第8話 追憶

 目の前の光景に、和正は唇を噛んだ。

 妻の佐和が自分の弟と顔を近づけ合って話している。あんなに近づかなくとも話はできる、と面と向かって言いたいのに、言葉は彼の中で消えていく。

 思えば、ずっとそうだった。

 幼い頃からの許嫁なのに、佐和は自由な気性で弟の上月と付き合っていた。キスをしているのも見た事がある。その時は人前で平気でキスを交わすそのふてぶてしさにイラっときただけで、それが嫉妬だなんて思わなかった。

 弟の上月は和正と違って、朗らかで人に愛された。無条件で人の信頼を得られる人間を、他に彼は知らない。それだけに、弟とは住む世界がまるで違うのだと自分に言い聞かせた。

 和正は郷の長として貫禄が足りない、と人の心を読むたびに言われていることに飽き飽きしていた。これは天性のものなのだから仕方ない事だろう。そう思っても、口に出すことはできない。長たる者、常に堂々としておらねばならないし、ムッとした顔もできない。機嫌が悪くても、にこにこするのが癖になった。

 和正は妻の真剣な様子に胸騒ぎを覚える。晃が生まれてから、佐和は過敏になっている。それが鬼のつねなのか、佐和が何か予知したのかはわからない。夫の自分ではなく、弟の上月に相談するのは自分では話にならないと佐和が思っているからなのだろう。口惜しい。心底、上月を恨んだ。

 佐和も佐和だ。夫に言えない事を夫の弟に言うことができるものなのか。鬼とは言え、情も理も人間とそう変わらないのではないか。いや、鬼は人間の常識を遥かに逸する生き物であることは、この郷にいればわかることだ。そう言う自分にも鬼の力が流れているのだから、筋を通せという方がおかしいのかもしれない。人間の精気を奪わねば生きられぬ鬼と、鬼の血が混じった人間と、人間の血が混じった鬼の子と、郷はそういう者達で作られている。無法者の国なのかもしれないな、と彼は思った。

 和正はいつの間にか自分が拳を強く握っていたことに気が付いた。爪が肉に食い込んだ左手から血がしたたっている。

「和正殿」

 向かいから佐和の親類の上羅がやって来た。彼女は和正の屋敷で料理人をしている。美人で気風が良く、誰にでも公平な彼女の事を和正は尊敬していた。

「何か、あったお顔ですね」

 上羅はほほほ、と上品に微笑んで、彼の手を取った。

 血のにじんだ傷が消えていく。

「すみません」

「いいんですよ、これくらい。でも、わかっちゃいました、私」

「え?」

 上羅は視線を先へ流した。和正もそれを追う。

 彼女の視線の先には、まだ話し込んでいる佐和と上月がいる。

「気になりますよね。私が夫でも、あれは許しません」

「いや、上羅殿、いいのです」

「いい、とおっしゃいますか。本当に、あなたは苦悩をため込んで時々見ていられません。私から佐和にやんわり釘を刺しておきますわ。こうちゃん、こうちゃんって未だに上月殿を気安く呼ぶのも頂けませんわね」

 上羅は和正の言いたいことを全部言ってくれる。それだけに、自分の醜い感情を見破られた気がして恥ずかしくなる。

「駄目ですよ。自分のせいにしちゃ。悪いのはあの子達。ね?」

 上羅に諭されて、和正はやっと笑うことができた。

「ありがとうございます、いつも気にかけて下さって」

「ふふふ。私の大事な主君ですから」

 上羅は失礼しますね、と言って、和正の元を通り過ぎた。

 和正は佐和と上月に背を向けて歩き出した。

 彼はさとはずれれの結界のほころびを修繕しゅうぜんするのが目的だったことを今更思い出す。佐和のことで頭に血が上ったらしい。

 森の広がる場所に立ち、空を見上げる。綻びが見えるのは和正の能力の一つだ。結界のゆるみは魔物の仕業だった。知能の低い魔物が結界に激突し、その衝撃に結界がゆるんだ。意識を集中させて、彼は右手を左右に振り、結界を補強する。

