第4話 高校生妻の生態について2

 翌日、何事もなかったかのように智も晃も普段通りに過ごす。確執などないような智の態度の中に安堵を見つけ、それでも晃は彼の葛藤を感じた。

 昼休みに入って、晃は智にコロッケパンを貰ってすぐにかじりついた。

「永里ちゃん、お弁当一緒に食べようよ」

 クラスメイトの心が晃の後ろの席の永里を誘いに来る。

「うん」

 永里はお弁当の入った赤いギンガムチェックのお弁当包みを持って、椅子ごと斜め向かいの心の席の側へ移動した。クラスのほとんどの女子が輪になって、そこに連なっている。

「心ちゃんって、お弁当自分で作っているんでしょう?」

 他の女子に聞かれて、心は照れ臭そうに頷いた。

「永里ちゃんも自分で作っているんだよね?」

 心は永里のお弁当を指さして言った。永里はこくんと頷いて、心の隣の席でお弁当を開く。

 どよめきが起こる。どこの料亭の弁当かと皆が覗き込む。

「永里ちゃんって、料理人の娘とか?」

「ううん、農家だよ。料理は殿の御台所番をしていた祖母に教わったの」

 料亭並みの永里の立派な弁当に気を取られていた女子たちは、耳慣れない言葉をスルーしつつ、彼女の祖母がプロの料理人だと認識したようだ。

「ねえねえ、永里ちゃん、今度商店街にできた雑貨屋さんにはもう行った?」

 心がお弁当のおかずのウィンナーをつつきながら問うと、永里は首を横に振った。

「じゃあ、今日の帰りに行ってみない?きっと気に入ると思うんだ」

 心の提案に永里が目を輝かせて頷いた。

 女子高校生らしく過ごせるようになった永里を見て、晃はほっとした。肩の力が抜けている。晃から精気を与えられて、彼女の中で何かが変わったようだ。それを感じている者が自分のほかに隣にいるのを晃は見やって、小さくため息をついた。智の目は、隠してはいるがずっと永里を追っている。

 晃はカバンからたこ焼きパンを出して一口で食べてしまうと、大きく伸びをした。

 女子たちの賑やかな喋り声を子守歌に、晃はウトウトと睡魔に襲われる。

「お前、この頃よく寝るよな」

 智の呟きが遠くに聞こえる。

 晃は気が付くと暗い洞窟にいた。

 じめじめと感じる湿気は奥の地底湖から水が流れてきているからだろう。

 地底、と考えて、晃は周りがいやに明るい事に気が付く。

「どこだ、ここは」

 晃は自分の浅黄色の袴が濡れているのを見て、顔をしかめる。

 ここもすぐに水に埋まる。

「黒統衛門さま」

 呼び声に彼の表情が明るくなる。

千景ちかげ、無事だったか」

「はい。私よりもあなたの身に何か起きないかと心配しておりました」

 彼女は岩場の陰から姿を現した。その涼やかな美貌と冷徹な瞳からは想像もできない程の情熱をもって、彼の元へ駆けよってその胸に顔をうずめた。

「兄上があんなに怒った姿を初めて見ました」

 千景と呼ばれた女は声を震わせて言った。その恐れを振り払うように、彼は彼女の背を撫でる。

「鬼の長を怒らせるのが私の役目だからね」

「冗談で済む話ではないのです。このままではあなたは殺される」

「それは困るね。私は鬼退治に来たというのに」

 彼の言葉に、彼女は身を縮ませた。

 千景の兄は鬼の首長で、彼女の夫となる者だった。最も力のある鬼は同じ血が流れる者の中から嫁を選ぶ。より強い血を残す為だそうだ。だが、千景は黒統衛門を選んだ。裏切りを、鬼の長が許すはずがない。

