第6話 鬼嫁の忠心
永里が誰かと話している声に、晃は目が覚めた。
ベッドから出て、部屋を出る。永里の部屋から漏れ聞こえる話し声は小さくて内容は聞き取れないが、話している相手は男のようだった。それも、聞いたことのある声だ。
「叔父さんの声?」
晃が永里の部屋の前まで行くと、丁度ドアが開いた。
「あ、晃さん」
驚いた顔で永里が見ている。彼女の驚く顔もあまり見ないよな、と晃は思う。
「ごめん、声が聞こえたものだから。叔父さんの声みたいだったけど?永里電話持ってたっけ?」
「電話ではないんですが。テレビ電話のようなものだとお思い下さい。鬼は思念を飛ばして会話をするのですが、そこにあたかもいるような状況を作り出すことができるのです。上月様の御用件は、兄の事で直接話があると。明日にでも大旦那様と晃さんには上月様からお話があると思いますので、私からはお話ししません」
永里は美しい顔で晃を見上げて言った。普段隠している鬼の目の色をしている。
深い紅い瞳が晃の目を映している。
「綺麗だね」
「え?」
晃の言葉に永里が目を見開く。
「ずっと思っていたんだけど、永里の目がさ、綺麗だと思って」
彼が言うと、永里は目を逸らした。
「光栄です」
永里の声は消え入るように小さくて、晃は彼女が困っていると感じた。。
「ごめん、それじゃ」
彼が部屋に戻ると、永里は台所へ行ったようだった。
再びベッドに戻って、晃は胸騒ぎに眉をひそめる。
何か嫌な予感がする。
彼にはまだ先読みの能力は発現していない。そもそも、先読みの能力は特殊で、鬼の中でも力が強く、特に女性に現れやすい能力だ。あの千景も先読みの能力に秀でていた一人だ。
晃は少しいつもと様子の違う妻を気にしつつ、再び眠りについた。
翌朝目が覚めると、晃は違和感を覚える。全身に力が入らない。夜目が覚めた時は普通だった。それから朝まで起きることなく眠っていたが、何も心当たりがない。
晃は体を起こそうと手を支えに身を起こすが、それ以上は無理だった。だから諦めて力を抜いて寝転んだ。
「なんなんだ」
熱もないし、力が入らない以外は何ともない。
晃はぼうっと天井を見ながら、意識を研ぎ澄ます。
永里は台所で朝ごはんを作っている。和正は居間で新聞を読みながら、コーヒーを飲んでいる。いつもの朝だ。
外へ意識をやると、花楓がこちらを見ている感覚を覚え、彼女の部屋まで飛んだ。
「晃、どうかしたの」
彼女はまだパジャマ姿だったが、大きな目をこちらに向けて真剣な表情で問うた。
「わかるのか、僕がいること」
「当たり前じゃない。どうしたの、意識だけで。体は?大丈夫なの?」
花楓は本当に心配いているらしく、すがるような目で彼を見ている。
「体が鉛のように重くて力が入らないんだ。思い当たる節もないし、どうしようかと思ってたら、花楓の事が思い浮かんだんだ」
「私のところへ来たのは大正解ね。私はあんたを守るのが使命だから」
昔からの尊大な態度だが、可愛らしく花楓が言う。
「でも」
我が主、これは困った事態みたい。
口に出さずに言い、彼女は目を閉じて彼の意識に同調してくる。
「大きな力が働いているわ。そちらへ行ってもいい?」
花楓が言い終わらないうちに、目の前に現れた。
「お前、パジャマのままで来るなよ」
晃が呆れて言うと、花楓は不敵に笑う。
「私は何を着ていても似合うからいいのよ。それよりも、あんたのことよ、我が主」
花楓はベッドに寝転んでいる晃の上に乗っかかると、じっと彼の目を覗く。
「力がなくなっている。どうして?」
「鬼の力のことか?」
「ええ。強大な力だから、普通の人間以上のことはできると思うけど、鬼として上位の力かと言えば、そうでもない。どうしたのかしら」
花楓が真紅の瞳を晃の目に合わせて、ここではないどこかを見ている。
