第2話 襲撃

 晃は土曜日なのに、朝早くから起きだして家事に勤しむ妻を見ながら、居間のソファでボーっとマグカップに入った香り高いブラックコーヒーを飲んでいる。

 相変わらず、永里はかいがいしく世話をしてくれる。料理の腕も抜群である。永里が来るまでは父の和正と交代で食事を作っていたが、永里が家事も含めて全部やってくれるので、大変ありがたい。

 そう思って、しかし晃は溜息を付いた。

 妻、なのだ。来週の土曜に父の実家へまた行かなくてはならない。何でも、里帰りの儀式と言うやつがあるらしい。妻が嫁いで一週間後、実家に手土産を持たせて挨拶へ行かすだけの事らしいが、とりあえず、本家の屋敷から実家へ戻さねばならない決まりらしく、本家と言うと父の故郷にあるわけで、正確には一週間後ではないが、学校のない土曜日に遠路はるばる夫婦そろって出かけることになっているのだ。週末のこの予定を、永里の実家に興味があったので、それなりに晃も楽しみにしている。叔父にも色々話を聞きたい。が、しかし、晃にとっての妻という扱いをしていない今、永里を実家に帰らせてもいいものだろうかと躊躇したりもする。まあ、体裁だけの話だろうから、そこまで心配しなくてもいいとは思うのだが。

 月曜からの衣替えの為、永里は夏制服にアイロンの蒸気を当てて整えている。丁寧な仕事ぶりに頭が下がるが、彼女は今、他の男の恋人をしているのだと思うと、家事をさせるのも気が引ける。

「永里、僕の分は自分でするから、放っておいていいよ」

 マグカップで半分顔を隠したまま、晃が声をかけると、永里は居間の隅っこに陣取ったアイロン台から顔を上げ、思いっきり首を振る。

「晃さんはそう言って、何も用意しないではありませんか」

「まあ、ね」

 お見通しである。

「じゃあさ、超能力とかでぱーっと終わらせたら?」

「お言葉を返すようですが、私の能力は超能力ではありません。それに、お忘れかもしれませんが、私は一応人間です」

 そう言って、彼女は時計を気にした。晃はそれを見逃さない。

「いいよ、もう行って。智とデートだろ?」

「デ、デ、デートというものと一緒になさらないで下さい」

 赤くなっている永里に晃は意地悪な微笑みを向ける。

「愛しい男と、何をするんだか」

 その言葉が耳に入った瞬間の、永里の怒気の入った美貌を表す言葉を晃は持たない。

 美しい。だが、非常に恐ろしい。背筋が凍って心臓につららが刺さったような気分だ。

「冗談だ。悪かった」

 素直に謝って、晃はつまらなそうにソファに寝転んだ。

「ま、人並みのお付き合いをして来いよ。智は手慣れているから任せておけばいい。まあ、手も早いけど、心をかっさらうのも早いよ。どの道、襲われても智は永里にはかなわないだろうから心配ない。映画でも、買い物でも、普通の女の子が喜ぶことをしてきたって、誰も文句言わないからさ。永里が楽しんでくれれば、僕も幸せだ」

 天井を見上げて言うセリフは本心から出たものだ。このお堅い妻には、もっと普通の生活に馴染んでもらわないと困る。外に目を向けて、そしてこの因習にがんじがらめになっている結婚を拒否してもらいたい。もちろん、この愛すべき妻はよくやってくれている。文句などない。しかし、そういう事ではないのだと晃は思う。勝手に決められた婚姻関係など、誰が認められるか。ちゃんと恋をして、好きな女性に自分から妻になってくれと膝を折ってプロポーズしたい。

 晃は頭を横にして、静かになったアイロン台の主を見る。だが、そこにはもう誰もいなくなっていて、作業していた痕跡さえ残っていなかった。最初から、晃は居間に一人きりだったのだろうか。

「あ」

 呟いて、お代わりのコーヒーがマグカップに入っていることに気が付いた。

 いつの間に。

 何か彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうか。それとも彼に言いたいことがあったのだろうか。いや、邪気にされたと思って、傷ついているのか。

 彼は起き上がって、マグカップを手に取る。

 君を傷つけるつもりなんて、ないんだよ。

 晃はマグカップに湯気を立てるコーヒーに向かって呟いた。

 しばらくして、晃のスマホに着信がある。

「もしもし」

 答えると耳元に聞きなれた声が私よ、と告げる。花楓からの電話は長い。僕を女友達と勘違いしているのか、と問い正したくなるくらいだが、きっと何とも思っていない。話したいことを話して、唐突に切る。それだけだ。

