終末の座
「おたく、何年生まれ?」
前に並んだ初老の男が私に話しかけてきた。
病院前に並ぶ十名以上の列。十一月の暮れ、裏通りに長時間並ばされて仕方なしの会話といった感じの口ぶりだった。
「昭和五十年」
「そりゃ昭和だよな、こんなとこ並んでるのは」
人通りも少ない裏通り。建物の影の中にわずかに届く太陽の光は夏の面影がほとんどなく弱弱しかった。そこに列を作っているのもそういった人生の残光、とでもいうべき顔ぶればかり。つまり初老から老人のうらぶれた顔ばかりが列をなしていた。
話しかけてきた男はそれ以上会話もなく、ポケットから煙草を取り出し吸い始めた。煙をまき散らすことも吸い殻を道路に捨てることにもまったく躊躇がない男だった。
「だからこんなところに並んでいるんだ」
私は心の中で軽蔑した。列に並ぶ男たちはただ待つことだけはできず、唾を吐き、痰を吐き、病院の係の女性を怒鳴ったりと、いるだけで老廃物をまき散らす老人たちだった。
全国にあるこういった施設が、大病院ではなく小規模な病院で行われている理由がこれなのかもしれないな、と私はその病院の看板に目をやる。
「終末医療行います」
終末医療。つまり自殺介助であり自殺解除。
増えすぎた老人と増えすぎた高齢者医療費に苦しんだ国と国民が選んだ、自殺の自由。
その自殺をクリーンに簡潔に簡便に行う医療行為が全国で解禁された。
この列は、この私の並ぶ列はその絞首刑、あるいは断頭台、もしくは火葬場に並ぶ、その自殺志願者の列なのである。
みな人生の敗者。
これ以上生きていても逆転はないという人生の所有者。人とのつながりが切れた凧が風に乗ってここに集まってきた。
死んでも誰も悲しまない。
生きていても誰も喜ばない。
そういった連中。その中に私も紛れていた。
その灰色の列の中に一人の紳士が立っていた。身なりが整い、背筋を伸ばし立ち無言で無用な行為は一切しない。明らかに場から浮いていた。列に並ぶ中では頭抜けて成功者として見える男だが、並ばねばならない理由が彼にもあるのだろう。
列はノロノロと進み、紳士は建物の中に入り、話しかけてきた男も病院の中に消えていった。
ついに私も、最後の歩みを進めて死が待つ自殺装置の中に入っていった。
「こちらの書類に必要事項を記入してくださーい。それが書けましたら持ってきた住民票と健康診断の用紙を一緒にして提出をお願いします」
年配女性の看護師が事務的に手続きの説明をした。
病院内は、普通に病院だった。この病院はもともと内科の病院であったはずが、すべての診察を停止して終末医療専門の病院になっていた。昔はここの待合室には診察を待っている老人が大勢並んでいたはずが、今は自殺のための書類作業をする老人が並んでいた。
医療も自殺も同じ行為として、この建物内では行われていた。
先に入った男も紳士も椅子に座りちじこまりながら書類に記入していた。
健康診断、自殺するためには自身が健康であるという医者の証明が必要だった。昔は医療が間に合わない末期の病気であるという証明が自殺介助には必要だったが、法制度化された自殺のためには、精神が健全であり自殺の意志が明確に本人の考えであるという証明が必要になった。他者に強制されたものではないという証明が必要なのだが、家族からの冷たい視線という強迫等は、社会的に無視される傾向にある。
「死亡通知を送りたい方のお名前と連絡先をお書きください(無料です)」
という書類の項目に「なし」と書く。
「死後、あなたのご遺体を各医療機関に検体しますか?(はい/いいえ) なお検体なさいますと終末医療にかかる費用(20万円)が全額免除されます」
の項目に「はい」を選択。
「ご遺体の処分はどうなさいますか?(火葬/個人負担による別方法での処分)…検体を選択した方は無記入で」
の項目を飛ばす。
まるでテストの答案のように、ほかの人の書いている内容が気になる。
他人も自分と同じなのか?
この最後の場で、みな同じ点数の人生で私は落第者の中の平均点を取っているのだろうか?
