第7話 追跡

 アズがいた部屋のすぐ隣の部屋に、そのベッドはあった。

「確かにそのお姉さんに、会いました」

 ベッドの上に身を起こして、その子どもは頷く。ここの蛍光灯は古びて暗いままで、ときどきジジ……と音を立てて翳る。

 J・M・Oと、薔薇子教官と、シラネとケイ。周りを囲む大人たちを見回す子どもの様子は不安げだ。

「妹の話をしました。黴が目を塞ぐ前に、妹が同じように黴に呑まれていくのをみたから。オレが助かったのなら、妹も助かったんじゃないかって思って」

 子どもは右手を黄色い蛍光灯に翳す。その指の先は、一本だけ包帯に巻かれている。その指が本来よりも短いことは、包帯では隠せない。

「お姉さんは、オレのこの指、短いのは、自分が失敗したせいだって泣いて、手を握って」

 子どもが指を握りこみ、それだけを頼りにするように口元に押し当てる。

「必ず妹を助けるって、約束してくれた」

「泣いてた?」

 呆然とケイは繰り返す。

(アズ、その指は、あたしが、勇気が足らなくて)

「うん」

 子どもはバツが悪そうに頷いた。

「すごく泣いてたよ」




「嗚呼、どーうーしーてーそれでっ! アズは一言もぼくに相談なく助けに行ったりするんだ! 愚かじゃないか、そして無謀だ、絶望的だ!」

 子どもの病室から廊下に出た途端、J・M・Oは天を仰いで大げさな身振りで嘆く。どこかの時点で体制を整えなおしたらしく、もういつもの嫌味なばかりに隙のない白スーツ姿だ。

「あなたに相談したら絶対に行かせてもらえないからでしょう」

 足早に廊下を進みながら、薔薇子教官がさらりと答える。

「あなたが子ども一人の命よりアズ=アズマの安全を優先するのは、これまでの行動から分かりきってます」

「だって薔薇子さん……ぼくは間違ってないでしょう。アズ=アズマはこの世界にただひとつの人類の希望だ。その存在はクリーナーズの象徴、ぼくの娘たちの灯台だ。アズを失えば二度と現場に出られなくなる娘が何人いると思う。その辺の子どもひとり? 比べようもないね!」

「そんなんだからアズ=アズマに信用されないんですよ」

「いいや薔薇子さん、それは違うよ」

 J・M・Oはいきなり薔薇子教官の手を取り、訴え始める。どちらも早足に歩くのを止めない、変な光景だ。

「アズはぼくを信用している。ぼくの正義、ぼくの信義、人類を黴の脅威から守り切る志がアズに疑われたことはない。ただぼくは、心からアズに嫌われているだけだ!」

「それで黙って出て行かれるなら同じです」

「Oh……」

 方向を変えて階段を降りるその二人の後を、シラネとケイはただ追いかける。

 J・M・Oがこほん、と咳払いをして、自分に不利な話を打ち切った。

「見解の相違は置いて、現実に目を向けよう。ここに至った以上、アズの保護は必定。今すぐに」

「そして秘密裏に」

 薔薇子教官が言い添える間に、J・M・Oが階段下、外への扉へ手をかけて押し開く。その先はヴィークルの駐機場。夜の月明かりに、白い機体がずらりと並ぶ。

「君たちに行ってもらわねばならない。#012シラネ=マコト、#153ケイ=リー=ルゥ。アズ=アズマの実態の秘匿のため、サポートは出せない。だがアズを無事に連れ戻してもらわねばならない」

「はい、#012シラネ=マコト、参ります」

 シラネの返答は迷いない。立ちすくんでいるケイに、J・M・Oの半分カウンター・グラス越しの視線が向けられる。

「ケイ=リー=ルゥ? 君が三桁ナンバーである以上、専用ヴィークルがないことは知っている。どれでも選んで乗ってゆきたまえ」

「……」

 ケイは、子どもの話を聞いてから、ずっと考えていた。

 欠けた子どもの指先。それを手にとって泣いたアズ。

(アズ、大好き。愛してる)

 七年間、ケイにあったのはその気持だけだ。それだけの気持ちで、どうにか現場に出られるくらいには愛と勇気を振り絞ったし、足らないぶんは体術で埋めようとした。アズを守る力が欲しくて、なんでもする、って思っていた。

