始まる世界に終焉を
蒼野 棗
前日譚 始まる俺と終わる君
幽霊少女と邂逅
「……っ」
全身を襲う痛みに少年――
小さく瞼を震わせ、目元まで掛かった長い前髪の隙間から髪と同じ色をした黒の瞳が開かれる。
始貴は体の痛みに表情を歪めながら、ゆっくりと起き上がる。
状況を確認するように周囲を見渡せば、ぼんやりとした景色が彼の視界に飛び込んできた。
彼がいまいる場所は河原だ。
始貴の体は川辺のすぐ傍にあり、あと数センチ右に寄っていれば川に落ちていただろう。
冬の冷えきった川になんて落ちていれば、確実に風邪を引いていた。その冷たさを想像して、始貴は体を震わせた。
そこで彼は何故自分がこんな状況に陥っていたのかを思い出す。
(……そうだ。歩いてたら、ボールが飛んできて……それに当たって、そのまま土手を転がったのか)
冷静に自らに起こった出来事を思い返す。近くには自分に当たったであろう野球ボールが転がっていた。
始貴はそのボールを一瞥して、小さく溜め息をついた。
「……川に落ちなかっただけマシか」
土手を転がり落ちた時に様々な所にぶつかったせいで、痛む体を押さえながら近くに落ちていた自分の鞄を手にした。
どうやら鞄の中身が散乱するという事態に陥ることにならなかったようで、安堵する。
彼にとってはこの程度の不幸など日常茶飯事なのだが、その度に物を失くしたり、壊したりするのは正直困るものだった。
今日は全身を打ち付けた程度で済んだので、むしろ運が良い方だ。
そう思いながら、始貴は鞄を肩にかけ直す。その時だ――。
鞄を肩に掛けたのだから、鞄の重量が肩に掛かるのは当然のこと。けれど、いつもよりもその重量が重くなった気がして、始貴は不思議に思い、首を傾げる。だが、見たところ何も変化はない。
気のせいかと思い直して、始貴はそのまま土手を上がろうと歩き出す。しかし、あと少しで土手を上がり終えるというところで、またもや彼に不幸が訪れる。
一匹のカラスが何故か始貴に向かって、突進してきたのだ。
その鋭いくちばしが始貴の目に向かって真っ直ぐ飛んできて……彼は慌ててしゃがみこんだ。間一髪で避けた始貴が自らに突進してきたカラスに目を向ければ、カラスは何事も無かったように優雅に飛び去っていくのが見えた。
「……なんだったんだ」
呆然とカラスが遠ざかっていくのを見送りながら、小さく呟く。しかし、その声に答える者などいない。
完全にカラスの姿が見えなくなってから、始貴はゆっくりと立ち上がる。その途端、土手の上を飼い主と一緒に散歩していた犬がいきなり始貴に向かって吠え出した。
「ウー! ワン!」
「っ!」
まるで怒っているように威嚇してくる犬の声に始貴は大きく体を揺らす。
いつも犬に飛びかかられたり、襲い掛かられたり、追い掛け回されている始貴にとって、犬は苦手だった。だからこそ、彼は犬に吠えられたことにより、一歩後ろに下がろうとした。
その時、足元に捨てられていた空き缶を思いきり踏んづけてしまい、彼はバランスを崩す。
「うわっ!」
何とか踏みとどまろうとするが、その努力も虚しく始貴は再び土手から転がり落ちることになったのだった。しかも、不幸なことに今度は勢いよく、川に転がり落ちてしまう。
始貴にとって幸いだったのは、この川は水の流れが緩やかで、あまり深くないことだけだ。
すぐに体勢を直して、水面から顔を出す。
真冬の川の冷たさは先程始貴が想像した通りの寒さで、肌に直接突き刺すような冷たさに始貴は体を震わせた。
ガタガタと体を揺らしながら、河原に上がる。たっぷり水を含んだ制服が酷く重い。
「……結局、こうなるんだな」
誰に言うわけでもなく自嘲気味に呟く。
その声に答える者などいない。
「ありえない! 何のコントよコレ! わざとやってるの!?」
「え?」
