第5話 里帰り

 週末は澄み渡るような青天から始まった。

 朝早くから起きだして、永里はお弁当を詰めている。長い黒髪は丁寧に結い上げられ、細い首が艶めかしく見えている。割烹着の下の着物は明るい紅色の生地に源氏香の柄が散りばめられていて、深いグリーンの帯を締めている。そのコントラストに彼女の明るい気持ちが込められているのを晃は感じた。生まれ育ったところへ帰るのは彼女にとっても嬉しいものだとわかって、彼は正直ほっとした。鬼でも里心はあるらしい。

 晃は車に荷物を詰め込んでいる和正を見て、こちらも年甲斐もなく浮き浮きしていると感じて苦笑を隠せない。

「父さん、運転しんどくないの?」

 電車ではなく、車で帰ろうと言ったのは和正だ。

 父は朗らかに笑って「運転は任せろ」と言った。どこからか借りて来たらしい車は銀色の乗用車で、古い型なのは一目瞭然。

 永里が弁当を運んできた。重箱を白い風呂敷で包んであり、後部座席に置かれる。彼女は割烹着を外していて、もう出発できるようだ。明るい日差しのもとで見ていると本当に美しい。

 戸締りをして、永里は後部座席に、晃は助手席に乗り込んだ。

 田舎道をずっと進んで、途中昼休憩の為に眺めの良い場所で車を止める。浅い川が流れる川岸で、色とりどりの花が咲き乱れる様子は見る者を楽しませるだけではなく、癒してくれるようだ。

 永里がいそいそと大きな花柄のピクニックマットを野原に敷いて、お弁当を広げる。豪華絢爛な料理を前にして、晃も和正も息を呑む。

「手が込んでいるね」

 和正は頂きますと言って、一番に箸を動かす。晃も美味しそうなエビフライをつまんだ。

「これ何の衣?」

 晃が咀嚼そしゃくを終えて香ばしいエビフライを飲み込んだ後、永里に向かって尋ねる。永里は料理のことを聞かれると嬉しそうに目を細める。

「それはアーモンドを砕いたものとあられを砕いたものを混ぜてあります」

「へえ。うまいよ、すごく」

 晃は言いながら、他のフライ物も食べてみて、大きく頷く。

「こんなおいしいものを食べさせてくれて、ありがとう」

 晃の言葉に無表情を装った永里の頬が少し赤くなった。

「たくさん作りましたので、どうぞゆっくりお召し上がりください」

「うん、残さず食べるよ」

 晃は元々大食漢だが、永里の力作弁当は三段の重箱四つ分もある。しかし、彼には、このどこにも売っていない美味しい弁当を食べ尽くす自信がある。野菜の煮物も薄味だがいい味付けで、文句の付けようがないし、山菜の入った稲荷寿司や絶妙な塩加減のおにぎりも、やめられない美味しさだ。

「晃さん、どうぞ」

 永里が大きな水筒から湯気の上がる緑茶をコップに入れてくれる。そう言えば、彼女が冷たい飲み物を自分から飲んでいる事はないよな、と晃は思った。これも祖母の存在の影響だろうか。

「ありがとう」

 礼を言ってずずっとお茶をすすると、ほんのり甘いお茶のうま味が感じられた。

 永里は和正にも手渡して、それから横に置いた籐のカゴからりんごとナイフを取り出して皮をむき始める。籠の底には保冷材に巻かれたタッパがあって、そこからタルトを取り出した。それはりんごの甘煮が半分のせられていて、仕上げに今剥いたばかりのリンゴのスライスを規則正しく並べた余興も楽しめるデザートだ。甘い香りとカラメルの香ばしい匂いとで期待感が半端ない。デザートまであるとはさすがだ、と晃は内心うなる。

 さほど時間をおかずに、ほとんど弁当を空にしてしまった晃は、彼女の切り分けてくれたタルトをワクワクしながら頬張る。

「永里ちゃん、ご馳走様。すごくおいしかったよ」

 和正が言って微笑んだ。一足先に食べ終わった和正は立ち上がって小川の方へ行ってしまった。

 晃は最後に永里の淹れてくれたコーヒーを飲んで、御馳走様を言った。空になった弁当箱を車へ運び、晃は心地よい風が吹いてくる方向を見た。

 青空が広がった世界が穏やかにそこにある。

 小川を見ると和正と永里が魚でも捕ろうとしているのか、じゃぶじゃぶと中に入って歓声をあげている。冷徹な美貌の主は、いつもとまるで違い、年端のいかない子供の様に無邪気に笑っている。

 しばらくそんな彼女の様子を見ていた晃は、何かに呼ばれて辺りを見回した。そして気が付く。

「君がこの辺りを守っているんだね?」

 上流の小川の方に佇む気配がある。それは自然の中に生きる精霊だ。しかも高貴な気配がするから、きっと土地に祭られた神に近い存在だったのだろう。

 その精霊は雨がくる、と晃に言った。そして上流に指を向ける。

「鉄砲水?そう。教えてくれてありがとう」

 晃は心からお礼を言い、妻と父親を呼んだ。

 精霊はいつのまにか消えていた。

「出発しよう」

 晃達が車に乗り込んで数分後、すごい勢いで雨が降り出した。ワイパーも聞かない程の豪雨である。

「凄い」

 永里が呟いた。

 速度を落として車は進んで行く。

 道路の隣を走る川の水位が急に上がった。濁流が野生のライオンが走り抜ける様に川を駆け抜ける。道路のギリギリまで水が迫り、冷や汗をかく。

「危ないところだった」

 和正が言うと、晃はふっと笑った。

「なんだ?」

 探るように和正が尋ねる。晃はいや、と呟いて窓の外を見る。

「自然って、こういう姿があるからおもしろい」

 晃の言葉に和正も頷いた。

「人間の力の及ばぬ世界だからね。永里ちゃんはどう思う?」

 鬼には影響を及ぼさないものなのか、と和正が問うと、彼女は澄んだ表情で頷いた。

「鬼ですから、命に影響はしませんが、私も自然はすごいと思います。昔の鬼は自然をも支配できたといいますが、今の我々にはそんな術はないですし、こうやって突然姿を変える自然界のものは見ているだけで驚きが一杯でおもしろいと思います」

 永里の言葉は大きな声ではないにも関わらず、豪雨の音にも負けない凛とした響きを持っていた。

 晃は耳に心地良いその声をもっと聴いていたいと思った。それを声に出すことはしなかったが。

 雨はすぐに止んで、澄み切った青い空が広がる。

 彼らの車は山間の崖路を進んで行き、日が暮れる頃にやっと鄙びた郷の入口へ到着した。車を郷の手前で止めて、それぞれのカバンを持ったまま少し歩く。

 一番に出迎えたのは叔父の上月だった。郷の者達が後ろに並び、頭を垂れている。その様子が大仰すぎて、晃は大きくため息をついた。色々な思惑が頭に流れ込んでくる。鬼と言うのは厄介な力を持つのだな、と心に蓋をして彼は笑顔を作った。

「若、兄上、永里殿、お帰りなさいませ。長旅お疲れ様でございます」

 上月が良く通る声で言った。相変わらず俳優のように格好良くて貫禄もある。

 郷人達も上月の後に揃って口を開く。

「殿、お帰りなさいませ」

「うん、ただいま」

 どうしても「殿」という感じのしない穏やかな和正だが彼が応えると、郷人らは嬉しそうに彼の為に道を開ける。和正は郷人達に好かれているんだな、とほっとした気持ちで晃はその様子を見ていた。どう考えても、上月の方が「殿」らしくて好かれそうなものだが、鬼の血筋と言うやつなのかもしれない。晃は永里を促して、父と叔父の後に続く。