『ねえ、永里ちゃんとこないだお洋服を買いに行ったんだけど、今日その服を着て智とデートって本当?』

「ああ。智が相手ってよく分かったな」

『だって智が電話して来て、女の子が一番喜ぶことを教えろって聞くんだもん。あの智が。初恋かしら』

 母親のような口調で花楓が言うのを笑って聞いて、晃はまたソファに寝ころんだ。

「相手があの永里だからじゃないのか?普通の女子じゃないからな。智も勝手が違うだろう。それより花楓はデートじゃないのか」

『それが、ドタキャン。最悪でしょう?そうだ、私たちもどこかに出かけない?』

「は?」

『何よ、その面倒臭そうな言い方。モールのとこに新しいカフェができたの。そこに行くから、駅で待ち合わせね』

「おいおい、勝手に決めんな」

 既に電話は切られた後だ。晃は仕方なしに立ち上がって、財布をポケットに入れると、そのまま玄関を出た。

 梅雨入りはまだだが、空模様が怪しい。かと言って、傘を持ち歩く程でもない。振り出したらビニール傘を買うか、と晃は手ぶらで駅まで歩いて行く。途中、商店街へ行く道に永里達がいないか気になったものの、自分に関係ないかと頭から追い出す。

駅にはまだ花楓は来ていなかった。花壇の淵に腰掛けて彼女を待っていると、通りかかる女性達に声を掛けられる。見た目が穏やかで害がないように見えるからか、道も聞かれやすいし、とにかく何かと他人に声を掛けられる。急いでいない時はいいが、面倒であるのは変わりない。もちろん、気の良い彼はそんな素振りは見せずに対応するが、今日はやけに声をかけられるな、と対面する笑顔が引きつり始める。

「晃」

 やっとこさ花楓のお出ましである。まだ肌寒いというのに、透けるような白いワンピースを着て、露出が多い。どこかのアイドルのようだ。そんな彼女の登場で、やっと見知らぬ人たちから声がかからなくなる。花楓の華のある容貌は近寄りがたいらしい。

「また変なのに引っかかってる」

 道を聞く人達を「変なの」扱いするところが花楓らしいな、と晃が笑う。

「あんたね、ナンパされてないで、切符でも買っといてよ」

「ナンパ?道聞かれてただけだけど?それに、僕にはイコカがあるから切符は買わなくてもいいからね」

「え、ズルい」

 花楓は派手な財布をコンパクトなバッグから取り出して、券売機で隣の駅までの切符を買い、晃を従えて改札をくぐった。

「土曜日なのにすいてるね」

 花楓がホームで電車を待つ人々を見ながら言う。確かに、人の波は少なく、家族連れや恋人同士で賑わう土曜日という感じがしない。

 来た電車に乗って、一駅。降りるとすぐにモールがある。

 晃は花楓の小鳥のさえずりのような会話に相槌を打ちながら、結局カフェに直行せずにモールのファッション系の店を端々から見ていく花楓の気ままな動きに付き合っている。花楓の彼氏は大変だな、とちょっぴり同情していると、花楓とすれ違う男たちが振り返るのを見て、別の意味でも大変かも、と大きく同情し直してしまった。

「花楓、そろそろカフェに行かないか?僕の腹の虫が騒ぎ出した」

「そうねえ、私も小腹が空いたわ。移動しましょうか」

 花楓の手には袋が何個もぶら下がっている。晃はにこっと微笑んで荷物を指さす。

「それ、持ってあげるから、ご飯おごってくれる?」

「いいわよ。その代わり、ちゃんと家まで持ってよね」

「はいはい」

 晃には慣れっこの花楓とのやり取りだが、ふと永里のことを彼は思いだした。永里はスーパーでの買い物の荷物も晃に持たせるようなことをしない。まあ、かなりの力持ちであることは証明済みなのだが、女子の恰好をしているからには、男子としては荷物を持ってあげるべきなんじゃないかと晃は思ったわけである。旦那様に荷物を持たせるなど言語道断、と言っていた彼女の姿と花楓の姿を見比べて、晃は永里は生きづらいだろうな、などと思ってしまう。

