花嫁の忠心

七海 露万

第1話 高校生妻の生態について

 しずしずと着物姿の少女があきらの方に進んでくる。しっとり黒い髪は左耳の側で一本にくくられ、その毛先は真っ直ぐに胸元まで落ち、白かと見間違えるほど薄いクリーム色地に肩と裾に無数の白い桜の花びらを優雅に描いた着物に一本の線を残している。

 高校の制服姿の晃は少女の姿を半信半疑で見つめている。これは夢なのだろうかと隣に座る父親を見上げる。父は晃の目線を受け止めて、微笑みながら頷いた。

「晃、君の花嫁は美しいね」

 風光明媚な庭にせせり出した広い座敷の障子はすべて開け放たれ、どういうわけか、世間では既に散ったはずの満開の桜の花びらが風に乗って座敷の中まで入ってくる。庭側の小道をやってくる少女の側には羽織袴姿の叔父が控え、彼の側近の林が、これも和服姿で和傘を少女の上に差していて、時代劇の撮影かと思うような一コマだ。

 一行は庭側から玄関の方へ入って行き、しばらくして襖の向こうに姿を現した。

 少女は低頭して晃の前に座している。そのまま頭を上げることも口を開くこともない。そこだけ時が止まったままのようだ。

「若、本日は嫁取り、誠におめでとうございます」

 叔父がそう言って、握られた両の手を畳に押し付け頭を下げた。父に似ていない叔父は、どこかの二枚目俳優のように見目麗しく、時代劇がかったこういう所作も様になっている。彼はその整った美貌を綻ばせて晃を見つめているが、当の晃は夢の中にいる心地で、叔父が何を言っているのか理解するまでに多少の時間がかかった。

「嫁、取り?」

 晃が呆然と呟くと、叔父は破顔して大きく頷いた。

「これで我が早坂家も安泰ですな。若も男になられた」

「え?」

 晃は叔父と父親とを交互に見て、最後に少女に目を向けた。彼女は低頭しながら、彼の言葉を待っているようだった。

「父さん?」

 晃は少女ではなく、父親に説明を求めた。

「ん?美人で気立てのいい嫁さんで誇らしいな、晃」

「いや、そうじゃなくて、どういうこと?」

「ああ、そうか。まだ話していなかったかな。我が早坂家の男は十六歳になると同時に妻帯を義務付けられている。それが成人の証なのだ。ただ、法律上はまだ夫婦めおとになれないから、形としての結婚はいずれするとして、今日から嫁を我が家に迎え、一緒に暮らすのだ」

 父は朗らかに言って、快活に笑った。

「結婚?」

 晃は目の前にいる少女をまじまじと見つめる。

「君はそれでいいの?」

 晃の問いに、やっと彼女は顔を上げた。回りの空気が華やかになった気が晃にはした。意志の強そうな黒目の大きな瞳。スッと通った鼻先。薄い唇は冷たそうにも見えるが、誘うように赤く妖艶だ。極上の美人だ。

「晃様、私はこの日をどんなに待ちわびたか知れません。幾久しく宜しくお願い申し上げます」

 そう言って、深々と頭を下げる。

 この日、高校から早退させられて連れて行かれた父の実家で、早坂晃は家の取り決めによって嫁を得ることとなった。


 寝ぼけ眼で半身をベッドから起こして、晃は眩しい光が目を刺す理由について考えようとした。昨日は確かにカーテンを閉めて寝た。それがどうして誇らしげに開け放たれているのか。

 ぼんやり隣を見て、ギョッとする。

 セミダブルのベッドの上に寝間着用の白い浴衣を隙もなく着て、正座をして頭を下げる少女がいる。

「おはようございます、旦那様」

 その一言で、晃は現実を思い出してしまった。

「おはよう、永里えいり。眠れた?」

 晃は妻となった少女に声をかけて、一応気遣うように微笑んだ。

「はい、旦那さま。お勤めを果たすことなく寝入りましたことを、深くお詫び申し上げます」

 顔を上げもせずに、彼女は凛とした声を震わせて言った。

「お勤め?」

 晃は頭の上にハテナマークを浮かべて永里が顔を上げるのを待つ。彼女は顔を上げずに、心持ち赤く頬を染めて黙ったままだ。

「まあ、いいけど。ところでさ、やっぱり永里と僕の部屋は分けた方がいいと思うんだ。永里もいきなり僕の所に来て戸惑っているだろう?永里に気を使わせるのも僕は望んでいないから、聞き分けてくれると嬉しいんだけど」