 永里は心なしか晃に寄り添うようにして歩いて行く。緊張しているのが伝わる。

 晃は永里の腰にさりげなく手を回して、彼女が自分の物だと言外に主張する。こんなに美しい娘が今まで誰からも言い寄られたりしなかったのは鬼の首長を継ぐ晃という男の妻になるという責務があるからで、もし晃がいなければ、彼女にはもっと違った未来があったかもしれない。そう思うと、晃には余計彼女を大切にしなければという思いが強まるのだ。

 晃は郷人の視線の中に、強烈な思いがあることに気が付いた。郷人に気が付かれないよう辺りを見やる。

 永里の兄弟か。

 晃は納得した。彼らの複雑な胸中が手に取るようにわかる。相手は晃が覗いていることに気が付いていないらしいが、こんなに存在感を発しておいて無防備で、それが少し可笑しくて、思わず笑ってしまった。

「晃さん?」

「何でもない。永里、君は兄弟に愛されているね」

「え?」

 彼女は戸惑ったような目で晃を見上げる。

 永里は鬼の力が暴走しないよう厳しく育てられ、他の兄弟姉妹からは隔離されて育っている。だから兄弟達が自分を疎んでいるのだと勘違いしている節がある。それは全くの誤解で、彼らには力の強い永里が自慢の妹で姉で、そして、羨望の的だ。永里ほどの鬼の力を持つ者はそう生まれない。だから、兄弟の心の中に、ほんのわずかにだが、彼女を占有したいという思いがある事にも晃は気が付いた。それは鬼の性でもあるのかもしれない。兄弟は自覚なしに永里を手にした晃に嫉妬している。

「後でみんなに紹介してくれる?」

 晃の言葉に永里の顔が明るくなる。

「はい。明日にでもうちへいらっしゃいますか?」

「ん?この後君を送って行くよ。まずは叔父さんに話があるから、それが終わったら君の実家に行く」

「はい」

 永里は頷いて、腰に回った晃の手を恥ずかしそうに見た。

 邸宅に入ると、使用人たちがひれ伏して待っていた。

「ちょっと大げさ過ぎない?」

 晃が引き気味に呟くと、上月が笑った。

「上に立つ者はこういう事にも慣れなくては」

 耳元で囁かれて、晃は苦い顔になる。望んで上にいるわけじゃないんだけど、と言いたくなる。

「若、部屋に荷物を運ばせてある。少し休んで、宴に出てくれ」

 上月は晃の背中をばん、と叩いて嬉しそうに言った。今は留守を預かる補佐の顔ではない。甥っ子の成長が楽しみで仕方のない叔父の顔である。

「ねえ、叔父さん。後で話があるんだけど」

「うん?夜は長い。ちゃんと後で聞くよ。それに永里殿のいない夜は寂しいだろう?私が布団の中まで付き添ってやろう」

「布団って。あ、永里を家まで送っていかないと」

 晃が言うと、上月は首を振った。

「若、それはいけない。若は当主の座に就く男だ。例え妻であろうと、一人で帰すのが正しい道だ。若はふんぞり返って命令するだけでいい」

「…えっと、それって何時代の話?」

 晃の言い様に上月が吹き出した。

「笑って悪い。晃、人の目がある。一番偉い当主が下々の家に付いて行ったら、皆居心地悪いだろう?お偉いさんが来て嬉しいのは見栄を張る者だけさ。それに嫁さんの実家なんている場所がないよ」

 二人だけでいる時のくだけた言葉で叔父は晃の耳に小声で言った。

「わかった。でも、永里の育った場所が見たかったんだ。それに彼女の兄弟達も」

「ああ、なるほど。ま、それはおいおいで」

 上月は晃の頭を小さな子供の頃のように撫でたいのをこらえて、微笑んだ。

「今夜は永里殿も宴に参加してもらい、その後うちの者がきちんとご実家へ送り届けます。若、それまでお二人水入らずでお部屋でお過ごしになられて下さい。何なら布団の用意を…」

「いらないって」

 焦って晃が遮るのを楽しそうに見て、上月は和正のいる方へ行ってしまった。

 晃は侍女に案内されて部屋に行く。何度か来ている屋敷だが、慣れない。広いせいもあるが、純和風で落ち着かない。早坂黒統衛門の記憶があるから和室に馴染むかとも思ったが、いつも過ごしているベッドとソファが既に恋しい。

 広い部屋に入ると、永里がすぐに晃の荷物を整理し始めた。

「いいよ、永里。自分でやるから。移動で疲れただろう?ゆっくりしなよ」

 晃は言って、座布団の上に座り、ちゃぶ台に置かれた湯のみに手を伸ばした。

 永里は微笑んで、晃の座っている向かいにやってきた。晃は、こっち、と自分の横に彼女の座布団を移動させる。

「晃さんもお疲れではありませんか」

「僕は疲れていないよ。永里はお弁当も作ってくれたし、僕らの面倒ばかり見てただろ。ねぎらいたい僕の気持ちもわかって欲しいなあ」

「ありがとうございます。疲れてはいないんですけど、本当の事を言うと、私…」

 永里はそのまま黙って、困ったように晃を見ている。

「うん。家に帰るのが怖い?」

 晃は永里の気持ちを代弁した。

「はい」

 素直に頷く永里の肩を引き寄せて、晃は彼女の額に口づけた。

 風が凪ぐ。

 黄金の光が溢れ出す。

 永里の瞳が真紅に変わり、高揚した気持ちを隠すように閉じられる。

「君が一人だけ厳しく育てられたのは君が特別だったからで、嫌われていたわけではないよ。それはわかっているんだろうけど。心配するな」

「はい、晃さん」

 永里は目を開けて、安心したように赤い瞳のまま晃をみた。その澄んだ美しい双眸に、思わず千景を思い出して、晃は胸に小さな痛みを感じた。それを表に出すことはなかったが。

「若様」

 障子の外で呼ぶ侍女の声に、晃がはい、と答えて永里から身を離す。

「お風呂の準備ができております。先に入られますか」

「ああ、そうしよう。すまないが、我が妻の為に布団を敷いてもらえまいか。休ませたいのだ」

 自然と口を突いて出た黒統衛門の口調に、晃は内心嫌な顔になる。

「晃さん、私は平気です」

「無理をするなよ。精気をあげたけど、疲れているのは知ってる。道中魔物に襲われないよう気を使っていたのも知っているよ。少し休んで。元気な顔で実家に帰ってもらわないと、君たちの家族に申し訳ないよ」

 晃は永里の肩に手を置いて、彼女の真紅の目を覗き込んだ。優しく口づけて、身を離す。

「それじゃ、僕はお風呂に行ってくる。ここのお風呂大好きなんだ。半露天風呂っていうの?気持ち良すぎてずっと入ってたいくらい」

「ここには温泉が引かれていますから」

 永里が微笑みながら言う。

「良かったら一緒に入る?」

 冗談のように言ってみると、彼女は頬を赤らめて固まっている。そうなると、ツンと澄ました冷たい美貌が普段に増して際立つ。

「あのさ、冗談なんだから流してくれないと、こっちが恥ずかしい」

 頑なな永里の様子に、言うんじゃなかった、と晃は思った。

 フェイスタオル一枚持って、晃は浴場へ歩いて行く。一部の隙もなく磨き上げられた渡り廊下が、どこかの旅館のようだ。

 脱衣所で父の脱いだ衣類を発見し、畳み直しておく。何度言っても脱ぎ散らかす癖はどこへ行っても治らないらしい。とはいえ、こんな所で育ったら、そうなるのも頷けた。ほとんどのことを侍女がやってくれるのだから、甘やかされている。同じ殿でも、黒統衛門は自分で何でもやったぞ、と父親に言い聞かせたくなるが時代が違いすぎるのも確かだ。

