青年マリア
ひとを三人殺した。
ひと晩に三人だ、ふたりは仕事で、冷静な気分で。もうひとりは、つい、いましがた。とても冷静とは言えない気分で。
夜は明けかけていた。
ホーンの住人は微睡む時間だ。マリアも自分の家に帰って、疲れたきった躰を休ませたかった。だが、疲れが倦めば倦むほどに、マリアのなかの暗いところが、じっとりと湿り気を帯びて、鼓動を否が応にも速め、不快な痺れと毒を四肢の先まで送り込む。叫び出したくなるのだ。だが、叫んだところで去らないそれは、衝動。
道ですれ違いかけた娼婦を、めちゃくちゃに殺した。
殴って、蹴って、踏みつけにして。
何もかもが壊れきるまで、息を殺してマリアは、悲鳴を上げる暇さえ与えずにただただ痛みで女を圧倒した。折れ曲がり、弾け、破れ、潰れた果実のように異臭を放つ。死体だ。女の躰から排泄された汚物が、或は血や腸が、赤錆びの雨に打たれてぴしゃぴしゃと軽い音をたてていた。
殺しきった。壊しきった。
ぼろぼろの、肉のなにか。
雨が、雨が、すべて洗い流してくれる。ホーンの汚濁のなかで今更意味を持たない殺人は、すべて終わればマリアにうつろな気分を与えるばかりだ。
殺してしまった。また。
「神さま」
壊れた女の残骸の横に、しゃがみこんできつく己を抱いた。立てた膝に頭を押し付けて、マリアは静かに涙した。傾いだ建物の樋を伝って、赤い雨が彼を打ちつづける。耳に流れ込んだ赤に、マリアは全身を慄かせた。
「神さま」
胸が空いていた。うつろだが、衝動は、あの果てないと思われた不快は、マリアのなかから消え去っていた。いつも大切ななにかとともに消えていく衝動、幾度も繰り返した殺人のせいでマリアにはもう、肝心の大切なものすら残されていない。気分の問題だ、といつかロンは言った。気分の問題だ、いつかは良くなる、と。
神さま、とつむやいた。マリアの唯一の持ちものである木のクルスを、服の上からぎゅっと握った。くちびるから這入りこむ滴は、雨か血か、苦く舌を刺した。
猫の眼塔の大時計が鳴る。夜明けを告げる。おおん、おおん、と鳴る。
マリアは立ち上がり、ふらふらと歩き出した。家へ帰るのだ。そうして、躰を洗い、何もかもを遠くへ棄てよう。こびりついた恐怖の肉片を、ひとつ残らず躰から取り去ってしまわねばならない。また再び、這い寄ってくることのないよう、自らをきつく抱いて祈りながら。
目が醒めたのは、昼過ぎだった。窓がひとつもない部屋だが、体内時計が狂ったことはない。昨日着ていた衣服はすべて屑籠にあった。拾い上げて洗濯する気にもなれない。裸の肩に毛布を巻き付けて、寒さを遠ざける。
雨が降っている。音がする。だからこれほど冷えるのだろう。寒い日が続いていた。ホーンの季節はしばしば狂うが、これほどの雨降りを見たのははじめてだ。どこかの魔術師が、なにかをしたのかもしれない。
汲み置いた水で顔を洗って、鏡を覗き込んだ。目のしたにひどい隈があるほかは、いつも通りだ。ヴィヴィアンネの人形よりはうつくしくなく、そこらの人間よりはうつくしい顔。荒事屋の仕事には向かない美貌だった。
目の下をごしごしと擦ってみても、無論消えるはずもない。擦った目許はじんわりと赤くなり、淫乱な性を暴かれた気がして吐き気がした。もう一度寝てしまおうか。ロンはこの部屋の存在を知らない。誰も知らない。だからマリアは、ここにいる限りずっと、孤独を貪ることができる。安心できるのはここだけだ。ホーンで唯一の場所だ。そのはずだ。
寝台に横たわったまま、行儀悪く堅パンを食べた。こぼれた屑を手で払い床に落とす。物陰に潜んでいた虫が、かさこそと動いて屑を運び消えた。閉じきりの部屋にいつのまにか這入りこみ巣食った虫だった。
