第8話 見つけ出して、それからきみを

 黴溜まりは、大規模な汚染地帯で起こる、もっとも最悪の事態の一つだ。黴が何かを核に凝集し、それが大きくなりすぎて自分を支えきれず、雪崩を起こす。サーチライトが徐々に露わにしたのは、通り全体を埋め尽くすほどの黴の雪崩だった。これが起こったのなら、避ける場所などなかっただろう。あっという間に飲み込まれたはずだ。この厚みが、ビーコンの信号を阻害しているのだ。

 ヴィークルのナビゲーション・モニターのマップを、最大限の精度に上げる。事態の急迫はいやがおうにもわかった。どちらも無言でヴィークルの高度を下げ、地上に近づく。一分一秒がアズの命に関わるかもしれない。焦って黴の層に突っ込んで行きたくなるのを、奥歯を噛んで耐える。ここで無謀な行動に走っても、アズの生存率は上がらない。途切れがちなビーコンの信号を追って、できる限り精密に場所を特定する必要がある。

 黴溜まりに降り立とうとしても、沼に沈むのと同じだ。ヴィークルで、溜りの表面を舐めるように走らなければならない。焦っては、だめだ。

「もうこの辺吹き飛ばしてしまいましょう今すぐ」

「言ったそばから……」

「耐えるとか耐えないとかじゃありません、待っていられますかこんな!」

「分かる、分かるけど!」

 黴の厚みは、周囲の建物と較べて二メートル、ないし二メートル五十。圧死にしろ窒息死にしろ、十分にありうる質量だ。

 はやく、と思うのは当たり前だ。場所の特定に時間をかけるのは間違いかもしれない。でも、むやみにあたりを吹き飛ばして、見つける前にこちらの体力が切れたら? 見当違いの場所に突破をかけて、その影響でさらにアズを埋めてしまったら?

「……ストーカーは、粘りが命……」

「ケイも何言ってるんですの!?」

「アズが死ぬはずないし! いいのやるんだよ!」

 完全にお互い取り乱しながら、震えを押さえてビーコンの信号を追う。微かに反応を返す場所へ近づき、行き過ぎて戻り、軌道修正をする。

「! ここ!!」

 捉えた、という感覚は思いがけず確かだった。その場所に差し掛かった途端、いきなりモニターのマップに強い赤い光が点灯する。その信号の受け取り方が、真上だった。

「分かりました」

 シラネが滞空モードに切り替えてハンドルから手を離し、ヴィークルの上に立つ。腰の太刀を抜き放つ動作は、静かになめらかだった。

「わたしが切り開きます。このわたしの一擊にて、どんな業より鋭く深く地上まで届かせてみせますわ。チャンスは一瞬。わたしが開いた亀裂にケイ、あなたがそのヴィークルで突入してください。そこにアズマの姿があれば引き上げ、いないと見切った時点で再浮上を。わたしの体力的に、挑戦は三回」

「了解」

 ケイはその場で軽く柔軟をする。腕の筋肉をきちんと伸ばして、腰をひねる。アズの体ををつかむ、引き上げる、捕まえた体を固定して、ヴィークルの角度を上げて、再浮上。ひと通りイメージを作る。イメージを体でなぞる。

「いいよ」

「では。カウント・ファイヴ」

 ファイヴ、と同時にケイはカウントをはじめる。フォー、スリー、トゥー、ワン。

「ゼロ」

 シラネの白刃が闇を切り裂く、その清冽に目を奪われている時間はなかった。切り裂かれる重たい、粘性の高い黴の塊。ケイはその中に、アクセルをめいいっぱいに踏んで突っ込んだ。肩先が黴に濡れる、次に腕が、顔が黴に覆われる。大丈夫、と信じる。黴が体にに入り込んでくることはない。どんなかたちか分からなくても、ケイにはケイの力が、愛と勇気がある。あるんだ。

 最後まで目を見開いて、見ろ。

「……!」

 黴の底、黒く霞むアスファルトまで見届けた、と思った瞬間に、ケイはヴィークルの向きを跳ね上げる。切り裂かれた隙間はまだ開いている、その先にシラネのヴィークルの底と、空と、星が見える。