 晃は昨日何度か話した内容について、また口にする。そうすると、永里はキッと顔を上げて、その大きな黒目で晃を見つめる。そして薄い唇から言葉を紡ぎだす。

「旦那様、私は妻です。妻たる者、旦那様のお世話をする為にお側を離れるなど言語道断」

 凄まじい迫力で言われて、晃の顔が引きつる。

「あのさ、その妻って話なんだけど、お願いがあるんだ。今日から同じ学校に通うことになるんだけど、学校では、普通にしてくれるかな。妻とか、旦那様とか、そういうの無しで」

 晃の言葉に対して訝し気に永里が眼差しを険しくし、無言で反対の意志であることを訴えている。

「あ、そうか。君は僕の妻だから僕の命令を聞くんだったよね?」

「はい、旦那様。私はあなたのご命令があれば、例え竜を倒せとと言われましても実現させてみせましょう」

 どこから竜が出てくるんだ?と疑問に思いながらも、あえて口にしない。

「永里は過激だなあ」

 ははは、と笑って、晃は彼女の両手を自分の両手で包んだ。

「永里」

 優しく妻の名を呼んで、晃はその澄んだ瞳を覗き込む。

「僕の妻なら、高校に行っている間は僕との関係を秘密にするんだ。何があっても漏らすなよ?」

 脅迫めいた晃の様相に永里がゴクリと唾を飲む。

「返事は?」

 優しく微笑む晃だが、目が笑っていない。穏やかな晃の裏キャラの過激な一面を垣間見たような気がして、永里が何か言いた気にしたが、晃の目が許さない。

「旦那様、承知いたしました」

 永里はそう答えて、深々と頭を下げた。晃は満足そうに頷いて、彼女の手を放して伸びをした。時計に目をやると、まだ六時である。どうやら早起きしてしまったようだ。

「とりあえず、着替えてご飯食べようか。学校までは一緒に行ってあげるよ。慣れたら自分で行ってね」

 そう言うと、晃はベッドから降りて洗面所へ向かう。後ろに永里も続く。

 顔を洗ってタオルで拭こうと手を伸ばすと、横からさっと永里の手が伸びて、優しく彼の顔を拭く。

「あのさ、自分の事は自分でするから。ね?」

「私は旦那様の妻ですから」

 きっぱり言い切って、永里が濡れた彼の両手もタオルで包み込んだ。

「おやおや、朝から見せつけてくれるね」

 父、和正の声がして、狭い洗面所の入口からこちらを覗き込んでいる。

「父さん、これ、何とかできないわけ?」

 晃は不満も露わに、永里を指さす。

「大旦那様、おはようございます。この様なはしたない格好をお目に入れて申し訳ございません」

 永里が浴衣姿のままなのを気にして言うと、和正が快活に笑った。

「いいよ、家族なんだから。それにしても君たちはお似合いだなあ。永里ちゃん、晃の事はほどほどでいいよ。晃の母親が亡くなってから、晃は自分の事は自分でしてきた。今じゃ、料理の腕もプロ級だ。それに、ここはさとじゃないから、気を抜いても誰も怒らないから安心しなさい」

 最後の和正の言葉に、永里がハッとした顔を見せた。晃も気になって、どういうことかと父親に目で詰め寄る。

「さあて、ご飯ご飯」

 和正はあっはっは、と笑いながら居間の方へ行ってしまった。

「永里、郷では誰かに怒られていたのか」

 晃の問いに、ふるふると首を横に振って永里はうつむいた。郷というのは父、和正の実家がある集落で、古いしきたりがまだまだ色濃く残る場所だ。集落の中でも群を抜いて大きな屋敷を構えている和正の実家は郷に影響力があるらしく、まるで領主のような扱いを受ける。会社勤めの和正も、郷に帰れば殿、もしくはお館様と呼ばれる身分だ。お陰で晃も、若様やら坊ちゃんと呼ばれて、気恥ずかしい思いをしている。

