カレーガール、ヒーローズ!
@yukitorii
第1話 7年前
あたしがまだ、今よりもっと小娘だった時の話だ。背が伸びるのはまだこれからで、裸足で歩いていて、胸のあたりもぺたんと平たかった。アズはそれよりもまだ、少し年下だったと思う。
夏だった。広い河の広い河原は、緑の葦と雑草が、あたしたちの背よりずっと高く伸びていた。河原にはこの世界の、要らなくなった何もかもが落ちていた。割れたパーム・フォンや、音のしないラジオや、動物の死体や、踵の取れた靴、表紙のない本。拾い集めて持ち帰って小銭に交換してもらうのがあたしたちの仕事で、だからいつも下を向いて歩く。
でも、顔を上げれば、緑の、強い茎をした葦が高くまで伸びていた。その先には金色の太陽とすごい青さの空があって、眩しくて目の奥のほうが痛んだ。あたしも上を見上げるのが好きだったけど、きっとアズはもっと好きだった。だからアズの拾う屑はいつもあんまり多くなくて、いつもお腹をすかせていた。あの日も。
アズは少し変わった子だった。小柄で、黄色人種で、黒髪で、見た目はこの街に一番多いタイプ。あまり喋らないし、ぜんぜん笑わない。お腹が減るのはみんなと同じに嫌がったけれど、同時に、おなかが減るということについて、じっと深く考えこむようなところがあった。そんな時のアズの目は、言葉のない、賢い、死ぬ前の犬や鳥に似ていた。
あつい、とアズが小さく言う。その日はとても暑くて、あたしたちの姿を隠す葦も、緑の匂いが強かった。
水飲んどきなよ、とあたしが言う。あたしたちの仕事で、夏に水を飲まずに倒れる子どもはたくさん出る。そのまま水と塩が間に合わなくて死ぬ子もいる。
アズは、腰に下げた古いペットボトルを手にとって、軽く振る。底にわずかにきらきらと光が揺れただけだった。
「もうない」
「しかたないなぁ」
その頃あたしはアズよりも少し体が大きくて、年上ぶるのが癖だった。
おいで、って呼ぶとアズが猫みたいに寄ってきて、あたしの差し出した腕の、肘の内側を舐める。汗には水と塩が混じってる。足りなかったアズが、顔を擦り寄せて首のあたりまで舐めてくる。
「ケイは、カレーのあじがする」
うそだぁと言ってから、気になってちょっと自分の腕を舐めてみた。やっぱり塩味しかしない。いろんな人種の混じったあたしの肌は、薄いコーヒー色をしていて、そのせいかな、と思う。
二人で空を見上げた。スコールを待っていた。しぶきみたいな水の粒で、あたしたちを潤し世界を洗い流し、地上のすべての緑の上に光の粒を残して去っていくスコールを、待ち望んでいた。
いきなり強い風が吹いて、太陽がさえぎられてあたしたちに影が落ちる。嵐の前みたいに。
けれど見上げた先に、やってきたのは一台のホヴァー・ヴィークルだった。平たい底をあたしたちに向けて、ホヴァー(滞空)のための生ぬるい排気を吹き付ける。二回、あたしたちの周りの葦がなぎ倒されて波打った。土埃に目をとじる。
空飛ぶそのバイクから、男の声が降ってくる。見上げる方からは、逆光でその覗きこむ顔がうまく見えない。
「やぁすばらしい! すばらしい宝石が河原に落ちているぞ!」
あたしはびくりと怯えて身をすくめた。ホヴァー・ヴィークルに乗れる人間なんて、この街ではとんでもないお金持ちか、政府のえらい奴らだけだ。
けれどその時アズは、前に出た。あたしを背にかばって、見下ろしてくる方を睨みつけた。
「そう、そちらの君だ君、細くて小さくて茶色でない方! 見た目ふつうの方だ! だがなんというポテンシャル、なんというLOVE&BRAVENESS。君が抱える光の総量で、このカウンター・グラスが焼け付いてしまいそうだ。さあ君、今すぐこちら側へ来たまえ。この手を取り、このヴィークルで空を駆け、英雄となって汚濁と戦うんだ。武器ならば与えよう、戦い方ならば教えよう、だが本当の力はすでに君の内にある。この世界を黴と混沌の侵略から食い止めるその前線で、君が輝ける灯台となる姿が見えるようだ! 幾百の命と幸福を君は守る、すばらしい!」
きちがいか人さらいかどっちかだ、と思った。後で分かったけどどっちもだ。
ミスターJ・M・O。その時は、名乗りすらしなかった。
けれどアズは、男の言葉の一つだけにはっきりと反応した。
「守る?」
「そう、君が守るんだ、黴に侵され奪われる人々の命を、その生命が生み出す幸福を、喜びを、君は傷つきながら、汚穢にまみれながらその手で戦って守る。 見るからに君は貧しいね? 身寄りもなく、あってもろくな親ではなく、周りにいる人間も似たり寄ったりの境遇だ。いくつもの不幸、いくつもの理不尽、いくつもの死を目にしただろう? ひとつ残らず忘れられないんじゃないのかい? ひとつ残らず細部まで思い返して、こんな晴れた日に叫びだしたくなることはないかい? 真夜中に、今を生きるすべての人々の幸福を願って、その気持が大きくて苦しくてどうにもならないことは?」