 ヴィークルが黴溜まりを出た、と思った瞬間に、シラネの切り裂いた黒い断面がどっと崩れ落ちる。ぎりぎりで後輪がその崩落に巻き込まれて、ヴィークルが空中姿勢制御を失った。高度を上げながらもスピンがかかり、ケイを振り落とそうとする。

「ケイ!」

「い、い、いや、いや平気!」

 ケイが必死にハンドルにしがみついている間に、ヴィークルは徐々に姿勢制御を取り戻す。なんとか水平に戻った後も、ケイはしばらくハンドルを両腕で抱え込んだまま動けなかった。

「うっわー……、思ったより、ぜんぜん、ギリギリだこれ」

「ですわね……交代します?」

「いや大丈夫ってかあたしシラネの代わりできない。でもちょっと待って、ちょっとだけ」

 ケイはぎゅっと目をつむって考える。今のタイミングでは、そこにアズがいても、拾って上昇していては間に合わない。

 もっと早く、速く、迷いなく突っ込んでいくことが、必要だ。

「あたし、上あがる」

 言いおいて、ケイはさらにヴィークルの高度を上げる。数メートル上がってから、機首を下に向ければ、シラネは意図を察したようだった。

「次は先程の右一メートルを斬ります。それでもだめなら次は左一メートル」

「いいよ。さっきのカウントでお願い」

「いきます、カウント・ファイブ」

 フォー、スリー、トゥー、のタイミングでケイはアクセルを踏み込む。まだ切り開かれていない黴の表面に向かって、全開のアクセルで突っ込む。一瞬だけ、ゼロカウントとシラネの白い光が先んじた。前髪の先が斬られて散る、けれど黴は寸前でケイに道を開ける。

 途中でやはり黴まみれになった。黒い汚れの中の底を目指し、何もないことを確認した瞬間、また機首を無理やり上へ軌道修正する。先程より加速度がついて、ハンドルが思わぬ方向に持っていかれそうになった。全体重をかけて、上方を向かせる。

 今度は、亀裂が閉じる三秒前には、崩れ落ちそうな隙間を抜けだした、ぜっ、ぜっ、とケイは息を乱して空気を取り込む。消耗が激しい。何回もできることではない。

「どうでしたの?」

「見つからない……」

 答えて、額を濡らす汗をぐいと拭いながら、ケイは気づく。シラネの顔色も悪い。そうだこちらも、何回もできることではないのだ。

「次が最後」

 ケイが同じ高度にスタンバイすると、すかさずシラネがカウントをはじめる。ファイヴ、フォー。スリー、の終わった直後にケイはアクセルを踏んだ。

 ――あっ。

 踏み込み早い、と思って、動揺のままハンドルを迷わせた。ゼロカウントでシラネが白刃を振り下ろしながら、それに気づいて顔を蒼白にする。その光に切り裂かれる寸前だった。斜めに倒したハンドルのおかげで一瞬タイミングが遅れ、白刃が先行する。けれど、突入角度が斜めすぎて、途中からシラネが切り開いた隙間を通りぬけ、黴の壁に突っ込んだ。

 ずぶり、と本当の粘質の塊に全身が浸される。その感触と匂いと暗さに、ケイはパニックを起こした。振り払いたくて、思わずハンドルから手を放す。上下の感覚がわからなくなる。冷たい。気持ち悪い。

 それでもケイは、目を閉じなかった。

「ケイ!」

 シラネの悲鳴に近い声が届いて、はっと理性が戻る。ケイは遠のきかけたハンドルを、ぐいと手を伸ばして掴みなおす。声のしたほうが上。ケイが戻る方向は、上だ。

 掻き分けるように、ヴィークルごと黴溜まりの表面に出る。ホヴァーさせて、全身からぼたぼたと黒い粘液が滴るのを、ぶるりと体を震わせて払った。

「ケイ……」

 声の方に顔を上げて、呆然とした顔でシラネがこちらを見つめているのに気づく。シラネの顔色は紙のように真っ白で、青ざめた唇が細かく震えていた。

「わ、わたし、今回ばかりはだめかと思いましたわ」

「ごめんシラネ」

 驚かせてごめん、に上乗せして、ケイは続ける。

「もう一回だけ、挑戦させて。見つけた」

 今の黴の中、ケイは目を開け続けていた。そうして見たのだ。黴の底に、あたたかく光る一点の光。人ひとりを覆えるほどのドーム。

 あんなに深い闇の中に光があるのなら、それはアズ以外に何があるだろう?