「わからないわ。とても怖い」
花楓は、その気性に似合わない言葉を吐いて、晃から離れた。
「お前が怖いと思うほどの力を持つ奴の仕業ってことだな」
「…たぶん。禍々しい物が見えたの」
花楓は息をついて、ぺたんと床に座り込んだ。
「でも、晃。誰にも言わない方がいい。後藤も言ってたと思うけど、敵は優しくないって。優しくないどころか、恐ろしいわ。誰が敵なのか、私には見当もつかないんだけど、これだけのことをしてくるなんて、こちらも出方を考えないと」
「わかった。しかしまた、敵、ねえ」
晃は郷にいた者達を思い起こして、どれも当てはまらないと考える。身近なところにいる敵?それは晃の懐に深く入り込んでいる者。
早坂上月。
昨日の永里の様子のおかしさ、そしてふいに流れ込んだ意識を見た時に、彼は晃に何か仕掛けようとしていたのを思い出す。
「まずいなあ」
のん気に言う晃に、花楓がいらっとした顔をする。
「我が主、のん気も大概にしてくれない?」
「お前、叔父さんに憧れているだろう」
晃の言葉に花楓が虚を突かれたように惚ける。
「お前の大事な上月様が何か仕掛けて来たんだよ」
「え?まさか。上月様は晃の叔父様よ?」
花楓は立ち上がって、晃の足の方に腰を下ろす。
「お前さ、叔父さんと僕と、どっちとる?」
晃の真剣な問いかけに、花楓はキッと晃を睨む。
「私の主はあんた。晃よ」
彼女は噛みつかんばかりに彼を見た。
「そうか。ありがとう」
「礼を言うことはないわ。あなたはふんぞり返っていればいいのよ」
どこかで聞いたセリフだ。
「さて、どう反撃するかな」
言葉だけ楽しそうに晃は言った。
「叔父さんのことも、僕は守るよ」
ここにはいない年上の男に向かって、彼は言った。
花楓は複雑そうにそれを見て、帰る、と言って消えた。
「今日は学校は休みだな」
晃は布団をごそごそ引き寄せて、再びまどろんだ。
トントン。
ドアがノックされる音を晃は無視した。
「晃さん?」
永里の声がする。
「もう起きられる時間ですが、晃さん?」
心配そうな声だ。
「悪いけど、今日は休む。後藤に言っといて」
ドア越しに言って、晃は永里が去るのを待つ。彼女は立ち止まったまま、身動きしない。
「晃さん、必要なものがあれば言ってください」
「永里」
「はい?」
「だから、永里をくれ」
「…どういう意味でしょうか」
永里は戸惑ったように言う。
「何も憂いのない永里の気持ちを、僕は感じたい」
晃は言いながら、それが叶わないことをもう知っていた。
「忘れてくれ。それじゃ、僕は少し寝るよ。永里、行ってらっしゃい」
「はい」
永里の気配が去って行く。
晃はやりきれない思いで寝返りを打つ。今度こそ、大切なものたちを守らなければ。
彼の思いに応えるかのように、部屋の中にぽうっと明るい光が現れる。
「心配するな。僕は大丈夫。全部うまくいくよ」
晃はその光に話しかける。光は晃の元へ来ると温かい波動を送って、消えた。
昼時になって、ようやく起き上がれるようになった晃は、着替えをすまし、台所へ立った。お腹が空いてたまらない。ダイニングテーブルに置いてあった永里の作った朝食は既に完食している。ハムサンドと明太子パスタを作って食べていると、電話が鳴った。
「はい。ああ、智?うん、今は元気だよ。僕もとうとう病欠する体になったらしい」
電話は智からで、皆勤賞の常連の晃が休んでいるのが信じられなくて事実確認の電話をかけてきたのだ。
「ああ、気を付ける。見舞?いらないよ。明日は行くから。ああ。じゃあ」
電話を切って、晃は考える風に宙を見た。
「本気ってことか、叔父さん」
晃は呟いて、拳を握りしめた。
彼は怒りを振り払うかのようにテーブルに拳を打ち付け、立ち上がった。それから冷蔵庫を開けて食材をテーブルに並べると、次々と料理を作り出す
