代書屋(1)
止まない雨音を思って、オルガはしばし筆を休めた。
もと・ヴィヴィアンネの工房は、いまはオルガの書斎だった。巨大な作業机に、紙をたくさん広げて、幾種類ものインクやペンを並べたオルガは、ふとペン先が乾燥しかけていることに気がついて、慌ててインク壺に先をつけた。丁寧に、幾度も幾度も読み上げた、ヴィヴィアンネの気に入りの詩集を思い出しながら書く。
たくさんの流麗な文字を、優美な文字を、端正な文字を、創造できないオルガはただひたすらなぞってきた。オルガの特技といえばそんなことくらいなのだった。ヴィヴィアンネは、オルガの模写を見ては、
「すばらしい才能だわ」
と言ったものだったが、オルガは誰かの模倣品でしかありえない自分の技術をすばらしいものだとは、これっぽっちも思えなかった。いまも。
今日は五枚の手紙を書いた。「詩人アーリのような字で」「なによりもうつくしく」「彼女のために書いたことがわかるよう」「あのひとを追い詰めるように」「おまかせするわ」。五通りの依頼に応えると、ペン先を水ですすぎ、柔らかな布でそっと拭った。
愛を綴る。或は請求書や督促状、見舞いや別れの手紙を。誰かの言葉を代書するのが、オルガの得た仕事だった。仕事をはじめたのは、オルガが完ぺきに「生活」を取り戻したからというわけではなかった。
イジュが、彼の主人であるエリカを介して、オルガにこの仕事を与えてくれたのだった。
代書で得る金銭はごくささやかなものにすぎなかったが、例えばオルガが一日に食べるだけのものを購うのには十分だ。たとえ足りなかったとしても、それはヴィヴィアンネの莫大な財産によって補われるだろう。
イジュはエリカを伴って、しばしばオルガを訪ねてくる。オルガの日常は新しい出会いとやさしさによって、確かに色を取り戻してはいるのだ。しかし、埋めれば埋めるほど、会えば会うほどに、彼らが去ったあとの孤独が影を濃くするような気がして、オルガは時折耐え切れなくなる。そんなときは叫び出しそうな空ろを胸に抱いて、ホーンの夜を彷徨した。
代書は彼らとの交流よりも、もっと静かに、そしてほんのわずかずつ、オルガを癒してくれていた。向き合うのは自分という存在への不信感であったとしても、孤独よりは数倍もましだった。オルガはそんな、不安定だが決定的ではない生活のなかで、しかし足りないものがなにであるのか、それだけをどこか潜在的な意識で知っていた。そして常に気にかけていた。耳を澄ましたり、窓の外を見上げてみたりという、ちいさくても確かな動作の数々で。
訪ねてくることはない。
あの晩の再訪が、ほんの気まぐれにすぎなかったということが、毎日新しく証明されてゆく、積み重ねる時間によって、より堅固に。ヴィヴィアンネを殺した彼を、待っていると言ったら、イジュはきっとオルガを叱るだろう。そして心配し、つぎには忠告では済まさないだろう。エリカの屋敷にともに住もうとさえ言うかもしれない。そうしてオルガから孤独を遠ざければ、彼女はおかしくなくなるだろうと思って。
ぬくもりが苦しい。やさしさが憎い。
(すべてを捧げてくれないならば……触れないで欲しい。苦しいだけなんだ)
オルガの待つ手は孤独の影なのか、それとも悼みの果てにある気狂いなのか、その狂気が自分を侵しているのか?