「アズを見つけた。助けに行きたいんだ」




 これが本当に最後です、と言われて、ケイは一度目を瞑る。

 高度は二度繰り返したのと同じ高さ。タイミングを頭でおさらいする。ファイブ。フォー、スリー、トゥー、(ここ!)。

 突っ込んだら、この角度でハンドルは固定。腕を伸ばす。アズを抱き寄せる、引き上げる、機首を上に向ける。

(――あれ、)

 何度かイメージを繰り返して、ケイはかすかな違和感を覚えて瞬く。

(ほんとうに、そんな風になるかな?)

(そこにいるのが、他のだれでもない、アズで?)

 違うかな、と思って違うパターンを一度練習してみて、ちょっと笑った。これはひどい。でもありうる。

「おまたせ、シラネ。始めて」

「はい」

 眼下で、太刀を掲げたシラネが、何度か呼吸を整える。整え損ねて一度咳き込んで、やり直す。限界が近いのはわかっていた。けれどシラネは負担について何も言わない。背筋は真っ直ぐに伸びて、声はいつでも凛と張られる。

「カウント・ファイヴ」

 フォー、スリー、トゥー、

(アズ)

 えっなにそれ、とケイは自分で笑い出す。今までで一番いいタイミングでアクセルが踏めた。ケイの目の前で、シラネの白い光が道を開いてゆく。シラネの愛と勇気、シラネの神様、ついででいいから守ってほしい。

 ブレーキは踏まない。暗闇の先に、きっとアズが守ってきた、暖かな光の繭が見える。繭に入ったら機首を跳ね上げる、そのつもりで足元を用意する。

 その暖かな光は、突入した途端、ケイの体にまとわりつく黴さえも拭い取った。熱くはない。暖かなお湯のようだ。ケイは片手だけハンドルの向きをホールドし、もう一方の腕を伸ばす。腕の先には、丸い目をして驚いている、ケイがこの世で一番大切な。

(アズ)

 ケイの伸ばした腕に、アズが応える。腕に守るように抱えていた、小さな子どもをケイに差し出す。色あせた花柄のワンピースが可愛い、アズによって新品みたいにつやつやと再生された、桃色の頬をした子ども。

 やっぱりだ、とケイは笑い出す。アズだから、これは、仕方のないことだ。

 ケイはその子どもを受け取って、ヴィークルの足場に確かに引っ掛ける。機首を上に向けた。足で思い切り蹴り飛ばす。子どもを乗せて、ヴィークルは鉄砲玉のように上へと飛んでゆく。ケイを空中に投げ出して。

「〜〜…っ、ダッ」

 できるだけ受け身を取って、地面にぶつかる衝撃を和らげる。

 アスファルトをごろごろと転がって、止まった先にちょうど膝があった。目を上げると、膝立ちのアズが、何が起こったのかまだよく分かってない様子で、こちらをのぞき込んでいる。

「アズ、あのね」

 幸い身体に、深刻に痛めたところはないようだ。それでもあちこち打ち身は感じつつ、無理やり身体を起こして、アズと目の高さを揃える。

 もう一回、今度は急がずに手を伸ばして、アズの頬をふにっとつまむ。柔らかいけど肉は薄い。肌は健康で、黴化の兆候はない。アズの右肩から右手の爪先にかけてだけだった。張りを失い、ぶよぶよと暗紫色をして、死んでいる。それがあの少女から引き受けた黴のすべてのようだ。

 黴が女の子にだけ、格段に繁殖しにくいのってなんでだろう? と思う。J・M・Oに聞けば分かるのだろうか。なんとなく、納得のいく説明はないように思う。

 ケイはアズの頬をつまんだまま言い聞かせる。

「アズの行動って基本、最低だし、迷惑だ」

「うん……」

「でも他にあの女の子を浄化できる人間がいなかったのはほんとだし」

「うん、だよね……?」

「は・ん・せ・い・す・る」

「い、いひゃい」

「ばーか」

 ケイは頬から手を離す。けっこう強くつねったから、赤い跡になっていた。親指で跡を撫でる。さわっていると気持ちが良くて、指を離すのが惜しくなる。

 手のひらを開けると、するりと自然にアズが頬を寄せてきた。体温が高い、そしてしっとりと汗の気配がした。小さく名を呼ぶと、伏せがちな目を上げてケイを見る。それでケイにはわかった。

