第2話 クリーナーズ

 旧駅舎前の市場、通称『アーケイド』。前時代の遺物の、老朽化もはなはだしいコンクリートビルの間に、テントがひしめき合って出来た場所だ。通称の由来は、かつては通りを覆って通行人を雨から守ったルーフ。今は骨組みだけが残って、規則的な間隔で市場の上に影を落とす。

 様々な香辛料の匂い、ざっくりと赤い中身を晒す果物、まだ生きている鶏や合成蛙の食材の気配。アルミの鍋釜の光の反射と、積み上がった竹細工、遠い異国の織柄の布の山。ジャンク・パーツの山。売り込みと値段交渉の張りのある声が、あちこちでひびき合う。

 黴は、そこに出た。

 客の訪れもとぎれて、貝細工売りの子どもが、隣りの花売りのリヤカーに積まれた赤に気を取られる。その足元だった。子どもは、行商に飽きて近くをぶらついている妹に、花の名前を教えてやろうと周囲を見回す。

 もちろんその子どもになんの原因もないし、その子が広げたビニールシートの上の、顔料で彩られたスイショウガイにも、隣のリヤカーの上の、みごとに赤いゼラニュームの花にも原因はない。

 黴とはそういうものだ。原因も傾向もない。ただ、人のいる場所に、初めは小さな黒い染みのように現れる。

 そして、誰にも気付かれずに滲むように静かに広がり、ビーチサンダル履きの子どものかかとに触れる。その途端、黒黴は、ぼっ、と爆発的に勢いを得た。一度目の増殖で子どものふくらはぎまでを、すかさず続いた次の増殖で全身を真っ黒に覆い尽くす。子どもが声を上げる暇もなかった。

 黴だ、と異常に気づいた人間から引き攣った声が起こり、周囲にざわりと動揺が走る。

 ――黴だって!?

 ――ほんとうだ、あそこ、やばいんじゃ……

 ――逃げろ、触るな! 生きてるものをあたりから退けろ!

 じわじわと警戒と混乱が広がるその中心で、黒い塊――皮膚をびっしりと黒い黴に覆われた子どもが、助けを求めるように腕を伸ばし、よろよろと歩き出す。近くにいた通行人たたちが、悲鳴を上げてそこから遠ざかった。子どもは、すぐに隣のリヤカーにつまづき、バケツに活けられた夏の花々の間に倒れこむ。バケツがいくつもひっくり返る。子どもが触れた緑の茎から花へ、赤いゼラニュームから黄色のミニひまわりへ、そうしてバケツからこぼれ広がった水たまりへと、黒い黴は波打つように広がった。

 わぁっ、と、こんどこそ人々の間にパニックが起こる。その場の人間たちは、我先に互いを押し退け、その場から逃げ出した。その動揺を追うように、黒い黴は加速度的な勢いで広がる。花の形の黴の塊がくずれ、黒い水たまりは地面の土を喰い、その地面の先に置かれた籠の中、狂ったように羽ばたく鶏を取り込み、どんどん、どんどん広がってゆく。

 瞬く間に数メートルを黒黴に埋め尽くされ、もはや留めようもないまま拡大し続けるその空間から逃げながら、そのうちの一人が切羽詰まった声を上げた。

 早く、誰か早く呼ぶんだ。

 あの黴をどうにかできる唯一の、あの汚らわしい魔女たちを、早く。



 ケイ=リー=ルゥ(十七歳)はその時、カレーを食べるよろこびに溺れていた、と言っていい。

 安っぽい軽さのアルミスプーンの柄を握る。

 プラスチックのオレンジの皿には、ジャスミンライスとグリーンカレーのルウ。スプーンいっぱいに掬いとって、ひとくちに押し込む。

 屋台の軒先で食べるココナッツ・グリーンカレーは、唐辛子の辛さでケイの舌を痺れさせてゆく。ココナッツのまろやかさに少しも中和されることのない、パンチの効いた鋭い辛さ、相反する二つの味の要素がぶつかり合うことなく調和を奏でる複雑な味わい。そしてその主張の強い味わいに流されることなく、豊かに受け止めるジャスミン・ライスのホットな包容力。目覚めの一口はこれに限る。すでに朝という時間ではなかったが、ケイが起きたのはついさっきなのでこれが朝ご飯で、何も問題なかった。問題があるといえば。