「何ぼーっとしてんの?」

 花楓が荷物を全部晃の腕に移して、軽くなった右手で晃の頭を叩く。

「腹減った」

「わかった。ほら、あそこのお店よ」

 花楓が指さしたのはおしゃれな趣のカフェで、モールの中にあるとは思えない一軒家の雰囲気だ。店先に一本の木が植えられ、回りを囲むように芝生が円形に植えられている。それを眺めるように作られた一面ガラスの窓際席は開閉式のテントの陰に遮られて中が見えない。彼らは木製のドアを開けて中に入った。テラコッタのタイルが敷き詰められた店内は落ち着いた内装で、クラッシックが流れている。至る所に観葉植物があって、癒される上に居心地がいい。

「いいね」

 晃が呟くと花楓が満足そうに頷いた。中に入ってから席に案内されて、奥に見知った顔を見つける。

「永里」

「晃さん」

 一席挟んで永里と智がランチプレートを食べていた。心なしか永里の顔色が悪いのが気にかかるが、邪魔はしないと決めて、晃は軽く智に手を挙げて、後は放っておいた。花楓も気を使ってか、微笑むだけで、様子を聞いたりはしない。

「ねえ、何頼む?半分こする?」

 花楓がメニューを見ながら意志の確認をする。いつも食べたいものが二つある時は強制的に半分こだ。ランチメニューはボリュームが多く、一つのプレートを二人で分けている他の客を見ながら、晃は花楓に限ってはないな、と折半案を却下する。となると、一人一つのランチプレートを半分ずつだな、と考え、ちょっと足りないと感じてしまう。晃も細身だが、見た目と裏腹によく食べる。

「それじゃ、半分分けでいいけど、単品の特製ソースがけのビッグコロッケも食べて良い?」

 スポンサーに許可を求めると、彼女はニタリと笑った。

「お目が高い。私も食べたかったの。それとキッチェもいるわね。フリットの盛り合わせも頼むとして、このドリアも頼むけど、ミートソース味でいい?ドリンクはどうする?」

「僕はコーヒーでいいや」

「あ、そ。私は本格ミルクティフラペチーノにしようかなあ」

 あとはデザートよね、とおおよそ女子が食べる量ではない品数を注文する。こう見えて、花楓も大食いなのである。

「ねえ」

 花楓が小声になり、目で奥を差した。

「あの二人、ちゃんとうまくやってんのかしら?」

 おせっかいが出てきたようだ。

 晃はさあ、と答えて、チラッと視線を流す。どうも永里の顔色が気になる。照明の関係だろうか。もしかして、精気を貰えてないのだろうか、と晃が心配そうな顔になる。

「晃、父親の顔してるわよ?永里ちゃんが心配だからって、智をいじめないでね」

「そんなこと僕がするかよ。でもさ、永里、なんか具合よくなさそうだ」

「そうね」

 素っ気なく言って、花楓は運ばれてきた料理に集中した。晃もそれ以上は言わずに、花楓に取られないよう自分の分をしっかり食す。ふいに肩を叩かれ、振り返ると智が永里を連れて出口に向かっている所だった。会釈だけ交わして、彼らは別れた。晃は永里の背中をチラッと見たが、彼女の足取りはしっかりしているように思えた。

 食事の後も散々買い物に付き合わされ、花楓を家まで送り届けてから晃が自宅に戻ったのは夕の六時を過ぎた頃だった。いつもなら、既に永里が夕飯の支度をしているが、家には誰もいなかった。

 晃は手を洗って冷蔵庫を見てみる。永里の買ってくれていた食材は多岐に渡る。適当に具材を選んで調理にかかる。

 短時間で薄切り豚肉のミルフィーユカツと温野菜サラダにポテトサラダ、キュウリとホタテ缶の酢の物、野菜たっぷりの味噌汁を作ったが、誰も帰ってこないので先に風呂に入ることにする。風呂場は乾いていて、いつもなら永里がたっぷり湯を張ってすぐに入れるようにしてくれているが、今日はすっからかんだ。湯船に湯を溜めながら、シャワーを終えたが、まだまだ浸かれるほど湯は溜まっていない。諦めて、もう風呂を出ることにした晃は、全裸のまま硬直した。