夕方、永里が帰宅してずらりと並んだ料理に目を丸くし、それでも無心で何かを作っている晃の背中をトン、と叩いた。
「あ、おかえり」
それだけ言って、彼はミンチをこねている。
「何を、作っていらっしゃるんですか」
「ミートローフ」
「でも、こんなに沢山お料理して頂いているから、きっと食べきれません。もうそれは冷蔵庫にしまっておいてはいかがでしょうか」
永里の泣きそうな声が晃を現実に引き戻した。
「ああ、そうだね」
晃は作業を止めて、ボウルに入っていたミンチにラップをかけて冷蔵庫へしまった。それから汚れたものを洗っていると、永里が何か言いたげに立っている。
「なに?」
晃は努めて明るく問う。
「いいえ、何でもありません」
「そう。後藤に何か言われなかった?」
「いいえ、特には。晃さんがお休みされることは知っていたみたいです」
「そう」
晃は後藤が何か知っていると本能的に悟っていた。皆の出方を注意深く観察しなけれなならない。
「あの、晃さん」
「なに?」
晃は手を拭きながら永里を見た。制服姿のままの彼女は、いつもの冷たい美貌を震わせていた。
「どうかした?」
「私は、晃さんの妻です。いつまでも、それは変わらないのです」
「うん、わかった」
「それで…」
「それで?」
晃は背中を伸ばして、きちんと永里に向き合う。
「何か不安なことがあるわけだ」
彼は永里の目を覗き込む。彼女は黙ったまま口を閉じている。
「精気はあげられるんだよな?力がなくなっても」
独り言のように呟いて、彼は永里をそっと抱きしめた。彼女の瞳が真紅に変わる。たったそれだけの変化だが、彼女の顔色が良くなってくる。
「君にとっての僕の価値がどれほどのものかはわからないけど、君の重荷にはならないから。だから安心して。僕らはまだ色々な道を選べる」
晃は身を離して、彼女に微笑みかけた。彼女は何か言葉を紡ごうとして口を開きかけるが、呼び鈴の音が邪魔をして、音にならなかった。
「僕が出るよ」
晃が玄関に行き、客人を迎い入れる。
「智、来なくてもいいのに」
「何、俺の見舞はいらないってのか」
お互いに軽く拳を合わせて、微笑みあう。
「まあ、上がれよ。なんか知らないけど、沢山食べる物作ったんだ。お前、今日もコンビニだろ?それならここでご飯食べて行けよ」
晃の言葉に智が「やった」と笑みをこぼす。
二人が居間に入ると、永里がコーヒーを居間のローテーブルに運んできたところだった。
「いらっしゃいませ、鏑木さん」
永里は挨拶だけすると部屋に戻って行った。
「なあ、永里ちゃんとどうなの」
智はソファに座って、永里の淹れたコーヒーを飲んだ。
「どうって、普通」
「お前にしちゃ、よく付き合っている方か」
花楓以外の女子と絡むことをしない晃のことを思って、智はそう言った。
「ところで、智。お前、何に魅入られた?」
晃が何でもないように問うたが、目は鋭く有無を言わせない迫力がそこにある。目を逸らすこともできず、智は形の良い眉を苦悩の形にひそませる。
「何って、それこそ何言っているんだよ」
「誤魔化すな。何を言われた?甘言に乗るようなお前じゃないだろう?智、誰に心を握られている?」
晃の真っ直ぐな迫力に、智が苦し気な吐息を漏らす。
「…晃、俺、知ってるんだ。永里ちゃんが鬼だってこと」
「それで?」
「お前とは郷の決まりで結婚することになってるって聞いた。それだけだ」
智の呼吸が苦しそうに荒くなってくる。
「智、まだあるんだろう」
晃の追及は止まない。脅されているわけでもなく、声を荒げているわけでもない。ただ静かな迫力が智を圧迫しているだけだ。
「俺は晃を裏切らない。知っているだろう」
「ああ。だからこそ、お前は僕の為に危険なことをする。それじゃ駄目なんだ」