 暑い。

 たらっと首筋の汗が流れ落ちて、Tシャツの襟首を濡らす。ケイは思わず、スプーンを噛んだまま唸った。カーゴパンツの内側の太腿も、汗ばんで逆にひんやりしている。胸の谷間に汗が集まってつたい落ち、みぞおち辺りのTシャツの色を変える。

「おばちゃーん、お水ない」

「ア、ソウ? ゴメンネ」

 屋台のおばちゃんが、花柄プラスチックのポットを渡してくれる。ケイは、傷に曇ったガラスコップに中身を注いで、一息に飲み干す。ぬるい水。それでも、本場仕込みの辛さにしびれた舌には、十分優しい。

「あーこの一杯のために生きてる……」

「ハハー、ケイ、今日オヤスミネ?」

「そーオヤスミだよー。下っ端作業員にはありがたーい非番ですよ、今日は三食カレーだ!」

「仕事、ドウ? 幼ナトモダチ、話セタ?」

「アズー? ぜんっぜん、近づけもしない! 現場に出ても遠すぎるし、オフはどこで何してるかひた隠しだし。遠目には見られるんだけどなー元気そうなんだけどなー」

「アセッタラ、ダメヨー」

「ダメヨー、なんだけどさ……」

 口をとがらせるケイのその脇を、真っ白いホヴァー・ヴィークルが素晴らしいコーナリングで通りがかった。設定高度は地面すれすれ。乗り手が、真っ白なロングコートを(この暑いのに)きっちりと着込んで、長いまっすぐな黒髪を翻しているのを認めた瞬間、ケイはそのヴィークルに手を伸ばした。脇から、ブレーキ・ハンドルを狙って掴みとる。

 急ブレーキをかけられたヴィークルは、前のめりに、ほぼ四十五度の角度まで跳ね上がって停止する。小柄な乗り手は当然のように跳ね飛ばされ、当然のようにきれいに宙で一回転して、みごとな動作で地面に着地した。

 ばっと顔を上げてケイを睨みつける当人は、いきなりの狼藉にぷるぷる震えている。腰に挿した日本刀に手が置かれていて、だいぶ物騒な怒りが伝わってきた。

「な……っ、な、なにをするんですの、というかケイまたあなたですの……! 」

「ハイ、シラネ、今日も暑そうな格好してんね」

 完全な美少女顔が泡を食ってる様子は、珍しくて悪くない。この国の純血の、瓜実の白い頬に真っ黒な長い髪、真っ黒な瞳と赤い唇。人形みたいなシラネの外見が、ちょっとはまともな人間っぽくみえる。まぁ中身はまともじゃないから、残念ながらこれは、錯覚だ。

「出動?」

「! そうでした、アーケードで黴発生ですわ」

 シラネはさっと黒髪の乱れを直して、ホヴァー・ヴィークルに飛び乗りなおす。

「うっわ、よりによってあんな生モノ多いところで……」

 皿に残ったカレーをかつかつと掻きこみながら、ケイはヴィークルの後部座席に身を割りこませた。

「ケイあなた、非番では?」

「どうせ人出が足りなくなって、後から呼び出されるんじゃん」

「何度頼まれても、アズ=アズマにあなたごときを近づけませんわよ」

「まぁそう言わずにさ」

 ケイが、綺麗に食べ終えた皿を、腕を伸ばして屋台のテーブルに戻す。それを待たずに、シラネの足がヴィークルのアクセルを踏み込んだ。推進力を溜める「ふかし」が路上のほこりを舞い上げて、屋台のおばちゃんが迷惑そうに両腕を広げる。ケイは心のなかで手を合わせた。

 発進直前に、うふふっ、とシラネが唐突な笑い声を聞かせる。

「ケイ、あなたのような弱い光でアズ=アズマに近づこうなんて、実に不遜、実に不敬。それほどまでに彼女が、黴を滅ぼす勇姿が見たくて? LOVE&BRAVENESS、あの大いなる光が、この世を蝕む汚穢を滅ぼしつくす光景に心震わせたいのでしょう?」

「べっつに、そういうんじゃないし」

「まぁいいでしょう。あなたの劣った、取るに足らない光でも、それが光である限り奉仕の意味はありますわ」

 ケイが何か言い返す前に、ヴィークルは放たれた矢のように発進する。ケイは、シラネの腰にしがみついた。通行人を、弾き飛ばさないすれすれのハンドルさばきで回避しながら、シラネが嬉々として声を張る。