「永里、ここでは君は自由だよ。君の好きなことをして、君のやりたいように進路を選ぶといい」

 これだけかいがいしく世話をしようとするのは、郷の中で永里を見張っている誰かがいるからで、彼女の本心ではないことがわかって、幾分か晃の心が軽くなる。そうでないと、おかしい。

「僕の同級生の中には世話をしてもらう方がいいっていう女の子の方が多いよ。男女平等の世の中だからね。家庭に縛られるなんて真っ平って言う子の方が多いんじゃないかな」

「私は…」

 永里は黙ってしまって、重苦しい沈黙が訪れた。晃は溜息をついて、彼女の肩を励ますように叩いた。

「ま、ここでは君は自由なんだから、楽しむといい」

 晃は自分の部屋に戻って、制服に着替える。そう言えば、と永里の制服があるのか辺りを見回して探すが、どこにもない。女子は紺色のブレザーにグリーンを基調としたチェックのプリーツスカートだ。男子は紺色のブレザーと灰色のズボンで、何の変哲もないデザインになっていて、白いシャツには学校指定のネクタイ着用が校則にあるものの、しなくても取り立てて怒られることはない自由な校風だった。

 ダイニングキッチンに顔を出すと、ちゃんと制服を着ている永里が、サラダをガラスボウルに盛っている和正の横で目玉焼きを焼いている所だった。

「忍者みたいな子だな」

 晃の呟きが聞こえたのか、永里が視線を寄こしてコンロの火を止めたかと思うと、彼の前に立つ。

「旦那様、ネクタイがありませんが?」

 そう言って、手品のように空中から真紅のネクタイを取り出して晃の首に巻こうとするのを、慌てて彼は遮った。

「いいんだよ、しなくても。それより、旦那様って呼ぶのは、無し!いいね?」

「いいえ、それは…」

「これは命令。名前で呼んでよ」

 気楽に言う晃に、永里が戸惑った表情で彼を仰ぎ見る。

「あきらって呼ぶだけじゃん」

「…晃、さま」

「さま、はいらない。はい、もう一回」

「晃…さん」

「さんもいらない」

「大旦那様」

 困ったように永里が和正に助けを求める。

「永里ちゃん、これも修行だと思えばいいよ」

 何の修行だよ、と晃が突っ込む。

「ほら、永里。呼んでみて」

「…晃さん。これが限界です」

 苦し気に言った永里に、晃は大仰に溜息をついた。

「仕方ない。一応、学校では親戚ってことになってるから、敬語は無しだよ。同級生なんだから、もっと肩の力を抜いて付き合って欲しいんだけど」

「そんなに色々押し付けるな。永里ちゃんは慣れない場所に来て、戸惑っているんだ。フォローするのがお前の役目だろう?困らせるな」

 和正に言われて、晃は素直に頷いた。元々強引な方ではないし、何事も穏便に済ませたい質だ。ただ、急な展開に危機感が半端なく、ここで折れては先々が不安になったまでの話で、永里に対しては同情のような気持ちがないわけではない。

「ま、おいおいね…」

 晃は父と妻の作った朝食を平らげて、身支度を終えると、玄関で学校指定のローファーを履く。食卓の片づけをしていた永里の姿がどこにもないが、先に行くわけにはいかない。玄関で家の中の様子を窺っていると、外から「あの」と声がかかる。

「え、いつの間に外に出たの?」

 永里が恥ずかし気に晃を待っている。その麗しい美少女ぶりに少しときめいてしまうが、ここは自制心だ。永里が美人で気立てが良くても、勝手に決められた嫁を認めるわけにはいかないのだ。

「行くか」

 晃が前に立って歩き出すと、永里はコクンと頷いてしずしずと晃の後ろに続いている。

 学校までの道のりはさほど難しいものではない。家を出て、大通りを真っ直ぐ十五分ほど進めば校門が見えてくる。大通りを右手に行けば駅に行けるし、左手に行けば、商店街がある。コンパクトな街だと言っても過言ではない。

