第6話 見失う

 ブーツが石ころを蹴飛ばして、躓いた後ケイは二三歩たたらを踏んで、持ちこたえた。

 全力疾走も限界だ。そこが野営地の、ひと目の届かないテント裏であることを確かめて、ケイはしゃがみこむ。心臓がすごい勢いで打っていた。指の先までどくどくと血の流れを感じる。息が苦しい。こめかみを、汗が伝って落ちてゆく。

 砂利の隙間から雑草が茂るそこで、しばらくじっとしていても、顔に上った熱は全然引かなかった。うん、さっき自分は、衝動的すぎた。

(やばい。あたし変態だ)

 嫌われたか、少なくとも完全に引かれたとは思う。後悔はないとはとても言えない。でも何度思い返しても、あそこで我慢できる気がまったくしない。なるほどこれが変態だ。

 ケイの闖入に驚いていた夏の虫たちが、だんだんと慣れて雑草の間から鳴き始める。ケイはゆっくりと深呼吸する。落ち着こう。まだ汗は引かないで、どんどん背中を濡らしてゆく。それをわずかに夜風が冷やした。

 ケイが隠れているテントの表側を、隊員たちが笑いながら歩きすぎる。

「シラネさまがこのへん走り回ってらっしゃるって、聞いた? 誰か探してるらしいよ」

「えー誰を? 代わりに見つけたらお礼とか言ってもらえるかなー」

「でもすっごい怒ってて、もう半分くらい抜刀しかけてるって」

「やだ、そんなシラネさまもかっこいい」

 うわーお、と思わず声を出しそうになって、手で口をふさぐ。こっちも結構深刻だ。

 もう少し人の少ない場所に移動しよう、とケイはそろそろと中腰でその場を離れる。

 ふと、さっきまであんなに落ち込んでたのにね、と思い出して、苦笑する。

 最低だった。自分の臆病で、できたかもしれないことをしなかった。命を救うという名分で、自分の安全を優先して子どもを損なった。

 あの無力を忘れてない。

 でも、それでもアズがこの名前を呼んだ瞬間に、強く胸に感じた幸福が確かすぎた。

(目が眩んだ、んだ)

 また顔が火照ってくるのを、振り払おうとケイは頭をふる。

 ああでも、アズ、可愛かった。

 ケイ、と口にしたときのちょっと神妙な、生真面目な呼び方。短い襟足から伸びる、ガーゼを貼った細いうなじ。笑い方がうまくない感じの、固い口元。変わってないにも程がある。でも七年、目を離した隙に、自主的にあんなにボロボロだ。

(優しい、可愛い、それですごく、かわいそうだ)

 アズのためなら何だってしてあげられる気がする。馬鹿な、勝手な気持ちだけど、本物だ。正真正銘の。

(この気持)

 人気のない、ひらけた場所に出て歩みを止める。立ち止まってから、その場所が性懲りもなく、アズの病室の真下だと気づく。

 夜に明るい、二階の窓。カーテンが閉められて中の様子は分からない。ぼんやりと人影はひとつ見えて、それだけでぎゅっと胸がせつなくなった。

 腕を伸ばして、自分の手のひらをその窓からの明かりに透かしてみる。

(この気持ちは、あたしの力かなぁ?)

 考えても分からない。でも、LOVE&BRAVENESS。これが愛かと問われれば、必ず愛だと答えるだろう。そして愛と勇気はあたしたちの力だ。

(アズ)

 声に出さずに呼びかけたら、ケイの手のひらの先で、からり、と二階の窓が開いた。なんか今超能力まで使えてるのかな、と思う。窓からあたりを見回すアズは、先ほどの簡易着から、Tシャツとチノパンに着替えていた。

