岸辺
春嵐
海辺の野口と背負い投げ
声が、遠くから聞こえる。
夕暮れの海辺に、ぽつんと立っている。
なんか、腹の辺りが妙に生温い。海水浴の影響だろうか。頭もぼーっとしていて、どれぐらい泳いだのかも覚えていなかった。
遠く、私を呼ぶ声。娘だ。応答しようとして、せき込んだ。どうやらそこそこ疲れているらしい。
「お久しぶりです、先生」
近くから、別な声。
「私は、昔あなたの教え子だった者です」
大人びた青年。二十四、五ぐらいだろうか。ジーンズにシャツの、海小屋にありがちな格好。しかし名前が、思い出せない。
「野口、といっても先生は数限りないほどの野口をお教えになっているでしょうから、まぁ、そのうちの一人の野口です」
「もしかして、第二中学で不良やってた野口か?」
「お、覚えておいででしたか」
ことあるごとに、自分に柔道技を仕掛けてきた不良だった。自分にも柔道の心得があったので、反撃せず受け身でしのぎ切った鮮烈な記憶がある。
「おまえ、あんなにとんがってたのに」
「あのときは、先生を背負い投げしまくって申し訳ありませんでした」
「いやあ、あれはけっこう効いたなぁ。あれから、もう十年ぐらいか」
「はい。おかげさまで立派に育ちました。あの頃先生が私の背負い投げを受け身で耐え続け、粘り強く数学だけみっちり教えていただいたおかげです。数学は、私の役に立ちました」
「そうかそうか。いやあ嬉しいなあ」
自分も、そういう歳の人間になってしまったか。教え子が立派になった姿を、この目で見られる。しかし、老いたもんだ。
「あ、いま先生自分のこと老けたとか思ったでしょう。まだまだこれからですよ先生。小さいお子さんだっているし」
遠くで娘が、おとうさんおとうさんと呼んでいる。しかし、いつも通りおかあさんが近くについているだろう。もう少し野口と話していたかった。
「先生、ここで会えたのも何かの縁だ。この場で、お礼をさせてください」
「いやいや。君がこうやって私の前に成長した姿を見せてくれただけで、私にとっては無上の喜びだよ」
野口が、嬉しいような、悲しいような、複雑な表情をした。
まだ娘が、私を呼んでいる。もうやめなさいというお母さんの声。大丈夫だ。おかあさんが近くについている。
「先生。ありがとうございました。先生の仕込んでくれた数学のおかげで、大学まで進んで、就職もして、恋人も出来て、幸せな人生でした。やっぱり、恩返しをしないとっ」
野口が、私の袖を掴む。あれ、海辺なのに長袖着てるのか私は。
「おい、野口っ」
そのまま、海に向かって投げ飛ばされる。私が軽くなったのか、野口の腕っぷしが強いのか。まぁ、両方だろう。あまり海水が、塩辛くない。
「なにをっ」
海に顔を押し付けられる。
「先生、お子さんが呼んでますよ」
息が出来ない。苦しい。
「もうすぐです。私にとっての恩返し。これで果たせる。ありがとう先生」
やめろ。なぜ。水中では、声にならなかった。
したたか水を飲んで、気を失った。
「おとうさん、おとうさん」
娘の声。顔。
「おとうさん、聞こえる?」
おかあさんの声。顔。
続いて、医者の、ちょっとびっくりしているような顔。
「おかしいな、血を吐いたはずなのに。胃も腸も無事なんて」
「念のためスキャン取りますか」
「そうだな。予約取っといてくれ。もしもし、聞こえますか?」
「きこえ、ます」
ちょっとせき込んだが、大丈夫だ。
「自分のことが分かりますか」
「えぇと、はい。そこにいるのは娘と家内です」
「刺されたときのことは、覚えてますか?」
「刺された?」
「あなたは、通り魔におなかを刺されたんです。幸い、近くにいた男の人があなたをかばったからあなたの傷はひとつなんですが、助けてくれた男の人のことは覚えていますか?」
助けてくれた男の人。
「のぐち」
「え?」
「野口だ」
野口が、助けてくれたのだ。あの世とこの世の岸辺的なところに立ってた自分を、こっち側に戻した。
ベッドを転げ落ちた。野口。私を助けて刺されたのか。野口。
「野口」
這う。さすがに、おなかが痛い。
「きゃあっ」
「お、おとうさんどうしたの」
「待ってくださいまだ胃と腸が無事か確認してないんだから」
隣のカーテン。
仕切りを取る。
野口。顔は包帯だらけで、表情すら分からない。全身が、様々な機材と管に繋がれている。
「野口っ」
ベッドに縋り付く。
「野口っ、私だけ助けてどうすんだ」
力の限り、揺さぶる。医者が止めに掛かるが、振り払った。
「野口っ、許さんぞ。先生があんなに頑張って教えた数学を無駄にする気か。戻ってこい野口っ」
計器が、異常な音を出し始める。明らかに、死の方へ近づいている。
「待て。行くな野口。野口っ、のぐ」
ピーっという音。
本当に、鳴るのか。
死んだのか。
野口。
「なにをしてるんだ。おいっ、緊オペ入れろ。今すぐに繋ぎ直さねばならん」
医者がせわしなく動き、野口が連れていかれる。喪失感だけが、襲ってきた。
「あの、先生?」
近くから、別な声。
「ごめんなさい、野口、ぼく、なんですけど」
「えっ」
向かい側のカーテン。
何かを察したようで、嫁がカーテンを開ける。そっちの方に、這っていく。娘が上に乗っかってきておなかが痛い。それ以上に、心が。心臓の鼓動が。
「なんか、ごめんなさい先生」
「の、のぐちぃ」
安心と同時に、涙と鼻水が思いっきりあふれてきた。
「先生、僕の方が軽傷です。犯人は再起不能なぐらいで、命に別状はないはずですよ」
しばらく、泣き崩れていた。
ようやく、落ち着いてくる。
「もしかして、さっき私が揺さぶったのは」
「通り魔です。徹底的にバキバキにしたから、身体中を機械やボルトで繋がれてたんですよ。先生あんなに揺さぶるから、また緊急オペですね。自業自得」
「おとうさん」
娘が、抱き付いてくる。
声が、近くから聞こえる。それが、うれしかった。
岸辺 春嵐 @aiot3110
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