 でもそれだけじゃ、何もできなかった。

 アズだけ守りたいんじゃ、足りないんだ。アズが泣くんだ。

 ケイは小さく息を吸い込む。一瞬、薔薇子教官の方を伺いそうになって、押し止めてJ・M・Oをまっすぐに見返す。

「アズとアズが助けに向かった女の子、どっちも救助対象にしていいのなら」

「ん、ん〜〜、ん」

 J・M・Oが軽く舌を鳴らしながら、素早く自分のカウンター・グラスのつるに触れた。細かく光量調節バーを弄る。

 そのあとで、深く長く重い溜息が落とされる。

「あぁ、ぼくの娘たちは、揃いもそろって父親の言うことを聞きやしない……」

「あと、娘って呼ぶの、不快だからやめてください」

「そっちのお願いは聞けないな――うん、ケイ、分かった」

 J・M・Oはひどく渋い顔をして、うなずく。

「ほどほどに頼むよ」

 ケイはヴィークルの群れに視線を走らせる。どれも整備はきちんとされている。手近なものを選んで乗った。

「#153、ケイ=リィ=ルゥ、行きます」

 先に、シラネ機がエンジンをかけて垂直に浮かび上がる。追って、ケイも夜空に上った。




 出来るだけ高くに上がって、汚染地帯の中心部、B―5エリア付近へとヴィークルをすすめる。月が明るくて、静かだ。

 スピーカーが、ガサガサと音を立ててから、前をゆくシラネ機からの通信を伝えてくる。

『ケイ、下、見えます?』

「みえるよ」

 眼下はすべて汚染地帯だ。周囲の街明かりに囲まれて、そこだけ墨を流したように暗い。立ち昇る生暖かい黴の臭気に、自然と息を殺す。

 けれど、見下ろす黴の厚い層のところどころに、白く丸く開けた地面がが見えた。日中に、クリーナーズの魔女たちが黴を除去した部分だ。除去した人間によって、大きな丸と、小さな丸が不規則に点在する。様々な大きさのその穴は、白く月の光を反射して、時に繋がりながら、黒い黴に点々と続いてゆく。

 それは、闇の中に灯る、地上の星座のようにも見える。

 前に同じものを見た。あれは、アズが黴の地面に降り立った時の足あとだった。

「すごくきれいだ」

『わたしたちの愛と、勇気です。この光景がわたしの神。わたしのみなもと、LOVE&BRAVENESS』

 どんな顔して言ってんのかな、と、ケイは前方の、シラネの白いコートの背中を見る。いつものように澄ました顔のような気がした。だんだんと汚染の中心に近づくに従って、周囲に黴の胞子が濃くなってゆく。月明かりが遮られるほどに、シラネのまとう白い光がはっきりと見えてくる。

「シラネは、はじめからそうなんだね」

『なんですの?』

「アズのことは、だから好きなんだ」

 ヴィークルの通信機は、しばらくシラネの沈黙だけを伝えてくる。

 ようやくケイにも、分かってきたことがある。

(そうなんだね? アズ)

 この星座を、ずっと胸に抱いていること。

 それが必要なんだ。

 やがて、ヴィークルから聞こえてきたのは、シラネの、全然別の話題だった。だけれど、より差し迫った話だ。

『ケイ、現状についてのわたしの予想を述べても?』

「教えて。あたしたぶん何も分かってない」

『今、アズ=アズマはかなり危険な状態です。体力を削られていますし、入れ替えたばかりの細胞を体になじませるのに手一杯で、十全な力が出せるとは思えない。汚染の中心部に潜り、場所のわからない子どもを見つけ出して、戻ってくるだけの力はないでしょう。早期の発見とサポートが急務です』

「うん」

 うすうす予想していたことだ。ケイは軽く唇を舐めて気を落ち着かせる。

『翻って、アズ=アズマの所在を発見するのはそれほど困難ではないとも思います。アズマも、救援が来ることは期待しているはずです。専用の赤いヴィークルに乗って行ったことが裏付けです。汚染核の近く、センサー圏内まで近づけばアズマ機のビーコン信号を拾えるでしょう』

「うん」

 楽観要素を聞かされて、ケイは軽く息をつく。けれどシラネの把握はより厳しかった。

『問題は、発見時にまだアズ=アズマが意識を保っているか、生命活動を保っているか』

「……そんなに?」

『そんなに深刻かという意味ですか? それならばイエスです。アズ=アズマのキャパシティは昼間の段階で使い切られたと言っていい。二度も生体を浄化したことは、今までにありません。それでも、アズマは見つけたその瞬間に子どもを浄化するでしょう。それがわたしたちのアズ=アズマですもの』

