第3話 訓練、実戦
『LOVE&BRAVENESS。愛と勇気。お伽話じゃないの、それだけがわたしたちを黴の汚染から守る。ほかのどんな技術も防護服も役には立たない』
ケイは十五の規定年齢になって、クリーナーズに志願した。志願者は条件、十五歳以上の、健康状態の良好な女子および女子に準ずるものであることを満たしていれば、誰でも採用される。訓練に入ってから現場に出されるまで、ケイは平均の倍以上の時間がかかった。いわゆる劣等生だ。体術の成績なら群を抜いて、でもクリーナーズの仕事をするにはそれだけでは足りない。
それでも指導教官は、飽きもせず倦みもせず、辛抱強くケイの訓練に付き合った。
部屋の中で明かりを消して、向い合って額をくっつけ、両手とも指を絡めてつなぎ合う。教官の手は温かく、指はすんなりと長い。いつもすこし、乳製品のようなやわらかい匂いがした。
『目を閉じて......ゆっくりと息をして。そう、わたしと呼吸をあわせて――あなたの目は暗闇を見ている。あなたの内側にある暗闇。それがあなたの恐れ』
『何も怖くなんかないよ』
『恐れはあるの。あなたの中にも、わたしの中にも。認めることでコントロールが始まる。手を伸ばして暗闇に触って。やさしく、形を知って』
ヨガとかそういった、宗教ぽいやつに似ている。はじめに恐怖を認める。恐怖の暗闇を退ける勇気を知って、その奥に光るものにたどり着く。何度も間違えて、払ったと思った恐れはすぐに戻ってきて、進めなくて、苛立たしくて、もう嫌だと泣いて、少し休憩して、腫れて熱っぽいまぶたをまたつむってやり直す。
『あなたの奥に、だれも触れないように光るものがあるでしょう? それが、あなたの愛と勇気。あなたを守る力』
初めてその光を見つけたとき、ケイは今までとまるで違う気持ちで泣いた。小さくて見えにくい、けれどそれはケイの光だった。
『せんせい、薔薇子せんせい、あたし、生きてる』
『ええ、わたしにも、見えるわ』
そっと目を開くと、部屋の暗がりの中で教官もあたたかく光っていた。光は彼女の指先からまつげの先まで溢れてこぼれるようだ。くらべて、自分は皮膚の上に、一枚ぶんの光の膜が張っている程度の薄さだ。はずかしい。
けれど教官は、口元にえくぼを作って頷いた。
『それがあなたの力、あなただけの愛と勇気。じぶんの光を見つけた人間にしか、ひとの光を目にすることが出来ないの』
とてもきれいね、とほめられて、ケイはひどく照れた。
『でも一番怖いのは、光を抱いて黴の汚染の中に踏み込んで、意識と集中を失い、その光を保てなくなること。あなたを守っていた光はほころびて、そこから黴が入ってくる。だからあなたはこれから、勇気を持ち続けること、揺るがぬことを覚えなくてはならないの。そしてそれから、汚れを拭うことを覚えるの』
『やること、たくさんだね? 先生』
『あなたを守るためだもの』
そう言ってケイの髪を撫でる教官は、おとなの女の人だった。
十数年前、黴の大繁殖によって琵琶湖以西がすべて失われ、最悪の繁殖パニックとなった『大汚染』。教官はそこで家族を失くし、クリーナーズの設立当初から隊員として参加した。何百という単位で現場の洗浄に出たという。
『仲間たちが黴に飲み込まれてゆく様子を、何度も見たわ』
『せんせいはもう現場に出ないの?』
『ええ、出ない。出ません』
教官は、ため息をつくように笑って首を横に振る。
『どうして?』
『愛と勇気、この二つは別々のものだけど、どちらかが強まれば、もう一つも強くなり、どちらかが弱れば弱る。そういう関係なの』
『うん……?』
『あの頃、わたしが最後に現場に出ていた頃は、クリーナーズの最悪の時期だった。設立当初からいた人間がひとり、ふたりと黴にのまれ、それがさらに不安を呼んだ。死亡率が高まって志願者が減り、少ない人数で何度も現場に出されるうちに疲弊していってさらに追い詰められた』
勇気はどうしたら出ると思う? と囁かれて、ケイは困って眉を下げる。『それ』がまさに、ケイが訓練に手こずっている理由だからだ。
