人形の生活(2)


「生活」がこれほど困難なものだったろうか。

 そんなことを幾度も幾度も思った。数日のうちに、あの晩、青年が来てくれたと思われる晩の決意は脆くも崩れかけていた。新しいことをはじめるにも、なにをするにも、オルガは力を振り絞らねばならなかった。食糧は結局一度も買いに出かけることなく、備蓄庫のものをちまりちまりと漁るばかり。お茶を淹れることもなく、水道の水をそのまま飲んでいる。ヴィヴィアンネだったらば、とても野蛮ね、そう言ったはずだ。

 洗ったものを乾かすには天気が悪く、雨は止む気配がない。仕方なく店の壁から壁へとロープを渡して、シーツや衣服を干した。嫌なにおいはなくならず、水で洗った床はじめついたままで、もちろん絨毯を買いに行くどころではない。

 このままでは、床にも、壁紙にも黴が生えそうだ。

 ホーンで、これほど長い間雨が降り続くことがかつてあったろうか。

 オルガは自分の過ごしてきた年月を振り返ってみたが、なかったように思える。そもそも、赤い錆び色の雨になったのも最近の事だ。何が起きても不思議ではないが、ヴィヴィアンネの死は、こういったひとつひとつのおかしなこととなにか関連があるのだろうか。円椅子のうえで無作法にも膝を抱えて座っているオルガは、乾かない洗濯物を見つめてため息をついた。

 生活にはまだまだ困難なことがあった。それはヴィヴィアンネがどうしようもなかったオルガの特性のようなもので、つまり「創造」がオルガには不可能だということだった。それは日常の様々なことに影響を与えている。いま一番困っていることは、料理をできないことだ。

 どんな線引きで、誰が決めたことか、何もかもがわからない。だが確かにオルガは、あらゆる調理ができなかった。

 また、これから「生活」していく際に、人形師だったヴィヴィアンネの生業を継ぐというのも不可能事だ。彼女のあらゆる作業を見つめてきたオルガだったが、人形を作るのは無理そうだ。あらゆる仕事がホーンにはあるが、創造とは無縁で、またオルガのような世間知らずができる仕事が、あるだろうか。世間知らず、と自分でいう通り、オルガはこういったときに、仕事の種類を幾つもあげることができない。

 先のことを考えると、憂鬱さはいや増した。片手を伸べてシーツに触れると、冷たさか湿り気か、判断しかねる感触がある。しかしもう一日半、こうしてシーツを吊るしているのだ。

もう、いい。

 少しだけ投げやりになって、シーツをぐるぐると腕に巻き取った。シャツも、ズボンも、靴下も、肌着も、すべてを。こういった家事は以前からやっていたことだが、ヴィヴィアンネの衣服がないことを思うと、またしてもさみしさがこみあげてきた。

 彼女の部屋も、近々片付けなければならない。そうする必要はないかもしれない。だが、ヴィヴィアンネだったらそれらのものを早々に売るべきだと言うと思った。彼女は実際的な性格だった。芸術家というよりかはやはり職人だったのだろう。或はオルガのほうが、無駄なものばかりを持っていたような気がする。

 そうしてヴィヴィアンネが死んで以来足を踏み入れていなかった部屋に、入る気になった。扉はなめらかに開く。装飾と言うものが一切ない彼女の部屋は、かといって殺風景なわけでもなかった。ただ、もはやそこは死んだ人間の部屋なのだ、というオルガの認識が、彼女の部屋を荒涼とさせているのだろう。

オルガのものと同じベッド、同じテーブル。或は書き物机。まるで宿のように、同じ家具を使用していた。ヴィヴィアンネの寝台に腰かけて、やはりオルガの部屋と同じように窓がひとつもない部屋をぐるりと見渡す。無駄なものはひとつもない。日記さえも、何もかも。

 見ないひとだったからだ。

 何もかもをもその頭のなかに留め置いていた。魔術師たる彼女の驚くべき智慧のうち、オルガに与えられたものはほんのわずかなのだ。

(僕は愚かで、なにも知らない。生活のことも。ちっとも知らない)

 だが「生活」のことが、たとえばオルガの本棚に収まった様々の書物から知ることができるとは思わなかった。ほんとうは、オルガが採るに最も手っ取り早い方法を知っていたが、踏み切るにはまだ、様々な力が足りていないのだ。臆病なこころが、まだ休もうと囁く。

 ショーウィンドウの向こうへ。赤錆びた雨のしたのホーンへ。

 ヴィヴィアンネの知り合いや顧客を探してもいい。あの青年のことでも。外に出れば、何かを、また新たな目的を見つけることができるだろう。それに、買い物といった生活の一部も、言うまでもなくこの家の「外」にあるものだ。出なければならないのだ。遅くとも、備蓄庫の食糧が尽きるまえには。