 腕を上げて、と言ったら素直にあげるので、ケイはアズのTシャツを胸の上までめくる。かわいい胸、と思う。それと同時に、かわいそうなアズ、と思った。

 右腕の付け根から右肩、胸のあたりまで、黴は青黒く肌の色を変えていた。そうしてそれはインクが広がるように、じわりじわりと広がってゆく。胸のあたりに面積を広げ、刻一刻、心臓の位置に忍びよる。

 ケイを見上げるアズの目は、焦点を失ってあいまいだ。半ば意識を飛ばしているのだった。アズとケイを包みこみ、黴の圧迫から守る光の繭。それはアズのゆっくりとした呼吸と同期している。アズが息を吸えば膨らみ、吐けばすこし縮まる。

 ケイはアズの髪を撫で、耳元に口を寄せて囁いた。

「アズ、この外側の光、消して」

「いや……」

 ぼんやりと、けれどはっきりとアズが首を横に振る。

「黴が広がるよ、アズ。心臓にとどく。自分に集中して」

「やだ」

 ぎゅっと身体をこわばらせて、もう一度アズが拒否を繰り返す。そうして、動く方の左腕を、ケイの背に回した。アズのほうが身体が小さくて、ケイはしがみつかれたような気分になる。けれどアズは反対のことしか言わない。

「まもるよ、だいじょうぶ」

「あたしを?」

「うん、まもる……やさしい、よわい、いつかとおくへいくもの、ぜんぶ……」

 アズの言葉は舌足らずで、今にも意識を手放してしまいそうだ。それでもアズはどうしてか微笑んでいて、幸福そうにもみえた。

「ねぇ、だから、だれも泣かないで……」

(あぁ、あたし、シラネに約束したな)

 ケイはふと冷静な気持ちで思う。アズが正気を失っていて、自分で黴の進行を抑えられないのなら、その場で迷いなく黴を浄化すること。心臓に届かせないこと、失われる部分をできるだけ少なくすること。

(それが、あたしの勇気かな?)

 愛かもしれない。

 ケイはアズの胸を触る。変色した部分を、指で少し押しながら撫でる。押し返す弾力があって、ケイはほっとした。まだ皮膚からそれほど深くまで黴化していない。肺にも達してない。たぶん全部奪うのは、右腕まるごとくらいで済むだろう。

 指先に光を集める。あとで死ぬほど後悔するだろうな、と思う。けれどケイは、たとえば自分とアズの細胞を入れ替えようとは思わなかった。できるといま信じられないものを、試している時間はない。

(ごめんね)

 それでもさすがに感傷があって、浄化の前に謝罪の気持ちをこめて、アズのくちびるに唇をおしあてる。もちろん言い訳だ。たんに目の前にアズがいたので我慢できなかった。

 柔らかくて甘くて気持ちい。せめて浄化の間はキスをしていよう、と思う。

 なのに。

「痛っ」

 ふわふわと浮いていたしゃぼん玉が、パチンと弾かれたように、ふいにはっきりとアズの声が形を得た。アズはキスの距離からぐいと身を引いて、ちょっと恨みがましそうに眉根を寄せて、唇を触る。

「ヒリヒリする」

 それから、ゆっくりと目に認識の光を取りもどす。真っ黒くてしずかな、獣の目だ。最後に不思議そうに首を傾げた。

「……ケイ?」

 なんかこんな童話あった、と思いながら、ケイは大きく思い切りうなずく。王子様気取りだった。嬉しさでめまいがした。意識があるならアズは黴の進行を止められる。

「うん、おはよう、アズ。ケイだよ」

 アズを守りに来たんだ。



 黴のヘドロの一番底に、あたたかい光の繭に守られて、ケイとアズは座り込んでいる。アズが怖がらないように、ケイはアズを片腕で抱き込んで自分の方だけを向かせた。ケイ自身は顔を上げて、光の繭が、じょじょに小さく範囲をせばめてゆくのを見守る。