『いろんな方法がある、でも一番簡単なのは、何かを信じること。こうすれば大丈夫、あの人がいれば大丈夫、生き残れる。そう信じれば揺らがずにいられる』
わたしの最後の現場は、と教官は静かに話す。
『それまでで最悪の汚染現場だった。黴は見たこともないほど濃くて強固で、一日に浄化しても浄化しても少しずつしか進まなかった。そうして、わたしを含めた隊員五名を、黴溜りが飲み込んだの。とても大きな――黴の塊。粘度が高く、飲み込まれたら動けない、浄化しなければ腕一つ動かせない、けれど呼吸を維持して黴の感染を拒絶するだけで精一杯で、一歩歩くごとに、体力が削られてゆく』
黴溜まり。それは雪崩のようなものだという。大規模な汚染地帯で起こる、黴の凝集が大きくなりすぎて崩れ落ちる現象だ。
『二度とこの黴の暗闇から出られないかもしれない。現場にその恐れがじわりと広まった。あのとき、わたしたちはほんとうに全滅の縁にいて、でもその瞬間に――あの光が、来たの。黴の厚みを切り裂き、流星のように軌跡を引いて、まっすぐ、最奥まで。その光を信じるのになんの言葉もいらなかった。わたしたちは生きて帰れるのだと、分かった。まばゆいあたたかいあの、あの子の、光』
ケイは、自分の脈拍がどんどん上がっていくのを感じる。クリーナーズに入ってからというもの、だれの口からでも語られるその名前。
『それは五年前のこと?』
『そうよ。わたしたちの暗闇の灯火、赤く燃えて、わたしたちを導く不滅の光、あれがわたしたちのアズ=アズマの初陣だった』
『でも』
ケイは横に首を振る。アズの名前を聞くたびに、いつも思っていた。
『あの子はそのとき、すごく子どもだったのに』
『そうね。ええ、そうね』
教官は、そっと眉根を寄せて泣きそうな顔で微笑む。
『だからわたしはもう、現場に立たないの。わたしは、自分をあの子にに背負わせたくなかった。でもね、どれだけ自分の中を探しても、あの子が残した光よりも強い光は、なかった。わたしの内側はあの子の光に塗り替えられていたの』
『そんなに?』
目を閉じて、と教官が囁く。訓練再開の合図だ。ケイは言われるままにまぶたを落として、また自分の内側の暗闇に沈む。どうか、と教官の声が耳元にそっと滑り込んだ。
あなたの心が、あの光のしもべになってしまいせんように。
それだけはないよ、とケイは答えた。
「ケイ!」
シラネのするどい声に、ケイは自分が一瞬自失していたことに気づく。夢のようなものをみていた。訓練時代の記憶だ。
「大丈夫。えーと、なんか、集中してた……?」
「ならいいのですけど」
光量の小さい人って好不調が分かりにくいですわ、とシラネが小憎らしい口を利く。
シラネの担当範囲は、汚染地帯のかなり深い場所だ。頑丈なブーツの靴底に、厚い黒黴がねとねととまとわりつく。前後左右上まで見ても、黒い黴の胞子が空間を満たして、物影が見分けられない。上空の太陽の形は、辛うじてうっすらと白い円に見えた。
その中でシラネの姿は、眩しい、真っ白な光を纏って見える。ケイの、淡く自分の体の輪郭を浮かび上がらせる程度とは違う。周囲の胞子を払い、その場のテントの店先を露わにし、足元の黴をじりじりと乾燥させて殺してゆく。
だから、シラネが目を眇めてケイを探すのは、仕方なのないことだ。自分の強い光が邪魔をして、ケイの弱い光を見分けられないのだ。
「ケイ、あなた、わたしの領域の内側にいてくれませんこと? 安全が保証できませんわ」
「やだよ。内側にいたら、あたしが浄化作業できないじゃん」
「まぁ」
にっこりと赤い唇の端を吊り上げて、シラネが上品に首を傾げる。
「ではそのまま、後ろの野犬に喰われるつもりですの?」
「――ッ!!」
振り返った、そのタイミングが間一髪だった。右腕と左腕に、ケイはぎゅっと光を集める。腕を振りぬく。運良く、当たりをつけた方向から野犬――正確には、元野犬の黴の塊は、飛びかかってきていた。腕が当たり、その黒い塊は跳ね飛ばされる。その姿は瘴気の向こうに見えなくなったが、ごぶごぶと喉のあたりから溢れる唸りで、だいたいの位置はわかった。