「晃、さん」

 後ろから控えめに永里が呼び掛けてくる。

「なに?」

 振り返って晃はドキッとする。永里が短いスカートをひらひらさせて隣へやって来た。ブレザーと白いシャツで隠された胸元の大きな膨らみが盛大に揺れ、晃といえども目線を外すことはできない。というか、浴衣姿まで見ていたのに、あの膨らみに気が付かなかったとは不覚、と晃が思っていると、彼女は伏し目がちに晃の隣で歩幅を合わせて、言うか言うまいか悩んでいる風情で逡巡している。

「何を言いたいか知らないけど、ちゃんと言葉で言ってくれなきゃわかんないんだけど?」

「はい、旦那様、じゃなくて、晃さん。あの、帰りもご一緒させて頂いてよろしいでしょうか」

「ん?帰りか。いいよ。クラスが何組か知らないけど、校門で待ってて」

「はい、ありがとうございます」

 深々とお辞儀してから、永里が微笑んだ。

「礼を言うことのほどでもないけど」

 晃は道すがら、目印になる物や、生活に必要な店の案内をしていく。永里は一度言うと覚えるようで、彼女の頭にこの街の地図が出来上がっていくのが見て取れた。

 いつの間にか校門に着いて、晃は立ち止まった。

「職員室まで付いて行こうか?場所わかんないだろ?」

「いいえ。大旦那様にお聞きしていますので、大丈夫です。お気遣い頂き、ありがとうございます」

 永里はまたお辞儀をして、晃が校舎に消えるのを見送った。

 晃がいつものように始業前に購買部に寄ってオレンジジュースを買ってくると、クラスメイトの鏑木智かぶらぎさとしが側に寄って来た。

「おい、晃。昨日早退してどこ行ってたんだ?誕生日祝いするって言ってたろ?みんな集まってたんだぞ?電話しても繋がらないし、心配して南が警察行くって言いだしてさ。ま、親父さんに呼ばれたって言ってたから、そこまでしなくてもいいだろうってことになったけど」

「ああ、父さんの用事に付いて行かないといけなくて、ね」

 曖昧に言葉を濁して、晃はパックのオレンジジュースをちゅーっと吸った。橙色の液体がストローを登っていく様子を見ていた智が、あ、と呟く。

「そういや、転校生が来るって皆騒いでたけど、晃知ってる?」

 智の言葉に晃はどう答えるか思案する。

「知っている」

 ここは正直に、と晃は短く答えた。

「え、何、知り合い?」

「従妹だ」

 晃は空になったジュースのパックを丁寧に潰してゴミ箱へ入れた。

「美人?」

 智は身を乗り出して聞いてくる。

「まあ、美人かな」

「お前みたいな面食いが美人て言うんだから、期待できるな。まず俺に紹介してくれよ。南には言わなくていいから。こないだ彼女に振られて、もう寂しくて寂しくて」

「お前は手が早いからダメ」

「なんだよ、ケチ」

 智が晃の腕を小突く。

 お互い笑いあって、丁度チャイムが鳴ったので席に着くと、すぐに担任の後藤が入って来た。

「はい、おはようございます」

 後藤は背の低い若い女性だが、その存在感は大きく、生徒に親身になってくれる点と、歯に物を着せぬはすっぱな言い方が可愛い見た目とのギャップを生み出し、校内断トツの人気を生んでいる。

「みんな、期待した目をしてるね?そうです、このクラスに転校生が来ました」

 パチパチと拍手が起きる。

 後藤の呼びかけで、永里が教室の中へ入って来た。その美貌と落ち着き払った所作に、クラスにどよめきが起こる。

「早坂永里さんです。そこの早坂晃君とは従妹なんだよね」

 確認するように後藤が晃を見る。

 え、と晃が後藤に目を向けると、彼女は意味ありげに微笑んだ。

「というわけで、早坂君、彼女のことは宜しくね。しばらく戸惑うこともあるだろうから、君が面倒を見ること」

「え、僕がですか」

 晃が戸惑ったように言うと、智が手を上げる。

「はいはい、先生。俺がばっちり面倒見ます!」

 智は諸手を上げて言うと、アピールするように永里を見た。彼女はクールな視線を彼に向けて、後藤の指示を待っている。

「ふうん、鏑木君ねえ。ま、いいわ。早坂さん、あの背が高くてルックスは良さげだけど知恵のなさそうな男子は鏑木智君と言って、すぐに狼に変身するけど、性根は真面目で優しい男子だから、安心して色々教えてもらうといいわ。他にもう一人早坂さんの御世話を女子に頼みたいんだけど、誰か立候補する?」