 雨が止むことを、相変わらずオルガは祈り続けている。だがこころのどこかでは、あきらめる日が近いことも、薄々は理解していた。



 雨が止んでしまった。まだ先延ばしにしておきたかったのに、と思わずにはいられなかった。あれだけ晴れることを望んでいたはずなのに、雨よ降れ、とオルガは起きぬけにつむやいてしまった。

「絨毯は、家まで届けてくださいますか」

「手間賃を取るが」

「構いません。《螺旋地区》の《人形店》オルガまで」

「あいよ」

 絨毯を買った。緑色の濃淡で様々な植物文様が描かれている、優美な意匠の絨毯を。ホーンの外から輸入しているそれはひどく値の張るものだったが、構わなかった。この絨毯が店に敷かれていれば、オルガの気はいくらかよくなるはずだ。店唯一の家具であるびろうど張の円椅子のために、足の低いちいさな円テーブルと、円椅子をひとつ買い足した。これはあの店に、誰かが訪ねて来たときのために。

 ヴィヴィアンネの生前から、店を訪れるのは人形を買う客だけだった。ヴィヴィアンネは知人と会う時はたいていどこか外で会っていた。そのため、家には客用の茶器なども不足している。

 あらゆる買い物を思いついたが、それらを一日で済ませるのは到底無理だった。いつものように、必要なものをわずかだけ買えばいいというわけではなかったから、なおさらだ。こういったときにはひとを雇うべきだった。信用に足る幾つかの斡旋所を頼るべきだったろう。何もかもを運んでもらうよう頼むのは、届かない可能性も含めると割に合わない。

 テーブルと円椅子を前にして途方に暮れかけたとき、ひといきれに数少ない知り合いを見つけた。なんという偶然だろう、と思うよりもはやく、オルガはすばやく手を挙げて呼ぶ。

「イジュ!」

 前をゆくほっそりとした少年が、驚いたように振り向く。黒い髪に、月色の眸をした、人間離れした美貌の持ち主。ヴィヴィアンネの人形のひとりで、いまはどこかの魔術師を主としているはずだ。

「オルガ。どうしたんだい、君ひとりで」

「ヴィヴィアンネが殺されたんだ。ところでいま、手を貸してはくれない? このテーブルと椅子を、店まで運びたいの」

 言うと、彼はゆっくりとまばたきをした。夢見るように、睫毛が優美に揺れた。

「いいけれど……詳しく話を聞かせてくれるね?」

「もちろん。えっと、イジュのご主人さまの……」

「エリカはだいじょうぶ。私はかなり自由にさせてもらっているから」

 イジュが、細腕でテーブルを持ち上げた。歩き出す彼に従って、オルガも円椅子を持ち上げる。さして重くはないが、ほかの買い物もあったせいで、落ち着く位置を探すのに苦労した。オルガが歩き出すころにはイジュはかなり先を行っていたけれど、なんとか追いつく。少年の背中を見つめながら、オルガは彼がヴィヴィアンネの《人形店》の位置をきちんと覚えていることに安堵していた。

 かららん、ころん、とベルを鳴らして扉を開けたとき、イジュがちいさな声で、

「ただいま」

 と言った。オルガはまたしても泣きそうになって、ぐっとこらえた。不自然なまばたきに、イジュは気がつかなかった。

「ただいま」

 テーブルと椅子をそれぞれ床に置いて、ひと息つく。

「貴方が最初のお客さんだよ、イジュ」

「お店でも開くつもり?」

「もとからお店だよ。でも、誰かが訪ねてきてくれればいいのにってずっと思ってた。貴方でよかった、会えてうれしいよ。正直なところ僕、さみしくて死んでしまいそうだったんだ」

「そっか」

 イジュのためにお茶を淹れて店へと戻ると、彼は血の染みが残ってしまった板張りの床をじっと見つめていた。少しきまり悪くなって、テーブルのうえにソーサーを置くとき、かちゃかちゃと音を立ててしまう。

「ねえオルガ、いったい何があったの。この血は君のものだよね」

「そう。座って、イジュ。しばらくすれば、絨毯も届くと思うのだけれど」

 それからオルガは、もう一週間以上前の出来事について、ぽつぽつと語った。イジュは時折深く考え込みながら、それでも悲しみを湛えた目でオルガをじっと見つめて、話に聞き入っていた。