「群れごと黴に呑まれたみたいですわね。それとも食材扱いだったのかしら」
笑みを消したシラネが、地面を蹴って、ケイを襲った野犬の方角とは違う方へ駆け出す。シラネの光が移動して、闇の先に、跳びかかる直前の姿勢でうずくまる獣の影がちらりと見えた。複数だ。
シラネが走りながら、腰からすらりと抜刀する。その後ろ姿に舌打ちして、ケイは、自分が野犬を跳ね飛ばした方向へと走った。加勢は無用、後方の安全を確保しろということだ。
やってやろうじゃん、とケイは力を溜める。自分の貧弱な愛と勇気、それを補うだめに打ち込んだ体術だ。初めからなんでもできるシラネに、体術だけなら遅れは取らない。
距離を詰めれば、獣のただれた唸りが迎え撃つ。野犬で危険なのはその牙と爪、けれど黴の塊は柔らかい。牙と爪が残っても、それを支える強靭で俊敏な筋組織はすでにないのだ。
ケイは、野犬の首筋を片腕で抱え込んで、その体を固定する。鼻の奥を、間近の黴のすえた匂いが刺激した。頭を抱え込む腕と胸に、べったりと黒い汚れが貼り付く。
できるだけ息を詰めて、ケイは野犬の柔らかい、黴に侵された肉に、指を差し入れる。肋骨の間、心臓のあたり。野犬だったものが暴れるのをもう片腕で必死に抑えこむ。肋骨をつなぐものも脆くなっていて、ケイの手は簡単に黴を掻き分けて内側に届く。心臓、の形をした黴。
ぐっと掴んで握りつぶす。
その瞬間、腕の中で野犬の形の黴は輪郭を失い、どろりとしたタール状となって地に落ちた。
「……っ、は、はぁ……っ」
詰めていた息を吐きだし、ケイはしばらくそこで大きく呼吸する。全身に汗をかいていた。そして黴まみれだ。あたりからも、自分からも黴の匂いがつよく立ち込めて、うっすらと吐き気がする。
「実に汚らしい有り様ですわね、ケイ。とても良い眺めですわ」
そばにやってきたシラネの声は、少し恍惚を含んで甘い。本当にこの子は変態だなぁ、とケイは座り込んだまま思った。見上げたシラネの白いロングコートには染み一つない。ケイの相手にした何倍かの野犬を消滅させてきて、この様子だ。
「最後の浄化はやってあげてもよろしくてよ?」
微笑むシラネの手には、まだ抜き身の太刀がある。片刃にシラネの光を纏って、曇りも汚れもないその太刀ならば、一瞬でこの黴のヘドロを焼きつくしてしまうのだろう。
「自分でやる」
「お好きに」
シラネに一礼されて、ケイは地面、黴の溜まった泥濘に両手をつく。
命あるままに黴に侵されても、しばらくの間は、「生きている」。本能もあるし、進行が浅ければ意識もある。でも黴が心臓に届いたらだめだ。それはただの生き物の形をした黴で、心臓を握り潰せば、生き物としての形も失う。
どこまでを命というのかは、わからない。けれどこの手を浸すのは、確かに自分が握りつぶしたその残骸だ。
ごめん、と思う。仕方がない、とも思う。ゆるされたい、という願いはあって、けれど誰にゆるされてもケイは信じないだろう。
目をつむる。光のことを――考える。ちっぽけな自分のからだ、鼓動と、脈打つ血のめぐり、体温のことを考える。自分の膚を覆う光の膜。それと外側の、黒い黴の液体。まるで違うものだ。その、汚らしい、おそろしい、わけの分からないものと、自分を生かす光の膜を、慎重に、ゆっくりと、表面から、混ぜ合わせる。皮膚にまでは触れないように。でもぎりぎりまで。
ああ、とても、こわい。
でも野犬、一匹の犬、できることならこんな暗い場所で心臓を握りつぶすんじゃなく、明るい乾いた道端ですれ違ってみたかった。おとなしい犬なら骨とかやって構ってみたかった。それが無理でも、屋台の端っこであたしはカレーを食べてて、犬はどこかの残飯を漁っていて、そういうふうに、別々に命をまっとうしていたかった。
していたかったのにね。
黴、こわかったね。あんなふうに暴れるくらいに。
ごめんね、今、きれいにする。
あたしにはそれだけしかできないけど。
両腕で抱きしめるみたいに、きれいにするから。
すぅ、と鼻をつく黴の匂いが遠ざかり、代わりにきれいな水の匂いがして、ケイは目を開ける。