 さっきは立っていられた繭の高さが、もう半分もない。見ている先で、黒いへどろの計り知れない重さが迫ってくる。ゆっくりと。

「や、やっぱりだめ」

 ケイの腕の中のアズの身体はがちがちに強ばっている。体温も低くて、血の気も引いていた。

「だめ、ケイが窒息したら……」

「大丈夫だから。アズは自分に集中して。黴の進行をとめて、心臓に近づけないで」

「だって」

「アズ、いい子だから」

 こわばりをなだめたくて、ケイはアズの背中をくりかえし穏やかに撫でる。首筋にアズの吐息が触れる。

「アズ、ねぇアズ」

 できるだけ耳元で、ケイは囁く。

 LOVE&BRAVENESS。アズの細い腕で持てるただ二つのもの。

「あたしの光が、みえる?」

「……みえる」

「わかる? これはみんなを守る光だ。アズも、アズが守りたいものも全部」

「全部? ケイも?」

「……うん、あたしも」

 あれっ今あたし死んでもいいな、とケイはうっかり思いかけた。アズが可愛すぎる。でも死んでる場合じゃない、なぜならアズが悲しむからだ。なんて完全な論理。

 そうじゃなくて、とケイは自分に方向修正をかける。

「ねぇこれは弱くて、失われるもの?」

 答えを聞く前に、ケイはアズの瞼にキスを落とす。アズの瞼がそっと震えて、外側の光がまた少し小さくなる。ケイの指はアズの胸の、黴と皮膚の境目あたりをなんどもたどる、そのたびにアズの体温が上がり、神経がそこに集中して、黴の進行が止まる。

「ねぇ、アズ。愛と勇気が、きえることなんてないよ」

「うん……」

 アズの肩から力がすうっと抜けた。すんなりしたうなじから、Tシャツに覆われた背中までがきれいなカーブを描いて、猫みたいだった。猫みたいに暖かくて、湿っている。アズがケイの胸に鼻先をすりよせて、とても小さな声で囁く。

「ずっときえないで、いっしょにいてね」

 ぐっとこみ上げるものがあって、ケイはぎゅっと腕に力を入れてしまう。アズが苦しげに息をついた。それさえも愛しかった。

「アズ、外側の光、解いて」

 言って、アズを抱いていない方の手を、黴のへどろの天井に向かって伸ばす。支えるように。

 アズが、おそるおそる、ほそく長く息を吐く。ゆっくりと、へどろが迫ってくる。呑み込まれる、というのがぴったりのおそろしい質量。

 けれどケイの手にふれた場所から、黴の塊はすぐに水に変わる。水は腕を伝って降りて、さらに次の黴が落ちてきて手に触れ、温度のある水になる。自分の光、暖かな鼓動と血の巡り、願い。黴はやっぱり恐ろしくて、けれど最後まで、自分の手がそれをやり遂げることは信じていた。腕の中にアズがいる。やさしい、かわいい、あたたかいアズ。

 ああ、ラヴ&ブレイヴネス。この胸にある生きる歓び。

 あたしはあんたたちを抱きしめて手放さない。いつでも、いつまでも。

 そうしてアズをひとりにはしないんだ。




「空を見るのがすきだった、って、忘れてた」

 辺り一帯を水浸しにして、黴の塊に大穴を開け、その底でケイとアズは夜空を見る。自分たちもずぶ濡れで、大雨に降られた後みたいだった。

 ヴィークルの星空だ。シラネが呼んだのだろう。夜空を、ケイたちの探索目的に飛び回るヴィークルの群れが占めていた。ヘッドライトと探査ライトを光らせて、まるでたくさんの星のようだ。

「すごくきれいだ」

 そう言って上ばかり見ているアズの目にも、いくつものヴィークルの光が写り込んでいる。

「小さい頃、誰かとこんなふうに、空を見上げてた気がする……」

 ケイは、黙ってアズのほうに手を伸ばして、手をつなぐ。濡れていて、あたたかかった。

 ケイとアズがもっと小娘だったあのころ、あの河原で、アズはたしかにケイと一緒にいた。アズが覚えていなくてもいい、と思う。あのとき一緒にいたのなら、それでいい。

 ケイたちに気づいたヴィークルが一機、まっすぐに白いライトを当てながら、こちらへ降りてくる。きっとシラネだろう、となぜか思った。

 白いライトが、近づくにつれ二人の視界を埋める。ヴィークルの排気が生暖かく吹き付ける。

 ケイとアズは、ずっと手をつないだまま、その迎えを待ち受けた。

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