ひどい憂鬱が、疲労よりもはるかに重たく躰の底で渦巻いているのがわかる。昨晩なにがあったかを思い出すことはできるが、その暴力を為したのはマリアではない誰かだった、そんな風な気がするほど遠い。マリアは誰かが女を殺すまでの場面を、どこかから見つめていた。赤錆びた雨の痕がついた、汚い硝子越しに見ていた風景だ。
そうではなかったか。きっとそうだろう。――考えてはいけない。
ぷつりと容易く、マリアは己の思考を断ち切った。堅パンを放り棄てて、服を身に纏う。何もなかった、この憂鬱も何もかもが嘘だった。仕事をせずとも、外に出よう。考える余地のない危険が、或はマリアには必要だった。
いつ仕事になってもいいように、道具類の手入れを怠ることはない。躰にベルトを巻き付けて、或は衣服の隠しを利用して、たくさんのものを持つ。そうは見えない風な身軽さを最後に身に纏うために、きつく目を瞑った。貧弱な躰に、鉄は余りにも重い。足を引き摺らないためには努力が必要だ。
(何もなかった。何もない、いまも)
目を開けた。鏡からマリアを見つめる、記憶のなかの母親そっくりの碧い目が、やさしげに笑む。
拳をきつく握り、解いた。
扉に手をかけて、外へと踏み出す。傘は持たない。外套のフードをそっと下ろして、うつむきがちに通りへと進み出た。
《螺旋地区》の目の回るような曲線の路地を抜けて、何故かはっきりと覚えている道のり。下見で一度、ヴィヴィアンネを殺したあの昼に一度、そしてそのあとにもう一度。よく考えれば、マリアは三度もここを訪れていたのだ。思い立って、《螺旋地区》の適当な塔に入る。
ホーンの名物の黒い塔は、どの地区にも例外なくある。そしてそのたいがいのものが、君主のないホーンという街の持ちものということになっていて、自由に登ることができる。尤も、そんなことをするもの好きは滅多になかったし、崩れないのが奇跡のような、朽ちかけた塔も多い。――まだ明るいホーンを、そんな塔のひとつから見下ろした。
《人形店》がよく見える。《螺旋地区》には職人が多く、夜の生活を送らない者も多い。昼のこの時間にも、それなりに人影があった。だが雨に煙り、どこか鬱々としている。《人形店》の暗い店内を窺うことはできない。
けれどマリアは、あの少女人形がいまもあの店のなかにいることを確信していた。彼女はまだあの円椅子に縮こまって、涙しているのだろうか。身も蓋もなく、うつろな眸をして、玉虫色の輝きを失って、あそこで。――オルガは。
孤独に喘いでいるのか。
終わった仕事に触れるのは、主義に反することだ。だがどうしても、あの《人形店》が気になっていた。崩れかけの少女を抱き上げたとき、彼女の水のにおいのする肌に触れたとき、マリアはどうしてか何の嫌悪感も抱かなかった。彼女は確かに、子どもとはいえ女の形をしていたのに。
「オルガ……オルガ」
舌で転がす名まえより、あの玉虫色の眸の、あまりにも卑俗なかなしみが焼きついて消えない。
視線を現在に引き戻す。円筒状の大きな荷物を抱えた男の二人組が曲がりくねる路地を歩いてくるのが見えた。彼らはその巨大な荷に明らかに苦戦していた。と、《人形店》の扉が開き、あの少女が路地に頭を出す。栗色の短い髪が、まとまってふわりと揺れる。こうして見ていれば、オルガはただの少女なのに。彼女は手を挙げて、黒い大きな傘を開くと、店の脇に立った。男たちが荷物を店に運び入れる。少女はちょこまかと動き回り、彼らに傘を差しかけようとしていた。
「おまえは生きているのか? だが、どうして?」
ふたりの男が荷物と共に店のなかに消えてしまえば、扉は閉ざされる。その直前に、遠い少女が雨空を見上げた。ふと見られたような気がして、マリアは咄嗟にしゃがみこむ。心臓が嫌な鼓動を刻んでいた。やり過ごして、いま再び塔の物見窓から見下ろした《人形店》はもう、マリアのものではなかった。
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