晃はじっと智を見据える。彼の双眸が金色に光る。息を呑んで智はそれを見ていた。魅了されて、身動きができない。
「叔父に会ったのか」
晃は智の頭を抱え込んだ。
「叔父の傀儡になるなんて、馬鹿げている」
晃の金の瞳が鋭く光る。
一瞬まばゆい光に包まれた智が、大きく深呼吸する。
「楽になった?」
晃は智を放して、気だるそうにぬるいコーヒーを口に運んだ。
「どういうことか、説明してくんない?」
頭を押さえながら、智がうめき声のように言った。
「僕のこと、叔父に聞いたろ?」
「ああ。鬼の種族の跡取りなんだろう?で、永里ちゃんの婚約者」
「それだけ?」
晃は智の座っている背中の隙間に足を突っ込んでソファに横になった。
「お前の力は危険だから、永里ちゃんが見張っていて、でも相当ヤバいから叔父さんに力を預けるように晃に知られずに協力して欲しいって、そう言われた」
智は気まずそうに答えた。
「智は僕のことになると馬鹿になるよな」
晃が苦笑して言った。
「馬鹿って言うなよ。これでも心配してんだ」
「わかっている」
晃は、ふう、と息をついて目を閉じた。
「大丈夫か」
智が尋ねると、晃は目を閉じたまま頷いた。
「力がどこかに吸引されていっている感覚なんだ。たぶん、罠にはまった。しかも、諸手を挙げて信頼している相手にね」
晃は片目を開け、心配そうな智の顔を目に入れた。
「心配すんな。僕はやわじゃない。知っているだろう。でも、まあ、親友を人質に取られるところだったのは、間抜けとしか言いようがないな。これは僕を怒らすには十分だったかもね」
晃はそう言って、寝息を立て始める。
「晃?」
「ああ、勝手にご飯食べてって」
居眠りしながら、それだけ言う。
智は笑って、晃の作った手料理を腹に入れる為に立ち上がった。
「あの、私もご一緒してもいいですか」
永里が着替えを済ませてやってきた。ソファに寝ている晃には布団が被せてある。
「うん、永里ちゃんと一緒にご飯なんて、最高だよ」
智は言って、満面の笑みを浮かべる。その様子を見て、永里は智に晃の結界が張ってあることに気が付いた。もう、手出しはするな、と言っているようだ。
「晃さんの御料理、すごく美味しいんです」
永里が小皿を出したり、箸を用意したりしているのを見て、まるで新婚だよなあ、と幸せ満開な智の思念が彼女に届く。
「ねえ、永里ちゃん」
「はい?」
ニコニコする智の麗しい美貌に頬を赤らめることもなく、永里はその冷たい美貌を隙なく智に向ける。
「君の事は大好きだけど、晃の敵になるなら、俺は黙っていない」
「はい、鏑木さん。でも、安心してください。私は晃さんの敵ではありません」
嘘か真か。見極めようにも、永里の美貌はブリザード級に力を増して、その恐ろしいほど美しい笑顔は揺るがない。
「わかった」
智は頷いて、せっかくの美味しい料理を好きな女の子と堪能しようと、裏のない笑顔になった。
晃が目覚めると、台所から永里と智、そして和正の声が聞こえて来た。
彼は力の入らない腕を動かすことは諦め、そのまま寝転んでいることにした。普段静かな家に人の話し声がしているのは良い事だな、と彼は感じた。
鬼といっても、人と同じ情はある。永里も、永里の血族も慈しみあって命を繋いで来たのだ。
晃は遠く千景の面影を思い出していた。
千景は氷のような冷たい無表情の中に、細やかな感情の色を織り交ぜていた。注意深く見れば、いつだって彼女の気持ちは伝わってきたものだ。
それから晃は遠い昔に出会った人々を思い起こす。
もう誰も苦しませない。それが早川晃の使命なのだと思う。
晃は手を持ち上げて見た。ちゃんと動く。だから起き上がって、台所の輪の中に入って行った。