 永里が晃のバスタオルを持ったまま、晃の下半身の方を見たまま時を止めているのが目に入った。

 お互いにそのまま無言で時を刻む。

 ハッと我に返ったのは晃だった。

「あのさ、そんなに見られてたら風呂から出られないんだけど」

 隠すものを永里が持っている以上、開き直るしかない。今更手で覆い隠すのも男らしくないように思う。

 永里は自分の手にある物を見て、晃を見、それから顔を真っ赤に染めて首を晃と反対方向に向けながらバスタオルを手渡してくれる。

「遅くなって申し訳ございません。お夕飯、ご準備頂いてありがとうございます」

 それだけ言って、彼女は風呂場を出て行った。

 晃は溜息をついて、湯船を振り返り、湯が溜まったのを確認すると蛇口を止めた。それから既に半分乾いた体を拭いて、パジャマに着替える。居間に行くと、永里がキッチンで作業している音が聞こえた。キッチンを覗くと、晃の作った料理には丁寧にラップがかけられ、彼女は一心不乱に泡だて器を持った手を動かしている。

「何作っているの?」

「シフォンケーキです」

「へえ」

 鬼のような形相で、いや彼女は人間の皮を被ったという鬼なのだが、卵白を泡立てている姿は妙に不安を掻き立てられる。

「永里」

 名前を呼んでみたところで言うべきセリフが見つからないのだが、こちらを見つめる彼女の目に、風呂場で見られた以外の何かあったのだと確信した。

「どうした?」

 優しく尋ねると、彼女は首を横に振って、また撹拌作業に戻った。

「永里、昼間具合悪そうだったぞ。何があった?」

 なおかつ尋ねる晃に、永里はここへ来て初めてキツイ眼差しを向けた。

「晃さんは花楓さんと仲良くデートされていましたが、私は鏑木さんとそういう過ごし方はできず、気が気ではなかったんです。それをどうこう晃さんが言う権利はなく、私はとても疲れておりますので、これ以上お尋ねにならないで下さい」

 一息で言ってしまって、永里は背を向けて黙々と作業に戻る。

 まったく訳の分からない発言だったが、とにかく、永里が気を使ってデートを楽しめなかったのだと晃は理解した。花楓とデートというところは訂正しなくてはいけないが、今は話しかけられる雰囲気ではないので黙っておくことにした。食事の気分でもないみたいだ。

 初めてのデートはそんなものかもしれない、と晃は居間に戻った。

 テレビを付けていると、ウトウトしたらしい。一瞬記憶が飛んで、気が付くと、永里が晃の体に薄い毛布を掛けてくれている所だった。自分が寝転んでいることに気が付いたが、それよりも、驚いたのは永里の頬に真っ赤な傷跡がある事だ。生々しい傷跡はさっきまでまさに血が出ていた痕で、心なしか、息も上がっている。思わず彼女の腕を掴んでしまう。

「どうした、それ」

 晃の問いに彼女は力なく微笑む。

「気になさらないで下さい」

「いや、気になるだろう」

「私の不注意なのです。至らない私を責めますか」

「は?」

 意味が分からず、晃は永里の腕を引っ張って、彼女の頬を近くに見てみる。

「切り痕?」

 どうしてそんなことがわかるのかと、永里が目を見張る。

「僕が寝ている間に何があった?侵入者か?」

 そんな時に寝ているなど、のん気にも程がある。自分で自分を呪いたくなる。

「晃さんが気になさることではありませんから」

「いや、気にするだろう、普通」

「私たちは普通ではないのです」

 たち?自分の種族のことか?

 晃は聞き返したかったが、永里の瞳が悲しそうに揺れるので、それ以上問いただすこともできずにいた。

「ああ、本当にしつこい」

 永里がため息交じりに呟いた。

「しつこい?」

 僕が?と言い返しそうになって、その言葉が晃ではない誰にかに向けられたものだとやっと気が付いた。

 永里の向こうに誰かがいる。息を潜めて晃はそれを見た。

 それは禍々しい空気を吐きながら、そこに立っている。まるで影から這い出て来たお化けみたいだ、と晃は思った。だんだん、それが形を変えて人型になっていく。黒い髪と黒い目に陶器のように白い肌。形は美しいが中身が腐っているとしか思えない異様なモノ。まとわりつく黒い靄が瘴気のようだ。