 彼は千景の頬を両手で包んで彼女の顔を見つめると、その唇に接吻した。千景も彼の唇を離すことなく、永遠につながっていたいと思った。

 水が彼の膝まで流れてきていた。

「千景、私は行かなくてはならない。君には辛い話だが、鬼退治に行かねば」

 彼の言葉に彼女は身を震わせた。

「どうしても行かれるのですか」

「どうしても。私と君の未来の為に」

 それは避けられない戦いだった。

 不安そうな彼女を残して、彼は奥へ進んだ。足元の水が抵抗力を増す。

 ぴちゃん。

 天井から滴り落ちる水音が響く。

 ぴちゃん、ぴちゃん。

 緊張と高揚した気分と。

 彼の足は確実に先へ進む。

 ぴちゃん。

 水音の感覚が短くなってくる。

 足元がぐらつく。

 水を吸った着物が重い。

 彼は地底に引きずられる感覚に陥った。

「おい」

 遠い所から呼ぶ声に、彼は意識を研ぎ澄ます。

「おいって」

 肩を揺らす手の感覚に、彼は現実に返る。

「智?」

「やっと起きた。後藤が呼んでるって」

 心配そうな智の顔をまじまじと見て、晃は現実の世界の音を認識する。

 女子たちの喋り声は続いていて、廊下を行き交う生徒たちの上靴がこすれるキュッキュという足音も聞こえてくる。

「後藤、か」

 晃は立ち上がって、教室を出た。

 のんびり職員室へ向かうと、その手前の廊下で待っていたらしい後藤が晃を呼んだ。

「早坂君、こっち」

 後藤は歩き出しながら、晃が隣に並ぶのを確認して、何やら含みのある笑みを浮かべる。晃は何も聞かず、歩調を合わせる。

「君、とうとう手に入れたね」

「何を、と聞くのは愚問のようですね」

 晃は薄々感じていた曖昧な実感を確信に変えた。

「わかる?」

 後藤はチラッと晃を見て、微笑んだ。

「鬼が教師をやっていてもいいんですか」

 晃の問いに後藤は声を出して笑い飛ばす。

「そもそも、我々の一族は人間より優れているからね。教師という職業は適性を超えていると思うね」

 後藤は小さい体に似合わない豪快さを漂わせて、化学準備室に入った。

「私はね、早坂君、いや、人間の長よ。我が一族の姫君を守る為にここにいる。君が無能な人間のままならば、即暗殺するつもりだ」

 後藤は不気味に目を光らせて言った。

「無能ならば苦しまなくて済む」

 晃はポツリと漏らして、冷めた目で後藤を見下ろす。しばらく対峙して、後藤は溜息をついた。

「今週末、郷へ帰るだろう?気を付けなくてはいけない。敵は君が思うほど優しくはない」

「敵とは?」

「私はそこまで親切に教えてやる義務を持たないが?君の為でなく、永里様の為に言っているだけだ」

 後藤は言い切って、晃のクラスの人数分のノートを彼に渡す。

「それじゃ、これ配っといて。用はそれだけだから」

「ちょっと待ってくれませんか、先生。先生が永里の味方だという事はわかりましたけど、永里の為にならないことが起こるのか、それとも、僕個人に何か起こるのか、それだけでも教えてもらえませんか」

 晃の言葉に、後藤は腕を組んで睨みつけるように彼を見やる。

「鬼の上に立つ者だろう?能力を使えばいい」

「そこまでの力は取り戻していませんからね。わかっていて言っているんでしょうけど。もし、力を全部取り戻そうとしたら、あなたの大事な永里様がどうなるか保証しませんよ」

「脅しか」

 後藤の目が鋭さを増す。

「君は長だ。敵も味方も、撥ね退ける運命だ」

「つまり、味方はいないってことですかね。ま、いつもそうだったけど。でも、僕にはあなたは味方に見えますよ。永里の為って言っているけど、あなたは力の優劣を重んじる。あなたは僕に尽くすはずだ。僕はあなたよりも力を得ているから。どちらが上かは一目瞭然だ」

 晃の晃らしからぬ物言いに、後藤が初めてひるんだ様子を見せた。

「生意気な生徒だね」

 後藤はそれだけ言って挑むように微笑んだ。晃は両手を見せて敵意がない事を示す。

「模範的優等生のはずですけど」

 晃は肩をすくめて言って、そこを出た。

 三十冊分のノートを教室に持ち帰り、晃はそれを適当に席に配ると、自分の席に戻って、買い置きしていたペットボトルのお茶を一口飲んだ。智はいつの間にか女子たちの会話に参加して、楽しそうに永里とも話している。

 永里は一度もこちらを見ない。

 精気を与えたせいで、彼女の心は安定している。言わば運命共同体のような晃の気持ちも永里に向いていると確信しているから、不安げにこちらを見る必要もないのだ。それは少し複雑な気分だ。

 彼は先ほどウトウトしているときに見た夢の続きを考える。

 早坂黒統衛門はあの後、鬼の首長と戦っている。壮絶な戦いであったと記憶しているが、思い出すには苦しい記憶だ。鬼の右腕を切り落としたまでは良かったが、そこでもう命の限界を感じた。鬼の首長は怒りの咆哮を上げ、向かってきた。もう立てないと思った時に、そこへ美しい千景が現れる。彼女は黒統衛門を助けた。彼の窮地を救ったがゆえに、彼女は血まみれになり命を失うこととなった。愛しい千景。彼女のことを思うたびに、息をするのが苦しくなる。千景を失った悲しみと腹立ちのせいで記憶は曖昧となっているが、鬼の首長は彼の手で冥途へ送った。

 晃は両手をぼんやり見た。

 この手は血にまみれている。愛しい女の血に。今現在の晃自身、母の犠牲の上にいるようなものだ。どこまでも人の命を吸い尽くす忌まわしい体だ。

 ふと、嬌声が聞こえた。永里のいるグループが智を中心に大笑いしている。普段あまり笑わない永里も楽しそうに笑っている。

 いつまでも、そうやって笑っていてくれよな。

 晃は願いにも似た言葉を胸中で永里に放った。

 彼は立ち上がって、隣のクラスへ移動する。

「花楓」

 出入り口から、華のある美少女を呼ぶと、彼女は短いスカートを揺らしてすぐに駆けて来た。彼女が動くたびに空気が弾むようにきらめくのを見るのは楽しいものだ。少し気分が安らいだ晃は知らずに微笑んでいた。