「不審者じゃないよ」

 先に声をかけると、アズが目を瞬かせて、こちらを見下ろす。意外なことに、ちょっと恨みがましそうな表情で、言われた。

「さっき何か、辛いもの、食べてた?」

「うん、カレー。なんで?」

「……ちょっと、ヒリヒリした」

 唇が、と、言いにくそうにして、アズが顔を伏せてしまう。暗くて逆光だけれど、首まで赤くなってるのはわかった。

 ケイは思わず、口元をだらしなく緩める。あぁ可愛いなぁ、アズのためなら死んでもいいな(迷惑だろうけどな)。

 口の中まで黴に侵されて、それから再生したんだな。

「ねぇ痛い? あの、細胞を入れ替えるやつ」

「……ケイは、他の人が聞かないことばっかり聞く」

「真剣だから」

 あたし余裕ない、とケイは自覚する。アズに信じて欲しい。頼って欲しい。

 好きだって伝えて、アズの大切な人になりたいな。

「じゃあ別のことから聞く。アズは今朝なに食べた?」

「今朝?」

 問いが面白かったのか、ふ、アズが口元を緩める。

「あんパンと牛乳」

「カレーパンと牛乳の次に最強の組み合わせっすね。じゃあねー、一番好きな食べ物は?」

「……あんパン?」

「なんなのもしかしてあんパン主食なの。じゃあ二番目は?」

「食パン……」

「もう回答にパン禁止で! じゃあ、趣味は? お休みのとき何してる?」

「……静養……なかなか定着しない細胞くっつけたり、繋がりのわるい神経調整したり。あと訓練」

「ツッコみ待ちだと言って欲しい」

「あとビデオグラム。『トムとジェリー』と『サザエさん』、いいよ」

「うわー意外な趣味だった。いいよそれ、可愛い」

「そう?」

 アズがちょっと下を向いて、照れたようにはにかむ。ケイは心臓を撃ち抜かれて死ぬかと思った。可愛い。

「え、えっと、じゃあさ、好きな人いる?」

「……うん……」

 真面目な顔をして、アズが首を傾げる。

「生きてる人、みんな……」

「だよねー……」

「苦しいくらい好き」

「アズも変な子なんだよね、知ってた……」

 知ってたの? とアズが不思議そうな顔をする。ケイはそれについては何も言わないことにした。

「苦しい?」

「けっこう……いつでもみんなは、助けられない」

「痛い?」

「痛い。黴化するときは神経も駄目になるからいいんだけど、再生は、さすがに」

 アズがちら、と部屋の奥を振り返る。ハイ、います、と誰かに向けて返事した。

「何? 誰かいる?」

「あ……見周りの人が確認にきた。でもこれで、あと一時間は誰も来ない」

 だからじゃあね、とアズが窓辺から身を引こうとする。何が『だから』なんだろう、と訝しむより、惜しい気持ちが先立った。

「助けなくてもいいよ」

 かわいそうだな、と思う。痛いおもいなんてひとつもして欲しくない。アズを好きだからあたりまえだ、とケイは思う。

「そんなにしなくても、いいよ。あたしはアズの味方でいるよ」

 ――けれどアズは、そのとき、はっきりと傷ついた顔をした。固い、小さな声が返ってくる。

「でも、わたしは、守りたい」

 おやすみ、と早口でアズが告げる。すっと窓辺からアズの、白い腕と、小さな頭が見えなくなる。

 窓が静かに閉まって、部屋の明かりが落ちるのを、ケイはじっとそこに立って、見上げていた。窓の先に、動く気配はもうない。窓がもう一度開く気配はない。足元から、リー…と虫の声がわきあがる、生温い夜の静寂。

 失敗した、と思う。

 アズの近くに行くのに、失敗した。

 窓を見上げたまま、ぐるぐるとひどい気持ちで考え続ける。アズの隣に行きたい。でも、アズを傷つけた。

(あれは、言っちゃだめだった。でもほんとうにそう思ったんだ。百万人よりアズが大事だって)

