第7話 背信の代償

 いつまでも耳に響く水音に、永里は少々嫌気がさしてきている。

「永里、何を考えている」

 玉座から上月が低く響く声で問いかけてくるが、永里は首を振るだけで言葉を発しない。

「晃のことか」

 そう言われても、永里は首を振るだけだ。その冷たい紅い瞳には足元に揺れる水面しか映っていない。

「晃を守るのが我々の使命だ。彼が苦しむことになっても、生きていてくれればそれでいい」

 上月の口調はどこか悲しげだ。

「永里、すまぬことをした」

 こう見えて謝ることをしたことがない上月だ。それでも、若い永里には告げたかった。

「いいえ、あなたのせいではありません」

 永里がやっと口を開いて、それだけ言った。

 彼女の想いは水面に揺れて消えていく。主人を思うならば、これが一番の道だとわかっているのに、彼女の心は水面のように揺れるばかりだ。

 上月は身動き一つせず、澄んだ瞳で天を見上げた。そこには岩窟があるだけだが、彼はそんなものを見ているのではない。遠く、遠く、輝けるものを目に映している。

 ふいに影が彼を覆いつくす。

 禍々しい気配に、永里の眉がピクリと動く。

 暗い闇に飲み込まれる前に、彼は希望を胸に思い浮かべ、孤独の心を温める。

 希望は、誇り高く生きてくれるだろうか。


 晃はふと誰かの想いに心を引きずられる感覚がして、辺りに目を配った。

 誰かがいるわけではない。しかし、感じる気配はよく知っている。

 彼は夕飯の支度を終えて、ソファに胡坐をかいて英語の予習をしているところだった。せっかく夕飯の準備をしたが、和正からは急な出張で帰れないと連絡があったし、永里はもう戻るつもりはないだろう。

 一人きり、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 こんなにこの家は静かだったのだろうか。

 呼べば永里が出てきそうな気がする。熱いコーヒーを淹れてくれて、乾燥した洗濯物にアイロンをかけるべく、たすきがけして着物から細くて白い腕を出しているところがすぐに思い浮かぶ。

 このまま、一人元の生活に戻ってしまったら本当に楽なのだろうか。

 永里のことも、上月のことも、頭から消して、最初で最後の鬼でない人生を歩む。生まれ変わることを、もう終わりにできる。

 何度も何度も夢見たことだ。

 生まれ変わるたびに千景を失う苦痛を味わう。そして絶望に立ち尽くす。自分に何ができただろうか、と。そもそも、天命をもって鬼退治などしなくても良かったのではないか。そうすれば千景のことを不幸にしなくて済んだ。

 そこまで考えて、晃は深く息を吐いた。

 埒もない。

 過去をどうこう悔やむのは質じゃない。いつも、前だけを見て来た。後ろには葬った死者たちの亡骸がたんと積んである。間違いも犯したかもしれない。しかし、それでも胸を張って生きて来たのだ。

 晃は英語の教科書を放り出して、ソファに寝転んだ。そんな彼の元に淡い光がふわふわ漂って寄ってくる。愛しそうに彼は光に手を差し伸べる。

「来たか。心配してるんだろう?すまない。こうなってしまったのも僕のせいだな」

 一人ごちて、晃は光を優しく撫でた。

「君は幸せだったろうか」

 ぼんやりと光に問うと、烈火のごとく熱く強い光に代わって、晃を直撃する。晃は手の平を光に向けて落ち着かせるとため息をついた。

「どうして怒るんだよ、まったく。千景は素直ではないな」

 光に向かって、晃は千景と呼んだ。

 愛しい人の別の姿だ。

「それにしても、あの二人、僕が上月の稚拙な嘘を見抜けないとでも思っているのかな。なのに、お仕置きしようにも僕ときたら、上月の罠にはまって力を吸い取られるという間抜けぶりだ。記憶が完全ではないと言え、僕は鬼の首長だぞ。何度生まれ変わっているか知れないというのに、こんな情けない長は初めてじゃないか」

