第5話 再会

 とりあえず、カレーを、食べる。

 屋台と違って、現場の野営地には缶詰しか詰まれてないけれど、その中でおすすめって言ったらタイカレーだ。本場タイで製造される嘘偽りなしのタイ・カレー。スパイシーにして栄養たっぷり、ライスに合うのはもちろん、乾パンで食べてもなんとかなる奇跡の食材、野営地向き。

 一日に、クリーナーズが現場に入るのは四時間が上限という規則がある。クリーナーズが経験上導き出した、それ以上続けると危ないという数字だから、誰も文句は言わない。その時間内に片付けられない大規模汚染の時は、現場の周囲を厳重封鎖して、野営地を張って警戒しながら明日を待つ。

 夕方の、日の落ちかけたビルの間、テントを張って夕餉の匂いがする空間が、ケイは好きだ。食事のプレートを持って行き来する、たくさんの班員たちの足音と話し声。何種類もの食べ物の匂い。暮れてゆく空と、灯り始める野営のガスランプ。どんな最悪の気分の時も、片隅で一人でカレーを食べていると、少し落ち着いてくる。でなければ昂ってくる。落ち着くのも昂ぶるのも無理でも、まだ持ちこたえられる、と思う。

 いくら自己嫌悪が痛くて痛くて、食べてる間に、また涙が出てきて鼻みずっぽくなっても、そうとう辛いこのカレーみたいな顔してティッシュで拭ける。

 いくらケイがこの世でゴミみたいな臆病者でもだ。

 ちーん、と鼻をかんむその横に、こつりとブーツの踵を鳴らして白いコート姿が立った。

「ケイ、あなた、そのカレー以外のもの食べてることありますの」

「食べるよ。レッドカレーもキーマも」

 これはグリーン、とわざわざ注釈を入れてやると、シラネは嘆かわしげに首を横に振った。

「やっぱり、脳までカレーで出来ている方とは言葉が通じないのかしら……」

「うっせ」

「食べてしまって、おいでなさいな」

 シラネが、身をかがめて、髪がカレーにつかないように黒髪を押さえて、耳元で囁く。他に聞こえないように、潜めた声で。

「アズ=アズマが目を覚ましましたわ」





 古びた空きビルの一階が臨時の司令室、そのさらに上の階に、アズの運び込まれた部屋はあった。

 横壁に亀裂の入った、リノリウム張りの階段を上がる。手すりは木製、段ごとに張られた滑り止めがいちいちブーツの靴底に引っかかる。このあたりになると、さりげなく見張りが立っていて普通の隊員では近づけない。班員番号#012、シラネがいるからの顔パスだ。

 #002から#010までが研究職で後方支援にいることを考えると、シラネはアズ以下、三本の指に入る実力を認められていることになる。

 そしてその序列を認め、定めるのは、この隊で唯一の男だ。

 シラネが近づいたドアが、内側から開かれた。出てきた男にすかさずシラネが呼びかける。

「J・M・O、どうですの?」

 J・M・Oは、ケイの見たことのない格好と様子をしていた。カウンター・グラスを装着して目元が見えないのは同じだが、いつもの白スーツの上に、着古した白衣を羽織って、全身が何とはなしにくたびれている。赤いネクタイも緩めてぶら下げているだけだ。

「あらかたの細胞は取り替えた。馴染むまで二、三日だろう。少しぼくは失礼するよ。今朝の汚染発生から休みなしでね……腹がへった……」

 いつものハイテンションを遠くへ捨てて、最高司令官はふらふらと階下へとおりてゆく。薔薇子さーん、と階下に呼びかける声もどこか芯が抜けていた。

 シラネについて入った部屋は、簡易の医務室のようだった。蛍光灯がいやに明るいのは、このために新しく電球を変えたのかもしれない。外に面した窓はぴったりと閉められて、外のぬるい空気や隊員たちのざわめきは遠ざけられている。

 折りたたみの医療用ベッドが二つ、手前にアズ。周囲には、これも移動式の医療器具ワゴン一式と、散乱するいくつもの空の密封ビニールパック。点滴ラックにはオレンジ色の中身の液体パックが吊り下げられ、透明な管で、アズの腕に刺された針につながっている。