 分からない。

 それの何が悪いんだろう、アズ。




 夜の空気を切って、鋭い回し蹴りが背後から襲ってきたのは、その一時間後ぐらいだった。ケイが野営地の人気のない一角に落ち着いて、今日はここで夜を明かそうかと考え始めたところだ。

「うわっ」

 ギリギリで避けて、前にたたらを踏む。振り返りざまに腕で頭をガードしたら、もろにそこに拳が当たった。逆らわずに後ろにちょっと飛ばされて、衝撃を殺す。

 続けざまに打撃が来るのを、身を躱して避けて、そのまま無理やり間合いをとった。

 反撃する気はない。この場所で、ケイにこれだけのキレの攻撃ができる相手なんて、たった一人だけだ。隊の体術訓練で、互角に組手ができるのがお互いだけで、もう飽きるくらいこの打撃と蹴りは受けてきた。

「ハイ、シラネ……」

 闇の中に白いコートと白い顔が浮かび上がる。向かい合うシラネの目は、完全に据わって、鬼気迫るものがあった。

「大人しく白状すれば刀は抜かずに済ませますわ」

「せ、先刻の狼藉については弁解の余地もなくあの若気の至りってゆうか熱情の暴走っていうか誠にすみませんでした土下座くらいで許してまじで……」

「とぼけるのならば斬ります」

 すらりと、シラネが腰から太刀を抜き放つ。抜かないって言ってから早いよ! と戦慄したものの、シラネの次の言葉でケイも顔色を変えた。

「アズ=アズマはどこです?」

「なにそれ」

「アズ=アズマが部屋にいません。アズマのヴィークルもない。そして最後の見回りのころに、あなたがアズマの部屋の周辺にいたと、目撃証言がありました」

「なにそれ……ぜんぜん違う、何やってんのシラネ、見当違いだ!」

 頭が追いつかないまま、焦りに駆られて大声を出す。シラネは切れ長の目を見事に据わらせて、白刃の切っ先をひたりとケイの喉元に突きつけた。

「誓えますか?」

「誓うちかう、何にでも」

「あなたのLOVE&BRAVENESSに?」

「誓う、あたしの、愛と、勇気――」

 言いかけて、ケイは、それは何のことだと思う。子どもの爪先ほども救えない、自分を守るのに精一杯な、こんなに好きだって思ってるアズにも何も届かない、これが何だって?

 あの後すぐにアズはいなくなったはずだ。多分自主的に。だって見張りを気にしてた。Tシャツに着替えてた。

(あの時アズはもう何かを決めてたのに、それをあたしに言わなかったんだ)

(あたしも何一つ、気づかなかった)

 愛と勇気が力なら、こんなに無力なこれは、この気持は何だ。

 なんの役にも立たない。

 情けなくて、ちょっと涙が出た。ぐすぐすしながら、ケイは白刃の前に両手をホールドアップする。

「分かんない、でも、あたし、違う……」

「もぅ……ぐっだぐだですわね、ケイ=リー=ルゥ」

 はぁ、とため息を落として、シラネが刀を引き、鞘に収める。

「いいでしょう。愛と勇気を言葉にもできない人間に、アズ=アズマがそそのかされるとも思えませんわ」

「シラネ冷たい……」

「えぇいめんどくさいですわね! そんなことよりさっさと探しますわよ、なんにせよ最後に話したのはあなたですわ、何か心当たりはありませんの!?」

 だん、と癇症に足を踏み鳴らして、シラネが声を尖らせる。そこに、やわらかい、落ち着いた女性の声が割り込んだ。

「喧嘩しないの、ふたりとも」

 その方向をみやって、シラネは居住まいを正し、ケイは少し肩から力を抜く。

「畑教官」

「薔薇子せんせい」

「ケイ、シラネ、こちらにいらっしゃい」

 有事には後方で隊長補佐を務める指導教官は、仮本部の建物を示してそっと手招いた。

「アズ=アズマの行く先が分かりました」

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