……いない筈だった。けれど、始貴の耳に届いたのは明るい少女の声。
思わず周囲を見渡すが、そこには誰の姿もない。
広い河原には、ずぶ濡れで震えている始貴ただ一人だけだ。
それならば、いまの声は何だったのだろうか。
「てか、私まで寒いし! 痛いし! もう一体何なのよ! いきなり引っ張られたかと思うと、離れられなくなるし! カラスに襲われるわ、犬に吠えられるわ、挙句の果てには川に落ちるわで! もう最悪!」
再び聞こえてきた声。
どうやら、自分の背後から聞こえてくるものだと気付いた始貴は恐る恐る振り返る。
そこには一人の少女がいた。
ミディアムショートの黒髪にぱっちりとした黒い瞳。超絶美少女とまではいかなくても、可愛いと素直に思える愛嬌のある顔立ちをしている少女。
見覚えのない顔だ。彼女は誰なのだろう。何故、自分の背後にいるのだろうか。もしかして、彼女も自分の不幸に巻き込まれたのだろうか。
いくつもの疑問が即座に思い浮かぶが、始貴がそれを口にすることはなかった。それよりも彼を驚かせたものがあったからだ。
目の前にいる少女は少し不機嫌そうに頬を膨らませている。その顔は可愛らしいが、そんなことよりも彼女は明らかにおかしかった。
体が透けているのだ。彼女の身体越しに先程始貴が落ちたばかりの川がうっすらと確認できる。
サァっと、始貴の顔が青ざめていく。
少女は始貴が見ていることに気付いたのか不満そうな顔から一転。驚いたように目を見開いた。
「もしかして、私のこと見えてる?」
パッと明るくなった表情の少女に始貴は顔を青ざめたまま、ぎこちなく頷いた。
「本当!? 嘘言ってないでしょうね!?」
もう一度頷く。すると、少女は嬉しそうに笑った。
「良かったー! 誰も私のこと気付いてくれないし、ここから離れられないし、どうしようかと思ったよ! あ、でも、今度は君から離れられなくなっちゃったんだよね。ねえ、君はなにか知ってる?」
「……う」
「う?」
「うわぁああああああああああああ!」
叫びながら、始貴は逃げようとする。
半透明な少女から逃げようとする。けれど、先程始貴に当たった野球ボールを踏みつけて転んでしまう。
そんな始貴に少女は呆れた様子で、近付いて来る。
「君、本当に不幸だね。大丈夫?」
手を差し伸ばされて、始貴は驚く。
自分に手を差し出してくれる人などあまりにも久しぶりだったからだ。だから、始貴は自然と手を伸ばしてしまい……その手が触れる前に彼女の手がすり抜けた。
「あ……あ、あはは、やっぱ駄目だったか。声も聞こえるし、姿も見えるみたいだから、大丈夫だと思ったんだけどなあ」
悲しげに表情を歪めたあと、無理矢理笑いながら、少女は手を引っ込めた。
「ごめんね、触れないみたいだから、自分で立ってね。あ、でも、今度はいきなり逃げようとしないでよ」
寂しげな笑顔に始貴は何も言えなかった。
ゆっくりと立ち上がって、少女に向き合う。その事に少女は嬉しそうに笑った。
「あは、優しいね」
「……そんなこと、ない。ただ、確かにいきなり逃げようとしたのは悪かったと思って……」
「あはは、まあ、仕方ないと思うよ。私だっていきなり幽霊になんて会ったら、逃げてただろうし」
ケラケラと楽しそうに笑う少女の言葉に始貴は、やはりと思う。
半透明に透けた体。触れることすら出来ずにすり抜ける手。足はあるが、空中に浮いている。
――『幽霊』。
その言葉が目の前の少女を表わす一言だった。
目眩がした。いくら、始貴が不幸体質だと言っても今まで、そういった類のものなど見たことがなかった。何故急に見えるようになったのか、そんなことも分からない。
「君は、一体?」
「名前? ああ、そういえば自己紹介すらしてなかったね。私は
「……木野枝、始貴」
名前を聞きたかったわけではないのだが、聞かれたからには答えなくてはならない。