 ベッドの上のアズは、幾つかの枕を背もたれにして、体半分を起こしていた。うとうとと斜めになりかけている。目を覚ました、とシラネは言っていたけれど、まだ半分以上は夢の中らしかった。

 ケイはまず、アズの体に黴の黒ずみが見えないことに、ほっと息をつく。それから、入院患者のような簡易着のあちこちから覗く包帯の痛々しさに、うすく唇を噛んだ。細い喉元のあたり、外に出た手の指先、薄い胸のあたり。包帯と、ガーゼを貼って押さえたその下に、まだ濡れて光る、柔らかい、外気に触れるには傷つきやすい皮膚組織がわずかに見える。

「アズマのために培養した組織を、アズマの光がつないで血肉にする……らしいですわ」

 J・M・Oの言うことなので、とシラネが首を振る。ケイにももちろん分からなかった。J・M・Oがすごい化学者だという話は聞くけれど、実際どれくらいのものかケイにはさっぱりだ。なんとなく胡散臭い印象はある。

「アズマ」

 シラネがアズの近くに寄って、優しく、壊れ物にするように呼びかける。アズがすっと目を開く。不思議と、それまでの眠りの気配をまるで引きずらない目覚めだった。

 アズはシラネをひたと見て、それから、一言ずつを確かめるように発音する。

「#012。シラネ=マコト」

「はい、そうですわ」

「うん――」

 ほっと、アズが口元を緩める。

「よかった。どんどん、わすれてゆくから、わたしは」

「あなたのせいではありませんわ」

「うん。細胞が、無理やり、入れ替わるから」

 どうしても、と言い訳するように語る声は、すこしかすれている。きっと喉の内側まで黴に侵され、そして新しい細胞に入れ替わったのだ。

「だから――もし、隊で会ったことが、あったら、ごめん」

 ふとアズの声が、まっすぐにケイに届く。アズが、いつの間にか正面を向いてケイを見ていた。

 頭上の明るすぎる蛍光灯が、ジジ、と音を立てる。ああ、この目を知っている、とケイは思う。言葉のない、賢い、死んでゆく犬や鳥に似ている静けさ。

 アズの目だ。

「あなたの名前は?」

「ケイ。ケイ=リー=ルゥ」

 実際のところケイは、覚悟はしていたのだ。七年。それがアズにとってどれくらいの時間なのか分からない。けれど、アズはケイを忘れているかもしれないと、どこかで思っていた。

 でもまさか、こんな理由で忘れられているなんて思わなかったけれど。

 ケイは、こみ上げるものをぐっと抑えこんで口を開く。

「それで、そっちの名前は?」

 もしアズがケイの名前を聞くのなら、ケイは問い返さなければならない。それがどんなに嘘でも、虚勢でもだ。

 ぱちり、とアズが目を瞬かせる。その様子を見るだけで、ケイは少し溜飲が下がった。見ている間に、アズの驚きは、ゆっくりと安心した表情にほどけてゆく。

「アズ。アズ=アズマ」

「アズ」

「うん、そう」

 名乗るのはとても久しぶりな気がする、とアズが小さく付け加える。

「それも忘れたのかもしれないけど、でも」

 ありがとう、と言ってから、アズの声がケイの名を呼ぶ。自分の名前よりもずっと丁寧に。

「ケイ」

 七年ぶりのその響きが、ケイの限界だった。

 体の奥から震えて体温が上がって、思わず体が動く。距離を詰めたくて、膝立ちでベッドに乗り上げて、頬に触れたくて、指を伸ばして、傷つけたくなくて、無事な皮膚のある目の下あたりを、親指でなぞる。

 追っかけて追っかけて五年間、考え続けた想いの丈だ。置いていかれた恨み言がないとは言わないが却下。まとめたら三文一行。でもずっとアズにこれを言いたくて、ケイはここまで来たのだ。

「アズ、大好き。愛してる。ケイはいつでも、アズの味方だからね」

 盲目の信頼なんてしない。守られるんじゃない。アズを好きで、守りたいんだ。

 ついでにそこに、アズのかわいい唇があったので、軽く歯で噛んでから、内側を舐めておく。濡れていてなめらかで甘かった。

 そして、その一部始終を目撃したシラネが我に返り、腰の太刀に手を掛ける直前に、ケイは脱兎のごとくその場を逃げ出した。

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