 後藤の言葉に智がガクッと肩を落とし、そして目鼻立ちのくっきりした華やかな女子が手を挙げた。

「はい、心ちゃん。適任です。よろしくね」

「はい、先生」

 後藤に心ちゃんと呼ばれた女子生徒は永里に微笑みかける。その時、無遠慮に教室の後ろの扉が開いて、偶然なのか、仕組まれたのか、用務員が晃の席の後ろに机を運んできた。永里は心という女子生徒に会釈して、後藤に指示された席へ移動した。

「え?」

 何か言いたげな晃に、後藤が「名前の順だからね」と声をかける。

 永里は慎ましやかに席に着いた。彼女の服から良い匂いがして、晃は鼻孔をくすぐられる。家にいた時には気が付かなかった。

 晃は背中に感じる熱に、少し戸惑う。彼女がいるから感じる熱気なのか。

 いつもと変わらぬ授業風景に少しの緊張を織り交ぜて、晃の一日が始まった。

 永里は休み時間になると女子や鏑木に囲まれて、質問攻めにされている。ソツなく答える永里にホッとしつつ、晃は騒々しい後ろの席から遠ざかる。校舎の一階の購買部へ向かうと、今度は焼きそばパンとコーヒーを買った。教室には戻らず、中庭の見える渡り廊下に腰掛けて、早い昼食を食べていると、後ろに人が立つ気配がした。振り向くと、制服のチェックのスカートがふわりと揺れて、すらっとした美しい足の根元が見えそうで、晃は思わず覗き込みたくなるのを堪えた。

 肩につく長さの少し茶髪の入った髪の毛がくるくると愛らしく巻いてあり、白い肌にぽってりした赤い唇が可愛らしい女子だ。彼女の大きな瞳は漫画の世界の少女のように星が入っているかのようにキラキラしている。彼女はずいっと晃の方に身を乗り出す。爽やかなコロンの香りが晃に届く。