 千景に向かって本心を話すと、光がまた淡く優しく彼を撫でる。

鬼狼丸きろうまるまで取られて、なんてザマだ」

 寂し気に晃が言う。鬼狼丸の何たるかは分かっているのだ。あの妖刀に込められた力は覚えている。あれは修羅の力の源。いや、彼の命と言ってもいいかもしれない。鬼狼丸が修羅を倒した時、あの刀が修羅の力を飲み込んだのだ。この体と同じように。

 晃はあの洞窟での出来事を思い起こす。

 黒統衛門が修羅の右腕を鬼狼丸で落とした時、もう彼はほとんど意識がなかった。いたぶられ、切り付けられた彼の体は血を失いすぎて力など残ってはいなかったのだ。千景の元へ行きたかったが叶わない願いだとわかっていた。出会いから、こうなることは決まっていたのだとさえ思う。願わくば、彼女が悲しまないようにいてくれるといい。元通り、修羅と良い仲に戻れたら彼女もこのことを忘れて暮らせるかもしれない。

 なのに。

 千景が現れた。その時には、右腕を奪われた修羅の怒りの力が黒統衛門を岩にたたきつけていた。修羅の体も無傷ではない。しかし、人間よりも頑丈にできている鬼の体はまだ自由に動けたのだ。

『兄上、おやめください』

 千景が力なく投げ出された黒統衛門の体を抱いて言った。修羅の目が吊り上がり、怒りに満ちた紅い眼は黒統衛門を呪い殺すほどに激しかった。

『なぜそこまでこのか弱い生き物をかばう?体もやわですぐに血を流す。下等な生き物に特別な情など持つこと許されぬぞ。まして、そなたは我が妻ではないか』

 修羅の手に炎が生まれる。

『焼き尽くしてくれるわ』

 黒統衛門の体めがけて修羅の炎が放たれる。

 千景が、全身でかばう。

忌々いまいましい!』

 修羅が叫ぶ。それは怒りではなく、切ない心の叫びだった。

 愛をう、その魂の叫びは咆哮ほうこうとなって洞窟に響いた。

『兄上には分かりませぬか』

 千景の悲しい眼差しが修羅を刺す。

 そして、千景は気が付く。

 彼女は黒統衛門の命が果てたことに動揺した。

『こんなこと…』

 千景は冷酷で無慈悲だと言われているその目に涙をためていた。

 愛しい人の命が尽きた。その事実を受け入れられない。

『許されぬ』

 彼女の呟きが力を呼び寄せる。

 氷のきらめきが彼らを囲む。冷たい風は敵意をもって氷の矢を運んでくる。

『千景、止めろ。それは禁忌きんきの術だ。その男の為に使って良いものではないぞ。お前とてただではすまない。止めるんだ、千景。兄の頼みが聞けぬのか。そなたの心が癒されるよう何でも言うことを聞いてやる。だから、今すぐその術を止めるんだ』

 修羅が焦って言うが、もう彼女の心には届いていない。

 黒統衛門の魂を呼び戻す。

 それしか望まない。例え自分の命と交換になっても、愛しい殿方を生かす事ができるのなら本望だ。

 洞窟内の温度が急速に下がる。

 足元には霜が張り、すぐにそれは氷の膜に代わり、地表が氷で覆われる。

 吐く息は白く、吸う空気は喉を凍らせる。皮膚が冷気にさらされ、痛みを覚える。

 鬼でさえ立っていられないような極寒の氷の世界が出来上がる。

『千景』

 修羅が彼女を助けようと動く。黒統衛門との戦いで彼も体力を奪われている中、愛しい女を救おうと彼女の体を宙へ浮かせて黒統衛門の亡骸と引き離す。黒統衛門の体は再生できぬよう灰も残らぬほど焼いてしまうつもりだった。彼は劫火を出現させるつもりで手を振り上げた。