「どうしたの?」

「ちょっと教えて欲しい事があるんだけどさ」

「なになに?」

 花楓は興味津々で晃に顔を近づける。

「後藤の事、お前知っていたのか」

「ああ、あの人」

 花楓は思案気な表情で首を右に少しかしげる。

「鬼の一族でも、あの一族は特に血を重んじる人たちの集まりだから、人間の長がいるのが腹立たしいのよ。でも、力では敵わないからくすぶっているんじゃないかな?まあ、害はないと思うのよね」

「害はないって?」

 晃は腕を組んで扉に寄り掛かった。

「何か言われた?」

「気を付けろって」

「何に?」

 花楓は大きな目を興味津々に開いて晃に迫る。

「それを僕に教える義務はないってさ。敵は優しくないって言ってた。後藤の方が優しくないよな?」

「あの人は優しいのよ、本当は。でも、敵って誰の事?」

 花楓は一気に顔を険しくして考え込む。

「何、何の話しているの?」

 花楓の友達が通りすがりに声をかけてくるが、花楓は外交用の麗しい笑顔で「ゲームの話よ」と答えて、また眉間にしわを寄せる。

「お前にも心当たりがないってことだな」

「うーん。はっきり言ってわからない。だって我が主君、あなたは全部ではないけれど、もう力を取り戻しているし、敵になるような相手がいないもの」

 花楓は不安そうに言った。

「ま、自分で何とかするよ。駄目だったら叔父さんに言うし」

「そうね、上月様なら何か知っておられるかもしれないわ」

 花楓は叔父を敬愛しているようだ。それは晃も同じだからいいのだが、花楓のそれは恋に似た感情ではないかとふと思う。

「邪魔して悪かったな」

 晃は自分のクラスに戻って、また席でウトウトとし始める。

 抗えない睡魔は時と場所を選ばない。

 澱んだ空気に、彼は吐き気を覚える。手足の感覚を失くして、もう自分が生きているのか死んでいるのかさえわからない。

 無念だ。

 いや、逆に楽になったのだ。

 楽?違う。

 混沌とした感情はさらに沈んで、彼は渦巻く悪意が自分の中に育つのを感じる。

 凶悪な何かが自分を変えていく。

 これは「私」なのか、それとも、違う「モノ」が入り込んだのか。

 ああ、苦しい。気持ち悪い。辛い。憎い。殺してやる。

 皆、食い殺してやる。

 暗い感情は底なし沼のように彼の中に広がっていく。

『いけません』

 千景の声が上から降ってくる。彼女の気高い清浄な声だけが彼に癒しを与える。

「そこにいるのか、千景」

 声を出したつもりだった。しかし、自分の声は聞こえない。くぐもった獣の鳴き声のようなものしか聞こえない。

 何が自分に起こった?

 彼は必死に愛する者の姿を探す。

 ぼんやりとした光が彼の元へ現れた。

『私が命に代えてもあなたを助けます。必ず、生きて下さいませ』

 彼女の声はなぜか遠くへ消えていく。

「千景、待て。君が生きてくれている方がいい。私の体が滅ぼうとも、君を生かせる余地があるのなら、喜んで死のう」

 これも、獣が唸るようにしか聞こえない。歯がゆい。

『あなたは生きなければなりません。あなたは光。皆を導く希望です』

 千景の声はそれっきり消えてしまった。

 ぼんやりと彼は目を開ける。

 目の前には千景の血にまみれた体がある。

 言葉にならない叫び声は自分のものか。

「千景…」

 辛い現実に、涙も出ない。

 生暖かい彼女の血の、むせ返るような匂いが、現実を支配していく。

 もう彼女の魂はここにいない。

 こんな世界に生きている意味はあるのか。

 でも、彼女の救ったこの命は無駄にはできない。

 千景。

 息が苦しい。

 彼女のいない世界には吸える酸素もわずかしかないようだ。

 苦しい。

「しっかりなさいませ」

 耳に、愛しい女の声が聞こえた。けれど、それが彼女のものでないことはわかっている。似て非なる者。

 彼女の双子の妹。

「永里」

 彼女は千景に瓜二つの容貌を現して、冷たく彼を見下ろしている。

「姉の死を無駄にするような無能な輩に、あなたは成り果てるのですか」

「違う」

 彼は吐き捨てるように言って、千景の双子の妹を睨む。

 同じ姿で、私を拒絶しないでくれ。

 同じ姿で、私を断罪しないでくれ。

 同じ姿で、私を、殺してくれ。

「晃さん?」

 きょとんとした顔で、永里が晃を覗き込んでいる。

 ハッと息を深く吐き出して、晃はやっと酸素を吸った気になった。

 ここは教室だ。

 荒い息のもと、晃は妻である永里を見た。

 夢の中の鬼の姫と同じ姿の「永里」。

 心配そうな彼女の目は現実を教えてくれる。ここに脅威はないし、悲しみもない。すべて終わったことなのだと。

「僕は」

 ここにいる。

 晃は言いかけて、止めた。回りを見てみると、休み時間の終わりを知らせる鐘が鳴ったようで、皆が授業の用意をしながら談笑している。永里は自分の席に戻ってきて、彼の様子が気になって声をかけたらしい。