「だねー……」

『ですからケイ=リィ=ルゥ、あなたに問います』

 ふいに、スピーカー越しのシラネの声が改まる。

『もしアズ=アズマに意識がなく、自身の体の黴の進行を抑えられない場合――その場で、一秒の遅滞も迷いもなく浄化できますか』

 ケイは想像する。ケイの浄化は奪うことだ。アズの腕一本を、あるいは体半分を、水に変えて奪う。黴が心臓に達すれば命が失われる。それを避けるために、体の部位をごっそりと、禍根が残らない部位まで奪う。一秒も迷わずに。

「浄化しないで、黴化させたまま本部に戻れば、J・M・Oがアズの体をもとに戻してくれるんだよね?」

『そうです、心臓にさえ達しなければ。けれど進行が止められないならいずれ黴は心臓に達する、アズの命は失われます。そのぎりぎりまで待っては、アズから失われるものが多すぎます。その見切りができますか』

「で」

『できると言ってください』

 できる、できない。反射的にどちらを答えようとしたのかは、ケイ自身にもよく分からない。どちらにせよ、シラネの横暴な懇願に遮られた。

『できるはずです、できないとは言わせません。そうでないと、わたしがアズマを浄化することになる』

 それって、とケイは言いかけて口をつぐむ。シラネが言葉を続けたからだ。

『わたしの炎に灼かれるのでは、アズマがかわいそうですわ』

 シラネの光は炎。高温の、容赦のない、一切を焼きつくす光だ。どれくらい痛いのかな、とケイは想像してみる。想像がつかないくらいには痛そうだった。

「シラネ、ちょっと顔見せて」

 加速度をつけて、ケイは自機をシラネ機の横に並べる。シラネは、いつもの通りのそっけなく取り澄ました、きれいな顔をしていた。けれどケイを見るときすこし目を細めて、わずかだけ非難がましい顔になる。

「なんですの」

 声がもうマイク越しでなく伝わる。黴の胞子混じりの夜の空気が、すこし風で流れてゆく。

「……顔が見たかっただけ」

「もう脳に黴が回りましたの?」

「いいよ」

 タイミングを間違えた。シラネが存外無邪気に、きょとんとした顔をする。ケイは、手を伸ばしてその肩を抱いてあげたいと思った。その気持ちのまま伝えた。

「できるよ、あたしがやるね?」

 痛いのはかわいそうだ。アズもそれからシラネも。

 シラネがまた少し目を細める。眩しそうだな、と思う。

「ケイ、あなたの、LOVE&BRAVENESS」

「ん?」

「闇の中にみえる――あなたを、信じます」

「……うん」

 信じるなんて大げさだな、と思う。言い回しがシラネっぽい。

 でも、信じられてもかまわない。

「ケイ、あなた、気づいてますの? あなたの」

 シラネが言いさしたところで、はっと息を呑んでヴィークルのモニターを覗きこんだ。

「今、アズマ機からの信号が」

 えっ、とケイも手元のモニターを確かめる。何も映っていない。

 どこに、と問おうとした瞬間、赤い点が数度、モニターの上に瞬いた。その点滅は不規則で、間延びしてまた沈黙する。それでも諦められずに注視していると、また同じ所が何回か赤い光を灯した。

「受信が安定しない……でも、距離は近い。すぐそこです」

 ヴィークルを慎重に動かして、シラネができるだけ現在位置の緑の点と、赤の点を重ねようとする。ここだ、という点でサーチライトを灯した。ヴィークルの底から、真っ直ぐに人工の光が地上へ降りる。クリーナーズのヴィークルが備えるサーチライトは、光量もバッテリーも標準仕様の数倍にカスタマイズされたものだ。

 地の底に光が届いて、そこにあるものの姿を照らす。強い光量を保つために、照らす範囲はかなり絞ってある。シラネ機とケイのヴィークル、二つのライトを彷徨わせて、ようやく事態を把握する。

 アズの姿は見えない。けれど、アズマ機からの信号が弱い訳は分かった。

 シラネが一度つばを飲み込んでから、その事態を言葉にする。

「黴溜まり……」

 そこにあるのは厚く積み重なった、黒い雪崩の痕跡。重たく黒く通りを覆いつくす、圧倒的な黴の集積だった。

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