 何かが弾けた。

 激しい炎と氷の渦が辺りを埋め尽くし、混ざり合う。

『こんなことは…』

 許されない。

 劫火に焼かれているのは千景だ。氷の渦が黒統衛門を覆っている。ひんやりとした空気の流れは尋常ならざる世界のもの。そしてそれは黄泉の国からの帰還を意味する。背筋が凍って修羅は動きを止める。

『千景』

 彼女を救おうと、最後の力を振り絞って修羅は千景の体を抱きしめる。

 一緒に焼かれている感覚に、彼の息が止まる。熱い。目が眩むほど、熱い。しかし、一方で彼は幸せを感じる。

 彼女と共にいける。

 なんと甘美な誘惑か。

 しかし、異常な事態はそれだけでは収まらない。

 黄泉から還ったものは生前の姿を留めず、その代償を否応なく奪いにくる。黒統衛門であったものは、のそりと立ち上がって、真っ直ぐに千景の元へ進んでくる。

 千景の命だけが炎に焼かれていることに気付いた時、彼は黒統衛門を再び殺すことに決めた。不気味な佇まいの黒統衛門は何も言わないし、何もその瞳に映してはいない。不気味である。

 修羅は思った。化け物と化した彼さえいなければ、千景は助かる。

 修羅が炎を出そう左腕を上げると、その腕はたちまち凍てついた。

 息が、できない。

 氷が肺まで達して、空気を吸わない。

『兄上、私は良いのです。黒統衛門様をお救い出来るのなら、幸せにございます』

 千景が虫の息で微笑んでいた。透明な炎は彼女の体は焼かないが、魂全体を灰にするつもりだ。魂が消滅すれば、もう会うことは叶わない。生まれ変わることができないのだ。

 ばかな。虫けらのような人間に、私が負けるなど、あってはならない。

 修羅の体は氷に埋まる。

 目だけが自由になる。その赤い目が黒統衛門を映すと、彼は感情のない目で修羅を見る。これが、妹の助けたかった男なのか。あのくそ生意気な人間の、成れの果て。どうして生意気な目で見返してこない?どうしてイライラさせる言動を取らない。最早、別の人間ではないだろうか。というよりも、人間ではない別の生き物だ。

 修羅は戦慄せんりつした。

 何物にも怯えた事のない最強の鬼の長が、黄泉還りの人間にただ震えた。

『お前、千景がどうなってもいいのか』

 千景を助けたくて、自分が殺めた男に声を発する。凍った喉からは音など出ないが、思念は届いたようだ。

『お前のせいで、千景が死ぬ!』

 修羅の叫びに、黒統衛門が大きく口を開ける。

 虚無が覗いているような口の中だ。そこから光が飛び出した。修羅に緊張が走る。もしも今の黒統衛門に攻撃されたら、修羅の身は無事では済まない。

 光は黒統衛門の愛刀だった。切っ先の美しいカーブがきらめく。黒統衛門はその愛刀を自分に突き刺そうとしていた。その目には千景だけが映っている。先ほどまでの無感情とは全く違う色を宿して。

『千景、君は生きなくてはいけない』

 黒統衛門は千景の為に、再び死ぬことを選んだ。

『くそが』

 修羅が叫んで黒統衛門めがけて走る。

 その身を刀の餌食にして修羅が倒れる。

『千景の為だ』

 修羅の体が刀に吸い込まれる。そして刀は黒統衛門の中に戻って行った。

 しん、と静まり返った洞窟の中で、黒統衛門は立ち尽くした。水音さえしない空間に、他に生き物はいるのか。

 見ると、千景が血に染まって倒れている。氷のような美しい顔を血に濡らして、彼女は彫刻のように冷たくなっている。紅い血が花びらのように彼女の体全体を覆っていく。

 抱き起すと、むせ返るような血の匂いがした。

 叫んで、彼女を見つめた。

 しかし、その腕の中に千景の姿はない。

 一人、黒統衛門はそこにいた。血に濡れた両手を呆然と見つめて。

 生き返るつもりなど、なかった。千景の命を奪ってまで、生きたくはないのだ。

 どうしたらいい?