「変な夢を見てさ」

 晃は安心させるように永里に微笑んだ。

「そうですか。苦しそうでしたので心配しました」

「大丈夫だよ」

 永里はまだ心配そうにしているが、晃はそれ以上何も言わない。

「あの、晃さん」

「ん?」

「今日ちょっと遅くなってもいいですか。心さんと寄り道して帰りますので」

 小声で彼女が言うのを、晃は頷き返す。

「時間は気にしなくてもいいよ」

 それだけ言って、晃は数学の参考書を開いて問題を解くふりをして会話を終了させた。

 永里は一見クールな表情でいるが、放課後を楽しみにしている。その軽やかな気持ちが晃にも伝わってくるが、彼の心は暗い影を引きずっていて彼女の顔をまともに見られない。

 過去は終わったことなのだと理解はしている。でも、生々しい記憶が現実の邪魔をする。

 今自分の手にしている力は、この学校の校舎などいとも簡単に壊せる。そんな力をもってしても、愛しい女は蘇らない。

 ああ、混乱する。

 晃は過去の記憶に振り回されている自分に呆れてしまう。永里には罪もないのに、過去の「永里」が愛しい女に似ているからと言って、冷たくしてしまいそうになる。

 とにもかくにも、まずは週末の郷行きで、永里の里帰りを成功させることだ。そして叔父の上月に相談して、敵が誰なのかを知る事。鬼の一族が今現在どういう状況なのかも聞かなくてはいけない。人間の長へ反乱する意思があるのか、それとも鬼の仲間内で問題があるのか、現状を知る必要がある。そこから永里との関係をもう一度考えて、すべての力を得た後にどうしていくのか相談しなければならない。

 現実を生きなくては。

 晃は数列の並ぶ参考書をぼんやり見つめながら、午後からの授業を夢うつつに過ごしていた。

 すべての授業が終わった後、晃が帰ろうとしていると、智が言いにくそうに「顔かしてくんない?」と呼び止める。

「何?」

 晃は学校指定のカバンを背に担いで、智に付いて行く。

「?」

 智は誰かを警戒するようにして下駄箱で靴を変え、そわそわと校門を出る。

「なんなの?」

 晃は智の頭の中を覗こうとして、止めた。親しき仲にも礼儀あり、だ。力があるとはいえ、やっていい事と悪いことがあるのだ、と彼は力にブレーキをかける。

「永里ちゃんのこと」

 智はその美貌を曇らせて言った。

「ああ、永里のこと」

 晃は話が見えて、この不審な智の行動を理解した。要するに、彼は永里の後を付けているのである。なるほど、帰宅する生徒の群れの中に永里がいる。

「お前ら、付き合ってるんだろう?心配じゃないのか、女だけで出かけるなんて、狙ってくれって言っているようなもんだろう?」

 智の言い草に、思わず晃が吹き出す。

「智、お前、変ったな」

 晃は言って、微笑んだ。もてる外見の智は、その付き合い方に多少の難はあるとしても、女を付け回すようなタイプではない。それが、好きな子の尻を追いかけているのである。

「何とでも言え。片思いでもいいんだ。お前がライバルなら余計燃える」

 智は言い切って、遠くに見える永里の背中から目を離さない。

「ライバル、ね」

 晃は面白うそうに呟いた。

 永里が好きかと言えば、好きだと思う。けれど複雑な思いは消えない。

 智は友情を重んじるから永里の事を荒立てたくないのだろうが、諦めることはしないと宣言した。それは智なりのけじめなのだと晃は思う。

「智は良い男だな」

 晃が言うと、智は思い切り嫌な顔をした。

「お前の方こそ、本当に変ったよ。何がって言いづらいけどさ」

「そう?」

「そりゃ、皆いつまでも同じではいられないけど。ま、俺はそれでもお前の事は信頼しているから」

 智なりの気の使い方で、晃が思い悩んでいるのを感じ取っての言葉である。

「永里のどこが好きなんだ?」

 晃は単刀直入に聞いた。

「どこって、わからない。とにかく好きなんだ」

「わからないって、お前にあるまじき言葉だな」

 困惑気味に応えた智に晃が苦笑する。言葉巧みに女子を口説ける男のセリフとは思えない。

「彼女、一見クールっていうか、冷たい感じがするんだけど、その中にある感情はとても豊かで、ぽろっと出てくる笑顔とか純情さが、守ってあげたい気になるんだ。放っておけないっていうか、他の女子とは格段に違う」