智が帰って、晃はまたゴロゴロとソファに寝転ぶ。体がだるいのは気のせいではない。
「晃、こんな所で寝てないで、ベッドに行きなさい」
和正の言葉に晃は生返事で答え、皆が部屋に引き上げた後もしばらく動けずにソファにいた。
夜中、永里が起きてきて、晃の元へ身を寄せてくる。
「永里?」
「晃さん、私はあなたの敵じゃない」
一見冷酷な瞳で言った永里の頭を、晃はがしがしと撫でまわす。
「心配するな」
晃はそう言って、手を放す。
永里の不安な気持ちをどうにかしてやりたいが、まずは体力を回復しなければならない。ただ眠っているだけに見える晃の様子に、永里はどうやら不安を覚えるようだ。
「すみません、具合の悪い時に」
永里が離れて行こうとするのを、晃は彼女の右腕を掴んで止めた。
「永里、君は僕の妻だろう。どんなことがあっても、信じている。ところで、飛火はどうしてる?」
「ああ、お話ができていませんでしたね。兄はここへは来ません。やはり上月様の反対にあっているのが気になるんだと思います」
「そうか」
晃は半ば予想された答えに頷くだけだった。
「晃さん?」
彼女の右腕を持ったまま寝入った晃に、永里が誰も見た事のない優しい微笑みを浮かべて、彼の髪を撫でた。
「あなたのことは、必ず私がお守りします」
そう言って彼の額に口づけると、彼女は優しく彼の手を放し、布団の中に入れた。
できればベッドに移動したいところだが、今彼女の能力で干渉することはできない。それを行えば、目論見が彼の前に明らかとなり、すべてが水の泡になるからだ。企みは、彼女だけの身に留まらないところで進んでいる。彼に気付かれてはならない。それでも、彼に自分は味方だとわかっていて欲しかったのだ。
永里は憎まれ役に徹しきれない自分を情けなく思った。
朝早く、包丁の音で目を覚ました晃は狭いソファで寝返りを打ち、台所から聞こえる軽やかな音に耳を澄ました。
晃は起き上がり、かっぽう着姿の永里の姿を台所に見た。
「おはよう、永里」
「おはようございます、晃さん」
彼は永里の背後に立って、彼女の動作を見ている。
「あの、何か」
永里が困ったように、その冷たい美貌を晃に向けた。
「何を作っているのかと思って」
「スペイン風オムレツです。お野菜たっぷりのお料理を召し上がって頂こうと思いまして」
「うん。ありがとう」
晃はそう言って、やっと彼女から離れた。いつもの生気が彼にはない。どこか幽鬼のような趣で、彼が本当に目の前にいるのか不安になって、永里は思わず彼の腕を掴んだ。
「ん?」
晃は彼女を優しく見下ろして、彼女の言葉を待っている。
「いえ、何でもないのですが…」
「着替えてくるよ。今日はちゃんと学校行くし」
彼は言って、台所を出て行った。
永里は家の周りに不穏な気配を感じて意識を集中させる。彼女の瞳が赤く染まる。強い風が彼女を中心に外へ吹きすさぶ。
彼女の目が茶色に変ると、清浄な空気が流れだす。
「困ったこと」
彼女の呟きは小さくて、誰も聞き取れないほどだった。
「何が困ったの?」
和正が顔を出して尋ねた。
「いえ、何も」
「そう?魔物が入り込んで来ようとしているみたいだね。それで困っているんじゃないのかな?晃の力が弱まっているように見えるのも、気のせいかなあ」
にこにこ。
和正の他意のなさそうな笑顔が永里を突き刺す。
「私が必ずお守り致します」
「うん、まあ、そうなんだろうけど。
和正が穏やかに言った。
その言葉の内容がわかる者には由々しき事態だとわかるのだが、永里は知らぬ顔を通した。
「何を企んでいるのかなあ」
和正は言って、出来立ての味噌汁と炊きたてのご飯を自分で椀によそい、永里が焼いたオムレツを彼女に取り分けてもらう。
「今日は朝から会議があってね、早く出るから。晃のこと、宜しく頼むよ」
和正はそれ以上永里を追求せず、黙々と朝食を平らげた。
それから和正は笑顔で「行ってきます」と永里に言って、晃が来る前に出かけて行った。
永里は和正の食器を片付け、晃が来るのを待った。
「あれ、父さんはもう行ったのか」
晃は食卓を見て言った。
「はい。会議があるとかで」
「そう。永里、今日は一緒に登校する?」
「いえ、あの、心さんが迎えに来て下さるので」
永里が言いにくそうにクラスメイトの名前を言った。
「ああ、心か。わかった」
晃は彼女を安心させるように微笑んだ。
「あの、晃さんの体調は大丈夫なのですか」
「うん。平気だよ」
いつにも増して青白い顔の晃に永里は不安を露わにした。
「心配しなくても大丈夫だから。片づけは僕がしておくから、先に行ってもいいよ」
晃はご飯よりも先にコーヒーに口をつけた。
永里は感情を隠した完璧な氷の微笑みを浮かべ、先に朝食を済ますと、洗える分だけの食器を洗って片付けて、お先に行って参ります、と晃に声をかけて玄関を出た。
晃は一人ゆっくりと食事を終えた。
彼が登校した時、暗雲た空が広がった。先ほどまで晴れていたのに、と他の生徒達が空を見上げている。
晃は教室の窓から空を見上げ、その不穏な空気に眉を潜める。雲の合間に魔物が入り乱れているのがわかる。
何が起こっているのか。
晃は隣の教室へ行くと、花楓を探した。彼女は晃が探すより早く彼を見つけてやって来た。
「我が主、何かの力に魔物たちが集まってきているみたい」
花楓が言い、晃の手を取った。
「やっぱり。昨日よりも更に力がなくなっている。どういうことなの」
あり得ない事態に花楓が顔をしかめている。愛らしい顔は眉間に縦ジワを刻んでも可愛いらしい。
「後藤に聞いてみるか」
晃が言うのと同時に、ぬっと晃の後ろから後藤が顔を出した。小さいので、というよりは鬼の力のせいか、二人とも後藤がいることに気が付かなかった。
「まるで百鬼夜行みたいだね」
後藤が他人事のように言った。
「先生、これって何かの前触れ?」
「いいや。こういう事態は初めてだな。それに、長に力の気配が感じられない。なめられているんじゃないのか」
後藤が晃を見た。
「まあ、なめられていたんだろうね」
晃はどこ吹く風で答えた。
「永里様も何か様子がおかしいし、ちゃんと長らしくしてもらわないと、郷全体が困ったことになる」
後藤は厳しい表情で言った。
「まんまと罠にはめられて、このまま黙っているのも性に合わないけど、ね」
晃は小声で呟いた。
「忠告してやったのに」
後藤はぶっきらぼうに言って、隣の教室に入って行った。
「晃、どうする?」
花楓の問いに、晃は考えるふりをする。
「あんたね、この非常事態にとぼけてないで、何か考えなさいよ」
ちゃんとお見通しである。心配しすぎて花楓の口調が乱暴になっている。
「ジタバタしても仕方のない事だろう?」
晃は花楓に背を向けて自分の教室に戻った。
教室では後藤と永里が話していて、その様子を通り過ぎながら見た晃は思わず立ち止まった。
晃は眩暈を覚えてその場に崩れ落ちる。
「晃さん!」
すぐに永里が駆けつける。
「鏑木君、早坂君をかつげる?」
後藤が智に言うと、智はすぐに晃をお姫様抱っこして保健室に向かう。その後ろに後藤と永里が続く。
保健室のベッドに寝かされ、晃は苦しそうな呼吸のまま、どんどん蒼白になっていく。
「晃、おい、晃」
智が必死で呼びかける。しかし、晃の意識はここではないどこかへ飛んだ。
ぴちゃん。
ぴちゃん、ぽたん、ぴちゃん。
水音がする。
晃は足元が濡れ始めている感覚に眉をひそめる。
ここはどこだ。
「晃」
聞きなれた声が彼を呼ぶ。
「叔父さん、お招きありがとう」
晃は気楽な調子で言って、奥へ進んだ。ここは洞窟で、見覚えがある場所だ。あれは確か黒統衛門が千景の兄と対峙した場所。