贋作が希うには相応しい相手だと思った。
彼は、きっと、オルガを求めるだろうとそう、思ったのだ。
玉虫色の眸と、濃い碧い眸が交わり、つぎの瞬間に喉頸に迸ったひらめく熱の感触を思い出せる。オルガを一度も顧みずにヴィヴィアンネのもとへと向かった彼の背中は、歓喜に慄えてはいなかったか。オルガは感じていた。彼はオルガを愛している。そういうまなざしの、交わりだった。気のせいであるはずがない――。
かららん、ころん、ろん。
ホーンの黄昏の時間。《螺旋地区》の人通りは、深夜よりも黄昏時のほうが多いだろう。
「オルガ?」
ぐんと伸びをして、貌を取り戻す。
工房から出てゆくと、黒髪のエリカがほっとしたように微笑んだ。それから少しだけ眉を寄せて、「不用心だよ」と、イジュによく似た口調で言う。見た目まで、エリカはイジュとそっくりだ。それもそのはずで、エリカは己の色彩とそっくり同じ色を持ったイジュをいたく気に入って、ヴィヴィアンネから彼を買いあげたのだから。
すばらしい美少年人形であるイジュと較べれば、エリカはあまりにも凡庸な青年だ。魔術師たる彼は見た目通りの年齢ではなく、凡庸な容姿だがやはりどこか、油断のならない雰囲気を纏っていた。たとえばオルガは、彼の垂れ目が苦手だった。
「買い物で近くまで来たから、少し寄ってみたんだ」
「いままで、代書をしていたところだったの。改めて、仕事を紹介してくれてありがとう、エリカ」
「勤勉だ。どういたしまして、オルガ。私も君に仕事を紹介したものとして鼻が高いよ。マシューは君の仕事ぶりをとても褒めていたからね」
エリカが、円椅子のひとつに腰を下ろす。オルガは湯を沸かしに戻り、茶器の用意をした。店のほうからエリカを盗み見ると、彼はどこか白々とした目つきで、通りを眺めていた。なにかを見つけ、そしてそれを、どうしようかと迷うみたいにしていた。
「お茶を」
「ありがとう」
イジュは今日は、別の魔術師のもとへとお使いに行っているのだという。ふたりはしばしば別行動をするようだが、その絆はいまのオルガには自分とヴィヴィアンネを思い起こさせる。そんなところも考慮して、もしかするとエリカやイジュはこうして、時折個別にオルガを訪ねるのかもしれない。
「ねえオルガ、近ごろ変わったことはないか」
「僕の知る範囲では、ないよ。どうして?」
「いや、なにも。ただ、嫌な雨があまりに続くから」
それは、理由のようで理由ではなかった。エリカはなにを知っているのだろう。なにを危ぶんで、オルガを静かな目で見るのだろう。オルガはただ平淡に、彼を見返した。エリカは目を逸らさないまでも、そのまなざしに一瞬の嫌悪が滲んだのを、オルガはしかと目に焼き付けた。
「魔術師の貴方こそ、この雨の影響を受けないの?」
「さあ、どうだろう。燐の乱れは感じても、それが決定的なほどではない。ごく幽かに、ただ在るだけ」
「そう、ごく幽かに」
気がつかれぬよう忍び寄るようなものが、一番気に障ることだってある。オルガはこの雨に、そんな風なものを感じていた。苛立ち、鬱ぎ、……たとえばエリカを不快にさせてしてしまう。エリカはやさしさだけでここを訪ねるだけでない。それが、ごく幽かに、感じられるのだ。彼は隠そうとしている。なにかを探している。
「イジュに会いたいと伝えてほしいな」
「ああ、もちろん。……疲れているみたいだね、オルガ。おいとまするよ」
エリカは立ち上がり、オルガは座ったまま彼にちいさく手を振った。
「根を詰めすぎないように」
そう言いおいて、かららん、ころん、とベルを鳴らして、彼のすがたは消えていった。赤く煙る雨のなかへと。
(イジュはエリカの、どこを愛しているのだろう)
(そしてエリカは、イジュをどう思っているのだろうか)
人形とその主。エリカというあまり好きになれない人間。イジュのことはすきだ。彼は人形だから。彼は愛する存在だから。
実際、オルガは疲れていた。代書に集中したせいで、頭痛がある。眉間にそっと触れて、そこに寄ったしわを撫でた。
(嫌な雨だ。嫌な雨を抜けてでも、ここへ来るような誰かは、僕になにかを求めているから)
だから彼は訪れないのだと、そう信じてみたら、どうだろう。
さして好きでもないエリカが去ったことによりオルガの胸に影を落とす巨大な孤独を、多少は喰らってくれるだろうか。
「愛しているよ、マーリュンカ。きみを失ってしまったらぼくは、いったいどこへゆけばいいのだろう。このホーンできみは、ぼくの唯一の星だったのだ。ホーンの猥雑な夜で唯一清くかがやく星だったのだ。落ちた星を探すために、ぼくはみじめに這いつくばって、やがて大地を抱きしめながら、静かに朽ちてゆくだろう」
うしなわれてしまった愛を、オルガは今日、「なによりもうつくしく」、誰かの言葉を誰かの文字でもって、囀った。
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