 智はゆっくり自分の気持ちを説明して、切なそうに永里の背中を見ている。

「ま、この町で一番強い子だろうしね」

 晃が言うと、智はわかってないな、とい言う風に首を振る。

「彼女は強くなんかないよ。強い振りをしているだけだ」

 智は晃の背中をなぐって言った。

 彼女の強さを知らない智ではわからないかな、と晃は思ったが、人間の皮を被ったという鬼なのだと説明する気もない。

 智のストーカー行為に巻き込まれ、晃は商店街へ行くことになった。

 寄り道する学生は多くて、尾行がばれることはなかったが、永里のことだから晃たちが側にいる気配には気が付いているだろうと晃は思った。

 ゲームセンターでたむろする男子生徒の間に交じっている晃と智は、向かいの雑貨店で品物を物色している永里や心を時々見ながら、時間を潰す。

「智、僕はもう帰るよ」

 晃は欠伸をしながらクレーンゲームに張り付いている智に言う。向かい側の雑貨店の女子たちは動く気配がない。

 そろそろ飽きて来た。

「もう帰るのか」

 智が迷子の子犬のよな顔で言うと、晃は保護者のような気分になって彼の頭を撫でる。

「僕も色々忙しいもんでね」

 晃はじゃ、と呟いて智を置いて帰り道についた。

 きっと永里達はこの後喫茶店へ移動してつまらないおしゃべりに夢中になる事だろう。智ならそういうお喋りに付き合えるだろうが、晃には退屈で、花楓の長電話に匹敵する長さの落ちのない話が延々広がるのには欠伸が出る。花楓の話に付き合っているのは義理堅いだけの話で、実は話はほとんど聞いていない。

 晃は馴染みの八百屋と肉屋に寄って買い物を済ませて家に戻ると着替えを済ませ、永里の手作りのデニム生地のエプロンをつける。肉屋のおっちゃんにオマケしてもらったコロッケをかじりながら夕飯の支度を始める。今夜はレンコンと牛肉の春巻きと温野菜サラダ、もやしの中華スープを作る。デザートにはホイップと果物で飾り付けたパンナコッタを作るつもりだが、永里が喫茶店でお茶してくるならパフェあたりを選ぶだろうから、もっとさっぱりしたものを作った方がいいかもしれないな、と考える。

 やっぱスーパー寄ってくるべきだったかな、と晃は冷蔵庫を開けて食材を見る。

 小売店の方が好きなのだが、やはり品揃えで特化したスーパーの方が食材は揃う。まあ、本格的な料理をするわけではないのであるもので済ませられるが、たまには変わったものが食べたくなるというわけで何か新しいスパイを試したくなったりするのだ。

 冷蔵庫を閉めて、予定通り春巻きを作ることにした。パンナコッタは変更だ。

 晃はデザートにレモンパイを作ることにして、そっちから作り始める。

 鬼の能力なのか、千里眼という遠くのものを視る力を使って、晃は永里が喫茶店で心と智と巨大パフェに細長いスプーンを突き刺している映像を見たのだ。そこに永里のレモンパイも食べたかったな、と言う思念を読み取って、彼はレモンパイを作ってやろうという気になった。それなりに、妻の事は大事に思っている。現実に永里は美しく、愛すべき妻だと思うから、望みは叶えてやりたい。

 手際よくレモンパイのフィリングを作り、冷凍してあったタルト型に流し込んで冷やし固めるだけの簡単パイだ。作業を始めて一時間もかからないうちにおかずも作り終えて、彼はエプロンを外した。

 居間のソファにあぐらをかき、英語の教科書とノートを開き、予習を始める。

 ああ、駄目だな。

 晃は声もなく呟いて居眠りを始める。

「私はあなたを許しません」

 突然の強い声に、彼は振り返った。

 美しい着物以上に美しい女が、その冷たい美貌を曇らせてそう言ったのだ。

「永里」

「私は私の子らに代々同じ名前を名乗らせましょう。あなたの罪を忘れさせない為。いつまでもあなたは私に呪われるのですよ」

 愛しい千景と同じ顔、声、そして目。でも、千景は冷徹に見えるよう自らを律していた。反対に、永里は不器用で、冷たくいるようにしか見てもらえないのだ。誰にも知られなかった姉妹の素を、黒統衛門は初めから分かっていた。

 しかし、今の永里は本心をもって、彼を拒絶する冷たさを見せている。

「お前が私を律する剣となるか」

 彼の言葉に永里は頷いた。

「呪われた私を、お前が人間にしてくれるというのだな」

 最終確認に、永里は氷の微笑で応えた。

 そうして、永里は黒統衛門の鬼の力を自らの体内へ移したのだ。すると黒統衛門はすぐにチリのように朽ち果てた。最後に風の音のように許せと呟いて。

 鬼の寿命は長い。三百年の後、永里が没すると、その子に力は移る。

 代々の黒統衛門の歴史を夢に見、永里の子らを妻に迎え、鬼の首長としての呪縛を繰り返して生きるのは、最早苦痛以外の何物でもない。

 永里の呪い。彼女はそう言ったが、それが彼女の優しさであることはわかっている。どうしても千景しか愛せない彼に、永里は彼を拒絶することでしか愛情を示せなかった。本当は姉同様彼の愛を得たいと思っていたであろう彼女。

 しかし、それも過去の事。

 晃は夢からうっすら覚めて、ため息を付いた。

 そういえば、今日はまだ永里に精気を与えていなかった。どうしているかな、と晃は永里の居場所を思い浮かべる。智と一緒に家へ向かっているようだ。

 晃は安心したように息をついた。

 開いたままの英語の教科書を閉じて、彼はソファに寝ころんだ。

 高校生妻は夕飯の事を気にし、スーパーに寄らなかったことを後悔しながら歩いている。智は好きな女の子の隣にいられて単純に嬉しそうだし、彼女の心配事には気づいていない上、明日も一緒に帰れないかな、と淡い期待が垣間見れる。微笑ましい光景だが、晃はその光景を頭から追い出した。あんまり長く覗いていると永里に気付かれる。