 晃は模様の入った曇りガラスの扉を開けて浴場に入った。広い洗い場は天然岩を削ったタイルが敷かれ、その先には日本庭園の池かと見まがう風呂である。半分は外へ突き出しており、四季折々の庭の美しい景色も楽しめる。

「父さん?」

 晃は風呂のずっと先で庭を眺めている和正に声をかけた。湯けむりでぼやけているが、おう、と手を挙げたのはわかった。

 先に体を洗ってしまうと、晃も湯の中へ入った。一瞬でとろけそうになる湯だ。

「晃、永里ちゃんは?」

 遠くから尋ねられ、晃は「寝かせてる」と答える。

「そうか。疲れてるだろうから、無理に宴に出なくてもいいんだけどなあ。上月がうるさいだろうからなあ」

 和正は言いながら晃の側にやってきた。

「父さんの方こそ疲れているんじゃないの?」

 晃が言うと、彼はまさか、と答えた。

「運転は楽しいから好きなんだ。いつかブラブラ旅をしたいなあって思ってるんだけどね、実行に移すのはいつになるかな」

 そう言って、また元の場所に移動していった。

 それぞれ思い思いに湯に浸かって、先に晃の方が早く出た。

 部屋に戻ると、永里が布団に入らずに、ちゃぶ台に突っ伏して寝てしまっていた。いつものブリザード級の冷たい美貌は影を潜め、あどけない少女の顔がそこにある。まるで別人だ。

 晃は彼女の髪を撫で、抱き起して布団に運ぶ。彼女は規則正しい寝息をたてていて、起こすのが可哀想である。宴までどれくらい時間があるのかわからないが、彼女を起こさないよう晃は静かに本を開いた。

 回りがざわざわし始めて、宴の時間が迫ったことを知ると、晃は本を閉じて永里の額に手を置いた。何か夢を見ているのが手を通してわかる。いい夢ではなさそうだ。暗い場所に一人で立っている彼女の姿を見た。晃は自分の手から力を注ぎ込み、彼女の暗いイメージを明るく変えてやる。彼女の表情が安堵したように力が抜けた。

「永里」

 優しく呼んでみると、彼女はすぐに目を覚ました。

「晃さん」

 起き上がって、彼女は着物を直した。

「すみません、寝てしまったようです」

「うん、疲れているんだろ。もう少し寝かせてあげたかったんだけど、そろそろ時間みたいだ」

 晃の言葉が終わるか終わらないうちに、侍女が障子の向こうに現れて宴の準備が整った旨を伝えた。

「行こうか」

 晃が言うと、永里は頷いた。

 大広間に行くと、豪勢な料理が所狭しと並び、上座に誂えた席には和正が座っている。その隣が晃の席で、そして叔父と永里が両側に並ぶ。

 宴が始まった。

 親類一同が集まる場所だが、晃にとれば、知らない人たちの中に放り込まれて過ごす苦痛の時間だ。日頃交流があれば楽しめるのだろうが。

 晃は内心の憂鬱を気付かれないよう笑顔の防御で乗り切る。

 宴には永里の両親も来ていた。永里に紹介されて、晃は誠意をもって対応する。永里に受け継がれた崇高な魂の輝きを彼らの中に見つけて、晃は彼女がちゃんと家族に愛されていると確認出来て心から安心した。鬼の一族と言うのも人間とそう変わらないな、と変に感心した。それも黒統衛門であった時代にも同じ事を思ったな、という感慨付きで。

 宴が終盤に差し掛かる頃、永里の両親が彼女を連れ帰ることになった。

 玄関まで見送って、これも叔父には苦い顔をされたが、晃は笑顔で彼女を実家へ帰した。

 宴の席に戻ると、まだちらほら酒を酌み交わすおじさん連中に交じって、和正が難しい顔で枝豆を食べているのを見つけた。

「何か心配事?」

 晃が声をかけると、和正は「いや」と答えて枝豆の皿を置いた。

「ところで、上月を見なかったか?」

「え、さっきまでいたよ?」

 苦い顔で玄関に行く晃を見ていたはずだが。

「そうか?皆が探しているが、どこに隠れたのかさっぱりわからない」

 何か郷の決め事をしている所らしく、大人たちは酒に酔った顔をしていなかった。

「僕が探してこようか」

「いいや、いいんだ。お前も適当に部屋に戻っても大丈夫だぞ。夜食が欲しかったら宮沢に言うといい」

 和正は侍女の名前を言って、おじさん連中の話の輪の中に戻った。

 晃はそのまま部屋に戻った。

 なんだか落ち着かない。

 一人でいるのは慣れているはずだ。なのに、寂しいと感じる。

 先ほどまであった永里の温もりがなくなって、そう感じているのだろうか。自分で自分の心がわからない。

 晃は永里の寝ていた布団に寝転んだ。

 力を使って彼女が何をしているのか覗けるが、そこまで無粋じゃない。晃は寝転んでいるうちに本格的に寝入ってしまった。

 カタン、と音がして誰かが入ってくる気配がするまで、実によく寝てしまい、晃は目を開けて侵入者を確認した。

「叔父さん、父さんが探してたよ」

 晃が起き上がって声をかけると、叔父は肩をすくめて晃の側に胡坐をかいた。手には酒の瓶と杯がある。

「晃、飲むか?」

「いらないよ、お酒は。ってか、未成年に勧めたら犯罪なんだよ」

「ほう、日本国に尽くしている国民でも犯罪者呼ばわりされるのか」

 どこか観点がずれている、と晃が思っていると、上月は杯に並々酒を注いで飲み干した。酒豪だが、今夜の飲み方は荒れているように感じる。

「叔父さん、何かあったの」

「いいや。それより、話があるんだろう?」

 上月は優しい目で問うた。

「うん。この家を取り巻く状況を教えて欲しいんだ」

 晃が答えると、上月はふっと笑った。

「鬼の力は戻っているんだろう?わからないか」

 彼はまた杯に酒を注いであおった。

「叔父さん、僕はなるべく力を使わないようにしている。本当のところ、僕は力を制御できていない。無意識に使っていることもあるけど、力が永里から流れ込むたびに妙な気持ちになっていくんだ。かなりやばめのね」

 晃が考える様に言うと、上月はじっとその様子を見ながら酒を飲んでいる。何か考えている風でもあり、答えるか迷っている風でもある。

「だから、敵がいるのならその存在を知っておきたいし、どこまで力を解放してもいいのかわかっているのなら教えて欲しい。それに、鬼の一族の中に僕の事を良く思っていない奴がいることも知っているから、どういう事に気を付ければいいのか教えて欲しいんだ」

 晃は自分の為ではなく、永里を守る為に知ろうとしていた。もしも自分一人だけの事なら、郷から離れて暮らすだけだ。今までそうしてきたように。

「晃は随分楽をするんだね」

 上月が立ち上がって、障子を開け放ってから言った。月明かりが照らす廊下の先には、美しい花を咲かす庭がある。

 到着したときに、あんな花が咲いていただろうか、と晃は不思議に思ったが、思わぬ上月の冷たい言い方が気になって、彼の一挙一動に神経を注いだ。

「晃、鬼とは悲しい生き物だ。昔は人を恐れさせ、支配し、君臨した。けれど、人の精気を奪わなければ生きられない。今や力はあっても、人間の長にすべてを支配されている。悲しい生き物だ」

 上月は月を見上げた。満月には届かないが、円形に見える月は明るくそこにある。

「人に聞くのは容易い。まあ、晃の場合、今の今まで自分の一族の事を知らなかったのだから仕方ないとは思う。けれど、晃には誰も手にしたことのない強大な力があって、それを使わず、人に頼って情報を得ようとする。それは楽ちんなお子様の考えそうなことだと私は思う」