 どう生きればいい?

 世界なんて、壊れてしまえ。

 黒統衛門の嘆きは誰にも届かない。ただ一人を除いて。

 黒い靄が辺りを埋め尽くしていく。

 壊れてしまえ。

『おやめなさい』

 永里が事態に気付いてやって来た。

 見た目は双子の姉の千景と変わらないというのに、永里はまるで千景とは月と太陽のように違う存在だった。彼女は何かが根本的に変わり果てた姿の黒統衛門を見ても永里の表情は変わらない。しかし、彼は禍々しい力に満ち、恐ろしい生き物になっていた。

 永里は目を閉じた。

 千景の望みが見える。

 彼にどんな姿でも生きていて欲しいのだ。

『しっかりなさいませ』

 永里の厳しい声が黒統衛門を叱責する。

 彼女もまた喪失の痛みに心を震わせていたのに、黒統衛門を支えようとした。強い女だった。

 思い出は辛すぎる。

 晃はふう、と息を吐いて、淡い光を抱いた。

「千景はこの未来が見えていたのに、僕を、黒統衛門を愛してくれたんだな」

 先読みの力に優れている千景の思念が、この淡い光の正体だった。今、この状態では、過去の千景は生きているのだ。温かい心が、この光に繋がっている。

「未来を見て、君は何度でも同じ選択をすると言ってたな。今、君の目に映る僕はどんなだろうか。黒統衛門でもなく、人間ですらない」

 光が不安げに揺れた。

「ああ、君のせいじゃない。本当だ。君こそ、こんな未来を見てしまって不安だったろうね。永里?ああ、大丈夫。大事にする」

 晃が光に誓う。

「千景、君のことも大事にする」

 晃は言って、光を放した。何事もなかったかのように光は消えた。元の時代の千景の中へ戻ったのだ。

 皆を守るのが早坂黒統衛門を名乗る者の使命だ。昔は叶えられなかった。そして今も、そうなるかもしれない。でも、守るのだ。

 晃は決意を新たにした。

 彼は立ち上がって、意識を研ぎ澄ます。

 鬼の力などなくても、彼には誰も敵わないのだとわからせる必要があるみたいだ。彼は鬼でも、人間でもない、世界の狭間にいる生き物。黄泉の国から舞い戻ってしまった哀れな生き物。だから、異様な力を持っているのだ。誰も知りえなかった力の正体は鬼の力ではなかったと皆が気が付くだろう。

 晃は瞬時に郷へ移動した。

 ぽちゃん。

 ぴちゃん。

 水音に顔をしかめて、晃は先へ進む。

 何度ここへ来させるつもりだ。

 誰にともなく憤慨して、彼は奥へ進んだ。

「あきら、さん?」

 永里の声が耳に届く。信じられないと言う風に彼を見ている。

「やあ」

 お気楽な調子で彼は手を挙げた。

 永里の側に上月がいる。

 目だけは澄んで、美しい。

 玉座から動けない彼は、まじまじと晃を見ている。

「その顔は、僕の鬼の力を奪ったのにどうしてここにいるんだという驚きの表情でいいのかな?」

 晃は上月の前に立った。

「花楓、出ておいで」

 晃は宙に声をかけ、その愛くるしい幼馴染が後ろに控えるのを確認した。

「叔父さん、あなたを守るのに花楓が苦心したんだ。あなたがそれ以上変わらぬように、花楓が力を使っていたことに気が付いていただろうか?後で充分ねぎらってやってくれよ。このお嬢さんは結構高くつくんだ」

 晃は話しかけても物言わぬ上月に肩をすくめた。

「僕は鬼でも人間でもない。亡霊なんだよ」

 晃は言って、上月の体に触れた。

 上月の見る影もない変わり果てた姿に、晃が心を痛める。上月の体は大きくふくらみ、闇をまとい、醜いものに代わっていた。これは上月のせいではない。晃の本来持っている力が鬼の力に融合し、上月の姿を変えてしまった。そしてこれはきっと、自分の本当の姿に違いない、と晃は思った。