「晃、渡り廊下で買い食いなんて、どういう風の吹き回し?」

花楓かえで。僕がどこでご飯を食べようと、お前には関係のない話だと思うけど?」

 晃の答えを聞くと、気の強そうな目を細めて、彼女は晃の隣に座った。短いスカートは目の毒だと、晃は空を仰ぐ。

「私は幼稚園の頃からあんたのことを知っているんだからね。隠したって無駄」

「何を隠すって言うんだよ」

 晃は超特急で焼きそばパンとコーヒーを胃袋に収めて、花楓を見る。

「はい、これ」

 花楓はにっこり笑って、薄ピンクの花柄の紙袋を差し出した。

「まだお腹すいているんでしょう?」

「サンキュ」

 晃は遠慮なく受け取ると、中からラップに包まれた花楓お手製のマフィンを取り出してかぶりつく。

「おい、花楓。また腕を上げたんじゃないの?」

「そう?」

 うふふ、と嬉しそうに笑って、彼女は晃を見つめる。

「それで、あの美人の従妹から逃げている理由は?」

「逃げるって大袈裟な言い方だなあ」

 晃は二個目のマフィンのラップをはがしながら、ほう、と溜息をついた。

「逃げているんじゃないの?」

「いいや、逃げていない。けど、詮索されるのは嫌だ。それでここにいる」

「なーんだ。てっきり許嫁か何かかと思ったのに」

 花楓の言葉に、晃がブホッとマフィンを喉に詰まらせる。

「やだ、汚い。大丈夫?」

 花楓は自分のハンカチで晃の口を拭いてやる。彼は慌てて花楓の手を遮った。

「いいよ、そんなこと。ハンカチが汚れるだろ。ってか、彼氏に見られたら誤解されるじゃないか。僕は恨まれるのは御免こうむるよ」

 晃は花楓の差し出した緑茶の飲みかけのペットボトルに口を付ける。

「これくらいでヤキモチ焼かれたら困るわねえ。だって私たち、兄弟みたいに育ったんだから、親密って言われも仕方ないわよね」

 花楓はほほほ、と笑って立ち上がった。

「それじゃ、またね」

「おう、パンありがと」

 パンじゃなくてマフィンよ、と言いながら花楓は自分の教室に向かった。

 晃は花楓のペットボトルを飲み干して、ふと殺気を感じて校舎の入口を見た。

 体が凍っていく。

 永里が扉の陰から凄まじい殺気を送ってきている。なまじクールな感じの美貌だけに、氷の女王なのかというくらいブリザードが吹き荒れている。実際、彼女の足元の地面に霜が立ち、風が小さな竜巻を作ってうごめいている。異様な光景に晃の冷や汗が止まらない。

「え、永里?」

 晃はやっとのことで彼女の名前を呼び、恐る恐る側に寄った。

「どうかした?」

「いいえ、晃さん。何でもありません」

 永里はプイっと顔を背けて足早に行ってしまった。

 なんだかなあ。

 晃の声にならない脱力した呟きは空に溶けて消えていった。

 放課後まで後ろからの刺すような視線にうんざりしながらも、晃は約束通り、帰り道に永里を校門で拾って帰路に就く。やはり、というべきか、智も一緒にいる。いつもは部活で帰りが別々なのに、今日は意気揚々と永里の隣で弾丸トークを繰り広げている。晃は何も言わずに聞いている、ように見えるが、よく見ると耳に押し込んだワイヤレスのイヤホンから微かな音楽が流れている。会話に興味がないらしい。

 家まで着いた時、晃は「あ」と智を見た。

「ん?」

 智は玄関前で晃と永里を見比べた後、げげーっと叫んだ。

「一緒に住んでるわけ?」

「大声出すなよ」

 晃は取り合ず、智もろとも家に押し込んだ。居間に上がって、晃がソファにふんぞり返ると、なんだか今日一日疲れたなあ、という彼の心の内が聞こえたのか、永里が「お茶を入れます」とキッチンへ入っていった。

 彼女が手を洗って茶葉を探しているのを見かねて、晃が戸棚の右、と声をかける。

 晃は智に顔を向け、口を開く。

「今、永里はうちで預かっているんだ。人には言うなよ?」

「ああ、もちろん。約束する」

 変なところで律儀な智が頷いて、永里の入れてくれた紅茶を飲んだ。

「まさか部屋まで一緒ってことないよな?」

 智が何故か小声で尋ねる。

「そんなわけないよ」

 晃はあはは、と乾いた笑みを浮かべる。

「じゃあさ、永里ちゃんのお部屋見せてくんない?」

 智は永里に向き直って、天真爛漫な笑顔で言う。

「ええ、こちらです」

 何の疑問も持たずに、彼女は智を連れて席を立った。

「永里の部屋?」

 晃は、今朝出がけに和正が彼女の為に部屋を用意していたと言ってたと思い出して、奥の客間を思い浮かべた。

 なんだ、部屋はあるんじゃん。

 ホッとしつつ、永里が妻だとバレないか気にもなり、なんだか落ち着かない晃だったが、家に戻った安心感で、少しウトウトしてしまう。

 ガタン、と大きな音がして、晃は体を起こした。

「何なんだ」

 立ち上がって、奥の客間に向かうと、扉は開け放たれていて、中の様子を覗き込んだ晃は腰を抜かすところだった。

 永里に押し倒された智が恍惚の表情で床に寝転んでいる。

「な、何やってんだ」

 晃は永里を見つめて、そして気が付いた。彼女の目が、真紅に染まっている。それはそれは恐ろしく、なのに目が離せないくらい美しい。いつの間にか永里の体が高貴なもののように光輝いている。

「お食事を、させて頂きました」

「…食事?」

 晃は智を見て、それから永里を見た。彼女の目から輝きが収まり、美しい真紅の瞳は、何の変哲もない黒目に変化した。

「永里、説明して欲しい。どういう状況なんだ?智を喰うつもりだったのか。喰うってアレだぞ、あっちの意味の」

 格好の悪い聞き方だと自分で情けなくなりながら、晃はじっと永里を見つめる。彼女は恥ずかしそうに晃から目を背けた。智は相変わらず恍惚とした表情で、この上なく幸せそうだ。