「おかしいと思わぬのか」

 風のうねりの中に、そんな言葉が聞こえた気がして、和正は辺りを見回す。郷から随分離れたこの場所は誰もいないはずで、魔物もいなければ、鬼も人間の姿も確認できない。

 気のせいにしては、恐ろしく冷たい声だったと和正はもう一度辺りを警戒しながら見回す。

 やはり誰もいなかった。

 彼はきびすを返して家路に着く。もうすぐ逢魔が時。魔物が活性化する時間だ。もちろん鬼も絶好調の時間だが、人間の血が交じる鬼や人間にとっては、危険な時間となる。酩酊する者もいれば、意識が過剰になって頭痛を覚える者もいる。和正にとって夕方は眠気がひどくなる時間だった。

「あれは本当にお前の子か」

 耳元でささやく声に、和正は心臓の鼓動が早くなるのを気付かれぬように願った。

「晃は上月の子ではないのか」

 囁き声は和正が目を逸らしてきた疑念を揺さぶり起こす。

 気を取られてはならない。

 和正は魔物の仕業だと心得ている。心の隙を見せてはならない。

 足早に屋敷に戻る。すると我が子の泣き声が玄関まで聞こえて来た。

「どうした、晃」

 和正は息子が寝ている部屋まで走って行った。障子を開けると、晃は布団の上に座り、小さな体を震わせて泣いている。彼の回りに置いてあったおもちゃがバラバラに壊されている。眠っている間に力が暴走したようだ。

「晃、父さんが来たからもう安心だぞ。何を泣いていたんだい?」

 和正が晃を膝の上に乗せ、抱きしめてやると、彼は小さな手を和正の体に巻き付かせてしいがみついてきた。

「怖い夢でも見たのかい?」

 和正が問うと、晃はこくんと頷いた。

「安心しなさい。この家には魔物も怖い物も入ってこれないから。お前は安全だし、何も心配する事はないぞ」

 安心させるように言うと、晃は和正に抱き着いたまま寝息を立て始める。

 可愛い我が子の様子に和正は微笑んだ。晃の頭を撫で、起こさぬように布団に寝かす。例え自分の子でなくとも、和正は晃の事を何よりも大事に思っている。賢い子だから和正がおかしな素振りを見せたら不安がるだろう。だから、感情は抑え込まねばならない。晃は早坂家にとっても大事な人間だ。何があっても守らなくてはいけない。

「力がまた暴走している。どうにかしてやらないと」

 和正は壊れたおもちゃを片付け、我が子の側を離れず、書類仕事も晃の部屋に持ち込んで一緒に過ごすことにした。

 幼い晃の力は不安定で、気になって和正が先代の黒統衛門の時がどうだったか調べたところ、文書には特に不安要素は書かれていなかった。それどころか、「永里」を得るまで黒統衛門に力はなく、何も心配する事はなかったらしい。

 今の晃は不安要素が多い。

 佐和の鬼の力が強いせいなのか、晃にも力がある。物を動かしたり、人の気持ちを読んだり、突拍子もない瞬間移動をしたりする。その度に和正は焦って後を追うが、佐和は大らかに笑って見ているだけだ。

「晃、父さんが守ってやるからな」

 和正は晃の寝顔を微笑ましく見て言った。

 晃も何かと面倒を見てくれる和正にはよく懐いている。佐和よりも和正について回ることも多く、郷の中でも二人の姿はよく見られていた。

 ある日、和正が晃を連れて散歩に出かけた時、河原で上月と佐和が一緒にすごしているのを見かけた。和正は通り過ぎようとしたが、晃は母親と叔父を見つけて嬉しそうに駆けよっていったのだ。和正は距離を保って、側には寄らなかった。

「良い眺めだな、郷の長よ。お前の妻と弟はお似合いじゃないのか?お前は遠くから指をくわえて見ている事しかできないのだ」

 囁き声がした。

 どこからだ。

 和正は神経を張り巡らせて、それが晃の内から発せられていることに気が付いた。激しい動揺が彼を襲う。しかし、彼の高い能力は、晃を経由しての思念だと分析した。その先はよく視えない。

 和正は完全なる鬼の気配に厳しい表情になる。普段笑顔を崩さない彼だが、今は余裕などなかった。この声の主がいかに危険か、そしてそれは晃の身に危険が及ぶ事態を招くことを意味している。

