人形の生活(1)

 押し寄せる孤独のやり過ごし方を一切知らない自分に、オルガは失望していた。

 生まれてからずっと、あらゆる時間をヴィヴィアンネと過ごしてきたのだ。彼女が死んでしまったいま、すべてをオルガに遺すと言いおいて死んでしまったいま、オルガは遺された「時間」というものを処理しきれずに、ただ店の円椅子にぼうっと座っていることしかできない。

――どうすればよかった?

「わたくしは殺されるでしょう。ホーンという運命が、そう望み定めた」

 ヴィヴィアンネは魔術師だ。戦う力を持たなかったとはいえ、まるで、死を望んでいたかのように、彼女は運命に身をゆだねた。オルガになにも命じず、なにひとつ手を打つことはなかった。

 オルガは許されなかったのだ、もうこれから、彼女と共に生きることを。

 青年が憎いとは思ってはいなかった。彼は運命ではない。いまオルガが抱えるこの深い悲しみは、すべて青年とはかかわりのないことだった。オルガと目を合わせて、驚くように瞬き、その瞬きの間にオルガを魅了した青年は、無慈悲な技でオルガを殺害した。そうしてそのまま、工房で、ヴィヴィアンネを殺した。

 オルガは蘇る。それこそが、運命ではないということを示す唯一にして絶対の証だった。そもそも、オルガの「死の運命」は、きっと孤独に訪れるだろう。他者が介入する余地などないだろう。

 濃い金髪と、碧い目をした、まだ若くうつくしい青年だった。オルガの知る男のなかで、もしかすると、もっともうつくしい男かもしれない。それはヴィヴィアンネの作る人形とどこか似ていて、人間という生き物からわずかだけ離れたような、不気味さを持っていた。彼が当たり前のようにして生きているのだとすれば、それはオルガにはなんとなくふしぎなことだ。

 何故なら、オルガ自身は、人間からわずかだけ離れているオルガという生き物は、少しも「当たり前に」生きることが出来ないからだ……。

 どうして、と泣きたくなる。ヴィヴィアンネがただ、いないだけで、どうしてオルガはなにもできないのだろう。食事を摂ることも、眠ることもできない。だんだん弱って、このまま死んでしまうのだろうか。

 ばかなことを。

「いや、だ……」

死にたくはない。そう思えど、四肢の隅々にまで満ちた悲しみが肉体を重くし、熱っぽくしていた。

 もう数日、そのままなのだ。板張りの床には、自分が流した血がどす黒く染みついていた。もう落ちないにせよ、今からでもバケツと雑巾を持ってきて、洗い流すべきだろう。嫌なにおいのする室で幾日も過ごすのは、とてもみじめだ。そうして床をできうる限り綺麗にしたら、素敵な絨毯を買って、覆い隠してしまえばいいはずだ……。

 そう思うのに、オルガはやはり、少しだって動けない。

 悲しいほどの無力さが、やるせなさが、こころを鉛に変えた。喪失感で「いっぱい」になっている胸。おかしなこともあるものだ、喪ったはずのもので、胸が満ちている。食欲もないところをみると、腹にまで満ちている。手肢は悲しみが、それ以外は喪失感が、すべてを占めていた。心はかたく閉ざされていた。なにせひとりだ。誰にも開く必要などない。この見捨てられた《人形店》で、幾日も降り続く鬱陶しい雨の赤を眺めながら、オルガは。

(どうして。どうして。ヴィヴィアンネ)

 わからないわけではない。ヴィヴィアンネはもうずっと、死を待望していた。それは身勝手というものではなく、彼女はもうやるべきことをすべてやり終えてしまっていたからだった。作るべきものを作り終えた。オルガとの日々はいわば余生とも言うべきものだったのだ。しかしヴィヴィアンネにとっての余生は、いまのところ、オルガの一生だった。こうして孤独に放り出されたオルガは、生きているのか死んでいるのかもわからない始末で、実際に一度あの青年に殺され、また息を吹き返した。

 生まれなおしたかのよう。ヴィヴィアンネのいない世界に。

 こんなことになるならば。オルガの「死の運命」も、ヴィヴィアンネのそれと同じくなるように設計してくれればよかったのに。そう思わずにはおられなかった。ただ行き場のない怒りと悲しみが、すでに此方にないヴィヴィアンネにぶつけられる。愛していたのに。愛している、とはもう言えなくなった。彼女は死んだ。もうどこにも居ない。魔術師は、肉体が残らない。それだけがオルガの救いだった。魂を喪ったヴィヴィアンネの器が徐々に朽ちていくさまなど絶対に見たくはなかった。

(ああ)

 なにもできない。なにも。せめて、雨が止めば。雨が止めば……。

 降り続く雨のせいで気が欝ぐのだ。

 ぼんやりとショーウィンドウの硝子越しに路地を見つめていた。ホーンは夜になる。いちばんひとが多くなる時間だ。オルガをここから、この思考のくだらぬ泥沼から、掬い上げてくれる誰かが、ひとりくらいいたって。この孤独を埋めるなにかが、いまのオルガには切実に必要なのだ。

どんな人間でもいい。

 誰でも。

 誰かが。

「おまえ……」

 いつの間に、扉が開いた? いつだれが、この店に足を踏み入れたのだろう。

 頭をあげる気力がもうなかった。力が尽きていた。目蓋がおりて、すがたを映すことが出来ない。だが声には聞き覚えがあった。水晶を打ったときのよう、硬質で澄んだ低い声だ。あの晩の、ヴィヴィアンネを殺した人間の声だ。

ぎこちない腕に、抱き上げられたような気がした。



 薄らと目を開くと、自室の寝台に横たわっていた。天井を見るのが久しぶりだった。躰のしたの柔らかなシーツに、涙が出た。わけがわからないままに泣いて、泣いて、むくりと起き上がった。誰かが――あの青年が。オルガをここへと運んだ。きっとそうだった。寝台から立ち上がろうと試みたが、眩暈がして立っていられなかった。ベッドサイドの小さな机に、具を挟んだパンがあった。野菜は萎びていた。一日経ったほどだろうか。それでもパンを口に入れれば、躰は久方ぶりに摂取した熱量を手放すまいとしている。人間のそれとはわずかに異なる機構がうなる。吐き気などはない。肉体は正常なのだ、それ以外が異常だっただけで。きっと。きちんと食事を摂り、水分を摂れば、もっと不足なく動けるようになるはずだ。失った血液を取り戻す、欠けたものを満たせば、オルガは再び完全になる。じっと待ってから立ち上がり、台所へと向かった。

 水道はきちんと機能していた。彼女が死んでからも、この家は満足に維持される。ヴィヴィアンネはいないのに、なにもかもが保たれる。溺れたもののように水を飲んだ。苦しくなるまで、水を飲んだ。

「名まえを知らない」

 色濃い死の仮面に呼吸を妨げられているように、うつくしい青年。きっと名も、相応しくうつくしいのだろう。

 オルガはいま、何をすべきか、しばし考えた。風呂を溜めて、清潔な服を着て、ホーンの街へ出かける。食糧を買い、それを食べる。食べたら本を読む。詩集を。洗濯をする。掃除も。ヴィヴィアンネとの日常とさして変わらない、ただ彼女がいないだけの日常を、無理にでも演じるべきだ、とようやく認識した。

 自分の部屋は薄らと埃が積もっているだけだ。それよりも店の床の血を片さなければならないだろう。食糧はどれだけの備えがあったろうか。「創造」ができないオルガのために、罐詰や壜詰のものがあるはずだ。或は堅パンなどの保存食が。

 今度こそオルガは立ち上がった。そうして、いままで着ていたものを見下ろす。ヴィヴィアンネが殺された晩から替えていない。血がこびりついて固まっている。

 まず浴室に向かい、栓をひねって湯を出した。バスタブには、じきにたっぷりの湯が溜まるだろう。

 ごわごわとしたシャツとズボンを脱いだ。部屋に戻ってシーツをよく見れば、乾いた血の塊がぱらぱらと落ちていた。すべてを取り去って、水に浸ける。肌着も脱いで、裸になって、姿見のまえに立つ。喉頸に傷は残っていない。すべて修復されている。なんの問題もない。乳色の膚がややくすんでいるように見えるほかは、なにも。

 平らな胸、すこしだけ丸い腹、下腹、さらにそのした、役割を持たない場所、真直ぐとした肢。目を逸らした。

 バスタブに飛び込むと、蘇る心地がした。熱い湯に触れたせいで、いま再び涙が、止まらなくなる。これからしばらく、水というものを見るたび、或は熱というものに触れるたび、オルガは泣いてしまうかもしれないと思った。必要なものがあるとその幸運を思って、泣かずにはおられないだろう。

 ヴィヴィアンネのいた場所を、水や熱や、或は名も知らぬ誰かで埋める。

 これからのオルガの、いましばらくの行動指針ができた。生きるために。オルガはものを考え、自らの命を延ばしてやらねばならない。生活せねばならない。生あるものとして在ることを、望んでくれたヴィヴィアンネのためにも。

(植物文様の絨毯を買おう。店の場所を、居心地の良い応接間のようにしよう。ショーウィンドウからのぞいたときに、まるで人形の家かと思うような、趣味の良い部屋を作る。そうして僕は、誰かを待つ……)

 流れる涙をそのままに、肩に熱い湯をかけて、目を瞑った。

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