 そこで上月が晃を見据える。貫禄ある上月の風貌が怒りを抱えているように晃には思えた。しかし、怖くはない。それは、悲しみに近い怒りに思えたのだ。

「叔父さん、僕は子供だよ。黒統衛門の記憶があるとはいえ、昔の自分になんて戻れない。僕は早坂晃で黒統衛門じゃない。それに、学校では鬼が僕らの事をいつも見ている。敵なのか味方なのかわからないけど、僕の力が不安定な今、敵を刺激することも味方を刺激することもしたくない。だったら、僕は批判されても取るべき方法を取ろうと思う」

 楽をしていると言われたって、恥とは思わない。

「いい答えだ」

 上月が満足げに微笑んだ。

「見栄や傲慢があれば、私はお前の根性を叩き直さねばと思っていたが、立派におなりになった」

 上月が晃の側に戻って、膝をついた。

「この上月、若の為ならば何でもする。しかし、力が不安定と言うのは聞き捨てならないことだな」

 困ったように微笑んで、上月は晃の頭に手を乗せた。

「ほんの小さな子供だったのに、もうすぐ私の手を離れていってしまう」

 その寂し気な言葉に、晃は胸が詰まる。

「叔父さん、勝手に独り立ちさせないでくれる?こうやって、まだまだ頼っているんだから、手を離さないでよね」

「ああ、そうだな。さてと、では一族についての説明と、永里殿の身内についても少し話すとしようか」

 上月は胸元から紙とペンを取り出して、家系図やら郷の勢力図を書き上げる。

「こちらが鬼の一族。永里殿の家が元々鬼の首長の家系だ。それから、こっちが鬼の一族に仕える者達」

 上月の書いた譜系図に「後藤」の文字を見つけて、晃は担任の顔を思い出す。

「晃は実感がないかもしれないが、鬼にとって力は最大の権力だ。だから、鬼が反乱を起こすことはまずない。だから、鬼の中に敵という言葉は当てはまらないかな。むしろ、危ないのは人間の方さ。私利私欲にまみれ、鬼を利用する。気を付けるのはこの一族」

 上月が指したのは国会議員に名前を連ねる一族だ。

「人間の権力の中枢に据えたが、よからぬことばかり考えるので困る。まあ、釘を刺しておけば心配はないと思うが、鬼の力を取り戻したと確信したら、事を起こすかもしれない。晃、騙されないようにしなければいけない」

「騙されることはないよ。悪企みはすぐわかる」

 晃は断言した。

「そうだったな。鬼の力を軽んじているのは私の方か。長年、思惑の中で動いてきたので、少々疑心暗鬼になっているのかもしれないな」

 上月は苦笑して、腕を組んだ。

「政治に関わらせているのは郷の為なのだ。開発されぬよう、人目につかぬよう、権力を動かしている。その見返りに、鬼の力を少し貸すこともある。例えば先読みの力。国際情勢がどう動くか、災害が起こるのはいつか、実は政府は既に知っているのだ。うまく使わねば国を滅ぼすことになるが」

 まさか、鬼の力がそのようなところに流れているとは知らなかった晃である。

「人間との交渉は私に任せておけばいい。まずは力をきちんと束ねることに専念してくれ」

 叔父の言葉に晃は頷いた。

「じゃあ、敵はいない?」

「まあ、敵、という言い方ではね。一人だけ、気を付けなくてはならない者がいる」

 上月が表情を硬くして言う。

「早坂黒統衛門に殺された鬼の首長」

「え?」

 大昔に滅んだ鬼のことを今更どう気にしろと言うのか。

「一説では、力を取り戻しに地獄から戻って来ると言われている。だから、我々は代々、長に鬼の警備を付けている」

 地獄から。

 晃はその言葉に重みを感じた。鬼でも地獄に落ちるのかと変な気もしたが、千景の兄が地獄の業火にその復讐の炎を余計にたぎらせている様を思い浮かべてしまう。

「警備って花楓のこと?」

「ああ。やはり気が付いておられたか。それと、永里殿だな。妻でありながら、最強の守護者だ」

 羨ましいぞ、と冗談を言って、上月はまた酒を飲み始める。

「地獄から戻るほど、執念深い思いがあるとは、鬼と言うのもままならぬ生き物だな」

 上月の言葉に晃はただ頷いた。

 黒統衛門への恨みで、きっと死ぬに死にきれないのだろう。千景の兄であり、稀代の力と美貌の持ち主の鬼の首長の面影を思い出して、晃は背筋が冷たくなる。確かにあの鬼ならば地獄から復讐の機会を狙っていそうだ。

「ところで君の残した文献には、鬼の力は移せると書いてあったが、何か覚えているか?」

 上月が酒を飲みながら、尋ねた。目は庭の花を見ている。

「永里に移した力の事?あれは特別措置だったから。永里の鬼の力と、僕の力とで成り立った技なんだ。だから、普通の鬼がやろうとしてもできないと思うよ。永里も相当疲弊したからなあ」

 今の永里ではなく、千景の妹の永里の事を指して晃は言った。彼女は何かにつけ優秀だった。

「結局のところ、永里でも抑えられなくなって、こうして僕に力が戻って来ることになったわけだけど。鬼の力って、言うなれば、恨みの力なのかな」

 晃は自分の手の平を見つめて言った。

「そうか」

 上月は晃の様子を見て、目を細めた。

「鬼の首長は生きているのか」

「死んだと思うけど。僕が殺したと思う。その辺の記憶が戻っていなくてわからないんだ」

 晃は吐息をついた。

 元凶になった戦いをほとんど覚えていない。

 おぼろげに思い出すのは、千景の血の色だけ。

「こうして話していると、本当にお前は黒統衛門の生まれ変わりなのだな」

 幾分寂し気に上月は言った。可愛い甥っ子が、一族最大の力を持つ男だという事実が重く彼の肩にのしかかっている。

めてくれ。僕は僕だ」

 晃が言うと、上月は、そうだな、と呟いて力なく微笑んだ。それからぐいっと杯を飲み干し、空になった酒瓶を眺める。

「晃、私や兄上にも鬼の力があるのを知っていたか」

「え?」

 上月の問いかけに晃が首を横に振る。

「鬼の子らと交わって流れる血族だからな。それなりに鬼の力を持っているんだ。ただ力が発現するかどうかはまた別の問題らしい。私は取り立てて言うほどの力はないが、兄上はああ見えて凄い力をお持ちだ」

「知らなかった」

 晃の意外そうな呟きに、上月は笑った。

「佐和が亡くなってから、兄上は力を使っていないからな」

 上月が遠い目をして言った。

「まあ、生活する上で必要な力かと言えば、なくても支障はないのだから気にすることではないがな」

 さてと、と上月は立ち上がった。

「未成年を夜更かしさせては保護者として失格だ。そろそろおいとまするよ。明日の朝、また話そう」

 上月はそう言って、部屋を出ると障子を閉めると行ってしまった。

 まだ聞きたいことがあった晃だが、少し様子のおかしな叔父が一人になりたいのだとわかって引き留めることをしなかった。

 鬼の力のせいなのか、晃は上月が思いを寄せていた相手が母であることを悟ってしまった。だから、結婚もせず、ずっと一人でいる。いつまでも佐和への醒めない思いが、彼を留まらせているのだった。

「人間もまた、ままならぬ生き物」

 晃は呟いて、布団に寝転んだ。それから深い眠りに入ったのだった。

 翌朝はゆっくりと起きだして、長い廊下をぶらぶら歩いて広間に移動する。晃は広間に用意された朝食のお膳に見慣れた出汁巻きが乗っているのを発見して、妻が来ているのかと思ってしまった。それが間違いだという事はわかったが、どう見ても永里の出汁巻きと同じだと思っていると、ふいに彼女の祖母の姿が思い浮かんだ。