「幸いなるかなわれら浄罪の娘たち、笑いながら汚濁の戦場へと向かい、唾されながら唾の主の汚れを舐めとる。われら汝らの選ばれたるこの世の雑布なれば!」

 こりゃ仕事の前で気が昂ってんだな、とケイは口をつぐむ。公衆衛生局衛生保全課保全処理班実働隊。隊長のJ・M・O以下、この隊の人間はテンションがアレな人間が多い。一般人に遠巻きにされる要因の一つだとケイは思っている。

 まぁ、ネジが飛ぶのも仕方ない、とケイは知らず唇を舐めた。

 黴はこわい。

 一度出現して増え始めれば、あっという間に街の一区画くらいは覆い尽くす。有機物に取り付き、それを養分に黴化していつまでも増え続ける。そしてもちろん、有機物には人体が含まれる。

 魔女たち――クリーナーズに属するシラネやケイやその他の少女たち――は、そこに踏み込んでいくのだ。何度でも何度でも、黴の発生範囲が浄化され尽くすか、自身が黴に取り込まれるまで。

「見えましたわ」

 シラネがホヴァー・ヴィークルの高度をぐっと上げる。雑居ビルの高さを抜けて、眼下に街並みがひらけた。まだ遠い。だがはっきりと分かる。高層ビル廃墟群の間を埋め尽くすアーケードのテント、そのあいだの通路を中心として数キロメートル、すべてがびっしりと黒い黴に覆われている。

「エグい規模……」

「久々の大物ですわね」

 汚染地域から来る風は、ぬるく異臭を孕む。ケイたちが乗るのと同じ型の白のヴィークルがいくつか、すでにその周りを取り囲んで滞空していた。シラネがヴィークルの無線通信マイクをオンにして、自分とケイの識別番号と到着を告げる。応答で、A―8、と担当区画が伝えられた。同時に、ヴィークルのナビゲーション・モニターに座標が点滅する。

 みな、これからやることは分かっている。その上で、ここにいない一人の姿と、一言の指示を待っていた。その間にも三々五々、集まったヴィークルのスピーカーが隊員の識別番号と名前を知らせる。

 遠くの空から近づいてくる一点の影を、ケイは見つけた。白のヴィークルではない。赤く塗られた唯一の、特別の機体。

「来た」

 胸がぎゅっと音を立てて痛む。自分の声が、思ったよりもずっと待ち焦がれていたように響いて、慌てる。

 シラネが、濡れた瞳で同じ方角を見つめ、熱い吐息を落とした。

「あぁわたしたちの、明るく燃える不滅の灯台……」

 ヴィークルのスピーカーが、雑音まじりに、平坦な声を伝えてくる。

『識別番号#001、アズ=アズマ到着しました』

『よろしい』

 今まで沈黙を守っていたJ・M・Oの声が、それに応える。

『クリーナーズ、第115回掃討作戦を開始する。各自、指示済みの座標に赴き、その身を賭して、総力にて汚穢を払い尽くすように』

 さぁ、とスピーカーに囁かれて、シラネが興奮に目を輝かせた。その白い手が、ヴィークルのハンドルを握り直す。

『いっておいで、ぼくの自慢の娘たち』

 ケイの方は、聞かなきゃよかった、と情けなく眉を下げた。あんな変態の父親は願い下げる。

 ケイの苦笑を置き去りに、シラネがアクセルを踏み込む。黴に覆われ、空気まで色を変えた汚染地帯に向かって、いくつもの空中のヴィークルが向かってゆく。白い軌跡。

 暗い、息苦しいその空間に突っ込む直前、ケイはいつものように泣きたい、逃げ出したい気持ちに満たされる。今度こそ、黴に食われて死んでしまうかもしれない。なんだってそんなことしなくちゃいけないんだろう。怖い。

 けれど目の前のシラネの背中は、ピリピリと緊張感で痛いくらいなのに、迷わない。ヴィークルのモニターに点滅する指示座標に向かって、現在位置を示すカーソルが一直線に近づいてゆく。そして視界の端を、赤い、だれよりも真っ直ぐに速い軌跡がかすめる。

 あんたたちはおかしい、とケイは少し笑う。その視界を奪うように、ヴィークルは汚染地帯へ呑み込まれた。

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