「兄上、そんなに怖い顔をして見なくても、人妻に手は出しませんよ」

 何をのん気なことを言っているのか、と叱りつけたい気になったが、和正はただ首を振った。

「上月、しばらく晃を見ていてくれるか。用事を済ませてくる」

「はい、兄上」

 上月は快く引き受けて、晃の手を握った。それを見届けて、和正は屋敷に戻った。

 屋敷の調理場へ直行して、和正は上羅を見つける。仕込みの途中だった彼女は和正の様子に手を止めて、話を聞く態勢を整えた。

「上羅殿、永里殿は鬼狼丸を持っておられるか」

 いきなりの質問に、彼女は意味を測りかねたが、頷いた。上羅の孫の永里は黒統衛門の生まれ変わりの晃に嫁ぐ娘だ。それは昔からの決まり事。彼女が手に妖刀の証をもって生まれた時から、名前は既に決まっていた。

「どうかされたのですか」

 穏やかに上羅が問う。

「他言無用に願います。実は鬼の声がずっと私について回っているのです。それも晃と一緒にいる時にです。考えられるのは、修羅」

 和正は普段絶対に見られない厳しい表情で言った。それだけに、上羅は事態の深刻さを理解した。そして、和正の本質が、今、目の前にあることを悟った。彼は穏やかと言われているが、とんでもない。激しい気性の持ち主だ。それなのに、正反対の印象を他人に与えているのだ。とてもよく自制している。長たる者の心得を彼は実践しているにすぎなかったのだが。

「修羅、というのは黒統衛門様に成敗された鬼の名です。一説では地獄から戻って復讐をするとか。これは非常に危険な話です。立ち話でしていい話ではございません」

 上羅は声を潜めて、瞬時に二人の間に結界を張る。

「晃の中に、修羅は既にいるのではないかと私は思っている。だから、晃は力を制御できないのではないか。そして永里殿の持つ鬼狼丸を破壊するつもりではないかと考えたのだが…」

 和正は歯切れの悪い自分に腹を立てているようだった。

「わからないのです。どうやって晃を守ってやればいいのか」

 和正は正直に言った。

「上月と佐和への私の気持ちを利用されるかもしれない。そうならないと言い切れる自信が私にはないのです。ですから、あなたの力をお借りしたい」

 和正の本心を聞いて、上羅は胸を痛めた。

 鬼は人間の弱い心を操り、利用する。目的を達する為ならば、人の情などゴミも同然。そして和正は自分が利用されることをよく知っている。

「分かりました。私が影ながら晃様をお守りしましょう」

 上羅は約束した。まさにこの時、晃が永里に出会い、その力を自分に取り戻してしまおうなどという事は想像できていなかった。

 和正は安堵の微笑みを浮かべて、上羅にありがとうと言った。

「和正殿、あなたはそうやって微笑まれている方が素敵ですわ」

 上羅が言うと和正は照れたように驚いたが、その顔色がどんどん変わっていく。

「これは…」

「和正殿、参りましょう」

 上羅は和正の腕を取り、瞬時に外へ移動した。

 外は吹雪が吹き荒れ、暗闇が押し寄せてきていた。

「すごい力です」

 上羅はその力の源を探した。

 和正が心当たりがあるのか、走り出す。

「和正殿、危険です」

 鬼はなかなか死なないが、人間はあっけなく死ぬ。それを心配して上羅は和正から離れない。

「晃、あきら!」

 自分が目を放したばかりに、危険な目に合わせてしまった。

 和正の焦燥が伝わり、上羅が彼を落ち着かせようと手を取る。

「あなたが落ち着かないと、皆が心配しますよ」

 上羅の言葉に、和正が我に返る。

「はい、そうですね」

 和正は一呼吸置き、崩壊前の嵐の中を迷いなく進む。晃の元へ。

 闇がゴウゴウとうごめく場所があった。和正は迷わずそこへ飛び込む。

 彼が目にしたのは、倒れている美しい少女で、彼女こそ永里だった。そして、呆然としている上月の視線の先にあるのは、佐和と晃だ。佐和は晃の力を抑えるために持てるものすべて、全力を彼の力と対抗させている。