麗香と名乗った少女は、しきりに首を傾げている。
「木野枝始貴。木野枝始貴。……うーん、知らない名前ね」
「初対面だから」
「あはは、それもそうか。あ、それよりも! 木野枝君は今のところ、私の姿が見える唯一の人なの! ねえ、君はなにか知らない? 私、君から離れられないんだけど」
「え?」
「だから、離れられないの! さっきいきなり引っ張られて、それから君の傍から離れられないの! おまけに君の痛みとか共有されるみたいで……」
麗香の目は真剣だ。嘘を言っているようには見えない。
「離れられない……俺から!?」
「だから、そう言ってるでしょ」
「なんで!?」
「私が聞きたいわよ!」
混乱しているのは同じだった。
何も分からない状況に思考がうまく働かない。だから、始貴は一度落ち着くために深呼吸をする。
「と、とりあえず、一回落ち着こう」
「そうだね。深呼吸深呼吸」
「……えーと、じゃあ、鶴来さんは何でここに?」
始貴の言葉に麗香は何かを考えるように顎に手を当てる。
「それが、よく分かんないんだよね。気付いたら、ここにいて……。しかも、河原から離れられなくて、途方に暮れてたら、木野枝君が転がってきたってわけ」
「なら、なんで俺から離れられないの?」
「さぁ? 言ったでしょ、急に引っ張られたって。君が盛大に転がってきたから、近付いたら、そのまま……。あ、そういえば、引っ張られる前は木野枝君、私の姿も見えないし、声も聞こえなかったみたいだけど」
「そうなの?」
「うん。一番最初、ボールが飛んできた時に声掛けたけど無視された」
「ご、ごめん」
見えなかったからとはいえ、無視してしまったのは事実なので謝ることにした。
始貴の謝罪に麗香は楽しそうに笑う。
「うん、とっても傷付いたけど、許してあげるよ」
「ごめんなさい」
「あはは、冗談だよ冗談。……ん、そういえば、いまの状況って、私が木野枝君に取り憑いてるって状態なのかな?」
「ああ、だから、急に姿が見えるようになったんだ」
「そっかそっか、なるほどねー。一つ問題解決だねー」
あははー、と和やかに笑う二人。しかし、状況は決して笑っていられるものではない。
そう気付いた始貴は、慌てて口を開いた。
「って、取り憑いてる!? 俺に!? それって、危ないよな!?」
「んー、どうだろう。私にその気がないなら、平気なんじゃないかな?」
「そうじゃない! 俺の傍にいると危ないんだ! 早く離れて!」
「え?」
「君も見てたなら分かるだろ。俺の傍にいると俺の不幸に巻き込まれる。だから、一刻も早く離れないと君が危ないんだ」
切羽詰まった様子の始貴とは反対に麗香は目を丸くさせて、始貴を見返していた。まるで、珍しいものでも見るような顔だ。
「……木野枝君って、お人好しなんだね」
「は?」
予想もしていなかった言葉に今度は始貴が目を丸くさせる番だった。
「普通、自分の心配でしょ。君、幽霊に取り憑かれてるんだよ? ほら、呪われるかもしれないんだよ? 君に害を為すかもしれないんだよ? それなのに、逆に取り憑いてる幽霊の心配するなんて……馬鹿なの?」
「ば、馬鹿って……」
馬鹿扱いされた事にショックを受ける始貴だが、彼はそれ以上何も言えなかった。
くしゃみと共に自分が川に落ちてずぶ濡れだった事を思い出したからだ。その事実を思い出すと、唐突に寒さが蘇ってきて、始貴は体を震わせる。
「そういえば、寒いわね。流石に真冬の川は堪えるわ。仕方ない。一度家に帰ったらどう? 風邪引くよ」
「そうだな。そうさせてもらう」
肌が痛くなるほどの冷たさに始貴は麗香の言葉に甘えて、家に帰る事にしたのだった。
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