃりとあわれに潰れてしまっているに違いない。

(帰れない)

 昨日も、一昨日も、その前も、ここ一週間ほど、イジュもエリカも《人形店》を訪れなかった。かわいい子猫のマールイだけが、表で雨宿りをしていた。オルガはマールイを家に入れてやった。マールイはその後、オルガの助けを必要とせずに扉を開け、知らぬまに出ていった。もうオルガとはかかわりのない、マールイという名まえではない猫になったのだろう。

 愛されない。あわれなオルガは窒息しかけだ。

 代書の仕事は順調だ。単調とも言えた。雇い主のマシューと会うことはあまりない。彼の事務所のポストに、濡れないよう、蠟引き紙で厳重に包んだ完成品を投げ込んでおしまいだ。そのポストのなかの、前回投げ入れた分の代書の賃金を取って帰るだけ。さみしいかどうかはわからない。一層強まった雨のせいで鈍く痛む頭が、思考をすぐに千切るからだった。

 ぼうっと立ち尽くしていた。

「………」

 どこからかかすかに聞こえた声は、女の悲鳴のようだった。振り向いても誰もおらず、だが、近くに塔がある。あそこに登って、《螺旋地区》を見下ろし、《人形店》を見つけることが出来るかもしれない。ホーンで、見知らぬ誰かに気軽に頼ることはあまり好ましくなかった。《螺旋地区》は比較的安全な地区と言えるが、それも黄昏時までの話だ。夜が降りれば、なにもかもが闇に隔てられ、遠ざかる。その夜に進んで出てゆくものもあれば、そうでないものもある。

 たとえば眠るのがへたなオルガは、近ごろ夜にはずっと店にいた。出てゆくことはせず、ただ待っている。

 くるりと向きを変えて、塔へと歩き出す。オリーブグリーンの長靴が、赤錆びた雨を蹴散らした。オルガの黒い大きな傘は、完ぺきには彼女を守りはしない。黒い外套はまだ汚れが目立たないから、よかったのだけれど。

 雨のせいで、オルガは気に入りの真白いシャツや真白い靴下を身に着けることが出来ない。いつも憂鬱な黒い服ばかりだ。それが図らずもヴィヴィアンネへの哀悼の徴のようで、自分が嫌になる。葬儀もなにもない。オルガはヴィヴィアンネの死体がわりの一握の砂さえ、掃き集めて《螺旋地区》の裏路地に棄てたというのに。

 葬儀は嫌いだった。喪服も。ヴィヴィアンネはただ死んだのだ。

 塔の入り口からは、何故だか生ぬるい風が吹きつけてくる。首を傾げながら歩き出す。鉄錆くさい臭いがしたが、それは赤錆びの雨の忌々しい臭いに他ならなかった。おそらくこの塔に滲み、暖められ、むっとするようなこの空気を生んでいるのだろう。ざり、ざり、と足を滑らせないように注意しながら、オルガは塔の内側の螺旋階段を踏んでゆく。そうして、塔の頂上にようやくついた。

 下を覗き込むと、うつろに黒い塔の底が、オルガを呼んでいるように思えて、顔を逸らした。重い鉄の扉をずらして、外に出なければならない。傘を差さなければ。紙袋は、一度ここへ置いていってもいいだろう。

 開いた黒い傘を扉の先に差し出せば、強い風に躰ごと持って行かれそうになった。慌てて傘を閉じて、外套をすっぽりとかぶる。雨が、強くオルガを打った。風も。足に力を入れないと、危険だ。嵐でも来るのかと思われた。だが地上ではそんなこともなく、ただ塔の高さゆえに、これほどの風を感じるのだろう。

 円い広場だ。へりには低い石の積みがあるだけ。身投げの容易い場所。

 だが上まで登る苦労を思えば、わざわざここまで高い塔を選ばずともよいだろう。もっと手頃に死ぬ手段が、このホーンには溢れかえっている……。

 女の死体があった。

 《人形店》はどこだろうと目を遣ると、東の、そう遠くないところにそれらしき建物が見えた。歩いている途中から、この塔を目印にすればよかったのではと思わないでもなかったが、塔というのは、普段このホーンでは認知の外にある不思議な存在だ。オルガは頭のなかにきちんと帰り道を思い描いた。もうこれで、迷わなくて済むだろう。

 安心した途端、自分がずいぶんと疲れていることに気がついて、座りこんだ。雨が頬を打つ。風が外套の頭巾を吹きとばし、露わになった頬や髪を、赤錆びた雨が容赦なく濡らした。帰ったら、熱い湯をバスタブに満たして、一時間でも二時間でも、目を瞑って浸かろう。

「オルガ」

 呼ぶのは誰。

 見えなかったはずのひとがいる。青年が。うつくしいすがたの彼がいる。女の死体からゆらりと貌を上げる。どこもかしこも血まみれで、まさにそこは猟奇殺人の現場だった。やつれ疲れ果てた様子の青年は、オルガの目を覗き込むと、うっそりと微笑んだ。まだ浅い時間に顏を見たのは、はじめて会ったとき以来だった。これほどの時間をかけて、ゆっくりと、瞬きもせずに見つめるのははじめてだった。たとえ彼が血まみれで、ひどく汚れ、不眠と疲労の色濃い翳に疲れ切った顔をしていたとしても、オルガは綺麗だと、そうつむやくしかできない。