「それで僕は、今日ようやくお外に出ることにしたの。その……生活をしようと思って」

 イジュの真剣なまなざしを前にすると、なんだかオルガは恥ずかしくなった。自分があまりにも幼稚で、ヴィヴィアンネのためではない行動をしていることが、おかしなことに思えてきたのだ。だがイジュは首を振ると、テーブル越しにオルガの手をぎゅっと握った。

「私たちはヴィヴィアンネ様の店を出て、新たな居場所と愛すべきご主人さまを見つけることが出来たけれど。大変だったね、オルガ。きっといっぱい、ひとりで、悲しかったね。ちっともそんなことを知らずにいて、私は」

「ううん。今日こうして会えただけですごくうれしいよ」

「でもその……ヴィヴィアンネ様を殺したひとのことだけれど。君も十分に注意すべきだよ。暗殺者が、殺し損ねたもののことをそのままにしておくわけがない」

 オルガはイジュに、だめになってしまいかけの晩、その青年が自分を助けたであろうことについては、話さなかった。

 イジュのいうことももっともで、ことホーンにおいては、そういった「仕事」は徹底されているのだから。オルガよりはるかに世間について知っているイジュの忠告を、オルガは聞くべきなのだろう。だが――。

オルガは堅牢な微笑を浮かべた。

「心配してくれてありがとう」

「当たり前だ。私たちはヴィヴィアンネ様の子どもだもの。君だって。これからもここを訪ねてきてもいいかな。私もエリカに、話しておくから。そのうち彼と共に来てもいいかい」

「もちろん。そうしたら、また今度は、椅子をもう一脚買わなきゃ」

「手が必要だったら呼んで。……ところで、君、生活のためのお金はその、だいじょうぶなの」

 これについては、イジュの心配は的外れだった。ヴィヴィアンネの人形――いわば商品であったイジュは、自分がどれだけの価値を与えられていたのかを知らないのだろう。オルガはその点では、イジュより多くを知っている。ヴィヴィアンネは莫大な金銭を、オルガのために遺していた。彼女の職人らしい質素な生活はそれらの財産を想像さえさせなかったが。

 とはいえオルガも、必要なものを揃えてしまえば、かつての彼女との生活にきちんと戻っていくつもりでいた。

「それについては心配ないんだ。でも僕も、なにか仕事をしたいなと思ってる」

「なにかをするときは相談して、オルガ。私は君が心配なんだ。ホーンには危険なこともたくさんあるから。それにきっと、まだはやいよ。君はもうすこし休むべきだ」

「うん。ありがとう。しばらくはゆっくりするつもりでいる。でも、なにか目標を持っていないと、うまくできないのがこわいんだ。時間があったり、洗濯物が乾くのを待っていたりすると、ふっと、死んでしまいそうになる。ヴィヴィアンネがいないだけで、すごくみじめなの。ひとりで生きる機能がないみたいに」

 イジュは言葉を探して、見つからないことを恥じるかのように、目を伏せた。オルガは彼を困らせてしまったな、と思いながら、曖昧に微笑んだ。自分が彼を多少なり傷つけたことを自覚していて、それでもなにかやさしい言葉は、いまのオルガには言えなかった。

 ひとりで生きる機能、という言葉が、きっとイジュを考え込ませるだろう。

「本当にありがとう、イジュ。……ああ、雨が降ってきちゃった。傘はある?」

「持っているよ。近ごろ、いつでも降るからね。嫌なかんじだ」

「気をつけて」

 かららん、ころん、ろん。

 店がぶわりと、闇を濃くした気がした。イジュのために点けていたランプを消して、店の扉に鍵をかけた。暗闇の奥に、ヴィヴィアンネの気配が感じられない。先程までひとりではなかったオルガは、あっというまにひとりになってしまった。

 誰かの気配に触れたからなおさら、いま、辛いのだとわかった。

「君も十分に注意すべきだよ」

 イジュの声が頭に蘇る。宵に沈んだホーンの喧騒を、赤い雨が伝えてくる。裏路地は静かなものだったが、遠いざわめきは認知できる。できるからこそ切なかった。何もかもが、オルガの外にあった。この家は、オルガを守っている、そう思ってもなぜか、苦しいのだ。

 絨毯はあす、届くだろう。

 絨毯を敷いて、エリカが来ることも考えて、円椅子をもうひとつ買うべきだ。あとは、客用の食器をそろえよう。新しい茶葉を選んだり、菓子を探したりしよう。今日買ってきた林檎も、パンも、どれも食べる気がしなかった。ちらと見てから、びろうど張の椅子に座る。真新しいかおりのするテーブルに突っ伏して、眠りを探した。

 あの晩以来、オルガは寝台で眠っていない。ここで待っていれば、誰かが。

 オルガの孤独に触れてくれる気がしていた。

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