 高校生らしく能天気に夕飯を作る事など気にせず楽しめばいいのに、と晃が思っているのを彼女は知らない。それでいい。妻には妻の生活がある。

 しばらくすると永里が帰宅した。

 居間に顔を出した彼女に、おかえりと言って、晃は起き上がる。

「ちょっとおいでよ」

 彼の手招きに、彼女はしおらしく正座して彼の前に頭を垂れる。

「ただいま帰りました」

「今日の分、まだでしょ」

 晃の言葉に顔を上げた彼女は意味がわからず首を傾ける。

「おいで」

 晃は華奢な永里の体を引き上げて、抱きしめる。千景によく似た美貌を持つ少女の首に食らいつきたい衝動を彼は堪える。

 風が凪いだ。

 室内に彼らを中心に渦が生まれ、黄金の光があふれる。

「あ」

 永里の声が漏れる。

 晃は冷酷な眼差しを見られないよう閉じ、しばらくして彼女をそっと離した。光は収束し、居間に静寂が戻る。再び彼が目を開ける。そこにはいつもの穏やかな彼が戻っている。

「着替えておいで。もうじき父さんも帰って来るし、そしたらご飯にしよう」

 晃の言葉に永里は夕飯の支度が既に終わっていることを悟り、安堵と申し訳なさが混在した目線でありがとうございます、と礼を言った。

 部屋に行った彼女を目で見送って、晃は華奢だが柔らかい彼女の体のぬくもりを思い出す。

 女の子、なんだな。

 そんな当たり前の感想を抱いて、彼はまたソファに寝転んだ。

 永里はすぐに着替えて戻ってきた。渋いカーキ色の着物はお召しと言うのだろうか。それにグレイの帯を締めている。小物のことまで晃は和装に詳しくないのでわからないが、地味だがスーツのような趣があると彼は思った。そういえば、永里は木綿の着物をあまり着ない。確か一般的に普段着は木綿の着物だと聞いたことがある。永里は着ないのだろうかと彼は目で彼女の動きを追いながら思った。

 洗濯物を取り込んで畳んでしまう。それからアイロンをかけて、晃と目が合うと不器用に微笑む。もちろん、迫力満点のクールさで。

「永里、明日暇なら郷へのお土産でも買いに行く?」

 晃が言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。

「ところで僕は君のことを何も知らないんだけど、何人兄弟なの」

「八人です」

 彼女の答えに、晃の動きが止まる。

「八人?」

「はい。姉が四人と妹が一人、兄と弟が一人ずつおります」

 思ってもみなかった答えに、晃はへえ、と言うしかない。

「ちなみに年齢は?」

「はい、兄が一番年上で十八歳。姉は全員十七歳です。そして妹は十二歳で、弟が七歳です」

「…ん?ああ、異母兄弟なのか」

 うまく想像ができずに、晃は力を使ってしまう。全員の顔が思い浮かんだ。しかも、その背景にあるものまで読み取れた。後藤に言われるまでもなく、郷にいる者や鬼の反応がわからない為、あまり頻繁に力は使いたくないのだが、ふいに無意識に力を使ってしまう。敵だと言う者への刺激にならなければいいが。

「はい。鬼、ですので」

 永里はアイロンを片付けながら当然のように答える。

 血を残すためにより近い相手との婚姻を繰り返した一族の慣習は近代には禁止され、複数の嫁を持つことが代わりに推奨されたようだ。

 だが、永里が特別な訳が晃にはわかってしまった。

 永里は昔の慣習に従って産まれた鬼のエリートなのだ。だから、強い。他を逸する存在感と力は、逆に畏怖を生み、嫌厭されることにもなった。永里への風当たりは強く、一族は厳しく彼女を育てたのだ。だから、彼女はずっと孤独だった。

「永里」

 優しく呼ぶ晃に、彼女は戸惑った表情を浮かべる。

「郷では君を僕が守る」

「晃さん」

 永里は照れ臭そうに微笑んで頷いた。

 今までの時代の、どの永里とも違う彼女。時を隔てても息を呑むような美貌は変わらないのに、中身が違うだけで全くの別人だ。それを、晃は今更発見して納得した。

 幼いころに彼女を見た時の衝撃を思い出した。美しいだけじゃない。気高いのは鬼の姫だったからじゃない。魂が堕ちることを許さない潔癖さを兼ね備えているからだ。でも、彼女は孤独で、だからこそ皆に優しくて、そんな彼女を守ってあげたいと思ったことも、ちゃんと思い出した。一目で恋に落ちたのだ。

 どうして忘れていられたのだろう。

 晃は永里の側へ寄り、漆黒の髪を撫でた。

 君を、傷つけずにいられるのだろうか。

 晃はそう考えながら、華奢な彼女の体を抱きしめる。

「晃さん?」

 ふわっと優しい風が彼女の回りを旋回する。精気とは違う何かが彼女に流れ込む。

 温かい気持ちになって、永里は晃の背に腕を回した。彼の体は見た目よりもがっしりしていて、熱い鼓動がエネルギーとなって彼女に届く。

「おやおや、お邪魔だったかなあ」

 和正の声がして、晃がそのままの姿勢で口を開く。

「邪魔じゃないけど、静かにしててもらえる?」

「それは無理なお願いだけど、善処するよ」

 あはは、と笑いながら和正は自分の部屋に行った。

「あの、晃さん。大旦那様のおられるところで、こういうことは…」

 永里が控えめに言う。晃に抱きしめられて、心地いいのは顔に現れている。

「じゃあ、やめとく?僕は別にいいけど?君の体はふわふわで、結構僕の好みなんだけどな。僕の楽しみを妻なのに提供できないって言うのなら、仕方ない。あんな事やこんな事をしたかったのになあ。残念で今夜は寝られないかも」

 意地悪く言ってみせると、永里が鉄壁の冷たい微笑を浮かべる。

「ご本心で言っておられたなら私も従いますが、晃さんは私で遊んでおられますね」

「まさか」

 晃は心外だという風に目を見開いて永里を覗き込む。彼女の冷酷な感じのする目の奥に恥ずかしそうな色が浮かんでいるのを彼は見逃さない。

 彼女は彼女だ。

 晃はもう一度永里をぎゅっと抱きしめてから体を離した。

 過去の夢に囚われすぎて、危うく彼女を遠ざけてしまうところだった。例え鬼の因習で嫁に来た妻でも、晃には最高の妻に違いない。この先晃がどう変るかはわからないが、今はただ彼女を大事にしようと彼は心に誓う。

 智には悪いが妻を奪われるわけにはいかないな、と晃は一人苦笑して、逃げるように台所に言った永里の背を見た。

「晃さん、ご飯の炊飯スイッチ、押すの…」

 台所からの永里の声に、晃は「あ」と漏らす。

「忘れた」

 言いながら台所に入ると、永里が楽しそうに笑っている。氷が溶けて、花が咲き始めた大地のような柔らかい笑顔だ。彼女のそんな表情を初めて見た気がする。

「晃さんでも、そんなことってあるんですね」

「よくやっちゃうんだ。冷凍庫にご飯凍らせてるのがあるから、チンしよう」

 彼は冷凍庫からジップロックに入れたご飯を取り出す。永里が受け取って、レンジに入れると振り返って、また笑った。

 愛しい。

 晃はそう思った。

 千景、この世にそんな女性がいようとは思いもしなかったよ。

 記憶の中の女に話しかけて、晃は永里の腕を優しく取り引き寄せる。不思議そうに見上げる目を見つめ、顔を近づける。

 唇を合わせると、とろける様に柔らかくて、そして、ほんのり甘い匂いがした。きっと喫茶店で頬張っていただろうホイップなんかの甘い匂い。

 彼女の体が一段と明るい黄金の光に包まれる。

「あ…」

 彼女の声が漏れる。その色香のある声に我を忘れそうになるが、晃は堪えた。

 余韻を残すように唇を離すと、じっと彼女を見る。

 彼女は熱っぽい目で見上げてくる。

「悪いんだけどさ、続きはご飯の後にしてもらえるかなあ。後からなら私も邪魔はしないし、君たちもたっぷり楽しめると思うんだ」

 和正が部屋着に着替えてきて、申し訳なさそうに背後で言う。

「今日の分はもう済んだから」

 晃は和正に言って、席に座る。

「永里、ご飯入れてくれる?」

 そう言って茶碗を渡すと、永里は顔を赤らめて頷く。

「大旦那様、お待たせして申し訳ありません」

 彼女は先に和正の茶碗にご飯をよそい、それから晃の分を山盛り注いで手渡す。

「お、今夜は晃の得意料理か」

 和正が両手を合わせていただきます、と言ってから嬉しそうに顔をほころばせる。レンコンと牛肉の春巻きは晃のオリジナルである。材料がそれしかなくて作ったのが始まりだが、うまい。

「デザートは何かな」

 甘い物が好きではない和正も晃の手作りは喜んで食べる。晃はチラッと永里を見てから、「レモンパイ」と答える。

「いいね」

 和正が言うと、永里が目を輝かせて頷く。

 内心彼女の反応に満足して、晃は瞬時にご飯を空にする。ご飯を炊くのを忘れたので、後で夜食を作って食べようと考え、彼はおかわりしなかった。

「晃さん、おいしいです」

 ほくほく笑顔、とでも言うのだろうか。いつもからは想像できないあどけない表情で永里が箸を進めている。晃も嬉しそうに笑顔になる。

「若いっていいねえ」

 和正もほのぼの言い、笑顔になる。

 こんな時間が続けばいいのにな、と晃は思った。 

 食事を終えて、片づけを三人でしながら、今日あったことをお互いに話していると、なんだか普通の家族みたいな気になって、晃は幸せを感じる。鬼とか、人間とか、関係なく暮らしていけたら何も問題はないのだ。

「それじゃ、お先に風呂もらうね」

 和正が永里に言って、台所から引き揚げた。

「永里、まだ台所使う?」

 晃が彼女に尋ねるとこくんと頷いて、彼女は弁当のおかずの仕込みと朝食用のサラダの準備を始める。数種類の野菜を洗って水切りし、タッパに入れている姿を何となく見て、晃は彼女を覗き込む。

「僕もいつかお弁当作ってもらおうかな」

「はい!喜んで」

 永里が嬉しそうに答える。

「料理するの好きなんだね」

「はい。祖母が作っているのを見ていると、まるで魔法のようなんです。私はそれをみているのが楽しみで、料理は祖母の姿を見て覚えたんです」

 思いをはせるように彼女は言った。晃の頭にもその光景が浮かんだ。永里には祖母の側にいる時しか安心できる時間がなかったこともわかった。

「永里の大好きなおばあちゃんに、里帰りでお会いできるね」

「祖母も楽しみにしています」

 鬼である彼女の祖母の寿命はまだまだ長い。会って歴史を聞くのもいいかもしれない、と晃は思った。

「それじゃ、先に部屋に戻るね。おやすみ」

「はい、おやすみなさいませ」

 きちんとお辞儀して晃を見送る妻に、そこまでしなくていいのに、と呟いて部屋に戻った。夜食用の冷凍ラーメンの出番はまだ先だ。手際良い永里が台所から部屋に戻る頃にはかなりお腹が減っているだろうが、我慢できなくもない。

 部屋でベッドに座って本を読みながら、ふとスマホを見る。いつもなら花楓からとりとめのない長電話がかかるが、晃が鬼の力を手にしてからはそれもない。花楓なりに気を使っているらしい。

 ま、いいけど。

 晃はパソコンでメールチェックしていると、永里が風呂場へ行く気配を察知した。彼は年頃らしく、永里の柔らかな肉体が水に濡れるのを想像してしまい、溜息をついた。美しい彼女の細い腕や服越しの豊かな胸の感触を思い出す。

 それとこれとは話が別。

 晃は邪念を追い払い、パソコンに集中する。

 しばらくして永里が部屋に戻るのを音で感じて、彼は立ち上がる。台所で冷凍庫からラーメンの袋を取り出すと、鍋に入れて火にかける。その間に作り置きしてある煮卵やタケノコを冷蔵庫から出して、丼ぶりを湯で温める。凍っていたラーメンが溶けだして、麺が鶏だしの透明な汁の中で泳ぎだす。晃は丼の中の湯を捨て鍋のラーメンを移すと具材を乗せる。今夜は何か違う味にしようと思い、冷蔵庫から金山寺味噌を取り出して入れてみる。味見をしながら今夜の一杯を作ると、その場で立ったまま食べ始める。

「晃さん?」

 背後で永里が寝間着の浴衣姿で不思議そうに見ている。

「ん?ああ、水飲みにきたの?」

 晃は丼ぶりを持ったまま移動して永里が水道からコップに水を入れるのを食べながら見ている。永里がコップを置くころには食べ終わっているが、彼女が立ち去るまでじっと待つことにした。

 彼女がコップを洗うのを見下ろしていると、湯上りの彼女から、ほんわりと石鹸の良い香りがしてドキッとする。

「お邪魔してすみませんでした。おやすみなさいませ」

 永里はきちんとお辞儀して言う。ちょっと意地悪したくなって、晃は永里の肩に手を置いた。

「永里、お勤めはいつ果たしてくれるのかな」

「はい?」

 彼女が瞳を揺らして無表情を作る。

「僕はいつでもいいけど、君はどうだろう?」

 優しく問うと、彼女は無表情のまま押し黙っている。

 ぷっと吹き出して、晃は永里の肩から手を離した。

「ごめん、冗談だよ。でも、僕の側に無防備で立っていると襲われるかもよ?」

「晃さんがそれで宜しいのなら、異存はございません」

 永里は伏し目がちに答える。

「へえ?」

 晃は腕組して永里を見下ろす。それから、気遣うように彼女の頭をポンと叩く。

「無理するなよ。僕なりに、君を大事に想っているんだからさ。嫌なことは嫌って言いなよ?」

 そんな彼の言葉に目を見開いて、永里はこくんと頷いた。

「おやすみ」

 晃は彼女に背を向けて、丼ぶりや鍋を洗い始める。すると永里が晃の背中にぴたっと寄りそう。温かい彼女の体は思いのほか晃の体を刺激する。

「おやすみなさいませ」

 永里は言って、静かに離れて行った。

 彼女の気配が完全に消えてから、晃は大きく息をついた。

 蛇口から流れっぱなしの水が彼の神経を鎮める。

 良くも悪くも永里という存在に振り回されているよな、と彼が考えていると何やらそれがおかしくて、彼は微笑んでいた。

 彼の妻は彼女の想いとは裏腹に、夫に良いようにも悪いようにも思われて散々だよな、と可笑しかったのだ。

 鬼として能力を得た今なら、彼女の今まで過ごした孤独がわかるから拒絶することなどできはしない。誰かの為に生きるという事が、彼女にとってどれだけ心の支えになったことか。生まれる前からの許嫁として、彼女は辛い運命にいたけれど、逆に希望をもたらせた。

 彼女が幸せになれますように。

 今はそれが自分の役割だが、この先自分がおかしくならない保証はない。自分でなくとも他の誰かが彼女を幸せにするように、晃は神など信じない方だが、願いを聞いてくれる誰かに向かって、彼は祈った。




 






 





 

 






 



 

 






 




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