 永里は彼女の腕を掴んだ晃の手を優しくはがして振り返り、それに対峙した。

「しつこい人は嫌われるのですよ」

 永里が晃を背にかばい、そう言った。

「ああ、人ではありませんでしたね」

「鬼の子が、偉そうな口を利く」

 黒い化け物が言って、その指を永里に向ける。まるで刃が無数に伸びたような指だ。実際、その指は何物をも切り裂くのだろう。うっすら血のようなものが付いている。永里の体からゆらりと陽炎のようなものが発せられる。

「おや、さっきよりも疲れているじゃないか。精気も十分に貰っていないようだけど、それで戦えるのかしらね?」

「さっき?」

 晃が眉をひそめる。

「まだ人間の、そこの子供は私がおいしくいただくよ」

 黒い化け物はにっこり笑った。吐きそうになるほどおぞましい。

 晃は、しかし、これが最初の来訪ではないとわかってしまった。永里の頬に傷を作ったのも、こいつの仕業だ。

「諦めて下さい。旦那様をお守りするのが我が使命。命に代えてもあなたに渡しはしません」

 永里の凛とした声が響く。彼女の背中から気迫が感じられる。透明な気高い覇気を彼女は身にまとって、空中から剣を取り出した。

「滅して差し上げましょう」

 短く宣言すると、永里は剣を構えて黒い化け物に突進した。

 くわっと口を開けて、化け物は黒い瘴気を吐き出す。それは永里を包んでいき見えなくさせるが、彼女は剣の一振りでそれを払うと、一瞬のきらめきを発して化け物を一文字に切り裂いた。黒い物体が弾けるように広がったかと思うと、剣の中に収束していった。剣が魔物を喰ったように見えた。

「お見苦しい所をお見せして申し訳ありません」

 永里が振り返り、晃に謝った。その手に先ほどの剣はない。

「どういうこと?」

 口調が刺々しかったのか、永里が怯えたような顔になる。

「怒っているんじゃない。君に守られていたなんて、僕は知らなかった」

 晃は言って、永里の傷ついた頬を両手で包み込む。じっと見つめられて、彼女が恥ずかしそうに眼を逸らした。すると、微かに永里の顔色が良くなってくる。それと同時に頬の傷も治っていくようだ。

 彼女の目がほのかに赤く光を発している。

「旦那様…」

 永里はぼうっとした顔で晃を見上げる。その頬は上気して、体も全体的にほんのり赤みが差している。神々しい黄金の光が一瞬彼女を包む。

「うん?」

 完全に永里の頬の傷が癒えた。そして彼女の目の色が元に戻る。

「私を、受け入れて下さったんですか?」

 恥ずかし気に、彼女は聞いた。

「え?」

 何を言われたのか理解できず、晃は目を点にして永里を見つめる。

「あの、今、精気を私に下さったではありませんか」

「へ?」

「ありがとうございます。今日鏑木さんにキスされそうになって、私が求めているのは、やはりこの人ではないと実感しました。私には旦那様しかいないのです。この命、生きるも死ぬも、旦那様の為に捧げるのが私の至福」

 恍惚とした目で永里が言うのを晃はギョッとして聞いている。ふいに天井から人が降りてくる気配がある。振り向いた晃は我が目を疑った。

「え?」

 昼間見たままの姿で花楓が天女のように居間に降り立った。

「もう、ヤキモキするわね、あんた達」

「お前、今どうやって入って来た?」

 晃が焦って問うと、花楓は勝気にふふんと笑った。

「我が主君、ぼんやりしているにも程があるというもの。モールにいる間、永里がどんなに必死であんたを守っていたかを知らないんだから、間抜けと呼ばせてもらうわね。それに永里の顔色が悪い事に気が付いていながら、精気を与えないなんて、何のプレイなの?それから、永里、あんたはもっと強いはずでしょう?どうしてさっさと敵を排除しないの。そんなことだから舐められるのよ」

 花楓はソファに足を組んで座り、いつもの女王様の貫禄で二人に説教を食らわす。

「お前、何言ってるんだ?」

「あら、何も知らないって顔ね」

 花楓は言いながら、チラッと永里を見た。それから晃を見据えて口を開く。

「私は代々あんたの家に仕える守り人。永里とは従妹よ。永里のように純粋な鬼の血は入っていないけど、まあ人間よりは鬼の方に近いかもね。といっても、精気はいらないし、ハイブリッドっていうの?永里に比べると自由な身よ。あんたは知らないだろうけど、私は子供のころからあんたを外敵から守ってきてるの」