 彼が上月に手を伸ばすと、闇が生き物のようにじわじわと晃に忍び寄ろうとする。ゾクゾクするような嫌悪感が、普通ならしただろう。だが、これは晃の分身のようなもの。嫌でも向き合うべきものなのだ。晃は涼しい顔で闇を手に取る。

「上月、僕の力を返してもらうよ」

 みるみるうちに闇が晃の中に吸い込まれていく。闇をすべて吸収した後、晃は手に鬼狼丸を持っていた。それと同時に上月の姿が本来の凛々しい美貌を取り戻す。その顔には疲労の色が浮かんではいるが、己の闇からも解放されて清々しいものがある。が、やがて言い表せない戸惑いと、安堵と、そして懺悔の情が入り乱れて晃の顔をまともに見ることができずにいる。

「信じられないって顔に書いてあるよ」

 晃がケラケラ笑って上月に言った。永里も、何か奇跡を目撃したかのように目が丸くなって言葉を失っている。

 晃は妖刀を手の中に収めた。ずぶずぶと晃の肉の中に入って行く妖刀を見ながら、上月が吐息をついた。

「上月、あなたの力は他の者からその力を奪う特殊なものだけど、その体には容量と言うものがある。僕の力は本来、鬼の力じゃないからあなたの器には収まりきらないんだ。あなたは修羅の事を懸念していたようだけど、恐れるべきは僕自身の中にある。だから、まあ、見当違いをしていると言っておこうか」

 晃は上月の疲れた体を癒すために、彼に精気を送る。金色の双眸が優しく上月を見つめている。

「僕の許しなしに皆を巻き込んで、お仕置きが必要かと思ったけど、もういらないな。あんな姿になって、苦しかったことだろう」

 晃は黒統衛門の責任として、上月に向き合う。上月にとっては甥っ子だが、中身は一族の要という生を繰り返した男なのだ。上月などひよっこに等しい。

「こんな事になるまで君らを放置してすまなかった。僕も記憶があやふやになっていて、まさかこんな事態に陥るとは夢にも思わなかったんだ。上月、僕の為、和正の為、そして皆の為に身を尽くしてくれてありがとう」

 温かい金の光が上月の身を包む。晃の発する優しい光に包まれて、上月の目から涙が流れる。

「元凶はあなたたちの兄弟喧嘩に事を発するが、まあ、それは仕方のないこと。ダシにされた修羅もきっと許してくれるさ」

 晃は次に永里の前に立った。

「大丈夫か」

 そう言って、彼女を抱きしめる。彼女もまた、金色の光に包まれて、安堵を覚える。いつにも増して、温かい光だ。

「僕の力のせいで上月が暴走しないよう守ってくれていたんだな。ありがとう、永里」

 彼女を放して、晃は微笑んだ。

「辛い役目だったろう」

 晃を裏切って、ここへ潜むことは本意ではなかった筈。想いを言葉にすることもできず、永里は悩んでいたに違いない。それをちゃんと晃はわかっている。

「我が主、私には説明なしなの?」

 花楓が後ろで不服そうに言った。

「まあ、おいおい説明するって」

「扱いが雑すぎ」

 花楓がぷうっと頬を膨らます。

「仕方ないなあ、お前の好奇心には昔から手を焼いた」

 晃が苦笑する。いつも態度を変えない花楓には助かっている。

 彼は花楓の長い髪を耳に掛けてやる。お互い、長い付き合いだ。

 晃は遠くを見る目つきで口を開いた。

「もともと、この体の母、佐和は上月と付き合っていてね。因習の為に和正へ嫁いで、まあ、仲のいい兄弟だったから表立った確執は生まれなかった。しかし、僕が産まれてから、佐和は不安になった。今までの黒統衛門の生まれ変わりと違って、僕は少し弱かったんだ。元々ある力の制御もできていない息子に佐和はなりふり構わず全身全霊を傾けていた。彼女は息子を狙う魔物から息子を守る為に考えた。身代わりを立てよう、と。それを上月に相談したところ、和正に浮気と誤解された。和正は今まで溜めていた暗い感情を解き放って佐和と上月を責めた。上月に襲いかかる力を、佐和が払ったんだよ。それでもっと深い確執が生まれてしまうところだったんだけど、間が悪い事に、僕が永里に出会い、一目で恋に落ちた。それに引きずられるように、生まれ落ちた時に永里に預けてあった鬼狼丸が力を解放したんだ。僕は幼かったし、歯止めが効かず、すべてを破壊しようとしてしまった。お陰で、佐和は死ぬことになり、上月は和正が修羅に憑りつかれて仕組んだことだと誤解し、和正の力を奪った。それだけでも体に影響が出るのに、上月は身代わり作戦を決行した。僕の力をも自分の中に移動させたんだ。大きすぎる力はひずみを生む。上月は自分ではどうしようもなく、力に圧倒されることになった」

「それがこの事態の真相?」

 花楓が大きな目を晃に向けて尋ねる。

「和正は自分は自業自得だと、権利を一切放棄して郷を離れた。郷の事には一切関知しないし、上月はさぞ困っただろうね。ただ、佐和が命懸けで守った僕の事だけは必ず守ると約束して郷を出たんだけど、それがまた余計混乱を招いてしまった」

「じゃあ、なに、偶然が偶然を呼んだってこと?」

 花楓が呆れたように言った。

「まあ、そんなところかな」

 晃は答えて、腕を天に向かって伸ばした。

「なんにせよ、僕は鬼じゃないんでね」

 修羅の鬼の力を得た以上に、黄泉還りのせいで身についた力が大きすぎたのだ。

「湿気の多い所は大嫌いなんだ」

 晃は言いおいて、天へ力を放った。

 轟音を響かせて、天井に穴が空く。洞窟の中には瓦礫は落ちず、外へ向かって岩が飛んでいったようだ。穴から月光が洞窟に落ち、美しい星空が見えている。

「ここは修羅の隠れ家だったんだ。玉座なんてものを持ち込んだ修羅の見栄は孤独の証だ。力ある者は孤独に陥りやすい。だから、こうやって誰かと繋がる穴を開けてやらないと、そのうち息もできなくなる」

 晃はひょい、とジャンプして外へ出た。

「もう夜になってしまった。まだ英語の予習できてないんだよなあ」

 急に現実的なことを言って、晃は上がって来た永里を見て微笑んだ。

「これもちょっとしたデートかな?」

 冗談のように言った晃に、永里は困った顔を向ける。

「我が主、私をこき使ったんだから、美味しいものを食べさせてよね」

 花楓が永里との間を邪魔するように立って言った。

「はいはい、わかっているって」

「なに、その軽いあしらい方。むかつく」

 その辺の女子高生のように言った花楓に、晃が吹き出す。

「お前、全然可愛げがないのな」

「は?」

 花楓の飛び蹴りをくらって、晃がなぜか大笑いしている。

「それじゃ、帰るかな」

 晃は言って、最後に地上へ上がって来た上月を見た。

「上月、郷の事を頼む。僕はまだしばらく人間の社会の中にいるよ」

「ええ、若」

 上月は恭しく頭を下げた。

「永里はどうする」

 晃はずっと困った顔の永里に声をかけた。

「あの、私は…」

 主人を裏切った代償を払わなければならない。

 そう思っているのが手に取るようにわかる。

「体できっちり払ってくれたらいいから」

 晃は事も無げにそう言って、後ろから花楓に殴られる。

「乙女になんてこと言うのよ、我が主」

 馬鹿じゃないの、と花楓が言って、一足先に消えた。

「お勤め、果たさせて頂きます」

 決意が固まったようだ。

 冗談だよ、と言えない雰囲気に晃があはは、と笑って誤魔化した。

「それじゃ、僕は僕に戻る為に家に帰るよ、叔父さん」

 晃は「叔父さん」を強調して言って、消えた。

「またね」

 言葉だけが後から上月の上から降ってくる。

「永里、行っておいで」

 上月がまだ残っている永里に声をかける。彼女は頷いて、そして消えた。

 郷の外れの洞窟から出た地上から見る月は、今までで一番美しいと上月は思った。


 ダイニングテーブルに所狭しと並べられた料理の数々は、物の一分もしないうちに次々と空になっていく。

 せっせと料理をする永里と、無駄話もしないで口に食料を運ぶ晃と花楓の三人は夜も遅いというのに食欲の限界に挑戦するように、ただただ腹を満たす行為に勤しんでいる。

 そろそろ食材の方が尽きかけているのを気にしながら、永里が恐る恐る晃を盗み見ている。

 いつもの晃だ。

 ホッとした表情を晃は見逃さない。

 ふっと笑って、満足そうに箸を動かしている。そんな二人の様子に、花楓がいきなり立ち上がった。その右手にはフライドチキン、左手には巻きずしが握られている。オマケ、と彼女は手毬寿司の乗った皿ごと手に持つ。

「そろそろ帰るわ。私、お邪魔みたいだから」

 じゃあね、と彼女はパッと消えた。

 天上天下唯我独尊の彼女が正面切って気を使うことは珍しい。

「花楓のやつ、最後のフライドチキン持って行ったな」

 悔しそうに晃が言うのを、永里が微笑んで聞いている。

「お茶、入れますね」

 永里はポットから熱い湯を湯のみに入れて温める。

 湯気の上がる湯のみを見ていると、なんだかほっこりして、晃は箸を置いた。

「もう召し上がらないんですか」

「結構食べたしね。腹八分目って言うだろ?デザートは食べるつもりだけど」

 晃は丁寧にお茶を入れる永里の手を見て、その美しさに感心した。

「永里は美しいな」

 ポロっと言葉に出て、晃は言った手前なのか、熱い視線で永里を見つめる。

「鬼というのは皆が美しい種族だけど、永里は特に綺麗だ。それはきっと、その心の気高さが表れているからだな」

「まさか、そんな」

 永里は首を横に振った。主人を裏切った罪は彼女の中で消えない楔となっている。

 晃は立ち上がり、永里を引き寄せる。

「君は当然のことをしたんだ。気に止むことはない。こうやって僕の元に帰って来てくれた。僕は嬉しいよ」

「でも、私のした事は背信行為です。妻としてあるまじき行為なのです」

 自分で自分を許されなければ、その罪はいつまでも消えない。

 晃は彼女の顎に手をかけた。

「いいか、永里。僕は僕を裏切ってまで皆を守ろうとしてくれた妻に感謝している。それ以上に尊敬していると言ってもいい。こんな忠義者を僕は他に知らない。それでも、君は自分を責めるのか」

 晃の真っ直ぐに心のこもった言葉に、永里が潤んだ目を上げた。

「本当は、事が終われば解放してあげようと思っていた。若くて綺麗な永里にはどんな可能性も広がっている。未来を自分で選び取って欲しいと思っていたんだ」

 晃は永里の目を見つめ、抱きしめている腕に力を込める。

「でも、離せない。解放しないよ。ずっと側にいて欲しい。君が自分を許せないと言うのなら、僕の妻であり続けること。それで手を打とう」

 晃は彼女の唇に自分の物を重ねた。熱い彼女の唇を舌で舐めて、その奥へ進む。

 永里がぎょっとしたように身を引くが、腕に力を込めて離さない。

 彼女の頬が真っ赤に染まり、呼吸が荒くなる。唇を放さない晃に抗えなくて、息をどうしていいのかわからないのだ。晃が少し唇を放すと、ぷはっと大きく息を吐いて吸って、永里が恥ずかし気に晃を見る。晃がもう一度唇を重ねる。だんだん力の抜けていく永里の体をぴったり引き寄せて、晃は優しく彼女の体を愛撫する。

 彼女の瞳は真紅の輝きできらめき、熱に侵されたように潤んで熱い。

 大きな胸の谷間から心臓が飛び出るのではないかというくらい、彼女の緊張した鼓動が晃に伝わる。

 晃は服の上から胸に顔をうずめ、柔らかい感触に自制心をぶっ飛ばす。

 食卓にある物を乱暴に押しのけ、彼女を押し倒す。

「おやおや、上等のデザートを食べているんだねえ」

 後ろからの声に、二人の目が点になる。

「いや、いいんだよ。楽しんで。私は部屋で一人寂しくカップ麺でも食べるから」

 急に帰宅した和正が、あははは、と笑いながら自室へ行く背中を、二人は真っ赤になって見送った。

「出張で帰らないって言ってたんだ」

 晃が永里に言い訳する。

 された行為に耳まで赤くして、永里が頷く。

「あの、続きはまたお部屋で」

 精一杯永里が言う。晃は大きく頷き、彼女を横抱きにして部屋に移動しようとすると、また和正がやって来た。

「お湯がないとね、カップ麺は食べられなかったんだな」

 にこにこ。

 和正の笑顔に、二人の額に冷や汗が浮かぶ。

「悪いね、若い情熱に水を差して。気にせず続けな」

 和正は鼻歌を歌いながらヤカンに水を入れている。

 邪魔者がいると思うと、気になってできない。晃は頭をかいて、椅子に座った。

「デザート、まだ食べてないんだ。付き合うよ」

 彼は残り物を口に運びながら父親に言うと、和正がクスッと笑った。

「悪いね」

「大旦那様、私がやりますので」

 永里がヤカンを火にかけて、和正の持ってきたカップ麺を開ける。

「まあ、時間はたっぷりあることだし」

 晃が永里の切り分けたフルーツ盛にフォークを刺しながら言い、永里を熱っぽく見つめる。ドキッとした表情で永里がそわそわと背を向ける。

「色々大変だったらしいから戻って来たんだが、野暮だったかなあ」

 和正ののんびりした声に、晃が笑いだした。

「大変って、父さんのせいでもあるんじゃん。三角関係に巻き込まないでよね」

「なんて冷たい息子なんだ。お前を守る為にみんながんばっているんじゃないのか」

 いささか芝居がかって、和正が憤慨した様子を装って言った。

「それは感謝しているけど、みんな守ってやろうってがんばらなくても、僕を信じて任せてくれたらいいんだよ」

 パイナップルを口に入れながら晃が言うのを、和正はミニトマトをつまんで聞いていた。

「信じることが、みんなきっと難しいんだな」

 和正の実感のこもった言葉に、晃は親のように微笑んだ。

「僕が変わっているからね、わかるんだけど」

 晃は肩をすくめる。

「親は大変だね」

 他人事のような晃の言い方に、和正がわしわしと晃の頭を撫でまわす。

「大旦那様、冷めないうちにどうぞ」

 永里がカップ麺を和正の前に出す。

「あ、僕もあったかいのが食べたくなってきたな」

 晃が言い、立ち上がると永里の手を握った。

「父さん、悪いけど、消えるよ。邪魔しないでくれ」

 そう言って、彼は永里を連れて部屋へ行った。

「堂々と宣言したらいいってもんじゃないぞ」

 和正がボソッと呟いたのが聞こえたのかどうか。

 晃は部屋に入るなり、永里にキスをしてその唇を首元へ下げていく。更に胸元に下げようとして、彼女の目を見つめ、服を脱がせた。

「悪いけど、惚れさせた責任取ってもらうから」

 晃の宣言に永里が更に真っ赤になる。

 白い肌に真っ赤な花を咲かせて、彼女は晃の腕の中で至福の時を迎えたのだった。






 



 



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