「私は旦那様以外に体を許しません。その点は信じて下さい」

 智に馬乗りになっている状況で言うセリフなのか、と晃は非難めいた目で永里を見る。

「私は人間の皮を被った魔の生き物。人間の精気を吸って生きるのです。本当なら、契約により旦那様の精気を分けて頂くのですが、旦那様は私に心をお許しになっていません。そういう方からは精気を得られないのです。それで、仕方なく、鏑木さんの精気を頂きました。大変美味でございました」

 最後の言葉は余計だろう、と晃は思ったが、永里の嬉しそうな表情に黙っていることにした。しかし、意味不明な説明に晃は納得していない。

「もう一回教えてくれないか。君は人間の皮を被った何だって?」

「魔です。古くは鬼と呼ばれた種族です」

 あっけらかん、と答えた永里に、晃は頭痛を覚える。

「よし、例えば君が鬼だとして、なんで僕の嫁になったんだ?」

「契約です。旦那様の家系は代々我らを妻として娶り、精気を与える。その代わり、我らは家と領地を守り、繁栄を約束すると、そういう契約なのです」

「精気、ねえ」

 惚けた表情の智は天国にいる心地なのだろうか。よだれまで垂らしている。永里がやっと智の上から離れ、晃の前に立つ。

「旦那様はまだ私を信用されていない。しばらく精気はこの方に頂きます。その代わりに、こうして幸せな夢を見せているのです」

 チラッと智を見やり、永里は切なそうに晃を見つめる。本当なら、愛しい主人から精気を与えられるはずなのに。そう言われている気がして、何故か晃の胸が痛む。

「かと言って、所かまわず精気を貰うってわけにはいかないだろう?彼女として付き合っているならわかるけど」

「彼女…」

 永里が首を傾げる。

「そうだ。智の彼女になればいい」

「それは、どういう…」

「命令。智の彼女になるんだ。それで精気を貰うといい。でも、これ、命に危険はないんだろうな?」

「それはもちろん。本気で吸っているわけではありませんので、命を奪う行為にはなりません。それに、この方、生命力に溢れていらっしゃるので、少々多めに頂いても大丈夫かと」

「そうか。良かった」

 良かったのかどうか、と永里が複雑そうな表情で晃を見ている。

「で、智はいつ正気に戻るんだ?」

「精気を吸っている間はこうなるんですが、吸い終われば正気に戻るはずなのです。ここまでになるのは、言いにくいのですが、私と鏑木さんの相性が良かったのかもしれません」

「…へえ」

 胸に突き刺さる棘を感じながら、晃は相槌を打ち、そして気になっていたことを聞こうと口を開く。

「もう一つ、答えてくれ。精気を吸う時は、唇から吸うのか」

「唇でなくともかまいませんが、どこか体を繋げることになります。昔の魔は離れていても精気が奪えたそうですが、人間の世界に交じった我々に、そんな芸当はできません。人間の慣習に則ると唇が一番適しているかと存じます」

「そうか」

 キスをするのか。

 永里を拒否しておきながら、智と永里がキスを交わすという絵が頭に浮かぶとモヤモヤとした苛立ちが浮かぶ。晃はその気持ちに大きな蓋をかぶせてしまって平気な顔をした。

「旦那様、私は鏑木さんと唇は合わせません」

 永里が晃の腕を取って、訴える。

「え?」

「おでこを、合わせます。目を見つめて意識を朦朧とさせ、それから額を近づけてそこから精気を頂きます。唇は、旦那様との大事な日に、取っておきます」

 一心に見つめてくる永里から目を離せずに、晃は言葉に詰まった。

「んー」

 うめき声をあげて、智が起き上がってくる。

「あれ、俺どうしたかな」

 智は晃を見て、それから永里を認めると、頬を赤らめた。

「永里ちゃん、その、君ってすごく綺麗だ」

 なんだよ、そのセリフ。

 晃は苦笑して、永里と智を交互に見た。

 俄かに信じがたい話だが、晃のところへ嫁に来た少女は鬼で、人間の精気を必要とするらしい。なんとなく人間離れしていると感じていた女子高校生妻の生態が、ほんの少しわかった気がした晃だった。






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