 病の果ての娼婦のような顔をしていた。不思議とうつくしく、それでいてあまりに不吉な顔だ。触れ難く、おそろしい。青年の眸の碧は、撃ち抜かれたように濃い。

「オルガ」

「僕の、」

 声が掠れていた。オルガの喉から嫌な音がした。空気を求めて喘ぎかける。言葉が、どこにも。切り裂かれた昼が目蓋のうらで弾け、オルガは喘いだ。

「マリア」

 低い声が発した音は、青年の名に違いなかった。

 彼は目を瞑って、大きく息をついた。女の死体が、ぴしゃぴしゃと雨打たれて鳴っていた。彼が殺したのだろう。それも、見るもおぞましいような死体にするべく、暴力の限りを尽くして。自分の死体が閃いて消えた。この女のように殺された自分が、鮮烈に描かれた。

「僕の名まえを、どこで……?」

「僕?」

「僕は、オルガ」

 声がうまく出ないせいで、囁くような声になってしまった。びょうと吹く風を睨みつけて、マリアが腰を上げる。足を引きずるようにして、全身をこわばらせて、骨から痛むのだと言いたげな、重苦しい歩みで、彼はオルガのほうへと近づいてくる。オルガはぼんやりとして、呼吸に苦しんだまま、彼が近寄るに任せていた。

「俺はマリア」

「マリア……」

 雨の臭いがした。鉄錆の。そして生臭い血と肉、死の汚臭が鼻をつく。空っぽの胃が痙攣した。オルガは呻いた。

「貴方は……僕を」

 殺した。

 翳む目をなんとかしぼって、マリアを見上げる。彼がたじろぐ。濃い碧眼が、怯えたようにオルガを見下ろしていた。雨が、彼の頬にべったりとこびりつく女の血を、赤で上塗った。雨滴によって白皙が一条、暴かれて錆びに縁どられる。はっとしたようにマリアは一度大きく慄え、硬質な声がもつれるような早口で低くつむやいた。

「俺はもう行かないと」

 オルガの頬に、彼の指がかすめた。ひと呼吸の間、雨が止んだ。そしてマリアが消えた。どこへ、と思う。鉄の扉を開けて、下を覗き込めば、螺旋階段をまろぶように降りていくマリアのすがたが見えたかもしれない。だが、速すぎる鼓動と喘鳴のために、オルガはすこしも動けそうにはなかった。

 泣いてしまいそうだ。

 どうしてあんなにうつくしいひとがあるのだろう。人形ではない、彼は人間なのに。

 あまりに悲惨な死体と残されたオルガは、自分もこの死体と変わりないということを嫌でも思わずにはおられなかった。

 帰ろう、帰ろう、もう二度と、こんなところには迷い込むまい。

 マリアという名まえを知ったことも、彼と会ったことも、ただオルガにとってはおそろしいことだった。――待つだけの日々のどれほど安全だったことか。オルガは彼を知ってしまった。

「マ、リ、ア」

 ああ息が、詰まる。喉が熱い。空気が漏れ出てゆく。あの昼のよう、あの晩のように。オルガに確かに渇いたはずの彼は、すべてを殺す衝動でもって、オルガの喉を引き裂いた。確かすぎる手つきに目の前の女の死体のような狂乱はなかったが、そこにどれだけの違いがある?

 彼はどういった理由で、ヴィヴィアンネを殺したのだろう。そしてオルガを。

 気になる。疑問が尽きない。息を尽くしてマリアを追い詰めてみたい。この不確かな喘ぎをもっと、聞いてほしい。耳がくちびるについてしまうほど近くで。血のにおいを濃く纏ったまま、傷ついて怯える表情をしたマリアの、頬に触れてみたい。

 自分の頬に、指先で触れた。濡れている。雨と、マリアになすりつけられた血、いずれも赤い液体が、ぬめりながら頬に張り付いていた。そして涙が、苦しい呼吸のための涙が、なによりも粘着質にすべての因果を結びつけているかのようだった。扉を開けて、紙袋を拾い、塔を降りたらば傘をさして、《人形店》に帰らねば。

(白皙)

 うつくしいマリア。彼と再び会う。オルガの確信は、力強く、躰の内側から出してくれと叫んでいる。苦痛、あらゆる苦しみと痛みが、彼と会えばオルガを責め苛むだろう。きっと、必ず。マリア、あの男の禍々しくも清冽な横顔、言葉にあらわすことのできない悲劇的な魅力が、凄惨な死体とオルガとを、共鳴させる。

(僕はきっとまた殺されるだろう)

「マリア」

 貴方は怯えて逃げる必要などなかった。

 オルガは待っている。ただ求められることを。《人形店》の薄暗闇のなかで、眠れずの狂気に静かに、溺れながら。

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