待合室の空気は急場に設置されたストーブに支配されていた。熱気はあるが潤いはない。並んだ乾いた顔の男たち。女性が入りずらいという理由で女性専用の、入り口は見えないように工夫された終末医療専門の病院というのもあるらしいが、そこもココと同じ空気なのだろうか。彼女らは違って、可愛らしく最後の女子会をしているのだろうか。
疲れ切った男たちは最後の会話をしていた。
つまらない見得、自分のしてきた仕事の自慢。得られた物の自慢、腕時計の自慢、生まれ故郷の自慢、学校時代の自慢。
そういった、全て失った物の自慢をして最後の時を失っていく。
私はその会話に入ることもできず、失う物も失った物もない自分とだけ会話を続ける。
「最後の晩餐ってのが食えるって聞いたけど、あれは嘘だったのか」
私に話しかけてきた男は、違う話上手の会話相手を見つけて、終末医療の噂話の確認をしていた。曰くステーキ、曰くおふくろの味の料理、そういった物が食えると。最後に国が私たちに手厚いもてなしをしてくれると。
期待していなかったわけではないが、実際はアンパン一つなかった。しかたなく私は最後の小銭で自販機の缶コーヒーを買う。
最後の缶コーヒー。悩むかと思ったが、何も考えずにいつものミルク多めのを買ってしまった。
死の直前でも缶コーヒーの味はいつもと変わらなかった。
名前が呼ばれ、この場でも場違いな紳士が診察室に入っていった。廊下で缶コーヒーを飲み終えていた私は、進んでいく紳士と目がありおもわず会釈をしてしまった。彼も会釈を返してくれた。そのまま診察室へと入っていく、彼の動きを目で追っていくと、診察室とその奥にある大きな白い椅子が見えた。
自動自殺装置。機械の形をしたホロコースト、一部ではそう呼ばれているが、そうでない人たちは「天国への椅子」と呼んだ。天国に行くような奴があの椅子に座るのか、という事でもあるが、私は無神論者であるためその悩みはない。ただ現実の悩みだけがあり、それを解消したいだけだった。
続いて私に話かけてきた男が診察室に入っていったが、私を見つけても会釈もなく通り過ぎていった。
彼が診察室に消えていった時、紳士が白い大型の椅子に座ったのが見えた。医者が何事かを話しかけながら装置を体に付けていく。紳士は服が乱れないように気を付けていた。医者が離れパソコンを操作して機械を起動させる。殺人ではなく自殺を行うための機械を。
医者を目で追っていた紳士は廊下に立つ私が、彼の最後を見ていることに気づいた。紳士はまた会釈をしてくれたが、自殺の現場を目撃していた私は固まっていて、それを返すことができなかった。
少量の薬物が注入され、少しの電気ショックが送られる。それだけで彼は死んだ。
先ほどまでの椅子に座る紳士が、椅子に横たわる死体に変わった。物質的には身なりの整った男であるのには変わりないが、なにかが決定的に変わってしまった。
椅子はリクライニングをし、寝台に変わる。シートにかけられていてシーツがそのまま遺体を包む包装紙に変わり、彼を白い繭へと変えた。その繭を運送業のバイトらしい男たちが奥へと運んでいく。
その一部始終を覗いていた私に医者が気づいた。医者はそれを咎めるでもなく、次はお前だと脅すわけでもなく、ただ仕事を覗かれたという不快感だけを顔に出していた。
怒鳴り声が聞こえて、奥の診察室から先ほど入った男が、私に話しかけてきた男が、怒声を上げながら廊下を速足で抜けていき、病院外に飛び出していった。彼は裸足だった。
その彼の靴を持った医者が奥から現れて、もう一人の医者に小声で言う。
「怖気づいた」
「いつもだな」
死の間際になって恐怖に考えが変わった。それは当たり前のことだ。覚悟が足りないなどと考える者がいるのだろうか。ざわつく待合室の自殺志願者の中には、そう考える者がけっこういたようだ。
そんな空気の中で私の名前が呼ばれた。
私の入った診察室の医者は中年の女性だった。
私は普通とは違う、普通よりも善良で思慮深い男だということをアピールしたためか、私の診察はトントン拍子で進み、すぐにその時はやってきた。
椅子に座る時間。
人生の終わる瞬間。
女性は、彼女は私に対する愛情を示さなかった。母性も感じられない。女なのに死にゆく男になにも感情的な言葉を与えてくれない。
彼女は椅子に座るように要請した。
懇願でも哀願でも切願でもなく、ただ座るように言った。ここに座った人間がどうなるか考えないのか?私は腹立たしさを感じたが、終末に取り乱さない男を演じていて、いや私の本質はそうなのだから、本質通りにいるならば素直に座らなければならない。そのためにここまで来たのだから。
選択肢は紳士のように死ぬか、あの男のように無様に逃げるか、その二つしかなかった。
私は最後に紳士になりたかった。
私は座った。今までの人生で何万回と繰り返した座るという行為を最後にやった。
医者は小さな使い捨ての注射器で緑の液体を手首から注入し、その注射器をごみ箱に捨てた。
首筋に電極を張られる。よくある医療器具と変わらず、これが絞首刑の縄、ギロチンの刃だとは認識できなかった。
自分が座っている大きな白い椅子。そのシートの布地に気づく。これは紳士が繭に変えられたのと同じ布。柔らかくもなくビニールで、死者が最後に粗相をした際にも簡便に処理できるように防水加工されたものだと気づいた。
この椅子に縛り付けられているわけではない。手首に枷がついて動けないわけでもない。
この場から逃げ出したかった。だが椅子のビニールが手にへばりついたように体が離れない。いつでも、自由に、私はここから逃げ出せれるのに。その空気が、外の世界が、緩やかな気圧が私をこの場に押し付ける。気圧の差がこの椅子に私を押し付ける働きをする。外の空気が、この椅子に私を縛り付ける。
そんな私の心情にいっさい興味がない、といった感じの医者がパソコンを入力し機械を動かす。彼女が入力したのは私の情報、これからできる遺体の商品情報だ。
外の空気が吸いたかった。冷たい冬の空気、弱弱しい太陽の光、もうすぐ夕方だ。電車にのって家に帰りたかった。
椅子にわずかな、わずかな電気が流れ、それは私の首筋へと流れ込む。
ちょっと停止してもらおう。一声かければまだ間に合う。口を動かすのだ。
「まっ」
短編箱 @junkyo
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