「外敵?」

 実感の湧かない話をされても、晃は理解しようと努力する。

「さっきみたいな魔の一族よ。あれは妖狐の一種ね。鬼の一族はどんな魔の一族よりも強大な力を持って他の魔を支配してきたけれど、あんたの祖先に退治されて、あんた達一族を守る約束をした。人間とはそこからの付き合いなわけよ。それで、なんで魔が襲ってくるかと言うとね、鬼を束ねる人間を倒せば、魔の世界で一番になれると思っている馬鹿が多くて、どんどん魔が集まってくるわけ。それもあんたの今年の誕生日で終わるはずだったんだけどなあ。本当なら十六を迎えた早坂家直系の男子は当主の座を引き継ぎ、魔を撃退する力を得られるのよ。つまり、私たち鬼の子と交わるということでね。あんたは力を得、永里は精気を貰える。どう、ここまで理解した?」

「それが鬼との約束なわけか。僕たちの家がそういう家だって話なんだな」

「そう。理解しているのね」

 花楓は満足そうに微笑んで、それから立ち上がって晃の首に両手を回す。良い香りが晃の鼻孔をくすぐる。

「このまま私があんたを抱いたって、あんたは鬼の力を得られない。鬼の一族の一番濃い血を受け継ぐ永里の体でないとダメなのよ」

 花楓は一度晃の唇に自分の唇を近づけて微笑んでから、さっと彼から離れて、玄関へ向かう。

「ま、そういうことだから、あんた達、今から宜しくやって頂戴ね」

「お、おい、花楓。お前何しに来たんだ」

 晃が花楓を追って玄関へ向かう。

「様子を見に来たのよ。本当なら、というか、歴代の当主なら、もうとっくに鬼の力を得ている。なのにあんたはまだ晃のままだし、それはそれで安心はするんだけど、一族に取ったら不安要素なわけで、私はお目付け役だから、どうにかしないといけない。それに、今日の永里の戦い方を見ていたら、もう高みの見物なんてしてられなくなったの。あんなの最強の名を欲しいままにしていた永里じゃない。あんたもあんたよ。妻が必死であんたを守っているのに、なんで気が付いてあげないわけ?顔色悪いどころの話じゃないのよ?鬼にとって、精気を得られないのは死と同じこと。あんた、やっと永里に精気をあげられるようになったんだから、この後ばっちり決めなさいよね」

 言いたいことを言って、花楓は出て行った。そういえば、あいつ靴はいてなかったな、と晃はぼんやり思った。

 締まる玄関の扉を見つめながら、背後に永里が立つ気配を感じて振り返る。

「永里、お疲れ様」

 もうちょっと気の利いた事言えないのか、と自分で叱咤しつつ、晃は少し恥ずかし気にしている永里を見て、戸惑う。

「あのさ、僕は君に精気を与えているのか分からないけど、君が死ぬのは見たくない」

 何という言い草だろう、と自分で恥ずかしくなる。はっきり物を言えない不快感が自分の中に残っているが、かといって、このモヤモヤした感じを言葉にはできない。永里は大切に思うが、それは妻としてではない。妻と認めたら、この先どうなっていくのか物凄く不安なのだ。それは恐怖を伴う混乱にも似たどんよりした感情だ。それを口にすることはできない。男だからとか、永里を気遣ってのことではない。本能的な恐怖が、晃の足をすくませている。

 永里は晃の浮かない思いを感じ取って、困った顔になる。その氷のような瞳が泣きそうな色を浮かべているのを晃は見逃さない。

「智を押し付けて悪かった。これからは僕から精気を受け取るといい。って言ったって、どうやるのかわからないけども。僕は僕なりに君が大事だ。けど、それ以上はまだ進めない。それが正直な気持ちなんだ。君にも使命とかノルマがあるのかもしれないけど、そういう批判から僕が守るから、今はそれで満足してくれると有難い」

「はい、旦那様」

 永里は瞳を揺らして返事をした。

「旦那様じゃないだろう?」

「はい、晃さん」

「うん」

 晃は永里の頭をポンと軽く叩くように撫でて、キッチンへ向かった。

「腹減ってない?ご飯にしようよ」

「はい、晃さん」

 ご飯、と聞いて単純に嬉しそうな妻が後ろから付いてくることに、彼は無意識に微笑んでいた。






 

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