彼は嫌な思い出に口の端をきゅっと結んだ。
「晃、こんな形でお前に真実を告げなければならないのは心苦しいが、時間がない。魔物たちが暴れ始めている。早く私に鬼の力を返してもらわねば」
上月は洞窟の奥に設えられた玉座にいた。淡く水色に光る水は上月の回りには届かない。じゃばじゃばと晃は水を蹴りながら進んで、叔父の前に仁王立ちになる。
「叔父さん、僕が黒統衛門の生まれ変わりって言わなかったっけ?そのせいで永里は僕の妻になり、僕を守る羽目になったんだ」
晃は迫力のある瞳を上月から外さない。上月は優しく笑って、目を細める。
「永里のことを気に入ったのだな。まあ、飛火に興味を示したのには驚いたが。それに、この事態がどういうことか尋ねずに永里のことを言う辺り、微笑ましい」
上月の声が洞窟に響く。
水音も大きさを増しているように晃には思えた。早くここから出たい。それが正直なところだ。
「それで?」
晃は上月に挑むように尋ねる。
「私が真の鬼の長なのだ。永里からいったんお前に力を譲り、それから私が受け取る。そういう筋書きなのだ」
「叔父さんが黒統衛門だってことなのか?じゃあ、僕の記憶は。生々しすぎて吐きそうになるくらい現実味があった」
晃は一歩踏み出した。
「私がお前に見せた。これも
上月が辛そうに言った。
「修羅…。鬼の
千景の兄で、壮絶な力の持ち主。
「
「父さんが?」
「ああ。だから、力を隠す必要があった。佐和と協力して、晃、お前に力を託すことにした。佐和から永里に、永里からお前に。そういう流れを
「母さんもグルだったと?」
「ああ。佐和と私が仲が良いのを本心では兄上は快く思っていなかったのだ。私たちは本当に仲の良い兄弟で、協力して郷を守るはずだった。修羅は、佐和への私の気持ちを利用し、兄上の嫉妬心をあおった。兄上は修羅と同化し、力を取り戻そうとした。これ以上にない
上月は朗々と説明した。
「黒統衛門が叔父さんだったとはね」
晃は
晃は口元に笑みを浮かべた。
「僕をどうしたい?」
晃は目の前まで上月に迫り、見下ろす。
「守りたいだけだ」
「黒統衛門の代わりをさせておいて?」
晃の言葉に上月が辛そうに目を背ける。
「僕はいいよ。叔父さんを守りたい。それに永里も、父さんも、郷の皆も」
晃は真摯な眼差しで言った。
「叔父さんが僕を信じてくれなくては叶わない」
晃の言葉に、上月が目線を彼に向けた。
「前にも言ったけど、黒統衛門は記憶に過ぎない。僕はそう思う」
「しかし、晃…」
何か言いかけて、上月は思いとどまるように口を閉じた。
「叔父さん、僕を信じる?」
「晃、お前が大事なんだ。お前を守ることは佐和の願いでもある。聞き分けて、もう郷のことから手を引くんだ。魔物が押し寄せて来たら、鬼の長だと思われて食われるのはお前なんだぞ。その前に力を私にすべて返しなさい。私に任せて、お前はじっとしているのだ。そうすれば思い悩むこともない。
「楽?」
晃は
「何もせず、何も見ないふりをして郷から離れるのが楽な事?笑える」
「晃、手荒な真似はしたくない。現に、力の流出を避けようとして力を抑え込むことでお前は体調を崩しているだろう。そんな青白い顔をして。お前に何ができる?永里を守れるとでも思っているのか」
上月の強い口調に晃の目がすっと細くなる。
「守られるのは嫌いなんだ」
晃の声が低くなる。
「晃、楽になれ。そして永里から刀を取り出すのだ。
上月が言うとその方が良いような気になって来るが、晃はそれが間違いだと信じている。だから、首を横に振る。
「鬼狼丸だかなんだか知らないけど、僕には僕のやり方がある」
「強情な。永里、ここへ」
上月が晃の背後に呼びかけると、音もなく永里が現れて膝を折った。
