第4話 アズのやり方

 赤いヴィークルは、B―5エリア上空に滞空していた。

 A―8エリアから、B―8、B―7、B―6と移動して、途中の様子にケイは圧倒される。B―7からがアズ=アズマの担当だと、説明されなくてもわかった。黴の暗さに閉ざされた空間で、アズ=アズマが処理した痕跡だけが、真円の形に「現実の色」を取り戻していくつも続いている。乾いたアスファルトと、無人の平和な店先と、露出した土。まるで何も起こらなかったみたいだ。そしてその円はゆうに、アーケードとそれを囲むビルをカバーできる。

 ケイとシラネがあれだけの区画に手間取っている間に、二エリアを大雑把に浄化しきったのだ。

 B―5エリアに入ると、まだ黴の瘴気は濃く残っていた。

 赤いヴィークルの上には、当たり前だけれどアズがいる。

 ――黒髪のショートカットで細っこい体つきの、それなりに背が伸びた、Tシャツとサファリパンツ姿の、ただの少女だ。あまり甘さのない横顔をして、小さな頭の顎のラインが固い。

 アズだ、と思ったら急に顔が熱くなって、心臓がドキドキしはじめた。

 アズだ。

 とりあえずケイは、ぎゅっとシラネの背中に額を押し付ける。

「ケイ?」

「いい、いいから、あたし今空気だから」

「空気というより不審者ですわ……?」

 シラネがそばにヴィークルを寄せると、停止を待たずにアズは口を開いた。

「あれを」

 アズの指が、地上を指さす。まだ未浄化の地域。まっ黒く粘ついた地面の一部が、確かに動いて見える。

「助けに行く」

「分かりまし――」

「たのみます」

 シラネの言葉を最後まで聞かずに、アズがヴィークルの高度を落とす。シラネがその後を追った。



 濃い黴だ。空気も、胞子というより黴そのものの密度に近い。それをアズのまとう光はやすやすと切り裂き、後に続くシラネのヴィークルに道を開く。

 十分に高度を下げてから、アズが地面に降り立つ。着地をしただけで、ブーツの触れたところから、丸く音もなく黴が消滅した。アスファルトが覗く。次の一歩も同じことが起こった。

 黒くべったりと塗り込められた地面に、アズの歩いた跡だけ、「通常」が戻ってくる。闇に星が灯るように、星座をひとつずつ結ぶように、現実の色が繋がってゆく。

 なんだかそれは、むやみに胸がぎゅっとなる光景だ。

「すごくきれいだ」

「わたしたちの、アズ=アズマですもの……」

 小さくささやき合うあいだに、アズの歩みが止まった。

 アズがその場にしゃがみ込み、手を伸ばす。そこには、黴の塊があった。確かに子どもくらいの大きさの塊だ。けれどすでに目鼻を失い、辛うじて頭部と手足の区別が付く程度。

「あれ、まだ間に合うの」

「心臓が残っていれば、アズマなら。でも、たやすくはありませんわ」

 アズの手がその黒い塊の頭部に触れて、ぐいと拭う。ごっそりと黴が落ちて、皮膚が見えた。頬、耳、顎から首。黴化して変色し、ぶよぶよと弾力を失った皮膚だ。アズはためらいなく、外側についた黴を無造作にはたき落として、子どもひとり分の輪郭を取り戻させてゆく。

 子どもの、紫と黒の色をした瞼が、うっすらと開いた。まだ黴に侵されきってはいない、どろりと青黒い眼球をのぞかせる。唇が小さく動いた。

「……ご、けな……」

「うごきたい?」

 アズが、表情もないまま問いかける。それから、自分の言葉に疑問を覚えたように軽く首を傾げて、もう一度問いなおす。

「生きていたい?」

「…………」

 黴に侵されてゆく子どもは、かすかに、だが確実にうなずいた。

「いいよ」

 アズが子どもの片手をとって、両手で包み込む。アズの両手は、内側に明かりがあるかのようにあたたかく光る。

 ヴィークルを空中にホヴァーさせたまま、その光景を見下ろして、シラネがきゅっと赤い唇を噛んだ。やはりこうなりますのね、と小さく呟く。

 ケイがその意味を問う前に、眼下のアズが、やさしい穏やかな声で告げた。アズが口を開いてから、初めて抑揚のある声だった。

「この細胞を食べればいい」

 変化は、すぐに起こった。

 アズの、内側に火を灯したような手が、その光を失う。失うだけでなく、突然に、黒紫の死んだ皮膚に変わった。黴の侵入にしても早すぎる。普通なら数時間かけて進行するような黴化だ。

 しかもその皮膚の死変は、アズの手から腕、首から顎へとどんどん広がってゆく。服の下もそうなのだろう、闇にやさしい灯火のようだった、アズの光がどんどん失われてゆく。

「アズ……ッ」

 思わず、ヴィークルの後部座席から身を乗り出しかける。それをシラネに片手で制された。

「アズ=アズマの邪魔をしてはなりません。一歩間違えるとどちらも共倒れになりますわ」

 子どもをご覧なさい、と言われてようやく、ケイは、もう一つの変化に気づく。鏡のようだった。アズの、子どもと触れ合っった手から先が変色してゆく分だけ、子どもの肌色が健常に戻ってゆく。生まれたての、柔らかそうな、傷一つない細胞が、子どもの死滅した細胞と入れ替わってゆく。