あたしは、アズの背中を見ていた。アズが、男の言葉が届くたびに、ゆっくりと深く息をする。その細い背中が、言葉に言い当てられてゆく。それを見ていた。
アズがそんなことを苦しんでいるなんて、あたしは一ミリも知らなかった。だけど"そう"だったんだって、アズの背中を見ていたらわかった。
「きっと君は無口だ、内圧が高すぎて言葉にうまくできないから。きっと君は慎重だ、何度も望みを裏切られてきたから。ただ君はみなの幸福を祈っただけだったのにね! だが今日いまここでこの瞬間にぼくが君を見出したからには、君はぼくの手を取らねばならなないよ、優しい少女。一秒のためらいが、君が救えるはずの悲惨を一秒長引かせる。一秒の間に命が奪われる、このためらいがその一秒だ。さあ」
声の主が、ホヴァー・ヴィークルをぐいと斜めに傾けて、さらに高度を落とす。あたしは一歩後ずさった、アズは一歩前に出た。
ヴィークルの乗り手はもう、斜めを維持した姿勢で、アズと目が合う高さにいた。グレイの髪と口ひげの、風采のいい男だった。上等な白いスーツを着て、胸には政府の委員会のマーク。片目を覆う銀色の、なにか精密機械を仕込んだアイ・グラス。ヴィークルの風で煽られて赤いネクタイが翻る。
さあ、と男はヴィークルから片手を離して、アズへと差し出す。
「君は、君の愛と勇気に殉じる用意があるはずだ」
――そのとき。
あたしはアズの口元が、小さく笑うのを見た。
アズが男の手を取らずに、ひとっ飛びでヴィークルの後部座席に飛び乗る。男は愉快そうに声に出して笑って、ヴィークルの傾きを元に戻そうとする。
「アズ、アズ!」
あたしは、必死になって声を上げる。アズがじっとこちらを見る。男も、ようやく存在を思い出したようにあたしを見た。男はなんの興奮もない、道端の石ころをみるような目をしていた。
あたしは、なにを言っていいのかわからずに口を動かす。何かとても言いたいことがあった。訊かなければいけないことがある気がした。ねぇアズ、あたしたち二人で、数え切れないぐらい毎日、この河原でクズ拾いをした。どっちかが体調を崩したらその分もう一人ががんばったし、寒い時は一緒に眠ったし、さっきまであんなに近くにいた。妹みたいに思ってた。
ねぇアズ。
「あたし、は?」
アズの、死んでゆく鳥のような目が、一度ゆっくりと瞬く。
「ごめん」
あたしがアズに聞きたかったのは、その時はうまく言葉にできなかったけど、今なら少しわかる。たとえば、あたしともう会えないかもしれないんだよとか、そういう。
「でも、いつかかならずケイも、守るから」
アズはそれに、仕方がないと答えた。みんなと一緒にケイも守るよ、って。
あたしの体から、すとん、と力が抜ける。その時の脱力は、あんまり顔に出なかったと思う。さっきまでの青い空が、急に色を失って見えた。
「あぁ、褐色の君、君の方はじつに中身は普通だ! カウンター・グラスの数値によると、愛はふつうより少し多くて、人より少し臆病だ。残念ながらここから連れ出すには値しないね! でもそうだな、五年も経って、春を売るかって選択を迫られたら、ウチの隊の門を叩いてみなさい。ちっぽけな光も集めれば使いようはあるというものだ」
うるさい空気読めそんなこと訊いてない上に頼んでない。
心の底からそう思った。けれど口が勝手に尋ねていた。
「どこにいけばいいの」
いつか、十五の歳まで生き延びて、アズに会うには。
「『クリーナーズ』、公衆衛生局衛生保全課保全処理班実働隊。人類の最後の希望の名前を覚えておきたまえ」
「クリーナーズ」
ではね、と男がヴィークルのアクセルを踏み込む。再び風圧が押し寄せて、あたしは思わず腕で顔を庇った。周りの草たちが激しく波打つ。ヴィークルは一瞬、高度を確保してから方向を定め、すぐに発進して加速に乗った。見えなくなるまで、あっという間だった。
あたしは、目を庇う腕をゆっくりと下ろす。肩が必要以上に脱力して、腕がだらんと重い。ひどく汗をかいていて、自分の匂いが気になった。
立っているもの嫌になって、膝を抱えてしゃがむ。なおさら周りの草が高くあたしを囲んで、多分どこからもあたしの姿は見えない。昼過ぎの、熱された土が近くなって、さらにむっと暑かった。
太陽は眩しく、空は激しく青い。あたしは一人で河原に残されて、アズは、もういない。一滴の汗が地に落ちて、土の色を変える。
七年前の、あたしが今よりもっと小娘だったころの話だ。
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