「これって、永里のおばあさんの?」

 先に食べ始めていた父と叔父に向かって晃が言うと、二人は同時に頷いた。

「この料理はすべて上羅かみら殿の手によるものだ」

 永里の祖母上羅は早坂家付きの料理人で、今は引退しているが、晃の為に戻って腕をふるってくれているらしい。同じ屋敷にいたのに気が付かなかった。彼女がこの屋敷から、もう家へ戻っているのを気配がない事で悟って晃は残念に思った。

「永里はおばあさんに料理を習ったんだな」

 独り言のように呟くと、父と叔父が顔を見合わせて微笑んだ。

「愛しい妻の手料理が恋しいらしいが、しばらく永里ちゃんは自由にさせてあげなさい」

 和正がニヤニヤして言った。

「わかっているよ。別に呼び戻したりしないから。本当に」

 ニヤニヤとしているのは和正だけではない。上月も澄ました顔をしながら、口元が笑っている。晃のことをからかうネタができて嬉しそうだ。

「二人とも、何か誤解しているようだけど、僕は寂しいとか思っていないからな」

 言葉に出して、しまったと後悔しても遅い。ニタリと保護者達は微笑んでいる。

「だから、違うって」

 晃はなおも言いつのろうとして、止めた。

「寂しいか。うん、そうだろう」

 和正が頷きながら言い、上月は目だけで笑っている。

 憤然としていた晃だが、どれをとっても最高の味の朝食で機嫌を直した。

「若、今日は一日私と過ごそう。郷の案内をさせてもらうつもりだが、どうかな。郷の長が郷の事を知らないでは困るだろう」

 上月が言うと、和正がうんうん、と頷く。

「この土地特有の隠れ野を見てくるといい」

「隠れ野か。懐かしいな」

 晃が呟き、顔を上げると和正と上月が見ていることに気が付く。

「え、何?」

「いや」

 同時に答えて、和正と上月は顔を見合わせる。

「ああ、隠れ野のことを知っているのは黒統衛門の記憶があるからで、実際に見た事ないから連れて行ってもらえると嬉しいよ。それから、西の塔の結界に綻びがある。直しておかないと隙間から他の魔物が入ってくる。これは、えっと相模?そんな名前の人いるのかわからないけど、相模に修繕してもらうとうまくいく」

 晃が食後のコーヒーを飲みながら、まるで何もかも見通しているように言う。

「わかった、そのように取り計らおう。それで、他にやらねばならない事はあるのか?」

 和正が尋ねると、晃は晃らしからぬ冷たい目になって動作を止める。

「他にはなさそうだが。ああ、なるほど。何か企んでいる者がいるな。まあ、いいだろう。私を楽しませてくれる者は大歓迎だ。しかし、相も変わらずここはつまらぬ郷であるな」

 晃は無意識のうちに言っているらしい。

 和正と上月は深刻な様子で晃を見、互いに目で意志を確認した。晃はふっと表情を和らげた。

「永里が来るよ」

 彼の言葉が終わらぬうちに、座敷の下座から「失礼します」と声がかかった。襖を開けて入って来たのは永里だった。今日は珍しく洋服を着ている。紺色の中に白い小花を咲かせたワンピースに生成り色の薄いカーディガンを羽織っている。

「おはようございます、大旦那様、旦那様、上月様」

 永里は三つ指立てて挨拶し、声がかかるのを待っている。

「おはよう、永里ちゃん。こちらへどうぞ」

 和正が永里に晃の隣へ座るよう言うと侍女がすぐに座布団を持ってきた。

 永里は美しい動作で晃の隣に座り、冷たい美貌を心なしか赤らめて晃の様子を窺っている。

「永里、昨日はゆっくり眠れた?」

 晃は彼女の顔を覗き込んで尋ねた。

「はい、晃さん。今朝起きた時、晃さんが側にいなくて変な感じがしました」

 困ったように彼女は言った。

「今日は一日どうするんだ?」

「ええと、祖母と山菜取りに出かけます。それからこちらに戻って帰宅の準備をさせて頂きます」

「そう。じゃ、今やろうかな」

 そう言って、晃は永里を抱き寄せた。

 ぶん、と風がうなり、彼らの回りに渦を巻く。晃から黄金の光が放たれる。まばゆいきらめきに、和正と上月は目を細めて成り行きを見守っている。

 永里の目が真紅に光り、氷の美貌は妖しい色香を帯びて晃の腕の中に収まっている。

 力の波動が強くなる。郷の中の半分以上の者が息を呑んで、このみなぎる巨大な力の波動が誰のものであるか実感したことだろう。

 晃の呼吸が早くなる。黄金色の瞳が苦痛に歪められ、その手は永里の首にかけられている。この細い首は晃への誘惑を止めない。

 晃が目を閉じ、強く永里を抱きしめる。

 ドクン、ドクン、と脈打つ力の波動に誰もが動きを止めて行方を見守っている。

「はあ…」

 長い溜息をついて、晃が永里をそっと離した。風が収まる。

 晃の体はしばらく光を発していたが、目の色は元に戻っている。

「凄まじいものだな」

 ポツンと上月が呟いた。目の当たりにした鬼の力は想像以上で、恐ろしく感じる。力を制御するために晃は戦っている。いや、力の制御ではない。野放しになろうとする鬼の衝動を彼は抑えているのだ。

「ここまでとは」

 和正も実際目にして衝撃を受けているようだ。

 永里だけがうっとりした表情で晃を見つめている。

「それじゃ、行っておいで」

 晃が永里の額に口づけると、彼女は一瞬恥ずかしそうにして、お辞儀した。

「行ってまいります」

 永里が下がると、晃は頭を抱えて寝転んだ。

「くっそ、やばかった」

 独り言に込められた焦燥はやり過ごした安堵よりも不安の方が大きい事を示している。

「晃、大丈夫か」

 上月が側に座り、冷静に彼を見つめている。

「ん、まあ、今のところ。力が戻って来る時に永里に食いつきたくなるんだ。それが結構やばい。世界を壊したいとか、そういうのは抑えられるんだけど。何なんだろう」

 晃はそのまま寝転んでいる。

「世界の命運を握る男が、女への欲望でいっぱいになっているとはね」

 上月が笑いだした。

「叔父さん、冗談じゃないんだってば」

 晃もくすくす笑いながら言った。

「抱いてしまえばいいんじゃないのか」

 父親の言葉とは思えない軽さで和正が言った。

「みんな人の事だと思って気楽な事言うよね」

 晃は不機嫌に起き上がって、天井を見た。

「最初は破壊衝動が凄かったんだけどなあ」

「慣れて来たんじゃないのか」

 上月は晃の肩を叩き、立ち上がる。

「さて、散歩に行こうか、晃」

「うん」

 晃も立ち上がって、上月の後ろに付いて行く。

 外は清々すがすがしい晴天と柔らかい風が吹く気持ちの良い天気で、晃は目を細めて太陽を見る。

 屋敷を出ると、のどかな田舎の風景が広がる。所々に馬鹿でかい民家はあるが、自然の中に溶け込んで建っているせいか、人工物の違和感はない。畑や田んぼも広々として、こんな風景がまだ日本にもあったのかと晃は驚いた。

 滅多に郷へ戻ったことのないせいで見覚えのない景色ばかりのはずだが、晃はどの家も畑も、見知っている気がしてきた。黒統衛門の記憶ではない。初代の黒統衛門の記憶が強烈すぎて忘れそうになっていたが、幼い頃の記憶が鮮明になってきたのだろうか。