「上月様」
永里は晃ではなく、上月だけを見ている。
「鬼狼丸を出せるか」
そう言われて、永里はうつむいた。
「鬼狼丸は晃さんを守る時にしか出せないのが
「難儀な」
「もともと鬼狼丸は黒統衛門の愛刀。修羅を断ち切った妖刀でもあります。無理に出すこと、叶いません」
永里は晃を見ないように、ずっとうつむいている。
「晃、命じるのだ。鬼狼丸を私に戻すように」
上月が強い口調で言った。
「交渉は決裂だよ、叔父さん」
「晃、お前は事を甘く見ている。私が非道をせぬと思っているのか?違うぞ」
上月は立ち上がり、永里の細い首を絞め始める。
「叔父さん!」
「どうする晃。永里が死ねば、おのずと鬼狼丸は手に入るぞ」
上月は本気だ。晃は上月の腕を引きはがそうと動きかけるが、身動きできない。これも上月の力が及んでいるせいだ。
「なんてことを…。永里、出せと言われているものを出せ」
晃が叫ぶと、永里がこくんと頷いて、右の手の平を上へ向ける。永里の瞳が真紅に光り、手の平から銀の刀が出現した。上月は永里の手から刀を奪い、首から手を放した。
永里は床に崩れ落ち、大きく息を吸って吐き、それを繰り返した。
晃が彼女の肩を抱き、精気を送る。彼女の息が落ち着き、ほのかに頬が上気する。
「晃さん、もう平気ですから。晃さんの方が体力を奪われているのに」
永里は真紅の瞳を真っ直ぐに彼に注ぐ。
「心配ないって言ったろ?」
晃は永里の頭を撫で、立ち上がる。
「それじゃ、叔父さんはもう僕には用がないわけだ」
「ああ。家に帰れ。そして呼ばれるまで郷へは来るな」
顔も見ずに上月は言った。
「永里の事、大事にしてくれよ」
晃は彼らに背を向ける。
今は、手を放すけれど、きっと救いに行く。
晃の想いは今は誰にも届かないが。
「永里、早く立て。行くぞ」
晃の背後で上月が永里に告げた言葉が冷たく洞窟に響いたのを晃は苦々しく思った。
妻は主を違えた。
晃が洞窟を出ようとした瞬間、意識が現実へと返った。
保健室のベッドに寝かされ、心配そうに花楓と智が覗いている。
「どれくらい経った?」
晃が目を開けて起き上がる。
「どれくらいって、そんなにたってない。お前、大丈夫なのか」
智が晃の目を覗き込む。
「顔色は良くなっているみたいだな。保健の先生が留守でさ、今永里ちゃんと後藤が探しに行っているところなんだけど」
智は事態を見たまま説明する。
「そうか。花楓、魔物はどうした」
「それが、消えたのよ。ぱっと」
今一つ納得のいかない顔で花楓が答える。
「花楓、お前に頼みがある。郷に戻って上月を守ってくれ」
「え?」
真剣な表情の晃の前に否と言えずに、花楓は戸惑った風に彼の事をただ見ている。
「彼らが危険なんだ」
「どういうことか説明して」
花楓は普段なら四の五の言わずに晃の言葉通りに動くが、今回だけは違う。
黙っている晃に、花楓はその大きな瞳を伏せた。
「私の主はあんただけ。そうでしょう?力を失いつつある主を置き去りにするほど生半可な忠誠心は持っていないわ」
「でも、僕の願いを叶えてくれるお前のことを、僕はこれでもないくらいに信頼している」
晃の言葉に、花楓は目に見えて嫌な顔をする。
「そう言えば私が動くと思って、本当に腹が立つ」
花楓はドン、と晃の腹を殴って、消えた。
「ちょ、ちょっと待て。花楓もそっちの人間な訳か」
智が焦ったように言う。
「花楓は鬼だ。永里と同じ。知らなかったのか、智」
「当たり前だろう?まったく、お前ら秘密が多くてむかつく」
智がむくれるのを見て、晃は笑った。
今はただ笑っていよう。この手から零れ落ちた大切なものを守る戦いはこれから始まるのだから。
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