「上月、何があった」

 和正の低い声に、上月が顔をあげる。恐れを抱いたように和正を見ている。今の和正は生粋の鬼のように凄まじい迫力を有している。

「晃が、永里殿に出会ってしまったのです、兄上。晃は永里殿に手を伸ばし、永里殿はその手を取りました。そして、こうなった」

 上月は責める様に和正を見ている。すぐに上羅が永里の元へ走った。それを見届けて、和正は上月を見据える。

「兄上、正直にお答えください。あなたは誰かに何か吹き込まれたりしておられませんか。あなたの様子がおかしいのはわかっていました」

「上月、お前こんな時に何を言い出すんだ」

 和正は怒りを露わにした。

「晃の力を狙っているのは兄上ではないのですか」

 上月が詰め寄る。和正は力を放って上月を退けた。怒りに満ちた赤い目が、上月を睨む。上月が激しい彼の感情を目の前にしたのはこれが初めてだった。

「上月、晃の命が最優先だ」

 ぐっと感情を堪えた和正は言い捨てて、晃のいる場所に走り出す。その背に向けて、上月は右手をかざす。

 和正の足が動きを止める。

 力が入らない。

 腕も、頭も、言う事を聞かない。

 なんなんだ。

 目の前で、佐和が晃の力を抑え込むのに成功した。小さな晃の体から、妖刀を取り出す。その手は妖刀の禍々しい力のせいで溶けかけているが、お構いなしに妖刀を圧縮し、小さな光の玉にした。

「上羅さん!」

 佐和は叫んで助けを求める。

 すぐに上羅が手を貸し、その小さな玉を永里に体に入れた。

 闇が収束していく。

 ほっと息をついて、佐和が晃に向かって微笑んだ。

「良かった。晃」

 呟いた言葉は宙に消え、佐和は跡形もなく消えた。

 あまりに強い力の前に、彼女の体がもたなかったのだ。晃の力を抑え込んだのも、奇跡と言えた。母の想いが、晃を助けたのだ。

 晃はぼんやりとそれを見て、気を失った。上羅が永里と晃の二人を抱き、和正の元へやって来る。

「一先ずお屋敷に戻ります。和正殿と上月殿は、よく話し合われるのが良いと思いますよ」

 彼女は言いおいて、消えた。

 地面は剥がれ、むき出しの土の上に力なく膝をつき、和正はしん、と鎮まった場所で、打ちひしがれる。

 晃は無事だ。

 けれど、佐和は?

 お互いに言いたいことも言わなかった。夫婦なのに、お互いの何を知っていたちうのだろう。こんなにも喪失が辛いものだとは思わなかった。

 涙が、地面に落ちた。

「上月、貴様、何をした」

 和正の怒りが涙となって落ちていく。

「兄上、お許しを。晃の為に、疑惑の芽は摘んでおかねば。あなたが力を使うことが不安なのです。修羅に惑わされて、晃によからぬことをされるのでは、と…」

 上月は頬を伝う涙をぬぐいもせず言うが、最後は言葉にならなかった。

「まったく、無用な心配だ」

 和正は言って、地面に拳を打ち付けた。

 しばらくして、彼はゆらりと立ち上がる。うまく力の入らぬ体が忌々しい。けれど、これは罰なのかもしれない、と和正は思った。澄ました顔をして、大事なものを手にする戦いをしなかった。その罰だ。

「上月、私は郷を離れる。晃を連れて行く。これは晃を守るためだ。私はあの子の父親で、あの子を守る責任がある。いいな、上月」

 顔も見ずに言う兄に、うなだれて上月は頷いた。


 あの日、何か違う行動をしていたら、未来は変わっていただろうか。

 和正は誰もいない居間のソファに腰掛けて、思い起こしていた。佐和の亡くなった日の事を。

 それぞれがそれぞれの記憶であの日を覚えている。

 和正にとっての、あの日の真実は、皆と少し違ったようだが、それが嘘偽りのない真実だから仕方ない。

 彼は今でも不思議に思う。

 修羅はあの場にいたのか。

 答えはわからない。しかし、晃が幸せになれば、それもどうでもいい話だと彼は思った。







 

 

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