 晃は観光客のようにキョロキョロ辺りを見回しながら上月の後を追う。

 上月は郷の人間に恭しくお辞儀され笑顔を返しながら、悠然と歩いている。やはり、貫禄が違う。

「ねえ、叔父さん。叔父さんて、昔からそうなの?」

「ん?」

「父さんより、堂々としているよね」

 晃の言い方に、上月は苦笑した。

「何を言うかと思えば。私は兄上には及ばない。だから、自分の勤めを精一杯果たしているだけだ。晃も、いずれわかるよ」

「ふうん?」

 晃の何か言いたげな表情から目を逸らして、上月は前を向いた。

 上月がふいに一軒の家の前で立ち止まる。それは門構えも立派で、他の家とは格段に違う屋敷だった。

「永里殿の実家だ。覗いて行くか?」

「ここが?ああ、いるね、永里に似た人達」

 晃は口元に笑みを浮かべた。永里の兄弟が晃の気配に気が付いて外へ出てこようとしているのがわかったのだ。すぐに屋敷への門が開き、永里の一番上の兄が顔を出した。

「上月殿。如何されましたか」

 千景に面差しの似た者が目の前にいる。男だというだけで、永里そっくりの、この美貌は心臓に悪い。

「若に郷を案内している。君は今日は休みかな」

 上月が言うと、彼は晃に向かって丁寧に腰を折る。

「我が主、お目通り叶いまして光悦至極に存じます。永里の兄、飛火ひかでございます。永里は立派にお勤めを果たしているでしょうか」

 彼の凛とした声が、また永里にも千景にも似ている。感心したように晃がじっと飛火のことを見ていると、彼は顔を上げるか上げまいか迷いながら少し上向き加減に顔を上げ、不思議そうに晃を見た。その親しみやすい表情に、晃の中の何かのスイッチが入ってしまったようで、彼はずかずかと飛火に近寄って彼の頬を両手に挟むとじっと彼を見つめる。晃の目は黄金色に輝き、その瞳に飛火が吸い寄せられるようにして身動きできずにいる。

 上月は事の成り行きを黙って見ている。が、ふいに晃の頭をパシン、と叩く。

「若、そこまで」

 思わず飛火に口づけしそうになっていた晃がハッとする。決まり悪そうに飛火を放して、晃はコホン、と咳払いをする。呆然としている飛火は、やがて真っ赤な顔でうつむいた。

「あー、すまない。永里とちょっと間違えた」

 苦しい言い訳である。

「…はい」

 飛火はどう答えていいかわからず、顔を上げない。永里の夫という立場にある者への嫉妬と対抗心があった筈の彼には、もうそんな感情は微塵もない。それどころか晃に対する畏敬の念が芽生えている。黄金の瞳に魅了されてしまったのだ。

「若?」

 説明を求める上月に、晃は大仰に肩をすくめる。

「鬼のさがってやつかなあ」

 それ以上説明できない。本能のようなものだったのだ。

「鬼と言うのは男も女も見境ないのですかな?」

 上月はわざと話を引き延ばしているようだ。晃としてはバツが悪い。

「我が主、よろしければ、茶などお入れ致しますが」

 飛火が助け舟を出す。

「そう、だね。あ、でも永里は今いないのか。ああ、たくさんキノコ採ってるみたいだ」

 晃が千里眼で見たのか永里の状況を話して、優しく微笑んだ。

「また永里がいる時にするよ。それじゃ、悪かったね」

 キスしそうになって。

 最後は言葉にせず、晃はその場を後にした。飛火はお辞儀して見送ってくれた。

 しばらくして、上月が笑いだす。

「え?」

「衝動的すぎるだろう」

 上月はだんだん笑いに歯止めが効かなくなって、腹を抱えて大笑いしている。

「なんか、わけのわからないものに突き動かされてしまったんだ」

 晃は小声で言い、整った美貌が大笑いしている様を苦い顔で見ている。

「すまない、久しぶりに大笑いした」

 上月は涙をぬぐいながら謝った。

 再び歩き出して、山の方へ彼らは向かう。一瞬、空気が変わる。すると景色が一変した。

 見えていたはずの山はそこにはなく、平野がずっと広がっている。丈の短い草原の向こうには色とりどりの花が咲き、その近くには清らかな小川が流れている。晴れている空のずっと上は夜空で星が瞬いているという不思議な場所だ。

「隠れ野か」

 晃はどこまでも続く壮大な景色を見回して両手を広げた。

「気持ちいいなあ」

「そうだろうとも」

 上月も手を広げて大きく空気を吸っている。

「美しい桃源郷だ」

 鬼の作った理想郷のはずだった。聖域としてずっと隠され大切に守られてきた場所。しかし、鬼がここに住むことはなかった。人間が攻めて来なければ良かったのか?否、それ以前に、鬼の郷には問題があったのだ。

「鬼は人間を食うしかない生き物で、人間を虐げていた。それが原因で鬼の郷は分裂したことがあったらしい。共存派と人間を奴隷化しようとする強硬派とで揉めて、桃源郷が隠されたという。鬼と人がうまく共存できるようになった時、桃源郷は開かれると言い伝えられていた。我らが早坂黒統衛門の時代よりもずっと前の話らしい」

 晃はそう言って、上月を見つめた。

「黒統衛門が桃源郷を開いた。それが大きな功績だという事は皆が知っている」

 上月はそう言って、晃ではない晃を目をすがめて見た。

「千景が望んだことだ。この野を、生涯守るのが私の使命なのかもしれぬ」

 晃は足元の草を手折って、風に乗せてばらまいた。

「ここだけは、昔のままにしておきたいんだ」

 晃なのか、黒統衛門なのか、彼は切なそうに天を見上げる。

「若、そろそろ郷へ戻ろう」

 上月は言って、晃の腕を取った。瞬時に郷の小道へ戻った。

「晃さん!」

 山道から凛とした声が降って来て、永里が姿を現した。手に持った籠には緑色の草や茶色いキノコが山盛り入っている。

「永里、大漁だね」

 晃は微笑んで側に来た彼女の乱れた髪を直してやる。

「家へ持って帰って炊き込みご飯や天ぷらを作りますね」

 彼女は子供の様にキラキラした目で言った。普段の冷たい印象はない。それは彼女が大好きな祖母といるからでもあり、晃に心を許した証拠でもある。

 永里の後ろから控えめにやってきた婦人に目をやって、晃は黙礼した。上月も同じようにしている。彼女が醸し出すオーラは高貴で人を惹きつける。

「若様、お久しぶりにございます。覚えておいでではないでしょうが、あなたが赤ん坊の頃にお目にかかっているんですよ」

 穏やかな微笑みをたたえて、彼女は言った。

「立派におなりになりましたね」

 そう言って、婦人は膝を折った。晃が慌てて彼女を立たせる。

「永里の心の支えはあなただった。永里を孤独から救ってくれていたあなたに感謝します」

「まあ、有難いお言葉。噂に違わずお優しいお方で安心致しました。上月殿も鼻が高いでしょう」

 上品な微笑みの中に、温かいものが流れているのを晃は感じた。

「上羅殿、今夜は?」

 上月が意味深に尋ねると、彼女はお茶目な表情で頷いた。

「楽しみにしていて下さいな」

「それは頼もしい」

 上月と上羅は微笑みあっている。わけのわからない晃と永里は顔を見合わせた。

「さあて、いったん帰りますか」

 上月は上羅の籠を手に持って、紳士らしく女性陣を先に促した。

 野道を歩きながら、彼らは他愛もないお喋りをして永里の実家へ向かう。

 門のところで飛火が他の青年たちと話している所へ居合わせ、晃は澄ました微笑みで彼の黙礼に応えた。

「若様、寄って行かれませんか」

 上羅が言い、永里を見て、晃に視線を移した。

「あー、えーっと」

 晃は上月を見る。

「時間はあります。若、良い機会です。郷の鬼たちと交流されては?」

 上月は含みのある言い方をして、先ほど飛火に対して取った衝動的な行動を冷かしてみせる。

「ああ、そうだね」

 叔父を睨みつつ晃が言うと、永里が嬉しそうに微笑んだ。その様子を飛火が目を細めて見ているのを彼女は気が付いていない。晃はままならぬ彼の思いに少し同情した。

「こちらへ」

 飛火が先頭に立ち、晃と上月を案内する。その後ろに若い鬼たちが続き、最後に永里と上羅が屋敷に入った。

 屋敷の中はピンと研ぎ澄まされた空気が通い、気の引き締まる思いと、清々しい気持ちになる。美しく、そして若き鬼たちの上座に座り、晃と上月は出された抹茶の椀に口を付ける。晃はお茶の作法など知らないが、黒統衛門の記憶のせいなのか、迷いなく動作を進める。それも王者として堂々としている。日常の雰囲気とまるで違う晃の様子に、末席に控えている永里がドキドキしていることなど誰もわからないが、晃にはわかった。目線を合わせて、安心させるように頷く。

「我が主、いつこの郷へお戻りになられますか」

 飛火の隣に座った青年がふいに尋ねた。

「いつ、と言うのはわからないな」

 戻るってなんだ、と内心焦りつつ、上月を見る。

「若は学生生活を終えたら戻られる。皆が待ちわびているのもわかるが、郷ではできない学術の勉強などをされるのだ。応援して差し上げないと」

 そつなく上月が答える。その言葉に若者たちが熱っぽい目を晃に向ける。強大な力の主に対する尊敬と敬愛の眼差しだ。

 複雑な気分で晃はいるが、自分の中に、その眼差しを高慢に受け流している部分があるのを自覚した。それは鬼の気性なのか、それとも晃の持って生まれた違う側面なのか自分ではわからない。

 一人だけ、飛火だけが、伏し目がちに気遣うように晃の様子を見守っている。理知的な瞳は千景によく似ているが、彼女はこんな思いやりのある色を絶対に浮かべなかったな、と晃は一人苦笑いした。ここの家系の女は強がりが多いらしい。逆に、男は素直なのかもしれない。

「飛火、以前打診した筈だが、君は我々の補佐として早坂家に入ってもらう。それでいいね?」

 上月が晃には言わない強い口調で言い、それに対して飛火は恭しく頭を下げた。満足そうに上月がそれを見やったが、ふと瞳を険しくした。

「君は確か進学希望だったな。郷を出るのか」

「推薦で大学に行くつもりです。それに、郷からは出ません。ここから通います。若様の街の隣にある大学が希望です。転移の術は得意ですし」

 頭を低くしたまま、飛火が答える。

「優秀なことは知っているが、そもそも君に大学は必要なのかね」

「人間を理解しようと努めています。その為に大学へ。高校は我らの種族が多いので、私はまだ井の中の蛙、世の理も知らぬ若輩者だと心得ます」

 飛火の真面目な性格が垣間見られる答えだ。晃は好感を持った。永里にもこの生真面目さがあるからわかる。純粋で真っ直ぐなその魂を、他の誰にも犯されたくないと晃は思ってしまった。だから、口を開いた。

「ならば、高校を僕と同じ所にすればいい。三年生?転校は大変かな。大学を受験するのも、僕の家からなら楽だろう」

「若、何を…」

「永里もいる家だし、構わないだろ?まあ、父さんに聞いてみないとわからないけど」

 晃は上月をじっと見て、反応を待つ。

 上月は眉を少し上げて晃を見て、それから視線を逸らした。

「若がそのように望まれるのなら反対はしません。きっと兄上も賛成されることでしょう。しかしながら、この郷の守りを完璧に整えるのならば、この優秀な飛火の力なくしては叶わないと覚えておいて下さい。それに、鬼は優秀です。人間の習慣や学び舎などと言うものは本来不要な生き物なのですよ」

 ぞっとするような冷たい声だった。若い鬼たちも緊張感を増している。

「叔父さん、僕も鬼だけど、学校に通っている」

 一人晃だけが楽しそうに言った。

「若、それは…」

「何が叔父さんをそうさせているのかは分からないけど、安心して。良い方へ向かうよ。僕にはわかる」

 真の鬼の長となる者が言う言葉だ。誰もがそこに希望を見た。

「さすがは若。この上月を、そんなあやふやな言葉で説得できる者は他におりませぬぞ。至極当然のように詐欺師まがいのことを言いましたな。まったく、参りました」

 上月が満開の笑顔で言った。その場が和み、やっと会話が弾みだした。

 そのうちに永里が山で収穫した山菜やキノコ料理の昼餉がふるまわれ、無礼講のような雰囲気の中、晃も同年代と呼べる鬼たちと色々な話ができて満足だった。

 鬼たちに見送られて永里の家を出ると、上月ががしっと晃の頭を押さえた。

「え、何?」

「鬼を人間社会に送るのは危険なんだ」

「どういうこと?優秀な種族なんでしょ?」

 晃は上月の手をのけて、彼を見上げた。

「優秀だ。だが、鬼は人間を食する。時にそれが暴走することもある」

「暴走?僕みたいになるってこと」

「いいや、若の場合は全く違う。そもそも、存在自体が異例だ。それに、我々の根底は人間なのです。鬼の力は、いわばオマケのようなもの。しかし、生粋の鬼は全く違う生き物なのです。訓練していない鬼は郷から出てはいけないのです」

 上月は静かに言った。過去に何かあったのかと晃が不審に思うと、濁流のように上月の思念が流れ込んできた。鬼が人間を囲い込み、人間でいう所の誘拐事件に至ったこと、異様な宗教団体を名乗り、人間を支配しようとしたこと、人間狩りを楽しんだ末に命を弄んだこと、数々の事件が起き、それを上月が処理してきた。鬼と人間では常識も信念も違う。郷以外の場所で共に暮らすことがどんなに難しいか、上月は実感している。

「わかった、叔父さんが何を懸念しているのか。でも、飛火は誇り高い鬼だ。かようなことは起きない」

 晃の瞳が一瞬金色に光る。ハッとしたように上月は瞳を逸らした。

「誰の胸にも、人に言えない欲望がある。本人に自覚はなくとも。それでも、己を律して生きていく者は尊い。飛火はそのような尊い者だ。飛火には様々な体験をさせてやりたい。きっと色々吸収して大きく育つだろう。郷の為にもなる。飛火は郷を裏切らないから」

 遠くを見る様に晃は言った。その姿に古の武将の姿が重なって見える。

「本当に、生きるとはままならぬこと。それでも、いかに素晴らしいものか、子らに分かって欲しい」

 黒統衛門の顔で、晃は言った。子ら、とは千景や永里の血を引く子供達のことだ。

「偉そうなことを私は言えぬが、郷の者達を守るのは私の役目だ。誰のことも大切だ」

 晃はじっと上月を見つめている。その目から逃れる様に上月は顔を背けた。

「いずれ、そなたにもわかってもらう」

 何を、とは晃は言わない。しかし、上月にはわかったらしい。一瞬苦しげな顔をして目を閉じた。そしてもう一度目を開けた時には、いつもの優秀な上月の顔だった。

「何をおっしゃられているのか、わかりません。若、そろそろ屋敷へ戻りますか」

 若、と呼ばれて、はた、と晃の動きが止まった。

「ん、あれれ」

「晃?」

 上月は叔父の顔で晃の顔を覗き込む。

「叔父さん、僕どうかしてたかな。ごめん、一瞬記憶が抜けた。時々あるんだよね、こういうこと」

「黒統衛門に戻る、ということか」

「いいや。黒統衛門はただの記憶だよ。僕は晃で、黒統衛門じゃない。でも、黒統衛門でもあっただけのこと。ただ、記憶に混乱して当時のまま記憶が暴走するって言うのかな?」

 晃は今、どの自分でも分けて考えることはしない。どの時代も、自分は自分の道を貫いてきた。ただ人より長い長い生涯の記憶を覚えているだけだ。そして、深い部分の自分の心は、いつでも同じだ。

「参ったな」

 上月は自嘲気味に笑った。

「晃、お前記憶が抜けたって言ったじゃないか」

「あー、それなんだけど、何かが邪魔するんだよね。僕が昔の僕と同化しては困る者がいるみたいに」

 晃は何でもないように言って、微笑んだ。

「叔父さん、聞きたいんだけど、叔父さんの力って、どんなことができるの」

 じわり、じわりと晃は上月に近づいた。

「些細なものだ」

 上月は悠然と微笑んで晃を見ている。隙はどこにもない。

「へえ。それで、僕にどんな魔法をかけたのか教えてくれる?」

「何を言うかと思えば。若、何を勘違いされているかわかりませんが、私は潔白ですよ」

 上月は心を読まれないように壁を作っている。

「叔父さん、嘘が下手だね」

 晃の体が金色の光を帯び始める。

「若、何をなさるおつもりで?」

 上月は動じない。

「僕はもう守られることにはうんざりなんだ」

 千景からも、永里からも、母親からも。大切なものを失わないよう、誰かを守る為なら喜んで戦って朽ち果てても悔いはない。

「あなたは守られていればそれでいい」

 真摯な態度で上月は言った。

「叔父さん、それを決めるのは僕だ」

 晃は黄金の双眸を細めて言った。そして、ふと表情を柔らかくする。

「僕は叔父さんのことも守って見せるよ」

「頼もしいお言葉だが、若、私は狡猾ですよ?」

 上月は最敬礼で言った。

 金の瞳のまま館に戻ろうとした晃だが、いつも通りの彼の容姿と態度に戻る。穏やかで、害のない控えめな男子に。

「若は化けておられる。本性を現してはいかがか」

「人聞きの悪い事言わないでくれるかな」

 上月の言葉に憤慨してみせ、晃はニイッと笑った。

「僕の力は不安定で頼りないかもしれないけど、僕を信じて欲しい」

 晃はそれだけ言って、部屋に戻って行った。

 上月は彼の背中をずっと見送って、彼の姿が消えると切なそうに眼を伏せた。

 ふいに背後に視線を感じて上月が振り返ると、そこには厳しい表情の和正がいた。その鋭い眼光は滅多に見られるものではないが、上月は目を伏せて気が付かぬふりをした。和正はあえて何も言わずに、どこかへ行ってしまう。深く、深くため息をついて、上月は決意を固くしたのだった。

 短い滞在を終え出発を控えたはずの晃は、のんびり過ごしている和正の様子を不思議に思いながら、夕方に屋敷に戻ってきて晃の荷物をまとめている永里を見ていた。なんだか荷物が増えているのは気のせいだろうか。そして、彼女の美貌を見ながら、もう一人の同じ容姿を持つ飛火の様子を彼女に尋ねた。

「兄、ですか?何も変わったことはありません。でも、そうですね、機嫌が良かった気がします」

 永里はカバンを侍女に渡して、晃にお茶を入れた。

「そっか。うちに来てくれそう?」

「ええ、多分。でも、上月様が反対されているのなら考え直すかもしれません」

 永里はほう、と息をついて開け放たれた障子から外を見ている。その様が妖艶で、晃はつい妄想を弾ませてしまうが、視線をずらした永里と目が合って、目を逸らす。

「晃さんが、まさか兄をお気に召すとは思いませんでした」

 永里は微笑んで言った。

「うん、僕も。ところでさ、早く出発しないと家に帰るのが遅くなると思わないか。明日学校に遅刻してしまう」

 晃は茶を飲み干して、畳の上に寝転んだ。言っている割にはくつろいでいる晃だったが、同じように焦っていない永里をじっと見ている。

「何か知っているんだろう。鬼は隠し事が多くて困る」

「隠し事だなんて。晃さんは鬼に偏見があおりなのではないですか」

 永里は可笑しそうに言った。

 そうこうするうちに、上羅の用意してくれた夕の宴が始まった。

 座敷で最高にうまい料理を堪能していると、黒い着物姿の上羅が庭に現れた。和正にお辞儀して、彼女は手を高く振りかざした。

 すると暗かった闇が明るく照らされている。見ると、尾の長い小鳥たちが光を加えながら飛び交っている。その幻想的な光景に見とれていると、上羅が微笑んで光を一つに集める。鳥たちと光が一つに融合し、新しい形を作り出す。それは早坂家の家紋だった。拍手が起きる。上羅が手を降ろすと幻のようにすべてが消えた。

「それじゃ、帰ろうか」

 和正が気楽に言い、立ち上がる。長の出立に、屋敷の全員がずらりと庭へと向かって並んだ。侍女が上羅の元へ彼らの荷物を持っていくと、彼女は晃に向かってウィンクし、ぱっと荷物を宙へ放り投げた。すると荷物は跡形もなく消えた。

 それから彼女は地面に手からこぼれた光を落としていく。円形に流れていく光は渦を巻き、複雑な模様を描き出す。

 和正は永里と晃を促し、その円形の中央へ立った。

「それでは、皆、息災で。近いうちにまた戻るよ」

 和正は特に上月に向かって言い、闇夜に光る円の中で微笑んだ。上月以下、郷の者達は頭を垂れて彼らの出立を見送る。

「では、参ります」

 上羅が宣言し、意識を集中させる。上羅の真紅の瞳が煌いた。

 まばゆい光が晃たちに振ってくる。

 一瞬光に包まれて、それから闇が戻る。

 妙に静かで、晃は辺りを見回した。

「おお、すげえ」

 素直な感想が口から付いて出る。

 晃たちは自宅に戻っていたのだ。永里が草履を脱いで居間の電気をつけた。晃も和正も靴を脱ぎ、それを永里が回収して玄関へ持っていく。それから雑巾を手にして床を拭いている。

「これって、魔術かなんかなわけ?」

 晃が目を輝かせて言うのを、和正が呆れて見た。

「お前は力に目覚めたんじゃないのか」

「まだまだ半分も戻ってないよ。悪いけど」

 何を期待されているのかわからないが、父親のがっかりぶりに晃は機嫌を損ねた。

「大旦那様、お茶をお入れしましょうか」

 永里が気を利かせて尋ねると、彼は首を振った。

「もう十分食べて飲んだから、もう休むとするよ。二人とも、お疲れ様」

 そう言って、和正は部屋にこもった。

 晃は永里の雑巾を奪い、掃除を止めさせると、そのまま彼女を抱きしめる。

「なんか顔色悪いぞ」

 呟く彼の目が黄金の輝きを宿す。風の大きなうねりが彼らの回りを取り囲む。

 永里の体から力が抜けている。晃は彼女を支える様に強く抱きしめる。

「お疲れ様、永里。一緒に郷のお風呂に入ってくれば良かったな」

 ビクッとして、永里が真紅の瞳を晃に向ける。無表情はもう晃には通じない。

「嫌がられるって言うのも、なかなかできない体験だよな」

 晃がくすくす笑って言うと、永里は頬を赤らめて困った顔になる。

「里帰り、楽しめたか?」

 金の瞳が真紅の瞳を覗き込む。

「はい。案じていたことが嘘のように楽しい滞在でした」

「そっか。良かった」

 晃は心からそう言って、彼女を放した。

「君の笑顔は僕の力になる」

 晃は微笑んでそう言って、自分の部屋へ引き上げた。部屋の隅にはちゃんとカバンが置かれている。

 彼はベッドに腰掛け、深刻な表情で考え事をしている。叔父が何か企んでいるように思えて仕方ない。あの叔父が。

 こういう時には鬼の力は何も発動しなのだ。

 晃はごろん、と寝転んで天井を見る。

 何か起こりそうだ。

 彼は悩ましい現実に嵐の訪れを感じた。










 

 


 











 





 







 

















 



 

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