少し明るかった。直径一メートル、くらいだろうか。範囲内の地面と店先を覆っていた黴は全部ただの水に変わって、雨に降られたあとみたいだ。膝をついたあたりには、犬の真っ白い骨が転がっている。それも濡れていた。
頬が濡れていたので、手の甲で拭い取る。涙なのか、ついていた黴だったのかよく分からない。
この、数キロメートルにわたる汚染地域の中で、たったの一メートル。
「ちっちゃいなぁ……」
「どれだけ取るにならなくても、それが光である限り奉仕の意味はあります」
すこし固い声で割り込んで、シラネがふいと背を向ける。
「ケイ、あなたは店を中心に浄化作業をお願いしますわ。わたしは通りを中心に、開けた場所の黴を焼却します」
「いいけど……なんで怒ってんの?」
「わたしでは、そんなふうに何もかも無傷で浄化はできません」
そりゃそうだ、と、ケイは立ち上がりながらシラネの背後、その浄化の跡をみやる。太刀を突き立てた跡を中心に、ゆうに直径五メートル。きれいサッパリ黴の痕跡は消えて、からからに乾き、ついでに蒸発しそうなものは大体蒸発している。シラネの光は、ほぼ炎だ。店先に出ていた木の椅子が乾いて塗装がひび割れ、足のほうがわずかに焦げている。
「嫉妬?」
「デリカシーのないひとって、ほんっと、消滅してくださらないかしら……」
シラネが深く深くため息をつく。さらりと髪を後ろに払って、ほんとうに気に入らないように告げた。
「あなたの浄化、アズマの、いちばん厄介なところに似ています」
「どういう」
ところが、と問おうとしたケイの言葉は、ヴィークルのスピーカーからの入電によって遮られた。
『識別番号#012、シラネ=マコト、応答可能かい? 現状は?』
隊長、J・M・O.の声だ。シラネがヴィークルに駆け寄って、マイクをONにする。
「#012、シラネ=マコト、現在#153、 ケイ=リー=ルゥとともにA―8において浄化作業中です。黴化した野犬の群れに遭遇しましたが撃退に問題はなく、担当地域の作業障害はクリアした認識」
『ハハッ、なんでそんなに番号後ろの子と作業しているんだ、シラネ。いいや、まぁ好都合だ。その子と一緒に B―5エリアに向かってくれ。座標は今送った』
「J・M・O。何が?」
『アズが、黴化した生体と遭遇した。人間の子どもだ。フォローに回ってくれ。アズがダメになったところで一時撤退だ』
シラネが一瞬鋭くこちらを伺う。先程より格段に厳しい顔をしていた。
「J・M・O、#153はここに置いていっても? 彼女への影響が測れません。最悪今後の作戦参加が不可能になるかも」
『駄目だろう。ヴィークル回収は一人ではできないし、他のエリアも作業から手が離せない。三ケタNo.メンバーの将来よりアズの確保が急務だ」
「……了解しました」
マイクのスイッチを切って、シラネがヴィークルに飛び乗る。何か言われる前に、ケイは後部座席に滑り込んだ。事情は何一つ飲み込めなかったけれど、一つだけ分かった。これがチャンスだ。行く先には、アズがいる。
「出発しちゃって行っちゃって。置いてくなよ絶対!」
シラネの腰にぎゅっとしがみついて、意志に反した震えを止める。本当に、事情は何一つ飲み込めてないが、さりげなくJ・M・Oから使い捨てっぽい宣告を受けたのはわかる。
絶対に離さない、という意志が伝わったのか、シラネが忌々しげに小さく舌打ちをした。珍しく行儀が悪い。
「ケイ、あなたの愛と勇気の源はなんです」
唐突な問いかけだ。ふざけている様子ではなかった。重ねて聞かれる。
「アズ=アズマへの憧憬、アズ=アズマへの盲目の信頼でしたら、命令違反でも、わたしはあなたをここに置いていきます」
「ちがう。ぜんぜんちがう」
思わず強く言い返す。そういやシラネに(というか誰にも)ちゃんとその話をしたことないな、と思う。でも「それ」は、ケイが一番嫌いなものだ。
「それだけは違う」
「後悔なさいませんように」
それだけ言って、シラネがアクセルを蹴っ飛ばした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます