赤錆びと渇きの。

跳世ひつじ

薄暗がりの昼

 赤い、雨が、降っていた。

 硝子の表面に伝う水は、やがて乾き、錆めいた縁取りを幾条も残すのだろう。ホーンの白昼、人通りの少ない裏路地を縫うように歩いた奥の奥。マリアは《人形店》というそっけない飾り文字を指先でなぞった。ショーウィンドウはがらんとして、何も飾られてはいない。だが、硝子を通して見つめた室内に、ひとりの少女が座っている。

 栗色の髪が、薄暗い中でもつやめいている。やわらかな頭にそって丸く切り揃えられた短い髪は、少年のような少女のような、どちらにせよ幼い雰囲気を醸していた。晒された頸の白さが、薄闇の室内にひどく無防備に浮かび上がっている。ふっと少女だと判断したのは、ぎこちなさを残した骨格の優美な線のせいだ。

 あれがヴィヴィアンネなのだろうか、それとも、彼女の作品なのだろうか。ヴィヴィアンネの姿画を見ていたとはいえ、後ろすがただけでは判断しかねる。彼女が成人女性であることは確からしいが、魔術師は年齢や性別を越えて在る。髪型など言うまでもないだろう。

 無造作に扉を押し開ける。ベルが鳴った。かららん、ころん、と可愛らしい音だ。椅子に座った少女が、くるりと振り向く。一瞬、その玉虫色の神秘的な眸に吸い込まれかけた。七色を孕んだ遥かな緑色は、驚きとかなしみの複雑な光をひらめかせ、伏せられた。長い睫毛の翳をうけて、眸は色を変える。変わり続ける。なんて魅力的な色をしているのだろう。そんな朧に耽ったのはほんのわずかな時間だけだ。

「人形か」

 片時も目を離さぬままに踏み込む。少女は、頷こうとしたのだろうか。その喉を、深く切り裂く。血が迸り出て、少女が椅子から転げ落ちた。もう見ない。正確に壊したはずだ。なににせよヴィヴィアンネを殺すのだから、あの少女人形も偽りの拍動を止めるだろう。

 店の奥が工房になっていた。大きな一枚板の作業机のうえは、綺麗に片付けられている。あらゆる道具類が整頓され、天板には薄らと埃が積もっていた。つまり、しばらく使われていなかったか、或はマリアの来訪を予期して、死に備えていたのか。

 作業机とはまた別の机――それはおそらく喫茶のためのものだろう――に向かった、猫足のりっぱな肘掛椅子に彼女は腰かけていた。きっちりとまとめた銀色の髪と、光を知らない濁った蛋白石の眸。どこかのっぺりとした印象があるが、どの魔術師もそうであるように、独特の存在感とうつくしさを持っている。茫洋としたまなざしはマリアの立つ地点をしっかりと捉えていた。彼女の顔に、微笑が浮かぶ。

「ようこそ。うつくしいひと」

「貴方が人形師のヴィヴィアンネか」

「ええ、そうよ。貴方の名まえは」

「マリア。店にいたのは人形か」

「オルガよ」

「そうか」

 ヴィヴィアンネは、空いている椅子をマリアに勧めた。マリアは座らなかった。ヴィヴィアンネの胸を、短剣で突いた。先程殺した人形とは違う。血が流れない。刃が心臓に達し貫いたとき、ヴィヴィアンネの肉体は掻き消えた。

 椅子のうえにただ、ひと握りの砂が残るだけ。

 魔術師の死は、いつもこうだ。ひとに生まれながら、ひととは違う時間を生きるために、その肉体はすでに此方にはないのだという。心臓とひとつながりの魂だけがその存在のすべてで、心臓だけを守っていればとても、とても永い時を得ることもできる。

 だがこうして、マリアのような人間に、心臓を壊されれば、終いだ。

 人形のほうがまだ、人間らしい死に方をしていた。不思議なものだ。人形師ヴィヴィアンネのつくる人形はみな、喋り、動き、生きているように振舞うと聞いたことがあった。あのオルガという人形もそうだ。赤い血を、流していた。

 灯りがひとつもない室内は、白昼にも薄暗く、奇妙に落ち着く。光を必要とするものがいないこの工房は、マリアの部屋によく似ていた。窓がひとつもなく、閉じ込められている。

 ロンに黙って請けた仕事は、あまりにも呆気なく終わってしまった。散らしきることができなかった凶悪さが、こころの奥深くでのたうっていた。

(部屋に帰りたい)

 衝動とさえ呼べる願望が湧きあがって、マリアは足早に工房をあとにした。店の板張りの床には、ぽつりと置かれた円椅子と、斃れ伏した少女人形オルガの遺骸。

 ショーウィンドウを、いまは内側から眺めていた。硝子に這う赤錆びの雨に、ホーンの裏路地はひどくうつくしく、彩られているように見えた。

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