 腐った子どもが、生きた子どもになってゆく。

「治してる、の」

「やり方はわかりません。アズ=アズマにしかできない」

「わからない?」

 ケイは、指先にそわそわしたものを感じて、拳を握ってみる。やり方は、見たままのように思える。入れ替えるイメージだ、自分の細胞と、相手の黴を。自分の細胞ひとつずつに光が満ちていて、黴を受け入れることへの恐れを退けたなら、きっと出来る。あぁ、でも、それは。

「怖い。あたしにはできない」

 アズはすごい、と口にしたら、右目から涙が落ちた。

 アズのLOVE&BRAVENESS。ケイは初めて理解する。誰もがアズを遠くから見つけ、アズを特別だという理由。

 いったいどれだけの量の愛と勇気があれば、こんなことができるんだろう。

「あれ、アズのほうは治るの」

「治らないのならこんなことをさせません。けれど」

 シラネの声はずっと固い。どんな顔をして、とアズからシラネに視線を移して、ケイはすこし虚を突かれる。

 シラネもなぜか、泣きそうにぐすっとすすりあげて、悔しげに赤い唇を噛んでいた。美少女顔が台無しだ。

「代償はありますし、平気なわけはありあせん」

「#012。シラネ=マコト」

 地上から、アズの呼びかけが届いた。見上げてくるその顔の、口元あたりまでが青黒く色を変えている。

「ごめん、ちょっと」

「はい」

 シラネはすぐに、呼ばれた方にヴィークルの高度を下げる。アズは、少しだけ申し訳なさそうに、短く用件を告げた。

「ここが限界」

 直後、アズの瞼がすっと降りて、糸が切れたようにその場に倒れ込む。シラネが息を呑んで腕を伸ばし、その体を抱きとめた。

「ケイ、子どものほうを保護! また黴に侵されてしまわないうちに」

「わかった」

 慌ててヴィークルを降り、子どもを抱える。迷ってからアズの赤いヴィークルのほうに乗った。シラネがアズを、白いコートで包み隠すように抱え、自分のヴィークルに戻ったからだ。

「一旦離脱します」

「うん」

「他言無用に」

「……うん」

 暗い胞子の中を、シラネが走行し始める。本部とマイクごしに状況を報告する、その後を追いながら、ケイは腕の中の子どもを抱きなおした。

 あたたかい、生まれたてのような細胞の塊だ。どこも損なわれずに、血の気のある頬をして、ゆっくりと呼吸する。意識はない。

 アズがやったことだ、と思うとそれだけで泣きそうだ。

 爪までまだ柔らかい。

(あ、でも)

 すっと血の気が引いた。

 子どもの完全な、生き物としての体。その左手の、薬指だけがおかしかった。爪と第一関節分だけ、黒ずんで張りがない。

「シラネ。この子の指、黴が残ってる」

「――――そうですか」

 ちらりとこちらに視線をやって、シラネが固い横顔をまた見せる。

「浄化を、広がらないうちに」

「うん」

 ヴィークルを、シラネ機の後についてゆくようオートモードに設定して、ケイは子どもの手を開かせる。ほんとうに、指の先だけの、関節一つぶんの黴だ。ケイも指先の血の巡りを意識して、小さな光を集める。指同士を近づける。

 アズなら、と思う。

 アズならこの光と黴を交換して、小さな子どものこの指を、健康で何一つ損なわれないものに戻してあげられる。

 震えながらさらに指を近づける。光、光の宿る自分の指先。守る皮膜としてのそれを、開いて、自分の内側に黴を受け入れることができれば、この子どもの指はきっと救える。救えるはずだ。

(でも、それで、自分が黴に侵されたら? 取り返しがつかなかったら?)

 心臓が強く打っているのがわかる。つばが上手く飲み込めなくて、喉が音を立てる。冷たい汗で体温が下がる。

 だめだ。

 こわい。

 ――できない。

「急いで。黴が広がります」

 シラネが、こちらを見ないまま厳しい声をかけるのは、優しさだ。シラネは優しい。性格悪いしちょっとあぶないやつだけど。

 じわりとわずかに、すぐには分からないほど、子どもの指先の変色範囲が広がった。ケイは、息を呑んで自分の指をそれに触れさせる。指を包んで守る光、それと黴の部分を混ぜ合わせて――きれいな、水にする。

 子どもの爪と指先が、水になって、流れる。

「……っ」

 ぐ、とこみ上げるものを唇を噛んで耐えた。感情はまだ余って、自分の腿を拳で強く殴りつけて、無理やり声を出す。

「浄化、完了っ」

 はい、とだけシラネが答えた。

 その声を聞いたらだめだった。ケイは、うぅ、とうなる。うなるだけのはずが、ひくっと喉が鳴った。そのまま、声を上げて泣きだしても、シラネは振り返らないでいてくれる。ケイは大声で泣きながら、何度も何度も、ひとつの言葉を胸に繰り返した。

 あぁ、あたしは、臆病者だ。

 あたしはアズみたいには、なれないんだ。

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